□ 愛のたまご 16




 イルカがあの少年からもらった時よりも大きい。大人が両腕で抱えるほどの大きさのたまごが、イルカの目の前に鎮座していた。
「カカ、シ……」
 ゆらりと立ち上がったイルカは、たまごに触れた。つるりとした肌触り。固い、白い殻。
 この中にカカシがいる……?
 目の前でたまごに変化されても、イルカは現実のこととして信じ切れずにぽんぽんとたまごを叩く。
「おい、カカシ。何遊んでんだよ。出てこいよ……。お前、冗談きついぞ」
 はは、と笑うが口はひきつり渇いた声しかでない。
 イルカは再びぽん、ぽん、とたまごを叩く。そうしていればそのうちカカシがまた飛び出てくる、そんな気がして、イルカは何も考えずに叩いていたが、たまごは、何も、答えない……。
「カカシ!」
 イルカはたまごを持ち上げてがばりと立ち上がった。重さなど感じない。そのまま窓によって、がらりと開け放つ。
「おい! いい加減にしろ! 出てこい。出てこないなら、このまま、ここから、落とすからなっ。本当だからなっ」
 イルカは真っ裸のまま、たまごを頭上に掲げる。2階から思い切り投げつければいかに固い殻でも、しのび卵であっても、ひとたまりもないはずだ。
「いいか、数えるからな。十数える間に、出てこい。さもないと絶対に落とすからな」
 ひとーつ、ふたーつ、とイルカはカウントを始める。
 近所迷惑も顧みずに大きな声をあげて、たまごのカカシに聞かせるように数える。
 イルカは内心、焦っていた。たまごはうんともすんとも言わない。反応しない。
 どきん、どきん、とイルカの心臓は痛いほどに刻まれる。いつつむっつと数える声がか細くなり、消えてしまった。
 たまごを抱えたまま、イルカはその場にすとんと腰を落とした。
「カカシ……。なんでだよ……」
 たまごに呆然と語りかける。

 たまごは、何も言わない――。

 そのままイルカは。

 たまごを抱えたまま呆然と朝まで座り込んでいた。





 たまごを背負って現れたイルカにさすがの火影も仰天した。
「イルカよ……。おぬし、またしのび卵を手にしたのか? おぬしはしのび卵のブリーダーか?」
「カカシです」
「じゃからカカシはとうに」
「このたまごがカカシなんです!」
「なんと!」
 火影はいつもの居間で茶を喫しながらくつろいでいたが、いずまいをただす。ごくりと火影ののど仏が動く。しのび卵を手にしてから何度もイルカの突然のおとないを受けている火影だが、もしかしたら今までで一番驚いているかも知れない。
「ちょっと、カカシとぎくしゃくして、俺が心ないことを言ってしまったんです。そしたら、カカシが、自分で術をかけたのか、たまごに戻ってしまいました」
 火影の前で正座したイルカは肩が落ちる。一睡もしていないが、眠気は全くなかった。朝になってやっと自失していた気持ちを取り戻して、イルカはたまごをばしばしと叩いたり、振ったり、かじったり、撫でたり、なだめすかしたりと格闘したのだが、全く反応しないカカシにとうとう諦めて火影の元に連れてきたのだ。
「俺、さすがに今度ばかりは自信なくしました。でもカカシを見捨てることもできないし、どうしたらいいかわからなくて、恥を忍んで、来ました」
 傍らに置いたたまごをさらりと撫でてやれば、輝くような光沢を放つ気がする。けれどたまごはたまごのままで何も言わない。
「イルカにわからぬことがわしにわかるとも思えぬがな」
 どれどれと近づいてきた火影はイルカと同じようにたまごに触れた。途端。
 ばちばちと火花が散る。凶悪なチャクラの放出に火影は咄嗟に防御の体勢をとった。
「カカシ!」
 思わずイルカはたまごを叱責していた。以前にもこんなことがあった。ナルトにたまごを見せた時だ。触れたナルトの手を拒むように弾いた。
 うむ、と火影はうなる。
「イルカ。おぬしが触れても何も起きなかったな」
「ええ」
「ではもう結論は出ておるではないか」
「結論、ですか?」
 弾かれた手に息を吹きかけながら火影はのんびり告げた。
「たまごを、カカシをかわいがってやれ。さすればまた孵化するはずじゃ」





 たまごは再びイルカの家の、風通しのいい場所に鎮座した。熱くとも生命感溢れる夏の日差しを受けてたまごは輝く。
 なんとなくだが座布団の上に置いて、傍らには猫のぬいぐるみと、カカシのお気に入りだった首輪を置いてやった。
 いきなり一人になった家はまるで他人の家のようにそらぞらしく、くつろげない。大人になったカカシがいた頃は何度となくカカシがいなくなればいいと思ったのに。
 己の身勝手さにさすがにイルカ自身が辟易する。自嘲の笑みを口にしいて、ふうと息をはいた。
「カカシ。本当に、悪かったな」
 たまごと向かい合って、まるでカカシを前にしているように話しかける。
 カカシは、昨日泣いていた。イルカが、泣かせてしまった。カカシは懸命にイルカに寄り添おうとしていたのに。カカシと、交尾ではなくセックスしてしまって、イルカは一人うろたえて、自分でもてあます感情をカカシにぶつけていた。それを受け止めてくれていたカカシにまた苛立って、どうしようもない感情の渦の中でもがいていた。
 カカシがいなくなって、やっと落ち着いて考えれば自分のいたらなさに嫌気がさす。
 だがそんなイルカをカカシは、それでも見捨てず、チャンスをくれたと、そう思いたい。
「俺って本当に駄目だな。でも、頑張るから。もう一度、カカシに会いたいからさ……」
 たまごを撫でてやれば、空耳のように、イルカ、と呼ぶ声が聞こえた。



 行ってきます、ただいま、とイルカはたまごのカカシに声をかける。笑いかける。撫でてやる。抱きしめてやる。たまには風呂に浮かべてやる。
 日々穏やかな気持ちになり、純粋にたまごを愛しんでいた頃の優しい気持ちをイルカは思い出していた。
 カカシが生まれるなんて知らなかった頃、イルカはたまごが待っている家に帰ることが楽しくて仕方なかった。しゃべることもなく、ただそこに居るだけのたまごに知らず癒されていた。イルカはまるで生きている存在のようにたまごと相対していた。
「なあカカシ。今度ナルトを連れてきていいか?」
 蒸し暑い夜にはひんやりと心地良いたまごを抱えてベッドの上に転がった。イルカがきゅうと抱きしめてやる。そんな時、気のせいでなければたまごは、カカシは、きらきらと光を放つようにきらめいていた。
 ナルト、とイルカが口に出すと、たまごはなぜかぴりぴりとした感覚を伝えてくる。そんな幼稚な嫉妬にイルカは笑う。
「ばーか。ナルトだぞ? お前ぇナルトと仲良かっただろ? 会いたくないのか?」
 からかう口調で、優しく、優しく、撫でてやる。たまごはそのうちにまた柔らかな気配を取り戻す。
「ナルトがさあ、カカシに会いたいって言ってるんだよな。ちょっとでも帰ってこないのかって。あいつあれで結構人見知りするとこあるから、珍しいんだぞ。カカシのこと、ホントに好きだったんだなぁ」
 イルカはうとうととしながらたまごに頬をすり寄せる。
 きっといきなりナルトを連れてきてもたまごはナルトを拒否したりしないだろう。実はこのたまごの中にはあのカカシが入っていると教えてやれば、ナルトはきっと驚いて、そして、喜ぶだろう。たまごを愛しむだろう。

 その夜の夢でイルカは久しぶりに半猫だった頃のカカシを見た。そこにはナルトもいて、3人でどこかにピクニックにでも出かけていた。
 イルカーとカカシが呼ぶ。満面の笑みで走ってきて、イルカに飛びつく。その後ろからナルトも負けじと駆けてきて、イルカ先生ーと声をあげて同じように飛びついてくる。
 猫耳を生やしたカカシの銀色の髪を撫でてやる。耳元をくすぐってやる。にゃあとカカシが嬉しそうに目を細める。ナルトの金の髪にも触れてやればカカシがすねて頬を膨らませる。
 どっちが好きなんだよ? とぶすったれて聞いてくる。
 もちろん!
 もちろん……。
 ふっと、世界がかげる。イルカはカカシと二人、向き合っていた。
 カカシがまっすぐに見上げて、イルカに両手を広げてくる。またたきもせずに、怖いくらいの直線の光。そんな目が、すがるようにイルカを見つめていた。
 生まれたてのカカシ、いきなりセーエキを飲ませろと言った。驚きととまどい。拒絶した。仕方なく、嫌々、カカシを育てた。いきなり成長したり、半猫になったり、交尾を求められたりと、イルカを振り回してくれた。
 いろいろなカカシを思い出して、イルカの顔は自然とほころんでいた。
 今更、気づいた。カカシはきっといつだってこんなにも必死なせつない色の目でイルカのことを追っていた。しのび卵からいきなりこの世に放り出されたカカシが頼るべき存在は、すがるしかないのは、イルカだけだったのだろう。
 カカシのことを腕の中抱きしめる。
 どっちが好きかって?
 もちろん、カカシだ。カカシが一番だ、と、今度こそ言ってやりたい。
 カカシが、望むのなら。イルカの言葉ひとつでカカシが幸せになれるのなら。



 季節は夏が瞬く間に過ぎ去り、木の葉の里を焼いていた熱は少しづつ力を弱め、ふっと感じる風に秋が濃く香り始めていた。
 カカシは変わらずたまごのままだが、イルカは焦らないことにした。カカシはたまごに戻る前に、呼んで、と言ったのだ。だからカカシはもう一度生まれることを望んでいる。イルカは、待てばいい。
 焦ることなく、現状を受け入れてゆったりとかまえているイルカは満たされていた。たとえ、カカシがたまごのままでも、それでもいいとさえ、思えた。
 そんな穏やかな日々。イルカが自宅でテストの採点をしながら窓から入ってきた風にぶるりと体を震わせた、その時。
 不意に傍らに灯るようなぬくみを感じた。視線を転じれば、たまごが、イルカに寄り添っていた。
「カカシ……」
 たまごに戻ったカカシが、初めて、自ら動いた。動いて、イルカのそばに、きた。
「カカシ」
 なんというか、イルカは、徐々にこみ上げてきた気持ちにくしゃりと顔を歪めた。
 カカシが、寄り添ってくれた。あんな風に傷つけたイルカを許してくれたのか、どうかはわからない。だがイルカは嬉しかった。嬉しくて、たまごを抱きしめた。目の奥が、熱い。
「カカシ。いい加減、出てこいよ。生まれてこい。俺、カカシがいないと、寂しい」





 そのまま、イルカの穏やか気持ちが、溢れる気持ちがカカシを包んでいけば、たまごはほどなくして孵化して、また同じことを繰り返したかもしれないがきっと今度こそ、うまく育てていける。もう絶対にカカシを見捨てたりしない。
 そんなふうにイルカは思っていたのだ。






つづく。。。