□ 愛のたまご 10




 とりあえずは火影の処置で落ちついたカカシを連れて帰宅した。
 家に戻るとカカシはそのままイルカの万年床で体を丸めてしまった。
 すーすーと安らかな寝息をたてて眠るカカシは安らかで、昼間の騒動が嘘のようだ。そっと手を返して手のひらに盛り上がった肉球をにゅ、と押してみる。その途端にカカシの耳がぴくぴくと反応して、イルカは慌てて手を離した。
 少しばかり体を離して、カカシを伺うが、起きない。そのまま寝入ってしまったようだ。
 ほっとしてイルカは畳の上に寝転がった。
 前途多難。
 そんな言葉が脳裏に浮かんで、イルカは深い深いため息をついた。



                          □□□



 音もたてずに近づいてきたカカシは、すり〜と体を密着して滑らせてくる。ぎょっとしてペンを取り落としたイルカが振り向くと、カカシが四つんばいになってお尻を向けていた。
「んな〜」
 甘えた声を出して、ちらりとイルカを振り向く。頬を染めて潤んだ目。イルカは壁際まで飛び退いた。
「ななな、なんだよ、おいっ」
「み〜」
 カカシはしっぽをたててお尻からずいずいにじり寄ってくる。短パンに包まれた形のよい尻がイルカの目の前にある。押しのけようとしてイルカはつい尻を押してしまった。
 途端。
「ん、にゃん!」
 明らかにカカシが嬉しげな声を上げて体をのけぞらせる。そしてますますお尻をあげて、まるでもっともっとというように迫ってくる。
 ひ〜と情けない声を出したイルカは壁にぴったりと体をへばりつかせる。
 カカシは牡なのに、なぜに牝のように迫ってくるのだ!
「カカシ、正気に戻れ! 俺は、そんな趣味はないんだっ」
 イルカが必死に告げると、カカシはくるりと振り向く。小首をかしげて、イルカに手を伸ばしてくる。金縛りになったように動けないイルカの頬にすりすりとほおずりする。
「こら。やめろ、カカシ!」
「にゃにゃにゃー」
「うっわ……! おいっ」
 カカシに耳をくわえられて、せっぱ詰まったイルカは思い切りカカシを突き飛ばした。
 ころんと後ろ手に手をついたカカシは目をぱちぱちとさせてどこか遠いところをしばし見て、ふるふると頭を振った。
「……俺、また、おかしかった?」
「おおお、おかしいなんてもんじゃないっ。変態だ変態! 頼むから病院行ってくれ」
 イルカは喚いたが、カカシはしれっと肩をすくめていきなり冷たくイルカを見返した。
「や〜だね。別に病気じゃないし」
「病気だ。充分病気だ!」
「成長の一過程です〜」
 くあ〜と大きなあくびをしたカカシはパンツ換えないとな〜言いながら濡れた下着を洗濯機に放り込んで、さっさと着替えると、修行してくるーと言って出て行ってしまった。


 イルカは、脱力してへたりこんだ。


 発情してからカカシの行動はおかしくなった。猫らしさが徐ゝに薄れて、気持ち成長して15才くらいの体になったのは喜ばしいが、いきなり発情モードになってイルカにせまってくる。それも尻を向けて。
 イルカはアカデミーの子供たちのテストの採点をしていた。熱中するあまり寝入っていたカカシのことは頭から消えていたのだが、油断大敵。
 おりしも季節はちょうど春である。
 猫の習性から、雌猫の発情につられてカカシは発情しているに違いないと思い、イルカは自宅の周囲に結界を張っている。だがカカシは気ままに外に出る。結界にあまり意味はないのかもしれないが、自宅にいる時くらいはなんとかなるような、安心感もあるのだ。
 カカシはまさか外で雄猫に尻からせまったりはしていないだろうかと心配だが、それは問題ないと火影は請け負った。要は、イルカにたいして異常な反応をしているだけだと。
 火影に何度か泣きついたが、こんこんと諭されて終わった。おぬしも思春期に覚えのある衝動だろうと。しかしイルカは思春期に友達の男共にせまったりはしていない。マスのかきあいっこだってしていない! イルカはごくごく健全にやってきたのだ。
 しかし毎日毎日首輪をつけたかわいらしい猫のカカシにせまられていると、せめて俺が猫だったらな〜……と思ってしまうこともあり、イルカはぶるぶると首を振る。そんな背徳的なことをしてはいけないのだ。イルカはカカシをまともに大人にしなければと今更ながらの使命感に燃えていた。







 イルカは悪夢に追われていた。
 銀色の巨大な猫が逃げるイルカを追ってくる。暗闇の中、大きな影は揺れて、たわんで、追ってくる。息を切らして汗だくになってそれでもイルカは必死に逃げた。
 はっと目を覚ました途端、ぞろーりと顔を舐められた。
「!!!」
 声もなく飛び起きたイルカは、がんと壁に頭を打ち付けていた。
 窓からは、春の上弦の月。霞がかったもったりした空気が少し開いていた窓から流れてくる。イルカの目の前には、光る目。音もなく四つ足歩行で近づいてきたカカシ。瞳孔はたてに裂け、貫くようにイルカを見据えている。
 動けないイルカにすり寄ったカカシは赤い舌をのばしてイルカの頬を舐める。ぞろり、ぞろりと執拗に、まるで肉食の獣が獲物を味見するように舐める。それを繰り返す。
 声を上げたら喰い殺されそうな緊張感にイルカの背にはじとりした汗が伝う。
 固まったイルカをじっと見つめるカカシは何を考えているのだろう。
 金縛りにあったようにイルカはカカシを見つめる。カカシも、イルカをひたと見つめる。
 やがて。
 表情のない顔が、少しずつ、少しずつ、人としての色を取り戻し、あどけないものに変わる頃、カカシはにこりと安心したように笑い、そのままことりとイルカの胸に落ちてきた。
 ずる、ずる、とイルカはカカシごと布団に身を横たえる。むにゅむにゅと呟いたカカシはそのまま寝息をたてはじめた。
 耳はぴくぴくと揺れ、喉の奥がごろごろと鳴る。


 イルカはどっと嫌な汗をかいていた。
 今までカカシはいきなり発情モードになってイルカにすり寄ることはあっても、夜、こんな風に正体をなくすようなことはなかった。本気で、喰われると思った。命の危険を覚えた。安らかにすぴすぴと鼻をならすカカシの頭をかぽかりとやって、全身から力が抜けた。
 しかしそんなことが三日三晩続くと、さすがにイルカも危機感を覚えた。
 意を決してある晩カカシに聞いてみた。
 カカシはぼんやりとしつつももそもそと口を動かしてイルカが運んでやるごはんを咀嚼していた。
「なあカカシ。お前具合悪いのか? 最近ちゃんと眠ってないんじゃないか?」
「なんで……?」
「なんでって……」
 イルカがどういったものが考えて黙り込むと、カカシは下に向いていた目線をふとあげてイルカのことを見つめた。
「夢見は悪いかな。俺、夢の中で、俺じゃないようなものになって、逃げてる。俺の前には、イルカみたいな真っ黒な髪した奴がいるけど、俺追いつけなくて、でも追いつきたくて、必死で走るんだ。うしろの奴はなにかわからないけど、とっても怖くてさ」

 追われてるのは俺だ!
 と言ってやりたかったが、そうもいかない。
 カカシは眉間に皺をよせてふうとため息をつく。ごちそうさまと言って部屋の隅で丸くなってしまった。
 情緒不安定なのか、最近のカカシは気持ちの浮き沈みが激しい。とげとげしい日などはイルカと口もきかずに遅くまで外に出て、食事も食い散らかして眠り込む。今日は沈んでいるのか、しおしおとして元気がない。
 正直言って、カカシに何をしてやればいいのか、イルカにはわからない。きちんと向き合いたくても、カカシはどこかぴりぴりとして、イルカを拒む空気を感じるのだ。
 己の至らないことを痛感して、イルカは拳を握りしめた。

 そして。


 毎度のことで情けないが、意を決して火影の元に向かった。







 どうせ火影のことだから、笑って問題ないとあしらう程度だと思っていた。だからイルカとしては茶飲みがてら愚痴でも聞いて貰おうと思っていたのだ。
 だが、今回は違った。
 イルカから夜の出来事を聞いた火影は黙って窓際に立つと、後ろ手に手を組んで沈黙を下ろす。
 しばらくは火影からの答えを待っていたイルカだが、しびれを切らして立ち上がった。
「火影さま、もう俺には無理です。カカシのこと育ててやりたかったけど、でもこのままじゃカカシにとってもよくないと思うんです。そりゃあ、俺自身、ちょっと、怖いかなって気持ちも正直あるんですけど……」
 イルカは正直に伝えた。カカシが心配だ。だがそれと同じくらいに自分の身も心配なのだ。もしもカカシが本気でイルカを食らうように迫ってきたら、イルカは応戦するしかない。そうしたら二人とも負傷してしまうことだろう。
「火影さま、今からでも、カカシのこときちんと育てられる人に任せること、できないですか? 考えてみればスタートからおかしかったんですよ。俺、セーエキなんて、飲ませられないし」
 最近カカシはセーエキのセの字も言わないが、ことの発端はそれだ。イルカが覚悟を決めてセーエキをさっさと飲ませていればまっとうな成長をしたのかもしれないが過ぎてしまったことだ。だがこのあたりで軌道修正をしないと、もっとおかしなことになりそうだ。


「イルカよ」
 いいわけをするように言いつのっていたイルカに火影はくるりと振り向いた。
 火影は至極真面目な顔をしていた。
「カカシと交尾してやれ」
 がん、とイルカは応接セットのテーブルに頭を打ち付けていた。
 そのまま、顔を上げられずにしばし目をつむる。意味なく数字を数えて、怒りを必死で静める。しかしイルカの怒りをよそに、火影はのほほんとした声で続けた。
「交尾は少し言い方が悪いが、すっきりさせるのが一番じゃろうて」
「火影さま……」
 ぬうっと顔を上げたイルカは、上目使いで眼光鋭く火影を見上げた。
「俺に猫に変化しろとでも言うんですか」
「おお! それはよい案じゃな。冴えているではないか」
 イルカは無言で立ち上がると、挨拶もせずに執務室を後にしようとした。
「まあ待てイルカ」
「俺は、カカシにきちんと育って欲しいんです。セーエキとか、交尾とか、そんなことじゃなくて」
 たとえ生まれはしのび卵でも、カカシにきちんとした忍に成長してほしいのだ。
「おぬしの気持ちはわかる。じゃがな、カカシは普通の者とは違うのじゃ。この世にはさまざまな生き物がおる。それらをすべて同じように育てていいわけではあるまい。それぞれにあった育て方がある」
「だからって、子供に、セーエキ飲ませて、育てて、そんなのはおかしいです。しのび卵だからって、おかしいですよ」
「セーエキは、ひとつの手段じゃ。現にカカシは成長してきたではないか。さまざまな育て方がある。だがそれでも共通したものがある。わかるであろう?」
 いつもはふざけてばかりいる火影が、生真面目な顔をしてイルカをじっと見る。偉大なる里の長。九尾の襲撃で両親を失ったイルカの心に火を灯してくれたのはこの人だ。
 この方が、深い愛情で、イルカを包んでくれた。
「……わかってますよ」
 イルカはついふて腐れて口を尖らせる。火影はふっと表情を和ませると、くるりと背を向けてしまった。
「わしは、おぬしを信じておるからな」
 そんなとどめの一言で、イルカを押し出した。




 仕事帰りに慰霊碑に向かった。
 マフラーが風になびく。一歩一歩春は深まっている。風が強い。花びらが舞う。
 雲が飛ぶように流されて、暗い空はめまぐるしくその様相を変える。
「なーんでしのび卵なんてもらっちまったんだかなあ」
 慰霊碑に刻まれた名前。そのうちの一つ。わりあいと新しい者たちの名が刻まれたところに視線を据えたままイルカは苦笑した。
「だいたい俺は昔っからタイミング悪ぃと言うか、貧乏くじっていうかさ、そんなんばっかりなんだよな」
 慰霊碑は何も答えてくれない。しゃがんだイルカは刻まれた名前のひとつに指先で触れた。
「独身男で気がきかねえ俺に子育てなんてできるわけないよな。アカデミーだって手こずっているってのにさ」
 ふうと尖らせた口から息を吐き出したイルカは空を仰いだ。
「寂しい、か」
 しのび卵をイルカに渡した子供。
 イルカの何をもって寂しいかと聞いてきたのだろう。イルカが寂しいから、だからカカシがいるのだろうか。確かに、カカシが来てからの日々に寂しさは訪れることもなく、イルカは日々騒々しいながらも楽しく過ごしてきた。
 たまごから孵ったカカシ。幼児の姿、子供の姿。そして猫耳をはやした姿。互いの距離がはかれずに、微妙なラインを保っていた関係だった。だがカカシはいつからかイルカイルカと一途にまとわりついてきた。イルカも憎からず思うようになってきた。


 大好き、とカカシは繰り返した。


 慰霊碑をなぞっていた指をぎゅっと握り拳の中にしまいこんだイルカはなんとなしに泣きたい気持ちになり、口の中でひとつの名を呟いた。
 ずっと忘れていた。忘れようとしていたのに。
 思い出させたのはカカシだ。誰かが傍らに居てくれること。それはなんて奇跡的に、優しいことなのだろう。
 イルカとて、カカシのことは好きだ。きちんと成長しもらいたい。
 そのために、今なにをしなければならないかと言うことだ。
「どうしたらいいんだろうなあ……」
 イルカのぼやきは風に飛ばされていった。






つづく。。。