少年上忍中年中忍 第二部 S





 夕方、日が落ちる直前くらいの時間帯の受付所には停滞した空気が流れていた。
 ソファには数人の忍がいるが話声は小さく、イルカの耳にはちょうどいいBGMのようだ。
 書類の後処理も終わり、アカデミー関連の雑務もなく、イルカもぼうっとしたまま窓から夕日に染まる空を見るともなしに目に映していた。
 美しい景色だ。紅葉の名残に色を残す里を燃え立つように染め上げて、命を祝福している。だがその美しさも、カカシがいない今は半減される。
 あれからふたつきは経過した。カカシの任務は延長になったと火影から聞いた。帰還の見込みは確実にはたたないと。
 そのことを聞いた時、イルカはあからさまに肩を落とした。火影が驚いたほどに。
「なんじゃ。お前はカカシのことを力いっぱい嫌がっていたではないか」
「そんなこと! ……ありましたけど、でもそれは前のことです! 今は恋人同士なんですから、帰還が遅れるなんて聞いたらそりゃあ落ち込みもしますよ」
 それでも火影は疑わしい目で見ている。
「どういう心境の変化か知らぬが、あまりカカシの気持ちをもてあそぶでないぞ」
「もてあそんでなんていませんから。失敬な!」
 と火影には意気込んで言ったものの、冷静に考えればイルカの今までの態度ははたから見ればもて遊んでいたと思われても仕方ないことだったのかもしれない。
 好かれていることで、知らず立場が上のような気でいたのかもしれない……。
 カカシと別れてからとにかくたっぷり時間はあったからイルカなりに大いに反省した。だからそろそろカカシに会わせてくれと、真面目な気持ちでイルカは日々見えないなにかに祈っていた。年末が近づきなんとなく人々の足が浮き立つ頃だが、イルカはひとりどんよりと浮かれた街に背を向けていた。
「会いたいなあ」
「誰に?」
 いきなり声を返されて、イルカは大袈裟なくらいに反応した。
 ぐりんと顔を向ければ、そこには、カカシがいた。
「ただいま、イルカさん」
 カカシは、あっさりとそこにいた。冗談みたいにイルカの前に立っていた。
「カカシ、さん?」
「は〜い。カカシです」
 イルカはゆらりと立ちあがる。立ちあがって、目線がほぼ同じ位置で交差することをわざわざ確かめた。
「任務で、ですか?」
 問いかけにカカシは首をかしげて笑う。
 カカシは、大人の姿になっていた。



 二十代後半くらいに見える。丸い頬の線は消えて、シャープな輪郭が完璧に輪郭を形作る。眠たげな青い瞳には憂いがあり、白い肌は陶磁のように滑らかそうだ。顔の下半分を隠し左目は額当てで見えていないが、それでも同性でも見とれるほどの美しさだ。現に、ソファに座っている忍たちもカカシのことをちらちらと気にしている。
「イルカさん、今晩行くね。俺今日はごちそう食べたいなあ」
 ひらひらと手を振ってカカシは去っていった。カカシのついていた任務は火影から直接与えられたものだ。受付所に提出する書類はない。わざわざイルカに会いに来てくれたのだ。
 そう思い至るとすとんとイスに腰を下ろして、かあっと頬が熱くなる。
 カカシのかっこよさに驚いたが、それ以上にカカシの気持ちは間違いなくイルカの元にあることがわかって、嬉しい。夜会えることを思うと自然ゆるんでくる頬。そんな心境の変化に自分で愕きながらもこんな自分は別に嫌ではないと思った。



 さんまと茄子づくしもいいかと思ったが、久しぶりの再会にそれもどうかと思い、結局スーパーの総菜売り場でいつもよりは高めのものを買いそろえ、なんとなく小さなケーキまで買ってしまった。浮かれているイルカを見かけた馴染みの店の者たちはいいことでもあったのかと訊いてきた。そんな言葉に大きく頷いたイルカは照れ笑いを浮かべて通り過ぎた。
 気持ちがふわふわとして心がぽかぽかで、歩みも軽やかだ。離れていた間のことをたくさん話したい。そして、きちんと気持ちを伝えたい。
 そんなことを考えつつ帰り着いた自宅のアパートの部屋の前に、すでにカカシは佇んでいた。
「カカシさん」
 階段を登ったところで思わず足を止める。
 大人の姿のままのカカシはイルカをみとめて、頭を下げた。
「おかえりなさいイルカさん」
「あ、はい。ただいまです」
 そう言った後でイルカはカカシにきちんとおかえりなさいを言っていなかったことに思い至る。慌ててカカシに近づくと、ドアを開ける前にまず大きな声で告げた。
「おかえりなさいカカシさん。任務、ご苦労さまでした」
 生真面目に告げれば、カカシはかすかに目を見開いた後で口もとでふっと笑い、
「ただいま帰りました」
 と律儀にこたえた。
 妙に大人びた対応に、姿が大人の時は自然と大人びるものなのだなあと感心した。
「入っていてくれてもよかったんですよ」
 と言いつつ家の中の整理整頓にいまいち自信がない。適当に雑誌や脱ぎ捨てていた服をよけて暖房をつけて、とにかくカカシを導き入れた。お邪魔しますと言って部屋に入ってきたカカシは、代わり映えのない部屋の中を見回してほうっと息を吐き出した。
「イルカさんの匂いがする。嬉しいな。やっと里に戻ってきたって思えます」
 そう言ってイルカのことを見つめる穏やかな瞳と端正な顔。じっと見つめられて、変なふうに心臓が高ぶる。顔が熱くなる。おっさんのくせにときめいているなんて、と己に突っ込みを入れて、イルカは恥ずかしさからくるりと背を向けた。
「適当に、テレビでも見ててください! あ、風呂つかってもいいですよ。俺、飯の準備しますから!」
「ありがとう。お風呂は入ってきたから大丈夫です。俺も手伝いますよ」
 そう言ってカカシはイルかの背後に忍び寄る。久しぶりに身近で感じるカカシの気配にイルカは飛び上がりそうになる。
「いいですいいです。カカシさんは座っていてください。お疲れなんですからっ」
 あからさまな動揺を表すイルカにカカシはくすりと小さく笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えて待ってますね」
 これで少しは一息つけるとほっとしたその瞬間、背後にいたはずのカカシが何故か前にいて、そして、唇に柔らかく温かなものが触れて、かわいらしい音をたてて離れた。
 少し上の角度からの、キス。キス、された。
「ただいまーのちゅうです」
 えへへ、とかわいらしく笑うカカシはしかし今は大人の姿で、大人のスマートさと子供の無邪気なかわいらしさの絶妙なバランスが、イルカの脳天を直撃する。
 あわあわと声にならずに口を動かして、だらだらと汗をかいて、もうたまらずにカカシを突き飛ばした。
「ととと、とにかく! あっち、いってろ! ばか!」
 ばかはないだろうと思ったが、カカシは気にしたふうもなく、楽しそうな顔を見せる。
「よかった。やっとイルカさんらしい反応みれた」
 そう言われて、確かに自分らしくなかったとイルカは思う。今までだったらカカシに破廉恥なことをしかけられたら、照れはあったが、それ以上に叱りとばすことが多かったはずだ。
 なのに、なんということだろう。カカシに惚れてしまった、らしい、という今、カカシの行動に振り回されているではないか。再会して、まだたいした時間も経っていないというのに。
 恋というのは、惚れるというのは、奥深い。火照った頬をさすりながらイルカは苦く笑った。



 出来合いの総菜と炊いた白飯に茄子のみそ汁と、おかえりなさいの豪勢な食事とはいえないがカカシは嬉しそうに食べて、久しぶりに使う己の食器を愛しそうに撫でた。
 任務でのことは訊くことができないから、自然とイルカの生活のほうの話になり、カカシがいない間のなんてことはない些末な日常の出来事やナルトたちのことを語ったが、カカシはそれを飽きるでもなく満足げに聞いていた。任務に行く前のあの夜のことに触れるべきか否か迷うところではあったが、今更謝るにはタイミングを逃しているし、なにに対して謝るかというとこれもまたよくわからない。屈託のないカカシに、まあいいいかと思う。
 本当にカカシに惚れてしまったという事実は口にするのは恥ずかしい。徐々に態度で表せばいいのだから。
 結構いい時間になったがカカシは帰宅する意志を示さない。もしかすると泊まる気なのかもしれないが、ただ眠るだけで済むのだろうかという懸念がある。なんと言ってもカカシは猪突猛進。それに普通の恋人同士なら久しぶりの再会で夜に何もしないなんて、多分、おそらく、十中八九、ありえないだろう……。
 だがイルカは、とにかく恋に対してステップアップが好きなのだ。いや、人生全般、もちろん子供たちへの教育もそうだが、きちんと段階を踏んでいくことが大事だと思うし、それがイルカのポリシーなのだ。一足飛びに進める子もいるがそうじゃない子もいる。そこに個人差が生まれることは仕方ないとしても、目の前のことをひとつひとつ確実にこなしたいと思う。
 しかし、だ。カカシとお付き合いを始めてかなりの月日が経った。そろそろ次の段階にとカカシが思っても当然だ。以前マラソンにたとえたが、今の状態は給水所でいつまでもうだうだと休んでいるようなものではないか。カカシにそんなまるめこまれかたをしたら己が言ったことの手前、次に進むしかない。
 うおおおおと一人で苦悩して頭を抱えるイルカのことを向かい側で頬杖ついたカカシが不思議そうに見ていた。
 イルカはわざとらしく咳払いをしてそこでそういえばとカカシに訊いた。
「いつまで大人の状態のままなんです」
「ずっと」
 カカシはにこやかに応える。
「はあ、ずっとですか……ってずっと?」
 イルカの声はひっくり返った。
「ずっとって、この先ずっとってことですか? 任務先でなにがあったんです? 俺なんかじゃ役にたたないし俺なんかに話していいことではないのはわかってますけど、すぐに火影さまに相談したほうが……」
「落ち着いてよイルカさん」
 立ちあがらんばかりのイルカをカカシは制す。心配顔のイルカに、カカシはうつむき加減で話し出した。
「任務に経つ前の夜のこと、覚えているよね」
 流してしまおうと思っていた話題に触れられて、イルカはぴくりと反応する。
「そりゃあ、もちろん。あの夜は、その、なんといいますか」
「俺、任務の間に考えたんです。このままじゃ駄目だって。このままじゃ俺とイルカさん、駄目になっちゃうって」
 カカシの低い声にどきりとなる。
「あの夜のこと思い返してみたら、イルカさんが年の差のことを気にするのが少しわかったんです。20も差があったら、話が合わないことだってありますよね……」
 カカシはしんみりと言ってくれるが、やっとわかったのかとカカシのマイペースなところに感心してしまう。
「イルカさん聞いてる?」
「聞いてますよもちろん。駄目ってなにが駄目なんです? 俺、カカシさんと別れる気ないですよ?」
「俺だってそんな気はさらさらないよ。イルカさんのこと愛しちゃってるんだから。ぞっこんだもん」
「ぞっこん……」
 なんとも古めかしというか懐かしいようなもの言いにイルカは乾いた笑いを漏らす。カカシは身を乗り出してイルカの手をぐっと握りしめた。整いすぎた顔が間近に迫り、イルカは条件反射のようにどきりとしてしまう。カカシは目を逸らすイルカの手を握る手にさらに力をこめる。
「イルカさん、ずっとどきどきしてるよね。大人になった俺の顔、好き? 好きだよね」
 たたみかけるように言われてイルカの脳はさらに沸騰する。少年のカカシはもちろん美少年と言っていいたぐいのものだが、いちいち顔を見て緊張するようなことはなかった。それは多分子供特有の無邪気さと小さな体が自分よりも下の存在であると思えたからだろう。
「俺、俺が知らないこと、勉強するよ。任務先でもね、イルカさんと同じくらいの年の人に、昔のことたくさん聞いたんだ。すぐにイルカさんに年の差なんて感じさせないようにするから。でも、見た目が子供のままだときっとイルカさんはいつまで経っても年の差を考えちゃうと思うんだ。だから俺イルカさんの前では大人のままでいることに決めた」
 まくしたてられて、カカシが言っていることの意味がきちんと脳に到達するのに少し時間を要した。
「なんだってええ!」
 イルカの動揺を意に介さずにカカシは上気させた頬で頷いた。
「大人同士の姿でいたらそのうちにいろんな溝が埋まるよ。だから俺、イルカさんの前ではこのままでいるから」
 宣言されたイルカはカカシの手をもぎはなした。
「そんなの駄目だ。カカシさんは今はまだ子供なんだから、大人の姿でいることなんかない」
 イルカの剣幕に驚いたカカシだったが、すぐに穏やかな笑顔をみせた。
「駄目でもなんでも、大人の姿のままでいる。だってそのほうがイルカさんも俺のこと対等にみてくれるでしょ」
「対等に見てますよ。付き合ってるんだし」
「見てないよ。子供扱いしてる。でも仕方ないよね。俺の姿が子供のままだとイルカさんはどうしたって子供扱いしちゃうよね」
「それは……」
 確かに子供扱いをしているかもしれないが、必要以上に子供扱いはしていないはずだ。なんといっても精神年齢が低いイルカよりも大人びているところがカカシにはあるのだし。
「とにかく、このままでいますからね」
 強気で言い切られて、イルカのどこかがぶちっと切れた。
「じゃあカカシさんだって俺のこと大人扱いしないでくださいよ。俺はねえ、確かにカカシさんからみたら三十五のおっさんだけどねえ、中身はまだまだ十代かもしれないってくらい成熟してないんですよ。周りの友人から太鼓判押されるくらいの精神年齢の低さなんですから。カカシさんは俺が大人だと思っていろいろ期待している部分あるみたいですけど、ざーんねんでした! こちとら体ばっか成長してるけど、まだまだ心はナウなヤングなんだっつーの!」
 大いばりで言うと情けなさがひとしお染みこむが、叫ばずにはいられなかった。そして、口にしてしまうと気持ちに拍車がかかる。
 そうなのだ。生きているからどうしたって体は成長する、大人と言われる存在になって、仕事をもって、生きていく。だが体の成長と心の成長はリンクするわけではない。なのに姿が大人であることで許されないこと、型にはめられてしまうことがたくさんあって、正直イルカは時にジレンマを感じることがある。体とともに気持ちも大人にならなければ駄目なような空気にさらされて不条理な気持ちになることもある。
 成長とともに人は大人にならなければならない。それはもちろん正しいのだろう。大人になっていいことだってある。だが、それでも、叫びたい時だとてあるのだ。
 カカシと付き合って、大人になってしまったという仕方のないことを心のどこかで嘆いている自分がいることを知った。
 だからカカシに無理して大人になんてなってほしくない。きちんと段階を踏んで成長してほしい。
「言っておきますけど、いくら大人の姿でいようが、今までと何も変わりませんよ? 子供扱いしますよ?」
ムキになるイルカに触発されてカカシもむっとなる。無言のまま卓袱台を横によけると、イルカに近づき、次の瞬間イルカはカカシに抱き込まれていた。
「ちょっと、なにするんですか! 離せ!」
「引きはがせばいいでしょうが。子供扱いするってんならできるよね。15の俺のことは簡単にひっぺがしてたんだから」
「簡単じゃない! あんた上忍だし細いくせに馬鹿力だろうが」
 大人の姿のカカシはイルカよりも若干ガタイがいい。そして上忍の身体能力。その力でぎゅうっと抱きしめられれば骨もきしみそうなくらいだ。あまやかな空気など微塵もない格闘技のような絞め技と化す。
「いてっ。苦しいから離せって言ってんだろうが!」
「やだよーだ。ああーイルカさんの匂いだー」
 胸をつっぱねてもびくともしない。カカシはイルカの髪に顔をすりつけてふんふんと鼻を鳴らしている。
 やっぱり中身はそのままじゃねえか!
 かっとなったイルカは、カカシの胸の前で印を結んでいた。まさに火事場の馬鹿力とでもいうようなものだった。
 ぼふんとあがる煙。カカシの腕の中で、イルカの姿は少年のものになっていた。



「あんたがそういう気なら俺は子供の姿でいますよ。それでいいですね!」
 ぜえぜえと体中で息をする。のけぞったカカシは唖然として見つめていたが、不機嫌ですとわかりやすく顔をしかめた。
「俺が大人になってイルカさんが子供になったんじゃあ意味ない。意味ないですよ」
 動揺するカカシにイルカは言い返した。
「意味あります。そうですよ、カカシさんが大人の気持ちに近づきたいなら俺は子供の頃の気持ちを思い出しますよ。そうすれば対等ってことになりますよね。いい方法じゃないですか」
「やだよそんなの」
「なんでやなんですか」
「なんでって……」
「子供の姿の俺は嫌なんですか? おっさんの俺が好きだってことですか。俺は俺ですけど」
「そうだけど、でも」
 カカシはむうと黙り込む。意外と頑固なカカシが簡単に引くとは思えない。だがイルカとて引くつもりはない。 こうして、不毛な我慢比べに突入した。






R。。。21