少年上忍中年中忍 第二部 E





 カカシと仲直りした翌日の晩、適当に冷蔵庫の残りで夕食を終えてドラマを見ていたイルカだったが、ドアをノックする音に顔をあげた。
 すでに10時を回っている。外の気配からカカシだとわかるが一体なんの用なのかといぶかしく思いつつ、ドアを開けた。
「こんばんはイルカ先生」
 ふっくらとした頬を赤く染めたカカシが、肩掛けの大きめのかばんを下げて立っていた。
「なにか、急用ですか?」
 カカシがここにいる理由がわからずに問いかけたが、お邪魔していいですかと言われ、立ち話もなんだからとイルカは家にあげたのだ。
 冷蔵庫に入っていた作り置きの麦茶を淹れて卓袱台に置いて座る。カカシはちょこんと正座して、照れたようにはにかんだ笑みを浮かべると、イルカに深々と頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
 まるで昔の嫁さんのように三つ指つかれてもイルカにはなにがなんだかわからない。
 ぐびりと缶ビールをひとくち飲んだ。
「なんですか、カカシ先生。なにがよろしくなんですか」
 顔を上げたカカシは頬を両手ではさんで、ぽっと音がするくらい顔を染めた。
「だって俺たち今日から同棲するんですよー」
 げふんとイルカはむせた。ビールが気管に入った。涙目になりつつしばらくの間むせる。カカシが大丈夫ですかと背を撫でてくれるが、それどころではない。口の端にこぼれたビールを手の甲で乱暴に拭いつつ、くわっと目を見開いた。
「どうせい!? どうせいって! 同棲って!!!」
「そうです。同棲ですぅ」
 カカシは体をくねらせるが、イルカは乱暴にカカシの肩をつかむとがくがくと揺すった。
「同棲って、カカシ先生意味わかってます? わかってないでしょ?」
 決めつけたイルカにカカシはむうと口を尖らせる。
「失礼な。わかってますよ。愛し合う者同士が生活を共にすることです。結婚の準備期間となる場合もあります」
「け、結婚だあ!?」
 なんですとお! とイルカは叫びだしたい衝動に駆られるが大人としての理性でなんとか平静を取り戻す。えへんえへんとおっさんくさい空咳をだしてビールを飲み干してカカシ先生、と固い声をかけた。
「カカシ先生。確かに俺達はお付き合いしています。でもですね、なんでつきあい始めたばかりでいきなり同棲しないといけないんですか」
 イルカの問いかけにカカシが傍らの鞄からごそごそと取り出したのは本。表紙には『イチャイチャパラダイス−同棲編−』と載っていた。
「イチャパラ……?」
 イルカの口元はひきつっていた。
「これに載ってたんです。つきあい始めたら二人はすぐに一緒に住んで、それでぇ、そのあとぉ……」
 ちら、とイルカのことを伺ったカカシの目は潤んでいる。媚びるような色めくようなあやしい目の色にイルカはぞぞぞと鳥肌を立てる。
 この子供はなにか勘違いをしている。この悪書のせいで、悪い知識が植え付けられてしまっている。これは大人として、カカシを正しく導いてやらねばならない。
「カカシ先生。恋愛には、段階というものがあります。付き合ったばかりの二人がなんでいきなり一緒に住まないといけないんですか。まずは互いのことをよく知って、それから双方の合意の元に一緒に住むなら住むってもんです。カカシ先生は恋愛の過程をすっ飛ばしすぎです。いきなり大ジャンプかましすぎです」
 せつせつと説いたが、カカシは小さく首をかしげた。
「でも俺たち明日をも知れない忍者です。ステップアップを待ってる時間はありません」
 イルカは天を仰ぐ。でたでたでた。忍者が、特にいくさ忍がよく使う台詞だ。これで落とされた友人知人は数知れない。そしてその後熱が冷めて修羅場となった奴らも結構知っている。平和ボケした中忍イルカはこの台詞に惑わされないのだ。
「そうですね、そんなふうな考えもあります。でも俺は35のこの年まで平穏無事に生きてきました。明日をも知れないどころか明日も明後日も明々後日も知りまくりです」
「でも俺は」
「だーいじょうぶです。カカシ先生はなんと言ってもその若さで上忍になった超! 優秀な忍なんですから。殺したって死にやしませんよ」
 かなり失礼なことを言いつつどんと胸を張ったが、カカシは納得がいかないのか、湿っぽい目でイルカのことを見上げる。
「でも俺、もう家の賃貸契約切ってきました」
 があん、とイルカは後頭部を殴りつけられたような心境に陥った。さすが上忍、やるときゃやるぜ! と感心している場合じゃない。カカシの鞄を引ったくると立ち上がった。
「今すぐ、契約解除を解除しに行きましょう。事務方のことは俺にまかせてください。こう見えて事務方10年。培ったスキルを今こそ生かす時ですっ」
「もうお店閉まってます」
「大丈夫です。物事はいくらでも裏道があるんです。とにかく俺にまかせなさい」
「明日でいいじゃないですかあ。今日は泊めてくださいい」
 カカシは鞄を引っ張った。てこでも動かんという決意が秘められた強い目の色をしている。
「明日になったら必ずイルカ先生のいう通りにします。だから今夜はいいでしょう。俺昼間上忍の任務で疲れました。もう休みたいです」
 カカシの言うことがたとえ詭弁だとしても、さすがに昼間任務をこなした上忍を無碍には出来ない。仕方なくイルカが元の位置に戻ると、カカシは機嫌良く笑った。
 しかし無邪気な笑顔に逆にイルカの中で警戒心が起こる。
「あの、ですね、言っておきますけど、俺、同棲というか、他人と暮らすのは、嫌なんです。中忍になってから20年近くになりますけど、ずっと一人で暮らしてきたから、それに慣れちゃって、快適なんです。今更誰かとってのは、ちょっと」
 最初に釘を刺すのが肝心だとイルカがためらいつつもはっきりと言ってやれば、カカシは目を見開いて卓袱台の上に身をのりだしてきた。
「なんでですか? だって、一人は寂しいじゃないですか。せっかく縁合って一緒になるなら一緒に住んだ方が楽しいじゃないですかあ」
「それはそうかもしれないと言うか、そういう人もいるといいますかとにかく俺はそうゆうのはちょっと」
 カカシはイルカのことをしばしの間じっと見つめて、にこりと笑った。
「わかりました。イルカ先生は自分の空間を大事にしたいってことなんですね」
「そう。そうそう。そうなんですよ」
 意外にもカカシは理解を示した。思ったよりも大人だったことにイルカは安堵する。きっときちんと順序だてて言い聞かせればこんな極端な行為に走ることはないだろう。
「じゃあ、お風呂でも入りますか? 残り湯ですけど追い炊きしてもらえば問題ないですよね」
「イルカ先生は入ったんですか?」
「ええ。俺はとっくに」
「なーんだ。一緒に入りたかったなあ」
 押入からタオルを取り出そうとしていたイルカの動きはぴたりと止まる。
 タオルを取り出しておそるおそる振り返れば、カカシは鞄から茶碗やら湯飲みやらカップやらを取り出して台所に勝手に持って行っている。
 あれ? とイルカは嫌な予感にたらりと心の中で汗をかく。
「イルカ先生。タオル貸してくださいね。一緒に入れないのは残念だけど、イルカ先生の残り湯でしっかり温まりまーす」
 腹の奥底からぞぞぞぞとはい上がってくるものにイルカは耐えた。カカシは鼻歌まじりで風呂場に消える。
 カカシと、互いの誤解を解いて改めてお付き合いを再スタートさせた。これで少しは落ち着いて向き合えると思ていたが、イルカは甘かった。
 今更だが、この上忍の本来の姿を忘れていたことに気づいたのだ。カカシの暴走っぷりをきれいさっぱり忘れていた。
 イルカとの付き合いが妄想ではなく現実だと自覚したあとのカカシが攻勢にでるであろうことを、まったく、これっぽっちも予測していなかった。
 付き合う前、何をされた? どんなふうに迫られた? あまり思い出したくないことだからすっかり忘れていたのだ。調子いい己の思考回路を今こそイルカは恨んだ。
 今夜は寝られない、とイルカは覚悟を決める。
 寝てしまったら最後、貞操の危機に見舞われることは確実な気がした。









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