□ 愛のたまご 12




 
 結局、眠ることなどできなかった。
 疲労ゆえにほんの少しうとうととしただけだ。
 まだ夜は明けきっていないが、イルカはむくりと起きあがって、安らかなカカシをじっと見つめる。
 


 不覚にもやられてしまった。体全体、特に下半身に重い疲労感がたまっている。だがカカシを憎く思う気持ちはとくにない。カカシが楽になるのなら、とイルカがしてやろうとしていたことを逆にやられてしまっただけだ。このことがカカシに何か特別な作用を施すのだろうか。本物の猫のように本能の欲望をはらして気分がよくなっただけなのかもしれないが。
 この先、カカシはどんな変化を遂げていくというのだろう。
 思えば、最初から不思議なことだった。あの冬の日にたまごをくれた少年はイルカの前からかき消すように消えて、イルカは残されたたまごを温めた。生まれたのはカカシ。あれから半年くらい経つ。
 イルカはふうとため息を落として、自らに対して頷いた。



 気持ちよく眠ったままのカカシに術符を張る。
 術にかけて、おぼつかない足下に気合いを入れて火影の家に運んだ。





「朝っぱらからなにごとじゃ、イルカよ」
 寝間着代わりの浴衣を着込んだ火影が大きなあくびをしながら居間にやってきた。
 イルカは丸まって固まって眠ったままのカカシをずいと火影のほうに押しやった。カカシの体中、術符がべたべたと張られている。
「のしつけてお返しします」
「なんじゃ? なにがあったのじゃ?」
「やられました。男の貞操奪われました」
 吐き捨てるように口にしたイルカは、じゃあそういうことでと気力を込めて立ち上がった。よろりとなるが根性で踏ん張る。
「やられた? おぬしがやったのではないのか?」
「そのつもりだったんですが、やられました。このエロ駄猫に。容赦なく、中だしまでされました。腹下しましたよ。今も下痢気味です」
 イルカがやけくそ気味で告げると、火影は驚きゆえか目を見開いた。
「なんと。しのび卵は予測がつかぬなあ」
「ええ、おっしゃる通りです。やっぱり俺の手には負えないようでした。もーしわけありませんでした。でも充分やったとは思うんです。たまごから温めて、孵して、ここまで大きくしました。さすがに、もう、これ以上は、無理です」
 きっぱり告げた。迷いを振り払うように、わざと冷たく告げた。もしも火影が了承しなくても、イルカは一人で帰るつもりだ。罰則があるというのならそれもまた仕方ない、と覚悟はあった。
 だが、案に相違して、火影は固まったカカシをちらりと見て、イルカを見て、重々しく頷いた。
「よかろう。うみのイルカのしのび卵の育成の義務をはずしてやろう。確かに、おぬしはようやった。なにせしのび卵から孵った忍は10本の指で足りるくらいしかいないのだからな。その中でもこのカカシは変わり種じゃ。ここまで、よくやった」
 しみじみとねぎらわれて、逆にイルカはたじろいでしまう。はっきり、調子が狂う。そんなとまどいを隠すようにイルカは早口でまくしたてた。
「じゃあそういうことで、よろしくお願いします。もう俺はこの先カカシにノータッチですからね」
「わかった。じゃが最後にカカシに別れを告げなくてよいのか?」
 言われて、イルカは丸めて固めたカカシをじっと見る。
 安らかな寝顔のまま、術に取り込めた。これで、この顔を覚えていれば、それで、いい。だからイルカは背を向けた。
「カカシに、立派なしのびになれって、伝えてください」
 ついでに今日は休みをもらいますとしっかり伝えて、イルカは火影の家を後にした。





 イルカは自宅に戻ってシャワーを浴びると、まずしたことは、部屋の掃除だった。
 痛む体を叱咤して、カカシが身につけていた衣服はすべてひとまとめにしてゴミ袋に放り込み、掃除機をかける。カカシが使っていた食器類もゴミ袋に入れた。
 カカシがいた形跡など、すぐに払拭できる。いや、してみせる。
 綺麗にした部屋を見渡して、イルカはやっと心から息をついた。
 くーっと伸びをして、不適に笑う。
「あばよーカカシ。達者で生きろよー」
 イルカはベッドに転がった。
 目を閉じる直前、なんとなく、カカシの匂いがしたが、そんなものはくしゃみと一緒に吹き飛ばした。





 かり、かり、かり、と音がする。
 遠くから届いていた音が、少しずつ、少しずつ、近づいてきて、イルカは重いまぶたをいやいやながらも開けざるを得なかった。
 部屋は暗かった。
 眠りについたのは昼過ぎだったから、ずいぶん眠ってしまったようだ。聞こえてくる音は、どうやら玄関の向こうからだ。
 爪でひっかくような、音。
 いや。ような、ではない。爪でひっかいている。
 誰が?
 カカシしかいないではないか。
「イルカ……。俺。カカシ。入れて」
 イルカが起きた気配にでも気づいたのか、カカシがドアの向こうから話かけてくる。
「イルカ。ねえ、お願い。入れて。おうちの中にいれてよ。ねえ……」
 カカシはみじめったらしいかすれた声で頼むが、イルカは返事をしない。背を向けてまた丸くなる。
 かりかり、とひっかく早さが変わる。
「イルカ。イルカイルカ。ねえ。お願いだよ」
 ずずっと鼻をすする音が混じる。だがイルカはそんなことでほだされたりしない。ここで甘い顔をすると、よくない。
 カカシにも、イルカにも。
「イルカ。ごめんなさい。あんなことして、ごめんね。ねえ、もう俺しないよ。だから許してよ。うちに入れてよ」
 ひーんとカカシはとうとう泣き出してしまう。
 ベッドから起きあがったイルカはとりあえずむっとしたままドアに近づいた。



 すっと息を吸い込む。
「駄目だ。もうカカシとは暮らせない。火影さまの元に帰れ」
「イルカ!」
 カカシが、ドアの向こうにへばりつく気配がした。
「入れて。家に入れて」
 カカシはみじめったらしい声でイルカイルカと連呼する。すがりついているであろう姿に心が動かされないでもないが、いかんいかんとイルカは首を振る。腹の底に力を入れて、きっぱりと告げた。
「帰れ」と。



 不意に、カカシの気配が消える。
 なんとなしに違和感を感じ次の瞬間、イルカの家のドアはがんと勢いよく、強風に飛ばされるようにして開いた。
「!!!」
 ドアの向こう。立っていたのはもちろんカカシだ。
 アパートの頼りない明かりの下、変わらず猫の耳、しっぽを生やしている。赤い首輪までもつけたままの姿だというのに、その峻烈な気配がびりびりとイルカを焼く。
 思わず後じさったイルカのことを顔を上げたカカシが射抜く。
 闇に光る色違いの、目。
 まるであの夢の中のようにカカシの目の瞳孔は縦に裂け禍々しいもののようにイルカを射る。
 ごくりと喉を鳴らしたイルカは、じりじりと更に後じさる。
 カカシはひたりひたりと音もなくイルカに近づく。体にはイルカが貼ったままの術符をつけている。ということは術が火影によって解除されたのではなく、無理矢理やってきたということか。
 そのことに思い至ってイルカはざっと背筋が寒くなるのを感じた。
「イルカ……」
 呼びかけてきたカカシの声は地を這うように低かった。イルカは目をそらせずにカカシと睨み合う。
 カカシから漏れ出るチャクラは禍々しく、それでいて巨大。イルカが太刀打ちできるようなレベルを超えていた。
 カカシの中に渦巻くものの正体は怒りだろうか。悲しみだろうか。
「イルカっ」
 びくっとイルカは意識せずに身をすくませる。そしてカカシに体当たりされていた。運良くベッドに乗れたからダメージは少なくすんだが、一瞬あらぬところからの痛みにぎゅっと目をつむる。
 落ち着いて息を整えて冷や汗を垂らしながらも目を開ければ、カカシは、イルカの腰にひしとしがみついていた。
「カカシ……」
 回された手の強さ、必死さ。イルカの体が痛みを感じるくらいの強さ。なのにカカシの体は、かすかに震えている。
「いい、加減に、しろよ。何回、俺のこと見捨てたら気がすむんだよ」
 絞り出すような声が聞こえて、イルカは愕然となる。
 顔を上げたカカシはきつい光を宿した目を潤ませて、イルカのことを睨み付ける。なんとなく顔色が悪いのは、無理に術符を解いたせいなのかもしれない。



「イルカは。俺のこと、馬鹿にしてるのかよ。なんだと思ってんだよ。ふざけんな。俺のこと、孵したのも、育てたのも、イルカだろ。それを、途中で投げるなんておかしいだろ。最後まで責任もてよ」
 瞳を潤ませたまま、鼻を時たますすりながら、それでもカカシはしっかりと、一言一言告げた。
 なんて、必死で、強いのだろう。
 カカシにいたされてしまったが、イルカはカカシのことが嫌になって、火影にもっていったわけではない。ただ、これ以上はイルカといることはカカシにとってよくない気がしたからだ。だがそのことに根拠はなく、ようするに、予測がつなかいしのび卵の成長が、イルカは怖くなったからだ。その事実をカカシの言葉で気づかされた。
 先のことを考えると、不安だ。正直怖い。
 けれど、カカシの言うことのほうが、圧倒的に正しい気がする。
 カカシの迫力に、飲まれているだけかもしれない。だがそれでもやはり、育てた命を、途中で投げていいわけがない。それは確かに責任をもたなければならないことだ。
 たとえイルカが立派な育て親でなくとも、それでもカカシをこの世に連れてきたのはイルカだ。



 きゅっと目をつむったイルカは一呼吸。覚悟を決めて目を開けた。
「悪かった。俺が、悪かった。ごめんな、カカシ」
「謝れば、すむと思って……」
「すむとは思わねえけど、でも、許してくれないのか?」
 イルカが神妙に尋ねると、カカシは口元を引き締めてひたと見つめてくる。
 色違いの目が必死な色をたたえている。それはとてもきれいな色あいだった。
 その目に宿っていたきつい光がうすれ、いつも通りの無邪気なものに戻った。
「許す。許してやるよ」
 カカシに許されて、イルカはにっと笑った。
「じゃあ、仲直りのちゅうだ」
 カカシの頬を両手ではさんで、そっと口づけた。





「イルカよ。カカシのやつが来ておらぬか」
 それから少したって、火影がやってきた。
 開きっぱなしの玄関からひょっこりと入ってきて、二人に気づくと額をおさえる。
「ちょっと目を離した隙だったのじゃがな」
 ベッドの上で、カカシはイルカにすがりついたまま眠っていた。
「火影さま」
 カカシの髪を撫でていたイルカが顔をあげれば、火影は目ざとく目をしばたたかせた。
「なにやらすっきりとしているではないか」
「はい。俺、今度こそ本当に、覚悟ができました。もう、カカシのこと、見捨てたりしません。カカシから逃げません。だからもう一度、カカシのことまかせてもらっていいですか?」
 イルカが真剣に尋ねれば、火影はにやりと少し意地悪く笑った。
「わしはかまわんが、ではこの先はもうわしに泣きつくことはないということじゃな」
「あ〜、それはちょっと。俺の愚痴くらいは大目に見てくださいよ。きっとまだ、悩まされると思いますから」
 イルカはしがみついたまま眠るカカシに苦笑した。
「しのび卵は俺たちの想像の範囲を超えたことしでかしますからね」








つづく。。。