□ 愛のたまご 17





 あの知らせがもたらされるまでは――。





 その日の昼間の受付所はすいていた。
 そろそろ稲の収穫時期で、下忍たちへの割り当てだけではなく、アカデミーの上級生たちまでかり出されるほど要請が多かった。アカデミー職員も多くが出払い、受付所には火影も始終座り、その横に一人が配置されていた。
 だがその日は火影も所用でおらず、イルカが一人がぽつりぽつりと訪れる報告書に目を通しねぎらいの言葉をかけていた。
 ソファに座って語らっている幾人かの忍たちがいるが、イルカは今のうちにとアカデミーの仕事を取り出して書類に目を走らせていた。
 イルカの手元に影が落ちる。気配もなく、ただ影が。敵意はないが、イルカは緊張して顔をあげた。
 机をはさんで、一人の忍が立っていた。
 その男を見ても、イルカは一瞬反応できなかった。男は様変わりしていた。記憶の中では幼さを残す丸い頬、まっすぐな目。若者らしく短くかった髪。そして笑顔が明るかった。
 男は顔に鬱陶しげにかかる髪をふとかきあげて、うすい口の端をかすかにつり上げた。片側の頬にはたてにひきつれた傷。尖った顎。だがなによりも暗く沈んだ目が、男の変貌を物語っていた。
「いつ、戻った……?」
 久闊をじょする言葉よりも、イルカは喉にからむような声で、聞いていた。
「たった今」
 暗い表情に反して、男の声は少し弾んでいた。
「見つけた」
 ああ、とイルカは目を閉じる。その一言だけで、充分だった。



「イルカよ。どうした」
 夕方、窓から入る日の光が物憂げな影を落とす頃、イルカは火影の執務室にいた。
 部屋に入ってきたイルカの生気のない様子を見て、火影は眉根を寄せた。イルカは火影の前に立つと、目を細めて、笑った。
「あいつが、戻りました」
 火影は、組んでいた手をぴくりと震わせた。
 イルカを見て、視線を下ろして、またイルカを見た時、里の長らしい厳しい光をその目にたたえていた。
「出発はいつじゃ」
「二週間後です。申し訳ありません。勝手をします」
「ああ、それはよい。約束じゃからな。それに里も今は落ち着いておる。じゃがな」
 火影はすっと口元を引き締めると、イルカのことを懐かしいまなざしで見つめてきた。幼い頃よく目にした、いたわるようなまなざしで。
「必ず戻ってくること。それだけが命令じゃ」
「もちろん、戻ります。俺は、戻らないといけないですからね」
 けれどいつ戻るのだろう。
 カカシは、どうしたらいいのだろう。
 そんなイルカの心中を察したように火影が口にした。
「カカシはまだたまごのままじゃな。どうする?」
「出発までの間に孵ってくれればと思いますが、こればっかりはわからないです」
 孵らなければ、その時カカシは……。
 何も言えなくなってしまったイルカに、火影は告げた。
「出発を、思いとどまる気はないのか。言うまでもないことじゃが、死んだ者は生きている者の幸せを願うはずじゃ」
 火影は4年前に何度も告げてくれたことを繰り返す。もったいないくらいの火影の気遣いに、イルカはそっと微笑む。
「俺たちのエゴだってことは重々承知しています。でも行かなければ、俺はこの先身動きとれなくなってしまいます」
 イルカの固い決意に火影はそれ以上何も言わずに、頷いてくれた。
 そのまま帰りがけに慰霊碑に寄った。
 暗がりの慰霊碑には誰もいない。しゃがんだイルカは一つの名前に触れて、触れたその指を握りこんで、そのまま額にあてた。呻くように、ひとつの名を呟いた。その面影に、謝罪した。
 ぼんやりと何時間も過ごしたあと、日が変わってから戻った自宅。うつむいたままドアを開ければ、たまごが、懐に飛び込んできた。
「カカシ!」
 抱き留めれば、身をすり寄せるようにしてイルカにぴたりとその身をつける。離すなというように、ぎゅうと押しつけてくる。それをぐっと抱きしめて、イルカは玄関に座り込む。
「ごめんな、カカシ……」
 思えば、最近カカシには謝ってばかりだなと、イルカは改めて気づくと、ずんと気持ちがまた沈んだ。





 イルカの日常はあわただしくなった。
 出発まで時間がない。鍛錬は怠っていなかったが、更なる厳しい修行を自らに課す為にアカデミーは休職、受付にも入らなくなった。たった2週間だが実践の勘を取り戻すためにこまめに任務について、帰宅すればカカシのたまごにかろうじて話しかけてもすぐに眠るだけの多忙な日々が続いた。
 疲れて、風呂もはいらずベッドに倒れ込むイルカが朝起きると、傍らにはいつもたまごがいた。触れているだけで、なにやら癒される気がするのは不思議な作用があるからなのか思いこみかはわからない。だがたまごが、カカシがそばにいてくれることが、嬉しく、それでいて近づく別れに気持ちは落ち込んだ。


 カカシを見捨てる気持ちなど毛頭ない。
 けれどイルカは行かなければならない。








 しんとした夜だった。
 明日の朝、とうとうイルカは旅立つ。秋が通り過ぎ、季節は冬に向かう準備を始めたのか、少しずつ、少しずつ、朝晩の空気は冷えていった。
 暗がりの中、壁に背を預けたイルカはたまごと向かい合う。たまごはどこまでも白く夜の中に存在していた。
「カカシ」
 いらえはない。けれどイルカの中に響く声がある。どこからか届く、声。
「カカシ。たまごの中で、どうしてるんだ?」
 そこは安らげるのか? 居心地はいいのか……?
「なあカカシ」
 イルカは片方だけ立てた膝に軽く手を載せて、ふと微笑んだ。
「今頃気づいたけどさ、俺、カカシがいてくれて、楽しかった。いろいろあったけど、面白かったよな。いてくれて、ありがとな」






 出発の朝。
 火影の元に連れて行かなければならないとたまごを持ち上げようとすれば、信じられない重量で、とても持てるようなものではなかった。イルカは何かを察したらしいカカシの勘の良さに呆然となる。
「カカシ、頼むよ……」
 座り込んだイルカはたまごに抱きついて語りかけた。
「俺、行かなきゃならねえんだよ。お前を一人ぽっちでこの家に置いてけねえだろ。火影様のもとに連れて行きたいんだ。カカシ……」
 なでさすると、ぴりぴりとしていたたまごは徐々に滑らかな柔らかい手触りになってくる。
「なあカカシ。俺は、お前のこと見捨てるわけじゃない。でも、どうしても、行かなきゃならない。頼むから」
 イルカがぎゅうと抱きしめると、いきなり、たまごに亀裂が入った。え? と思いがけないことにイルカは目を見開く。
 イルカの腕の中、亀裂から放射状に光が弾けて、ガラスが割れるような耳障りな音がした。一瞬にして細かな亀裂がみっしりと入り、殻は粉々になって、散った。
 まぶしさに目を細めていたイルカの見開かれた視界の中。
 そこには、カカシが、いた。1才児ほどのカカシが、座っていた。
 とろりとした液体が畳に少しこぼれる。カカシは濡れそぼった体をぶるりとふって、まっすぐにイルカを見た。
「イル、カ……」
 ろれつが回っていないような小さな声。
 イルカの目の前で、カカシが手を伸ばしてきた。イルカを求めて伸ばしてきた手にためらうことなくイルカも手をさしのべる。
 柔らかな、小さな体に手を回す。生きている者の鼓動。ぬくもり。
「……カカシ」
「待っ、て……。イルカ……」
 耳元でせつなくカカシの声が震える。しばしの間、イルカは万感の思いを込めてカカシを抱きしめていた。
 旅立つ前に、もう一度、カカシに会えてよかった。
「カカシ、俺行かないと……」
「だから、待って、って……」
 カカシはいやいやをするようにイルカから離れる。だだをこねるようがカカシを押さえつけることもできずに畳に下ろすと、カカシがぶるぶると震える。ぼうと体の輪郭がかすみ、イルカが瞬きを繰り返しているうちにカカシは4〜5才児の姿になった。
「……っ。ぅ」
 呻いて透明な吐瀉物を吐くと、苦しそうに喘ぐ。
 何が起こっているのかわからないままに息をつめて見守るイルカの前で、カカシは自らの体を抱きしめてぎゅっと目をつむり、歯をくいしばる。今度は骨がきしむような嫌な音をさせて、一気に10才児ほどの姿に変わる。左目には以前にはなかった縦の亀裂が入り、開いた目は赤く、写輪眼の文様が浮かんでいた。ぜえぜえと荒い息を吐いて胸をおさえてのたうつカカシにさすがにただごとでないとイルカはカカシをおさえつけた。
「やめろっ。何考えてるんだ!」
「はな、せっ」
「馬鹿野郎! お前、無理矢理成長してるだろうが。顔真っ青だぞ。なんで、こんなことっ」
 イルカが吐き捨てれば、カカシは汗だくの顔で苦しい息の下から、イルカを見つめてふっと笑った。はかない笑みを口元にしいたまま、かすかな声をだした。
「イルカと、行く。イルカの、役に立ちたい。だから、せめて、もうちょっと成長しないと」
 そう言ってカカシは笑った。必死な顔をして、健気に、笑った。
「カカシ……」
 イルカは何を言葉にすればいいのかわからずに、呆然と、カカシを見つめた。
「俺、役に、たつよ。ほら、なんていっても、しのび卵生まれだから。ね…。だから、イルカ、なんで泣くの? 泣かないでよ」
 カカシの手が、イルカの頬に触れる。死人のように冷えた手は急激な成長に震えていた。イルカはその手に自らの手を重ねて、強く握りしめた。
「俺、お前に、何もしてない。してやってない。なのに、なんでカカシは、こんな」
 腕の中のカカシがぼやける。カカシの顔にぽたぽたとイルカの涙が落ちていく。
「おれ、お、れ、カカシに、ひどいこと、いっぱい、した、だろ」
 イルカがえづきながらたどたどしく言葉を重ねると、カカシはまだ小さな手でイルカの涙を拭ってくれた。
「なん、で? イルカは、俺のこと、呼んでくれた。俺を、孵してくれた。それだけで、充分なんだ」
 カカシは真っ青な唇でイルカの頬に触れた。イルカを抱きしめる細い腕はまるで母のような慈愛に満ち、優しい。心を溶かす。
「っかヤロー……」
 震える手を叱咤して、カカシをかき抱く。ぐっと歯をかみしめる。
 なんて、温かくて、愛しい存在なのだろう。
 今なら、すべてをやり直せる。そう確信できるのに、イルカは、旅立たなければならないのだ。



 カカシを、おいて。






つづく。。。