れぷりかんと   7    







 間違ってしまったと思ったから謝ろうと翌日アカデミーを尋ねたカカシを、イルカはその目に映してくれなかった。職員室の入り口に立った時、ちょうど顔を上げたイルカと確かに目が合ったのに、イルカはカカシに視線を定めずに目を逸らしたのだ。
 そのまま部屋に入る勇気はでなかった。俯いて背を向けた。どうすればと考えるそばから思考はぐちゃぐちゃになってきちんとした考えにまとまらない。ただわかるのは、このまま放っておいてもなにも解決しないということ。
 だからカカシは数日後に任務の報告書を持っていった時には決意を持ってイルカの列に並んだ。
 心臓がへんなふうに高鳴って、喉はからからに渇いた。
 長い時間待ったような気もするし、あっという間だったような気もした。カカシの番が来た時に「お疲れ様です」と言ってイルカは笑った。だからカカシは肩の力が抜けてへにゃりと目尻が下がったが、そのまま表情は固まった。
 確かにイルカは笑ったが、それは形だけの笑みだった。決まり通りに顔を作り、声をかける。どんなに疲れていても忙しくても、受付として仲間を労うための義務。仕事。
 今までなら、カカシになんだかんだと話しかけて、カカシもそれに答えて、後ろに並ぶ者から控えめながらも急いでくれと注意されることもよくあったのに。
 イルカは黙ったまま、報告書をチェックしている。カカシは敢えて間違った記述を行った。そうすればイルカと話すきっかけが作れると思ってのことだ。
 案の定イルカは顔を上げた。
 そこに望みをかけてごくりと喉が鳴った。
 しかしそんな希望はすぐに打ち砕かれた。真っ直ぐに見つめてくるイルカの視線は無機質だった。まるで道ばたの石ころを目に留めただけの、ただ、映すだけの目。
 声をかけることができずにいるカカシにイルカはまたおざなりに笑ってみせた。
「間違いの箇所はこちらで訂正しておきます。任務、お疲れ様でした」
 もう用はないとばかりにイルカは報告書を傍らの処理済みの箱に入れる。投げ捨てるような入れ方がイルカの気持ちを伝えてくる。
 カカシは肩を落として報告所を後にするしかない。未練たらしく入り口のところでちらりと振り返ったが、後悔した。イルカは次の忍に対しては心からの笑顔を向けていたから。
 その瞬間カカシは瞬身の術でその場をあとにした。



 イルカはひどいイルカはひどいイルカはひどいイルカはひどいイルカはひどい!!!
「なんだよ! 陰険だなあ! あんな人だとは思わなかった。俺が謝ろうとしているのばればれだろ? それを無視し続けて、感じ悪いよな。だいたい中忍のくせになんだよ。上忍に対して尊大なんだよっ」
 カカシは癇癪を起こした子供のように枕をばんばんとベッドに打ち付けた。
「サイアク! くそイルカ! あの人のオリジナルなんて思えないよな! サイアクサイアク!!! もう絶対謝らない! 無視だ無視!」
 暴れすぎて窓際の観葉植物が揺れる。倒れそうになるところを支えて、やっとカカシは息をついた。
 静かな部屋の中にはあはあと荒い息づかいだけが響く。
 そのままベッドに腰を下ろすが、ずるずると床に体が落ちていく。
 興奮していた気持ちが、少しずつ落ち着いてくると、さきほどまでの怒りが波のように引いていく。憤りや悲しみやら混乱やらが引いたクリアな思考の中で、ぱっと浮かんだのは、この先のこと。
 イルカを怒らせたままで謝罪せずにいればきっとすぐにイルカとの関係は途切れる。ただの上忍と中忍。里の仲間。それだけのものになる。イルカは怒っているのだから、カカシとの行き来がなくなることをなんとも思わないだろう。清々したと思うかも知れない。
 だがカカシは……。
 これからずっとイルカと口をきいてもらえないかも知れない事実に、腹の底が冷える。
 思わず下腹部のあたりに手を持っていき、ぎゅっと目を瞑る。
 なぜこんな思いをしなければならないのだ。確かにカカシはいきなりひどいことを言ってしまったかもしれないが、イルカが校内で自慰に耽ったりしたのが悪いのだ。イルカはまずそのことを反省するべきなのではないか。
「……」
 カカシは目を開けた。
 反省、しているのかもしれない。
 いやそんなことよりもそれはイルカの問題なのだから、カカシこそ己の言動を反省しなければならない。
 あんな場面、見てはいけないものだと思ったではないか。見てしまったら、黙っているのが優しさだと。
 イルカに嫌われてしまったに違いない。
 血の気が引く感覚にカカシは更にからだを丸める。目眩さえ感じてそのまま床にうずくまる。
 イルカに嫌われた。その事実に心臓が早鐘を打つ。これは、恐怖だ。怖くて仕方ない。イルカが自分のそばからいなくなるなんて、そんなこと耐えられない。
 カカシはどんな任務に赴いた時にも感じたことがない恐怖に、怖くて怖くてその夜は一晩中震えた。
 ごめんなさいイルカ先生ごめんなさいイルカ先生、と唱えながら。



 さんざんな日々が始まった。
 イルカはカカシの存在を消してしまったかのようだ。
 イルカと仲直りをいたいのだが完全に無視されて全く話す機会がつかめない。
 イルカは今までとなんらかわることなくアカデミーに受け付けにと仕事をこなしているようでよく見かける。だが一度も視線が絡まない。受付所で面と向かっても、こちらを見ていても、本当には見ていない。イルカの中にカカシは映っていない。普通に話しかけようと何度も試みた。だが、カカシに会話をさせない空気がひしひしと感じられて、そんな状態で話しかけて思い切りはぐらかされたり無視されたらその場ではずかしげもなく泣いてしまうかもしれなかった。
 一度などアカデミーの廊下ですれ違ったが、イルカはカカシのことを全く見なかった。そこには誰もいませんというように通り過ぎていった。カカシは足ががくがくとして壁に手をついたほどだというのに。
 毎日毎日イルカのことばかりを思う。
 そうなると当然だが任務に出ても気持ちが浮いてしまい、単独任務であやうく毒の塗られた敵の手裏剣が頬をかすりそうになった時に、限界を感じた。
 イルカとのことになんらかのけりをつけないとカカシは遠くないうちに任務で失敗をやらかすかもしれない。それが己だけのことならまだしも、里に迷惑をかけるようなことになっては忍者として失格だ。
 けりを、つける。
 もちろんカカシにとってのけりはイルカに許してもらって以前のように親しく行き来することだ。そのためにはなんだってする。土下座なんておやすいご用だ。もっとなにかイルカの気が済むことがあるのならなんでもするつもりだ。
 とりあえず一升瓶を抱えてイルカの家に急ぐことにした。
 夜勤だったイルカが残業をこなして昼も過ぎてから帰宅したことは火影に聞いた。夕方、そろそろ夜に以降しようとしている今の時間ならイルカも起き出していることだろう。
 許してもらって、そしてそのままそばにいたい。たくさん話をしたい。イルカの笑顔が見たい。イルカに笑いかけて欲しい。イルカの柔らかな声を近いところで聞きたい。名前を呼んで欲しい。
 イルカイルカイルカ。ばかみたいにイルカのことを思う自分にカカシは苦笑する。
 わかっていたことだ。
 イルカのことがとっくに好きだ。
 会えないと寂しい。話せないと辛い。イルカにそばにいて欲しい。
 その思いを深くかみしめて、沈む日に押されるようにカカシは急ぎ足になった。

 

 

 

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