少年上忍中年中忍 第二部 A





 なぜカカシに告げることができないのだろう。
 のど元を圧迫するほどにこみ上げてくるもの―別れの言葉―を無理矢理飲み下してしまう理由はなんだというのか。
 休日の午後。たまっていた家事仕事をひととおり済ませて適当に昼食をとった後、ごろりと自宅の畳の上に横になってぼうっと考えてみた。
 カカシはしょっちゅうイルカの元を訪れるからいくらでもチャンスはある。だがカカシを前にして、いざ言おうとなるとなぜか口が重くなる。何が大人の貫禄だ、と思いつつも別れましょうの一言がでてこない。
 カカシ先生、と声をかけ、無邪気にはいと振り向かれると、なぜか口を閉ざしてしまう。
 じっと見つめて、見つめ返されて、そしてふっと力を抜いて笑うと、カカシが明らかに安堵する。多分カカシにも自覚があると思うが、最近の互いの間にはなんともいえない緊張感がある。
 独特な間で、カカシは何をはかっているのだろう。自分からイルカに言うべきかどうか迷っているのだろうか。
 なかったことにしてください、と……。
 はあとイルカはため息を落としていた。途端に、くそっと腹立たしい気持ちにもなる。
 それは多分、カカシに別れを切り出されることが腑に落ちないからだ。
 そう、腑に落ちない。あれだけ猛烈にアタックを繰り返していたのに、付き合いだした途端興味をなくすなど、キャッチアンドリリースというやつか? とは言っても関係はなにも進歩していない。それなのにカカシはもう満足したということなのか? 釣ればそれでよかったのか? 全くもって腑に落ちない。けれどなぜ腑に落ちないのかはわからない。体の中がもやもやする。思考の迷路のはいりこむ。
 イルカはむくりと起きあがると、ぱんと両の頬を叩く。
 不毛だ。こんな不毛な関係はさっさと幕を引いてしまうのがいい。だいたい無限の未来の可能性が輝かしいヤングなカカシと違ってイルカはおっさんなのだ。おっさんだが完全なおっさんではない微妙なおっさん年齢だ。だからこそ無駄に過ごしている時間はない。平穏無事が一番だと思うが、これでいいのかと思うこともある。おっさんのイルカにはある程度時間が限られているのだからこんなところでもたもたしている場合ではないのだ。
 よし。次の機会こそ、とイルカは何度目かになる決意に拳をぐっと握りしめた。



 しかし、不毛だ、腑に落ちないと言いつつカカシの前では腰が引けるという現状に、イルカなりに考えた。こんな時は他者からのアドバイスを貰うに限ると。
 残業が終わったあとに同僚のタギに声をかけた。カカシに付きまとわれていた頃から話を聞いてもらっていた。イルカと同い年だが見た目若くてスマートで、いつだって彼女が途切れない独身を謳歌しているタギならばと、白羽の矢をたてた。
 本当は一杯ひっかけたいところだが明日の一限目にある高学年の演習は結構きつい。ある程度の年になると無理は禁物なのだ。
 馴染みの定食屋でイルカは焼き魚定食、タギはカツ丼にミニうどんがついている定食を頼んだ。
 まあ一杯くらいならとジョッキを頼んで舌の滑りをよくする。唇をひと舐めして、イルカは吐き出すようにことの経緯を話しだした。
 カカシと結局付き合うことになったことはアカデミーの教員仲間は皆知っている。カカシは教員達に受けがいいから温かく見守ってくれているような感じだ。
 カカシはつきあい始めた途端によそよそしくなった。こんな事例、あんな事例と具体例を並べて、結局はカカシはイルカとの付き合いをやめたいのだという結論に達したことを告げた。
「なんつーかさ、キャッチアンドリリースってやつだろ。今時の若い奴はそういうもんなのか?」
 ほぐした魚をつつきながらおっさんくさい決めぜりふを口にしてしまったが、それしか思いつかないのだから仕方ない。それにどうせおっさんなのだから。
 どうしても愚痴っぽくなってくるイルカの言葉を適度な相づちを打ちつつふんふんと聞いていたタギだが、ごくりと生を飲み干して、いきなり言った。
「アホかお前は」
「アホ!? 俺のなにがアホなんだ」
 思いがけないことを言われてイルカはむっとなる。こんなに真剣にカカシのことを考えて悩んでいるというのに。
 だがタギはまあ落ち着けと勝手に生のおかわりを二つ注文してから腕を組んでイルカのことを真っ直ぐに見据えた。
「カカシ少年、照れてるんだろ。それだけだろうが」
 あっさりと結論づけられて、イルカはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「照れてる? なんでだ? 意味わからん」
「前に言ってただろうが。カカシ先生は照れ屋だって」
「それは本当に最初の頃だけだ。本性現してからはただの破廉恥な子供上忍となりはてた!」
「なりはてたって、お前な……」
 タギはこめかみのあたりととんとんと叩いて、ちょうど運ばれてきたビールの泡をくいっと飲む。
「相手は上忍って言っても子供なんだから、もうちょっと優しくしてやれよ」
 なにやらイルカ一人が悪者のような言葉にイルカは口を尖らせて生のおかわりを一気に半分ほど飲み干した。相談するために誘ったというのに、これではお説教をしてもらうために誘ったようなものだ。飯がまずくなる。
 イルカの気持ちを察したのか、タギは苦笑しつつも話の矛先を変えてきた。
「なあイルカ。お前に彼女がいたのって何年前だよ」
 いきなりの質問だ。
 しかし問われてもすぐに年数が出てこない。最近似たような会話を交わしたような気がするが。ついでに、今のところの生涯のお付き合いしていた女性をカウントすると五本の指で足りてしまう。
 素直に思い出そうとして宙を睨むイルカのことをタギは止めた。
「だからさ、自慢するつもりじゃねえけど、俺はイルカと違って経験豊富なわけだ。イルカよりは絶対に男女の心の機微とやらがわかる。まあカカシ少年は男だけどな。けど恋する者の心理は男女関係なく似たようなものだ」
 やっぱり自慢じゃねえか、と思ったが口にださずにおく。その代わりに別のことを聞いた。
「それなら聞くけどな、俺とカカシ先生は付き合ってる。なのになんで今更照れる必要があるんだよ。だいたい付き合う前は恥じらいのかけらもなかった。照れるなんて、カカシ先生の辞書にそんな言葉はない」
 イルカが少し尖らせた声で断言すれば、タギは飲もうとしていた生のジョッキを口もとでそのまま止めた。
「人が心配して駆けつけても逃げて、近づいてくるくせによそよそしいってなんだよそりゃあ。人のことをもてあそんでるのかよ」
「イルカ」
 タギはジョッキをテーブルに置いて、がくりと肩を落とした。
「はたけ上忍がかわいそうになってきた」
 さすがにそこまで言われてイルカも我慢できなかった。
「なんだよそれは。俺のほうがよっぽどかわいそうだろうが。20も下の子供つ付き合ったあげく馬鹿にされて」
「別に馬鹿にされてないだろ」
 タギはあくまでもカカシの味方をする。イルカは手にしていたジョッキをおもむろにテーブルに置いた。
「馬鹿にしてるだろうが。もしこのまま別れてみろ。俺一人馬鹿みたいっていうよりただの馬鹿だろうが」
「面倒な奴だなあ。そんなにカカシ上忍のことで苛ついてんならさっさと別れたほうがお前の心の平穏のためだぜ」
「別れるさ。そのつもりだよ。でも、それじゃあ俺が」
「なんだよ。別れるって言い出せないのはケチなプライドが邪魔してるってことかよ」
 辛辣なタギの声に、イルカはかあっと頭に血が上った。椅子を大きくならして思わず立ち上がる。周囲の客達が身を引く気配。店の者たちの視線が刺さる。
 熱くなるイルカをよそに、タギはしらけた様子でうどんをすすっている。
 かっとなったあとの脳裏はいきなりしんと冷えて、一瞬だがイルカの中で音が消える。
 のろのろと椅子に座りなおしたイルカの肩は落ちた。
 ケチなプライド、と言われてかっとなったが、確かにそういうことだとわかった。すとんと気持ちの底に落ちてきた。
 そうだ。それが、もやっとして形を成さなかったものの正体だ。
 だがイルカとて言い分がある。
 あんなにしつこく猛烈にアプローチを繰り返して付き合ってもいないにの破廉恥なことをしでかしてくれたくせに、釣った途端に飽きただなどと。それは人として許されることなのか、と。カカシの人となりをそれなりに認めていたから、なんとなく、寂しいのだ。カカシがそんな人間だったとしたら、残念なのだ。
 イルカの迷惑顧みず突き進んできたカカシだが、けれどそれは一生懸命の裏返しで、イルカのことを真っ直ぐに、馬鹿みたいに真っ直ぐに思ってくれていたことだと思ったから。
 子供の頃からいくさ場できつい任務にあたっていたカカシ。それでもひねたりせずに、心の芯はすがすがしいくらいに一本筋が通っている。たいして長くもない付き合いだが、そう、思うのだ。
 そうだ。それなら、カカシはいい加減な人間ではないはずだ。だとしたら、タギが言うようにカカシは……。
「本当に、照れているだけなのかな」
 呟いたイルカにタギは大きく頷いた。
「だからそうだって。さっきイルカはさ、付き合っているのに今更照れる必要ないって言ったけどな、それは違うだろ。そもそもお前ら付き合ったばかりなんだろうが。そりゃあ照れるって。きっとさ、付き合う前はとにかく突っ走ったけど、目標達成できたら、今度はどうしたらいいかわからなくなったんだって。思い出してみろよ。甘酸っぱーい気持ちってやつをさ」
 重く固くなりかけた空気をほぐすようにタギは笑いに紛らせてくれた。
 そうか、とイルカは己の短慮を内心反省する。
 甘酸っぱい気持ちなどすっかりしっかり忘れていた。
 と言うより思い出せないが。
 そんな時代が自分にあったのかと胸に手を当てて考えてみてもかちこちの胸は何も返してくれないが。
 だがそれでも掘り返してみる価値があるものなのかもしれない。そんなふうにイルカは思った。








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