□ 愛のたまご 19





 風のように、それでいて風のように音をたてることもなく二人は移動していた。
 かなりの冷え込みにかすかに口元から漏れる呼気はかすかなのだが白く色づく。身に付いた習性で何も考えずとも木々の合間を渡ることはたやすい。だからイルカの思考はあとにしてきた隠れ里に流れていった。





 三ヶ月。あっという間の時間。それなりにあそこに溶けこんで、気が許せるような奴らもいた。
 ターゲットの男に正面から向かい会えたのは、十日前のことだ。
 隠れ里のなかで外交的なポジションにいる男は常に外に出かけており、里に長居するようなことはなかった。それが、ある程度里の運営が機動にのったのか男は里に在住する気配を見せた。
 イルカとナガレの中にあった男のイメージはひどくぼんやりとしていた。元々接点はなく、写真で知った顔だけだったのだから。
 それが本人を目の前にして、その温厚な表情、恰幅のいい姿に、本当にこの人物で間違いないのかと二人ともが疑ったほどだった。
 木の葉から抜けてきたという二人を男は歓迎した。他にも木の葉を抜けたという忍が幾人かいたが、男はそのすべてに目をかけていた。
 男に挨拶をすませていなかった他の数人とともに男の家に呼ばれて型どおりの挨拶のあとにすぐにそこを去ろうとしたが、イルカとナガレが呼び止められた。
「里は、どうだ。変わっていないか」
 低いがよく通る声で問われたが、何を言っているのか瞬時わからなかった。
「だから、木の葉の里だ」
 男は苦笑した。ぼんやりとたたずむイルカたちに向かってあくまでも余裕の態度だが、男が口にする木の葉の里というのはイルカたちが知っている里ではなくて別のものではないかと思うほど、なぜ男がそんなことを訊くのか理解の及ぶところではなかった。その気持ちが心を覆って、イルカは何も言えずに馬鹿みたいに立っていった。
「どうした。もう木の葉のことは忘れたのか」
 からかうような男の声に答えたのはナガレだった。
「里は、日々、変わっていってますよ。変わらないのは、死んだ者だけです」
 さらりと感情のない声でナガレが告げると、男はかすかに目を細めて、もう行けと話を終わらせた。





 男を殺す手はずを整えるためにナガレと何回か打ち合わせをした。
 ナガレは極端に口数が少なくなり、笑わなくなった。
 男への憎しみの濃度を凝縮させるために己の中に深く沈んでいるようにイルカには思えた。イルカとてそうしないと男へ殺意を向けられないような気がした。
 ついに明日、実行に移すという最後の打ち合わせの夜に、イルカはとうとう口にした。
「ナガレ、あの男を殺せるのか?」
 うつむいてぼそぼそと喋っていたナガレはふと顔を上げる。ぼんやりとした顔のまま少しの間イルカを凝視した。
「殺すさ。何言ってる」
「殺せるのかって訊いてるんだよ」
「殺す。それだけだ」
「そうじゃなくて……」
 だがそう言うイルカ自身が何を伝えたいのかよくわからずにいた。
 たった数日ではあるが、男がかなりの人物であることはわかった。いったい彼女の最後の任務で何があったのか、その特の状況を訊きたい気持ちにイルカは押されていた。聞いて、今更それでどうなるものでもないのだが。
「イルカは暗殺任務についたことがないのか」
 ぼんやりと考えていたイルカははっと顔を上げた。ナガレが口元を歪ませて嫌な感じで笑っていた。
「俺たち忍は請け負った任務ならどんな善人だって殺さなければならない。それと同じだ。あの男がどんな人間でも関係ない。ただ、殺すだけだ」
 ナガレの言うことは全く正論だった。
 忍にとって殺すことは任務に直結している。それ以上でもそれ以下でもない。感情をこめてはいられない。所詮道具だ。命じられれば遂行するだけのこと。
 アカデミー教師のイルカはもちろん知識としては知っている。だが結局、実際の場で良心との葛藤をうむ状況に陥ったことのなどほとんどないイルカにとっては実感できないことなのだろう。
 黙り込むイルカにナガレは軽い口調で提案してきた。
「いいさ。俺がやる。イルカは外の見張りぐらいしてくれよ。あいつ、かなり鈍ってるから俺一人で充分だ」
 イルカはその提案には即座に首を振っていた。
「いや。俺もやる」
「足手まといはいらないよ」
「悪かった。大丈夫だ。俺にも、やらせてくれ」
 渦巻く感情をおしやってイルカは頷いた。





 記憶が遠すぎて、イルカの心に憎しみの衝動はわかない。だがそれでも男への憎しみがまったくなくなったわけではない。だからここまで来た。
 ただけじめをつけたいだけだとしても、それがただのエゴだとしてもそれでいい。男を殺さなければイルカは里には戻れないのだから。
 里に戻らなければならない。里にはイルカを待っている者がいる。





 男はイルカたちに対して同じ里の出身ということで心を許していたのだろうか。
 あっけないほどに幕は降りる。
 夕食を持っていく口実を見つけたのはイルカだった。そこでここにいる目的を告げれば、男は特に愕きはせずに、ただ、彼女の名前を小さく呟いた。それは思わぬ名という響きではなく、きちんと彼女のことを認識した言い方だった。それなら場を改めようと男の方から提案して、男が二人を導くようにして里を囲む森の中へ入っていった。
 クナイを構えた姿にスキはなかったが、しかし鬼気迫るような気迫もなく、歴戦の勇者のかすかな残り火のようなものが見えるようだった。



 盛りを終えた中年の忍。二人で相手をするようなことではない。だが二人そろって地を蹴った。





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 後味の悪さは否めない。男は上忍でありさすがに一筋縄ではいかなかったが、スタミナの差ゆえか徐々に動きが鈍くなっていった。
 そこを二人で仕留めた。どちらの刃が致命傷となったかはわからないが、男は即死した。そうなるように急所を狙ったから。
 首筋と胸から血を吹きだして倒れる男を見ながらも腹の底には重く暗い気持ちが広がる。
 彼女の無惨な死に方と比べものにならないくらい穏やかな殺し方ではないか。
 かといって死んだ者をもてあそぶ気にもなれない。
 二人無言のまま頭をたれて佇んだ。








 里の大門をくぐった時の気分は決していいものではなかった。
 朝早く、空気は凛と澄んで、しかし痛みのような寒気にぶるりと震える。どちらかというと冬でも温暖な里では珍しいくらいの寒さだった。
 イルカは、一人で門をくぐった。ナガレとは少し前に別れた。
「俺は、このまま諜報部と合流する。昨日のうちに指令は飛ばしておいた」
 いきなり言い出したナガレにイルカは目を見開いた。
「なんで。少しは休めよ。また何年も帰ってこないかもしれないんだろ」
「ああ。今度はまた長いらしい。へたすりゃあ10年くらいかもな」
「ナガレ」
「火影さまにはイルカから伝えておいてくれ。俺が感謝の気持ちを述べてたって、くれぐれも伝え忘れるなよ」
 ナガレは日常の続きのように喋るが、イルカはついて行けない。イルカの心をおいて勝手に話を進めている。
「ナガレ、頼むから、少しは里にいてくれ。もう、彼女の敵は討ったんだから」
 イルカの懇願するような声に、ナガレはちらりと視線を流して苦笑した。
「あの男は、もしかしたら死んでもいいって思ってたのかもな」
「今は、そんなことじゃなくて」
「死んでもいいと思っていた人間を殺すことは復讐にならないよな」
 ナガレの横顔が転じて、イルカを見る。泣きたいような痛そうな顔はどこかで見たことがある。意地っ張りな彼女と重なる。
「イルカといたら俺はよけいなこと考えてしまうから。イルカもきっとそうだと思うから」
 ナガレの厳しい横顔をかすめた苦渋のようなものがイルカの心を刺した。



 イルカは男に追いつめられた時があった。男はすでに手傷を負っていたがイルカを圧する力で迫ってきた。クナイの刃を受けた時に骨に響く衝撃にイルカは一瞬怯んだ。押されて、大木に背を打ち付けた時、呼吸が瞬時止まって首筋、皮一枚へだてたところに手裏剣が刺さる。
 本能が死を意識してざわりと体が震えた。
 死を意識したその時にふと浮かんだのはカカシだった。
 カカシに会いにいってやりたいと、迎えに行ってやりたいと、ぼんやりと思った。カカシに会うためにはやはり目の前の男を殺さなければならない。
 そこに彼女の介在する余地はなく、イルカはただ己のエゴのためにこの敵を殺すのだなと、覚悟した。



 俺は、後悔はしたくない。
 そう言って、ナガレは去ってしまったのだ。後悔したくないという言葉を選んでしまった時点で後悔しているようなものだ。一度だけ振り向いたナガレは、しのび卵を大事にしてやれよ、と小さく告げて去っていった。
 イルカは引き留める言葉を持たずに空虚な気持ちを抱えたまま里にたどり着いた。朝早く火影の家の居間で家の主と向き合った時に張っていた気持ちが弛緩して、さりげなく目元を拭った。
「戻りました。ナガレは帰路の途中でそのまま諜報部に戻りました。ありがとうございました」
 イルカが心からの感謝をこめて深く頭を下げれば、火影は頷いた。
「無事に戻ってなにより。ナガレの件は聞いておる。しかしイルカよ、敵を討ったわりには浮かない顔をしているではないか」
「そう、ですね。正直、後味がいいものではなかったので」
 イルカが否定することなく弱気な言葉を告げれば、火影は同意した。
「所詮、おぬしらのエゴでしたことじゃからな。今更殺さんでもいい人間をあやめたのじゃ。それを深くかみしめておけ」
 火影の突き放すような言い方が今のイルカにとっては逆に救いだった。
「俺たちは、間違ったことをしでかしたのかもしれません。後悔も、するかもしれません。ですが、けじめ、ですから」
「ああ、もうよい。終わったことを言うな」
 火影はいなすように手を振って話を終わらせた。
「それより、聞くことはないのか」
 それは言うまでもなくカカシのことだ。さきほどからイルカは内心カカシの気配を探っていた。なぜ真っ先にカカシが飛び出してこないのかいぶかしく思っていたくらいだ。
「あいつに申し訳なくて合わせる顔もないですが、でも、会いたいです」
 イルカが気持ちを正直に告げれば、火影は深く嘆息した。
「カカシはここにはおらん」
 その一言で、イルカはすぐにぴんときた。
「俺の、アパートですか」
「そうじゃ。しばらくの間はここにおった。じゃが耐えきれなくなったのかおぬしの家に戻った」
「そう、ですか……」
 あの馬鹿、とつぶやきつつも、イルカはなぜか暖かなものが体中に満ちていくのを感じていた。
 やはりカカシはイルカだけを待っていてくれた。
 あの男を殺して、ナガレと別れてからずっと腹の底によどんでいた暗く冷たいものがじわりじわりと正しいものに浸されていく。それは久しく忘れていた快い感覚だった。
「俺、迎えに行きます。あいつ、ちゃんと一人で生活してるんですよね」
「それがじゃ」
 いてもたってもいられず部屋を出て行こうとしたイルカだが、火影の重々しい声に浮かせた腰をまた戻すことになった。










つづく。。。