少年上忍中年中忍 J 一部完





「俺ね、頑張ったんですよー。でも頭の固い上忍ばっかりで今回は無理でした。でも来年また頑張ります。それまでに根回しってやついっぱいしておきますから」
 なぜかカカシに頭を下げられた。
 ちょうど自治会の議会開催期間が終わった翌日、久しぶりに職員室にひょっこり現れたカカシは、ためにためてしまった答案用紙に鬼気迫る顔で向き合っていたイルカの横に神妙な顔で立ったのだ。
 生徒、ではないが子供とはきちんと顔を合わせて向き合わなければならない。そんな初歩的なことをカカシ相手だとうっかり忘れるイルカだが、さすがに職員室中から総スカンをくらえば懲りもする。赤ペンを置いてカカシに向き合ったのだ。
「アスマ先生から伺ってます。ご苦労さまでした」
 とりあえずねぎらえば、カカシは照れたのか頭をかいて頬を染める。
「いえ、そんな。俺こそ上忍のくせに知らないことが多くて、恥ずかしいです」
 別にイルカに謝る必要などこれっぽっちもないのだが、イルカは曖昧に頷いたのだ。
 カカシはそのままイルカの横で日常の出来事を事細かく語り出した。さすがにイルカが仕事でせっぱ詰まっていることはわかるのか、少しばかり適当な返事になってしまっても特に文句はなく好きなように話していた。
 ペンが紙を滑る音とカカシの穏やかな声が職員室に満ちる。いつの間にか二人だけが残されていた。
「ねえイルカ先生。俺も手伝いましょうか?」
 カカシは笑顔で申し出た。
「まるつけてあげればいいんですよね。それくらいなら俺がお手伝いしても問題ないですよね。ね?」
 カカシのなんともいえない健やかな笑顔を前にぼうっとしていると、カカシはさっさとイルカの手元から答案を抜き取り、皆が共同で使うテーブルのところで手際よく答案用紙をいくつかに分け始めた。
「ええと、全問正解と、一問間違いと、二問、三問、四問、あ、これ全部間違ってる」
 回答を全く見ずにカカシは分けてしまった。結構難しめの引っかけの問題もあるというのに。ちらりと確認しただけでも選別に間違いはなさそうだ。
「すごいですねカカシ先生。さすが上忍だ」
 イルカは素直に感心した。その気持ちをそのまま言葉にしただけなのだが、カカシは顔の前で大きく手を振った。
「そんなっ。やめてくださいよ〜。イルカ先生に褒められるなんて、俺照れちゃいますよ〜」
 と言いつつも得意げに胸をはったカカシはいそいそと採点を始める。
「俺、満点のやりますね、大きなまるつけてあげます」
「はあ。俺、ちょっと飲み物でも買ってきます」
「はーい」
 元気よく返事したカカシに送られて、イルカは廊下に出る。
 夕暮れのアカデミーはすでに人気が少なくて、昼間の子供たちの熱気が残り火のように沈静していた。
 いつの間にか新緑の季節は過ぎて、梅雨に向かって毎日がめまぐるしい天気の変わりようだ。ついさっきまで雨が降っていた。今は中庭の緑の葉がみずみずしく露を弾いていた。
 自動販売機の前でコーヒーとオレンジジュースを買いながらふうと息をつく。
 職員室は二人きりだ。イルカはらしくなく緊張していた。
 いくつになっても、己の心が一番手に負えない。ついこの間までカカシはまとわりつく子供で、正直疎ましく思うことのほうが多い存在だった。それがどうして今は二人きりでいると息苦しいような感覚を覚えるのだろう。
 うつむいて廊下の壁に寄りかかってイルカは腕を組む。
 きっかけはわかっている。カカシがイルカの為に上忍の自治会で無茶な提案をしたからだ。案の定カカシの提案は却下されたとアスマに前もって言われ「まあ、ちったあ優しくしてやれや」とあまりありがたくない言葉まで貰ったのだ。
 だがそこで、どうして俺がと思うよりも先に、カカシが落ち込んでなければいいがと気になった。
 己の心に自問する。
 俺、カカシ先生のこと、好きなのか?
 いや、もちろん嫌いじゃない。ああ見えてカカシは100%天然水でできているような純朴さもかもしだしている。
 突拍子もないことを言ったりしたり苛立たせることも多々あるカカシだが、イルカはとっくに忘れてしまった貴重な少年期の木訥さにも溢れている。
 15才にしてはとても素直で、真っ直ぐな気性。幼い頃からいくさ場にいたというのにこの真っ直ぐさは驚くべきことだ。
 そんなカカシに好きだとまとわりつかれ、そのことをいつの間にか受け入れて、そして。そして……。

 カカシの存在を、特別に……?

「アホか俺っ!」
 たまらず、叫んでしまった。
 ほだされている。そう思うといたたまれずに足音荒く歩き出す。いい年したおっさんが、15の子供に振り回されるなど、あっていいことではない。
 カカシのことは嫌いではない。だが、それだけだ。それだけのことだ。
「カカシ先生はオレンジジュースでよかったですか?」
 少しわざとらしい大きな声をかけて職員室に入る。
机にかぶさるようにしてカカシはもくもくと作業をしていた。ほとんど丸つけは終わってしまっただろうと思いながらイルカがのぞき込めば、カカシは、真剣な顔をして、大きな丸を答案用紙につけていた。
「カカシ先生、それ……」
「ちょっと待ってくださいね! これで、3枚目が終わりますので」
 ちらりとカカシの横を見れば、一問一問に丸と、答案用紙全体に大きくて形のきれいな花丸がついていた。
「はー。丸つけって難しいですね。きれいな丸を書くのがこんなに大変だったなんて初めて知りました。イルカ先生は先生だからきっと素敵な丸をつけるの得意なんですよね。すごいなあ」
 満面の笑顔のカカシにぽうっと目を奪われる。
 カカシの横のイスにイルカはすとんと腰掛けた。
「カカシ先生、以前に俺の家で言ったことなんですけど」
 以前に、と言った途端にカカシの顔が強ばる。いきなりずんと肩が落ちる。
「それって、あの時のことですよね? あれは、本当に……」
 暗くなった空気にイルカは慌てて手を振った。
「あの時のことはもう解決してます。気にしてません。そうじゃなくてですね、俺の、トラウマめいたこと言ったじゃないですか。覚えてます?」
「トラウマ?」
「ああいうことがあって、任務期間中のことはほとんど覚えていないって言いましたよね」
 こくりとカカシは頷く。
「だから、俺カカシ先生のこと思い出せないと思います」
「うん」
 あれ? とイルカは肩すかしをくらった気分だ。
 カカシは真っ直ぐな目でイルカを見ている。そこに浮かぶ特別な感情が何もなく、イルカは次にどう言葉をつなげればいいのかと考える。
「えーと、だからですね、俺はカカシ先生のこと、まったく思い出せないから」
 なぜかいたたまれない気持ちのままで伝えれば、カカシは小さく吹きだした。
「なんだイルカ先生。そんなこと気にしてたの?」
 楽しげに笑うカカシに屈託はなく、ますますイルカはわからなくなる。
「あの、俺、カカシ先生と出会った時のこと思い出せないんですよ? いいんですか?」
「そんなこと今更いいですよ。だって俺イルカ先生と再会して、昔よりもーっとイルカ先生のこと大好きになりました。過去のことなんて振り返っている場合じゃないですよ。それに」
 カカシはもじもじして、ちらりとイルカを伺うと、かわいらしく笑った。
「それに、イルカ先生も思い出せないことなら、あの思い出は俺だけの宝物みたいな記憶になります。そう考えたら、それはそれでちょっと嬉しいかなあって思います」
 カカシの心情に、イルカはがあっと腹からこみ上げるものに顔を心なし赤くして慌てて口元をおさえた。
「でも、そしたら、ますます俺なんかやめた方がいいと思いますけど」
「どうしてですか?」
「どうしてって、それは、20も上だし、冴えないおっさん中忍だし……」
 まっすぐな目に気圧されて、イルカは口を尖らせて小さな声を漏らす。なぜか追いつめられているような気分になる。それに、こんないいわけめいたことを並べ立てて、これではまるで自己防衛のために、傷つかないようにと自分をガードしているようではないか。
 そんなイルカの気持ちを知ってか知らずか、カカシはふっと大人びた笑みを口元に刻んだ。
「イルカ先生は、確かに俺と比べたらおじさんだけど、でも冴えないとか、そんなことはないです。イルカ先生は素敵な人だと思います。俺は、イルカ先生のこと、大好きです」
 カカシの目は、真っ直ぐ、とても真剣に、イルカのことを、射抜いた。
「つきあってみましょうか」
 するりと、口から漏れていた。
 目の前のカカシが、ぴきんと固まる。固まったまま、え? と小首をかしげる。
「イルカ先生、今、なんて言いました?」
「はあ。お付き合いしませんかと言いましたが」
 がたんと大きな音をたてて、カカシが立ち上がった。これが上忍か、と思わせる鋭いチャクラを立ち上らせ、いつもは下がり気味の目をつり上げて、睨み付けてくる。
 その姿に目を奪われたまま、イルカはぐっと拳を握りしめる。もしかして今更ってことなのか? 意識せぬままに口をついてしまったが、失敗したか、と思ったあたりで、いきなりカカシがぼろぼろと泣き出した。
 うわーと内心焦りつつもイルカはひきつった笑顔をなんとかとりつくろった。
「あの、カカシ先生。ごめんなさい。そんな、泣くほど不快でしたか? 前言撤回しますから……」
「撤回しちゃやだー!」
 叫んで、カカシは体をぶつけるようにイルカに抱きついてきた。
「違うんです! 俺、嬉しくて!」
 そのまま、おーいおーいと泣き出すカカシにイルカは言いしれぬ感動を覚えた。
 なぜ、こんな冴えないアカデミー教師に付き合おうと言われて、ここまで感動できるのだろう。
 カカシの精神構造はまったく理解不能でちょっぴりおかしいと思うが、それでも、イルカはカカシの背にそっと手を回して、震える背を撫でてやる。
 イルカとしてはカカシとの過去を思い出せないと言えば、それでカカシは落胆して、そのうちにイルカのことなんかどうでもよくなるとふんでいたのだ。
 めっきり恋愛などしていなかったから相手がどのような反応を返すかわからなくなっているようだ。これが精神の老化なのだろうかと忸怩たる思いもある。
 イルカは人生の結構早い段階で己の才を見極めた。世界の中心にならざるを得ない人間がいるのだから、世界の端で、中心を遠くから見守る場所に立たされる人間もいる。自分がその位置のしかもかなり目立たない場所に立つ人間だということはわかった。だからこそ平穏無事な人生を歩むのだと思っていた。それが悪いとは思わない。いや、それこそがイルカが求める人生だったのだ。
 そのはずなのだが。
 いつからか気づけばカカシのことを考える時が増えていった。
 そのことの意味を深く考えないようにしていたが、観念する時なのかもしれない。
 そんなこんなでイルカは意を決した。もうあまり深く考えずに突っ走ったほうがいいのだと己を鼓舞する。
「まあ、とりあえず、友達からってのも変ですが、そんな感じで、お願いしますね」
 泣き続けるカカシは必死になって頷いていた。



 ふと気づけば外が暗くなっている。
 部屋には灯りがついていたから結構な時間になってしまっていたことに気づけなかった。
「カカシ先生。そろそろ帰りましょう。おなかすいてませんか? 一楽寄りましょうよ」
 カカシの目元は涙のせいで少しばかりはれてしまっていた。そっと撫でてやれば、カカシは頬を赤く染めた。
「あの、俺、一楽じゃなくて、他に行きたいところがあるんです」
「いいですよ。でもあまり高いところはやめてくださいよ。給料前なんで」
 イルカが苦笑しつつも頷けば、カカシの表情がぱあっと輝いた。
「そんなに高くないです。ちょっと、じゃないけど、休憩するだけだから。俺もだしますし」
「休憩?」
「うん。あとね、最近は漫画とかマッサージチェアとかあるらしいですし、いろんな種類の部屋があって、その中から選べるんですよ。ごはんも一流シェフなみのものを注文できるって。お風呂はジャグジーとかついてて温泉になってて、二人ではいるのにも十分な広さで、一日いても楽しめるって、上忍仲間が言ってました!」
 きらきらと輝くカカシの目。
 両手を握りあわせて指を組んで、夢見るように、遠くを見つめている。相対するイルカは顔を引きつらせて、げんなりと肩が落ちた。
「カカシ先生……」
「俺、俺、イルカ先生とお付き合いできたら絶対そこに行くんだって決めてたんです!」
 きゃーっと興奮するカカシの柔らかな頬を、両手でむにゅりと掴んだ。
 カカシの緊張を緩和するようににっと笑ってから、くわっと牙をだした。
「そんなとこ行くわけねえだろうがー!」


 先が思いやられる行先不明の道。
 そんな場所に足を踏み入れてしまったイルカだった。









おしまい