れぷりかんと   8    







 まずは門前払いをくらわされるだろうと覚悟していた。だからいらえはないままに戸が開いた時、カカシは思わず背筋を伸ばしていた。
 玄関先に立ったイルカの剣呑な顔。だがカカシのことを真っ直ぐに見てくれるなど久しぶりのことだ。睨み付けられているのだが、それでも今のカカシにとっては嬉しいことだった。
「あ、あの、イルカ先生。お、お話が、あって」
 言葉がなめらかにでこない。馬鹿みたいにどもってしまう。喉はからからだ。
 イルカはカカシのことを睨み付けたまま口を一文字に引き結んでいる。カカシは己の緊張をほぐすために強ばりつつも笑ってみせた。その途端イルカはあからさまに嫌悪感まるだしで表情を歪ませる。
 イルカの柔らかな優しい表情を知っているだけにそれはこたえた。そのまま身を翻したくなる衝動に足が動きそうになる。そんな臆病なカカシにため息を落としたイルカは不意に背を向ける。
「あの、イルカ先生」
 思わず伸ばす手。イルカの肩に触れそうになったところでイルカは振り向いた。
「俺も、話があります。どうぞあがってください。酒はいりません。帰る時に持ち帰ってください」
 つんけんとしたもの言いだが、とりあえずはあがることを許可してもらえた。カカシは全身が脱力するくらいの安堵に息を吐き出していた。俯いたままで、きゅっと一度目を瞑る。
 失敗は許されない。ここでイルカとの仲を修正しなければきっともう元には戻れない。そんなことになったら自分がどうなってしまうかわからない。
 握る拳に決意をこめて、カカシはイルカの家の戸を閉めた。



 通されたのは見知った居間。部屋の真ん中、変わらぬ位置に卓袱台が置かれ、イルカ愛用の大ぶりの湯飲みと、アカデミーの資料と思われる書類が載っていた。書類を適当にまとめて畳に置いたイルカはきちっと正座してカカシを待ちかまえる。少し喉を潤したい気持ちがあったが今のイルカが茶をだすわけもなく、カカシは大人しく向かい側に座った。
 ただ心の底から謝りたいだけなのだが、どうきりだせばいいものか迷う。土下座でもしたほうがいいだろうかとちらりと傍らの畳に目を向ける。
「カカシ先生」
 いきなり固い声で名を呼ばれてカカシは情けないことに体を震わせた。心の中でいちにいさんと数えてから覚悟して顔をあげれば、イルカは、初めて見るような顔をしていた。
 実際、こんなに険しい顔をして親の敵のようにしてカカシを見るイルカなど知らない。
 憎しみと言っていいような目で見られることは辛い。悲しい。だが、そう思う心の片隅では安堵している自分もいる。無視よりはずっといいではないかと。
「ごめんなさいイルカ先生」
 するりと言葉はでていた。頭も下げる。そしてイルカから目を逸らしては駄目だとすぐにまた顔を上げる。じっとイルカに視線を定めた。
「なにが“ごめんなさい”なんですか。何に対してあなたは謝るんですか」
「イルカ先生を傷つけたことです」
「傷つけた? カカシ先生は俺が傷つくようなことをしたんですか?」
 挑むようにたたみかけるようにイルカは言葉を継ぐ。
 それがイルカの深い怒りを表していた。
「ふしだらとか、最低とか、軽蔑するとか……言いました」
 冷静になって繰り返す言葉のなんと痛いことか。こんな、言う方もいとわしくなるような言葉を勢いとはいえよくもイルカに投げつけたものだ。
 そう思うと自然と猛省する気持ちが沸く。
「イルカ先生のことだから、なにか事情があるはずなのに、俺かーっとなってひどいこと言いました。言ってしまったことはもう戻せないけど、でも、謝らせてください」
 両の拳で膝を掴む。痛いくらいの力で。イルカは口の端をあげて酷薄そうな顔を作った。
「ねえカカシ先生。なにをうぬぼれてるんです」
 イルカは卓袱台に片肘をついて首の辺りをささえながらすくいあげるようにしてカカシのことを見た。
「俺はあなたの言葉に傷ついてなんていませんよ。ただ呆れただけです」
 イルカは楽しそうに笑った。
「ふしだらってなんですか。すごいこと言いましたよね。なに言われたのかわからなくて驚きましたよ。まさかそんな言葉を言われる日が来るなんて夢にも思ったことありません。よくもそんな言葉を人に言えたものですね」
「……」
「カカシ先生は俺の何をもってそんなこと言えるんです。俺の何を知ってるっていうんです」
「ごめんなさい」
「おもちゃを使って慰めてたとか言ってましたよね。なんですかそれ。カカシ先生こそ普段そういうことしてるんじゃないですか? だからすぐにそういう発想になったんじゃないですか?」
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
 徐々にカカシは項垂れる。イルカの言葉が胸に突き刺さるのはもちろんだが、こんなにもイルカを怒らせた自分が嫌で嫌で仕方ない。なんて迂闊なことを言ってしまったのだろう。イルカは、深く傷ついているではないか。
 カカシのことをぐっと力を込めて見据える目の奥が悲しい。今にも崩れそうなくらいで、黒い目には水の膜が張っている。
 たまらずカカシは畳に額をこすりつけた。
「お願いです。許してください。俺、俺馬鹿でした。考えなしでした。イルカ先生のことすごく傷つけたって思います。反省してます。だからお願いだから許してください。俺、俺は、イルカ先生にそばにいて欲しいんです。イルカ先生のこと、すごく好きなんです」
「あなたの言葉に傷ついてなんていないって言ったでしょう。馬鹿ですか、上忍のくせに」
「お願いイルカ先生!」
「うるさいっ。黙れっ」
 最後は互いが叫んでいた。イルカはしんとなる空気に耐えられないのか怒りをぶつけるように卓袱台を叩く。拳で打たれた卓袱台は揺れて、載っていた湯飲みが畳に転がる。水を零しながら転がって、窓際でガラスに当たって、止まる。かつんと聞こえた音が耳の奥にすとんと落ちた。
 イルカの息づかいが落ち着いた頃に顔を上げれば、イルカは表情の落ちた白い顔をして、カカシのことを見ていた。
「イルカ先生」
「なんで、言い返さないんです」
「なんでって……」
「俺、カカシ先生のこと口汚く罵りましたよ。そこまで言われる筋合いはないってくらいのこと言いましたよ。なのに、どうして黙ったままなんです。謝ってばかりなんです」
「それは」
 イルカは泣きたいのを必死で堪えるような子供のような顔をしていた。
 そっとイルカに近づいて、卓袱台に置かれた手に手を重ねる。びくりと一瞬揺れたイルカだが、それでも振り払ったりはしなかった。そのことに安堵してカカシは少し力をこめた。
「だって俺がイルカ先生を傷つけたんだから、イルカ先生はなにを言ったっていいんですよ。イルカ先生の気が済むまで、なんでも言ってください」
 カカシが笑いかければ、少しの間イルカはなにも言わずにカカシのことをじっと見ていた。
 頼りなげな表情のイルカが無防備で、抱きしめて慰めたい気持ちになる。
 ふっと息を漏らしたイルカはカカシの手をさりげなくどかして横を向いた。なにか、思考している空気が伝わってくる。どんなこたえをだすのか、カカシは固唾をのんでイルカを見守った。
「もし……」
 ふっとイルカは疲れたように嘆息した。
「もしカカシ先生が一言でも言い返してきたりまたひどいこと言ったら絶対に許さないって決めてました」
 ひどいこと、と言われてカカシは慌てて身を乗り出す。
「俺、ホント、ごめん。ごめんねイルカ先生」
「もう、いいです。いいんですカカシ先生」
「よくないよ。まだ気が済まないでしょ。もっといくらでも言ってよ、なんでもいいから。ねえ」
 必死になって訴えかければ、横を向いていたイルカがゆるゆると首を振る。
「イルカ先生?」
 顔をのぞき込めば、その顔は笑っていた。
「まったく、カカシ先生には負けますよ」
 さばさばと口にしたイルカは湯飲みを拾うと台所に行ってしまう。何をしているのかといたたまれない気持ちで待っていれば、布巾とお盆に乗せた茶器を運んできた。畳を拭いてから、カカシと自分にお茶を入れた。
「どうぞ」
 その湯飲みは、イルカの家にお邪魔した時にカカシ用にいつも出してくれるものだった。
「イルカ先生……」
 イルカは許すと言ったわけではない。だが手ずから茶を淹れてくれたことにカカシの顔には笑顔が広がる。
「ありがと。イルカ先生」
 めちゃくちゃに、嬉しかった。
 一気に熱いお茶を口に含んでむせてしまったがそれでもカカシは嬉しかった。
「カカシ先生。俺も話があるって言いましたよね」
「あ、はい。なんですか? なんでも言ってください。あ、でも、これ以上付き合えないって言うのは、勘弁してください」
 ついついぽろりと正直なところが口をつく。イルカは小さく笑った。
「さっき言ったようにカカシ先生が俺に言い返したらなにも言わずにたたき出してこれからは一切口をきかないって思ってました。でも、カカシ先生は黙って俺の言うことを聞いてくれた。だから、俺も洗いざらい話します」
 湯飲みをとんと置いたイルカは正座からあぐらになると腕を組んでしばし俯く。一度顔を上げ、なにか言いかけて、口をつぐむ。ふいと顔を逸らしてから、決意したのかカカシに顔を向けるとひとつ頷いてみせた。
「カカシ先生」
 決意のこもるイルカの声にカカシもぐっと顎を引いた。

 

 

 

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