れぷりかんと   21    







「少しでも具合が悪かったらすぐに言ってください。俺がいない時にちょっとでも何かあった時は必ず火影さまのところに行ってください」
 退院した翌日、真剣に頼みこんだのに、イルカは笑った。
「どうしたんですかカカシさん。昨日はちょっと疲れてたんです。大丈夫ですよ」
「でも……」
「ありがとうございます。心配してくれたんですよね。すごく嬉しいです」
 穏やかな表情は久しく見ないものだった。そんなイルカにカカシは小さな声で告げた。
「心配なんです」
 かみしめるように口にしたカカシのことを、じっとイルカは見つめてきた。
「ちょっと前に、先生に聞いてみたんです。セックスしてもいいかって」
「ええ?」
 思わずカカシはのけぞる。イルカはいたって真面目な顔をして頷いた。
「控えて欲しいって言われました。でも、手とか口でするくらいなら大丈夫ですよ。しましょうか?」
 潜めたイルカの声音にカカシは調子が狂う。不安に押されて、どうしたの、とイルカに問いかけていた。
 イルカはしばしの間何も言わずにカカシの視線を受け止めたが、ふっとかるく息を吐いてカカシに抱きついてきた。
「だって俺、カカシさんに何も返せないから」
 首筋にすり寄ったイルカはかみしめるように口にした。カカシはイルカの頭をそっと撫でた。
「ええと、それは嬉しいけど、でも、返すなんて言わないでよ。そんなの寂しいよ。俺はイルカ先生と一緒にいられるだけで幸せなんだから。俺が、そばにいたいだけなんだから」
 イルカがそっと顔を上げる。間近で見るイルカの黒い瞳からは感情が読み取れなかった。
「どうしたの、イルカ先生。そんなに見つめられたら照れちゃうよ」
 茶化すようにしてイルカの頬を優しく包み込めば、イルカは頬をすり寄せてくる。
「この世界に存在できたことは嬉しいけど、でも俺、なんでロボットなんだろう。“イルカ”の代わりなんだろう……」
 呟かれた声が寂しげで、カカシのほうも寂しくなる。
「“イルカ”はイルカ先生だよ。イルカ先生以外の“イルカ”なんてどこにもいないよ」
 イルカは何も言わずに、そっとカカシから身を離した。カカシの言葉には何も返さずに、お茶をいれなおすと言って台所に行ってしまった。
 後ろ姿はどこか頑なで、全てを拒んでいるようだった。
 きっとどんなに言葉を尽くしてイルカはイルカだと言い聞かせても、イルカ自身が納得しなければ押し問答になることはわかっている。
 だからカカシは敢えてしつこく言い募ろうとは思わなかったが、それでも寂しいことには変わりない。
 たとえ生み出された理由が誰かの代わりだとしても、イルカの父にどんな考えがあったとしても、今ここにいるのはたった一人のイルカなのだから。それだけは間違いなく事実なのだから。
 カカシは畳に転がると、重い重いため息を吐いた。



 打つ手が見つからないじりじりとした焦燥の日々。
 ナルトまでも何かを感じるのかイルカの元を頻繁に訪れ、体のことを心配する。
 大丈夫、なんでもない、と静かに笑うイルカを目にするたびにカカシは胸の奥が絞られるような気持ちを味わった。無力な自分。役立たずな自分。いっそ任務を放り出して綱手を探しに行きたいと思う反面、自分がいない間にイルカになにかあったらと思うと、結局どっちつかずのままで動けずにいた。



 とにかく可能な限り、片時でもイルカから離れたくなくて、カカシが帰るのはイルカの家になっていた。イルカの傍らで眠るのが常になっていたある晩、イルカが不意に起きあがった気配にカカシはぱちりと目を開けた。
 まるで機械のような唐突な起きあがり方だった。
「イルカ先生?」
 カカシも起きあがってそっと声をかける。背筋を真っ直ぐに伸ばして正面を向いたイルカの横顔は微動だにしない。夜目に光って見えるイルカの目が気になって正面からのぞきこもうとすれば、イルカは立ちあがった。
「どうしたの? イルカ先生」
 イルカは棚の引き出しを開けると、そこからあの注射器を取り出した。背の傷はとうに完治している。なのにイルカは注射器と薬の入っていた瓶を取り出して、今はなにも入っていないというのに注射器に液体を吸い上げる動作を行って、カカシの前でパジャマのズボンを下着ごと下ろした。
「イルカ先生!?」
 今にも尻に注射を突き立てようとしたイルカにカカシは慌てて詰め寄ると両肩をぐっと掴んだ。
 カカシの方を向いているのに視線が合わないイルカに焦りを覚える。
「イルカ先生!」
 ぐらぐらとイルカを揺する。それでもどこか遠くを見ているイルカの光る目に耐えきれなくて、カカシはイルカの頬を軽く張っていた。
「目ぇ覚ましてよイルカ先生!」
 叫んだ。夜の静けさの中に響いた声。イルカの手から、注射器が、落ちる。
 肩を掴む手に力をこめれば、徐々にイルカの目の焦点が合ってきた。何回か瞬きを繰り返して、イルカは真っ直ぐにカカシのことを見た。
「カカシ、さん?」
 まさに夢から覚めたようなイルカのぼんやりとした声音にカカシはほっとしたのもつかの間、他におかしなところはないかとイルカの頬を両手ではさんでじっと検分するように見つめた。
「カカシさん? どうしたんですか、一体」
 イルカは笑顔を見せるが、その笑顔に逆にカカシは不安が募る。この状況で笑えるということは、イルカはたった今のことを覚えていないのだから。
「イルカ先生、今すぐ火影さまのところに行きましょう。看てもらいましょう」
 不安がせり上がってくる。イルカは目を見開いて、次には首を振った。カカシをたしなめるように優しい顔をみせる。
「何言ってるんですか、こんな夜中に。どうしたんですか? カカシさんらしくないですよ」
「いいから、行こう」
 イルカを促そうとしたが、不意にイルカの顔から表情が消えた。カカシの手を払った力は思いがけなく強かった。
「イルカ先生……?」
「大丈夫だって、言ってるでしょう。俺はロボットなんだから。ロボットは簡単に壊れたりしない。ロボットには感情なんてない。だから俺はロボットでいい」
「ロボットに感情がないなんて嘘だ!」
 淡々と語るイルカを声を荒げて遮っていた。
「イルカ先生、どうしたの。何言い出すの。ロボットは繊細だって、感情があるって、誰よりイルカ先生がわかっていたんじゃないの。あの人はロボットだったけど、感情があったから動いたんでしょう。自分の意志で俺を救いに来てくれたって。ねえ、わかってたよね? なのに、どうして今更そんなこと言うの」
 カカシの言葉に見る見る表情を崩したイルカは両手で頭を抱えて、顔を歪ませる。
「俺は、ロボットがいいって、言った。人間、なんて……っ」
 ぎゅっと目を瞑ったイルカはその場にうずくまる。
「俺は、言ったんだ! 言ったのに! 人間は、いやだって……!」
 髪の毛に手を入れてぐしゃぐしゃにかき回すイルカを、カカシは包むこむように抱き寄せた。
「イルカ先生」
「俺は……おれは……」
「イルカ先生。イルカ先生」
 何度も何度も名を呼んだ。イルカはイルカなのだと。それだけのことだと。けれどそれがなにより尊いことなのだと。
 そのうちにイルカは静かになり、カカシの胸元をすがりつくように両手で掴んだ。そしてそのままことりと落ちるように眠りについた。
 イルカをそっと布団に横たえて、その傍らでカカシは座り込む。穏やかな寝顔を確かめてとりあえずは安堵する。
 注射を片付けて戸棚を閉めて、ほっと息をついた。
 たった今目にしたイルカの尋常でない様子に思いをはせる。
 イルカに何が起きているのか、わからない。それがもどかしい。
 人間なんていやだと言っていた。
 人であること。ロボットであること。そのことにイルカは拘泥している。
 いったいイルカにはなにが隠されているのだろう。



「火影さま。俺に、綱手さまの捜索に行かせてください」
 朝いちばんに火影の元を訪れた。
 ノックもそこそこに火影からのいらえを待つ間もなく部屋に飛び込めば。
 そこには目指す女性がいるではないか。
「ツ、綱手さま!?」
「朝っぱらから騒々しい奴だねえ」
 振り向いた綱手は昔と何ら変わらぬ若く美しい姿でそこにいた。呆然となるカカシに綱手は勝ち気そうな目を細めて笑った。
「話は聞いたよ。あたしは忙しいんだ。さっさと終わらせて戻らないとシズネが借金の形に売られちまうよ」
 なんでもない、簡単なことのように言う綱手にさすがにカカシもむっとなる。
「そんな簡単なことじゃあないですよ、イルカ先生は」
「簡単さ」
 カカシを遮って綱手は火影に目配せする。火影も綱手に同意するように深く頷いた。
「海野イルカはそもそもロボットじゃないからね」

 

 

 

→22(最終回)