□ 愛のたまご 20






「カカシ」
 飛び込んだ自宅は、長く閉ざされた家独特のしめった匂いがした。ざっと見回してみると、整頓されているが、どこかすさんだ印象が否めなかった。
「カカシ」
 囁くように声をかけて、そっとあがる。みしりと床が鳴る。居間のベッドの上に、カカシがいた。



 イルカのベッドの上、イルカの大きめのトレーナーとパンツをを身につけて眠る姿は、十五、六歳くらいに見える。
 懐かしい姿に、イルカは体中から力が抜けて、よろよろとカカシに近づいた。
「カカシ。戻ったぞ。俺だ」
 髪の感触の柔らかさが懐かしい。早く色違いの目がみたくてイルカはカカシを揺らした。
「カカシ、カカシ。なあ、起きろよ」
 頭を撫でて、肩を揺すった。頬を軽くたたいた。何度も何度も繰り返した。
 だが。
 カカシはぴくりとも反応せずに、呼気さえ感じることができないほどにこんこんと眠り続けていた。
 人形のようなカカシの体を再びベッドに横たえた。



 カカシは、イルカを待つといってこの家に一人戻ったと火影は言った。
 最初の頃はきちんと生活を営んでいた為、そのうちに火影も何かと忙しくカカシの様子を見ることを怠ってしまったと頭を下げられた。ある日火影から派遣された忍が様子を見に伺えば、眠り続けるカカシを見つけたと言う。
 死んでいるわけではない。だが眠り続けてもうふたつき近くたつという。
「あの家から何度も連れ出そうとしたのじゃがな、何かの力の作用か、連れ出すことがかなわなかった。すまぬがおぬしのアパートにそのままじゃ」
 様子は毎日見に行かせている。時には火影自らが足を運ぶこともあるという。多忙な火影にそこまで気を遣わせてイルカとしては申し訳ないくらいなのだが、火影には深く深く頭を下げられた。
「カカシ……」
 そっと指先で触れてみた唇は柔らかかった。これで目覚めないかと馬鹿なことを考えながらイルカは思い切ってカカシにキスをしてみた。一度では駄目かと必至な思いで何回か不器用なキスを繰り返したが、カカシが動き出すことはなかった。
 イルカは途方に暮れて、畳に呆然と座り込む。
 動かないカカシ。だが生きている。どうすれば、カカシは動き出すのだろう。
 カカシのぐったりした体を無理矢理起こし、寄りかからせるように抱きしめて、目をつむる。感じられる体温に安堵する。カカシは生きている。
 ぬくもりにイルカのまぶたが重くなる。そういえば、隠れ里からずっと走り続けて一睡もしていない。このままカカシを抱えて眠って、目が覚めたら、腕の中には生き生きと笑うカカシがいるのかもしれない。
 そんなことを夢想してうとうとしていたが、かくりと頭が落ちた時にひらめいたことにイルカは瞬時に覚醒した。
 カカシはしのび卵から孵ったのだ。孵ったカカシが何を最初に求めてきたのかを思い出す。あんな馬鹿みたいなこと、取り合っていなかったが、試す価値はあるのかもしれない。



 イルカはベッドから降りると眠るカカシに背を向けて、そっと下肢に手をのばした。ごそりとイチモツを取り出して、握り込む。久しぶりのことに心臓はどきどきと脈打つが、手がかすかに震えてうまく動かない。
 目をつむって、脳裏に桃色の光景を、久しく触れていないが柔らかな感触を浮かべようと、イルカは必至で努力した。
 だが思い浮かべようとすればするほど浮かんでくるのはカカシが孵ってからの日々。イルカを手こずらせて、困らせて、そして、イルカを求めて……。
「! うおっ……。〜〜っ!」
 かっと目を見開いたイルカは思わずぎゅうとあそこを握り込んでしまいそのまましばらくの間のたうった。
 イルカが一人で暴れていた間、それでもカカシはぴくりともせず起きる気配がない。イルカはがくりとうなだれた。
 どうやら疲れもあって、あれをしぼりだすことができないようだ。だが、カカシを起こす為にはあれしかないと、イルカはまるでとりつかれたように頭の中をその気持ちだけでいっぱいにした。
 うんうんうなって考えていたイルカだが、とうとう立ち上がる。
 ごくりと喉を鳴らしたイルカはカカシを背負って部屋を後にした。
「待ってろよカカシ! 俺が起こしてやるからなっ」
 爛々と目を血走らせてイルカは里を駆けた。





 通された部屋は想像していたものとは違ってすっきりしていた。
 敷いてある布団は白く平べったく上等ではないが清潔感があった。薄暗い部屋。昼だというのに枕元には行燈。他にはちょっとした小机があり、そこで銚子でも傾けるようだ。
 イルカは息苦しさに忍服のベストを脱いだ。そこにからりと障子戸が開いた。
「お連れさん、申し訳ないですけど布団部屋に寝かせましたからね」
「ああ、充分だ。すまない」
 イルカが頭を軽く下げれば女はにこりとひとなつこく笑んだ。
 場末の、宿。飯も食わせるが、場合によっては春もひさいでいる。合法的な仕事として認められていた。
 里が閨房術の修行の一環として使うこともある宿で、忍者に対して親切だった。立地条件が大通りからはずれているため一般の客よりも人肌恋しい忍たちがよく使う場所だった。
 イルカが相方に選んだ女は少し年がいっているようだが、それでいてすれた雰囲気のない女だった。小作りの顔はそれほど見目良い方ではないが、笑った顔がとても優しく、そして落ち着いた色香があった。
「まあ、まずは一献」
 地味な紺の絣を着た女は盆に下げてきた銚子をとりあげると慣れた手つきでイルカに向けた。白くほっそりとした手が美しい所作だった。
 イルカが一気に飲み干すと女はすかさず二杯目を注ぎ、またイルカが飲み、結局瞬く間に銚子を一本からにしてしまった。
 寝不足で疲れた体。しかも空腹だったのだから、一気にまわる。かっと全身が熱くなった。
「それで、お客さん。どうしますか。さきほど伺った通りでよろしいんですか」
 女は口元を指先で隠して上品に笑った。



 イルカは店にあがる前、相方を選んだ段階で依頼したのだ。客として買うのだから閨でのことに前もって許可を得る必要などないのだが、イルカは断っておきたかった。
 女を買うのに女を抱くわけではない。それはこの仕事をプロとしてやっている者にとって侮辱のような気がしたからだ。
「ああ。事情がある。どうしてもすぐに、俺の精液が必要なんだ」
 イルカが真面目に告げれば女は吹きだした。
 笑いの合間に苦しそうに告げる。
「そんな、固くならないでくださいよ。別にわたしはかまいません。ただ、お客さんはそれでいいのかと思いましてね。だってねえ、あそこを勃たせて、射精させて、まあそれだけでいいなんてねえ」
 イルカの奇妙な依頼の理由を問うことはなく女は明るい声で笑った。イルカとしては必至で考えたことだったのだが、笑われてばつが悪い。ふて腐れたように横を向いていれば、膝に、そっと女の手が触れた。
 笑いの発作がおさまった女は、それでは、と言ってイルカを布団に導いた。









 カカシはずっとたゆたっていた。
 イルカがカカシを置いて去ってしまい、それでもカカシは自力で出来る限りの成長を果たした。しばらくは火影の元で暮らしたのだ。だが、イルカの匂いのしない場ではどんなに滋養のあるものを与えられても虚しいばかりで、とうとうカカシはアパートに戻ったのだ。
 不思議なことに水を飲む程度で、特に食事を摂らなくても困らなかった。イルカの匂いのある部屋でイルカとの思い出をたどって、昼夜の別がない生活をしていた。
 生きているのか死んでいるのか、ただイルカにもう一度会いたいから、呼吸を止めなかった。
 イルカは帰ってくると言ったから。  それはカカシにとっての希望だった。



 深い眠りの底でたゆたっていた意識にしみのように広がっていくものがあった。
 最初はぽつんと一滴。徐々に徐々に広がっていくそれはかぐわしく、なつかしいものだった。
 何かに導かれたカカシはうすく目を開ける。
 薄暗い部屋。知らない天井、湿った匂いに、異変を感じる。畳の上に毛布を掛けられて寝ていた。
「……」
 起きあがって、ぶるりと震える。
 体は相変わらず、成長していない。だが、いつもと違う。いつもは目を覚ました時に脱力感が全身を襲い、イルカがいないという現実に心がまた落ちる。
 それが、なにやら暖かな力がみなぎる。
 カカシはよろりと立ち上がった。
 布団がぎっしりとつまれた狭い部屋。誰が一体ここにカカシを運んだのだろう。
 誰が……。
 無意識に、カカシは唇に触れた。熱を持ったそこにほろりと、涙が落ちる。
「イルカ」
 この唇に、触れた者がいる。
「イルカ……」
 涙を払って、カカシは部屋を出た。









 やはりな、と内心イルカは予測していたことだった。

 任務による体力的、精神的な疲れ。そんな時に勃つわけがない。女はプロの手管を持って懸命に高めようとしてくれているが、簡単にはいかずに、少し時間が経った。女に焦りの色が見えた頃だった。
 戸が開いた。
 カカシが、立っていた。







つづく。。。