れぷりかんと   19    







「ごめんなさい。でもこのまま帰ってください」
 一瞬呆けてしまったカカシだが、重ねられたイルカの言葉に我に返る。
 落ち着け、とまず自分に言い聞かせる。ぐっと腹の底に力をこめてイルカの手をとれば、びくりと大袈裟なくらいにイルカは反応した。
「そんな、いきなりそんなふうに言われて、はいそうですかって帰れるわけないってことくらい、わかるでしょ」
 責める口調ではなく、諭すようにあくまでも優しい声音で返せば、イルカの強ばっていた表情が見る見る緩む。口を曲げて涙がこぼれる。わあっと抱きついてきたイルカの背をあやすように撫でる。
「ほら、泣かないの。泣いてたらわからないよ。何があったんですか。ちゃんと言ってくださいよ」
「俺、ずっとカカシさんと一緒に、いたいんです。でも、できないっ」
「できないわけないでしょー。ずっと一緒にいようよ」
 子供をあやすように優しく言い聞かす。しばらくの間わあわあ泣いていたイルカだったが、思う存分泣けば落ち着きを取り戻し、顔を上げた。赤い鼻と目がいとけない子供のようでかわいらしくもあり、思わずカカシは小さく笑っていた。
「イルカ先生、子供みたいだね」
 イルカはむくれた。てっきりなにか言い返すかと思ったが、上がってくださいと言って立ちあがった。
 いつの間にか定位置となった場所に腰を下ろしたカカシは、イルカが無言でお茶の用意をするのを見守った。イルカは固い表情のままで、心なし顔も青い。
 一体何があったのか全く想像できない。イルカの気に障ることをした覚えはない。もし気づかないうちになにかしでかしたとしても、それならイルカは真っ直ぐに口にするだろう。
 緑茶を受け取って、一口すすれば、いつもの味わいにほっと力が抜ける。逃げずにイルカと話をする覚悟ができた。
「イルカ先生。なんで俺と付き合えないってことになるのか、理由を聞かせてくれる? 一緒にいたいって思ってくれてるのに付き合えないなんて、ちゃんとした理由があっても納得できないよ」
 イルカは目を伏せたまま、手のひらの湯飲みをじっと見ている。沈黙が重い。だがカカシはじっとイルカからの言葉を待った。
「今日、病院に行ったんです」
 くっと冷めたお茶を飲み干したイルカは卓袱台に湯飲みを戻す。
「最近体がだるくて、ゆっくり休んでもなかなか疲れがとれないから、もしかして不具合が起きているのかと思って」
「イルカ先生、不具合なんて言い方しないで」
 思わずたしなめていた。確かにイルカはロボットかもしれない。だがそんな言い方はしてほしくなかった。
 けれどイルカはいきなり卓袱台を手のひらで叩きつけた。
「そんな、きれい事、言わないでくださいよ! 俺は、俺はロボットなんだ。人間なんかじゃないんだ。だから俺はカカシ先生とセックスなんかしちゃいけなかったんだ。カ、カカシ先生に、好きだなんて言われて調子にのるから、こんなっ」
 声を荒げたイルカは息をきらせて言い募る。卓袱台を叩いた瞬間に転がって畳に落ちた湯飲みを手にとったカカシはそれを元に戻して台所から布巾を持ってくる。少しばかり濡れた畳を拭いてから、今度はカカシがお茶を淹れた。
 そっとイルカの前に置く。イルカはぽろぽろとまた涙をこぼした。
「検査、してもらったんです。そしたら、やっぱり、なんか、おかしいって。結果待ちで……、あとで、精密検査もするって……」
 イルカは必死になって涙を拭う。拭っても拭っても涙は止まらない。
「検査して具合が悪かったってことが、どうして俺と付き合えないってことになるの?」
 イルカの手をそっと掴む。イルカは不意に強い力でカカシの手を握りかえしてきた。
 すがるようなその強さが、かわいそうで、それでいて愛しさが募る。
「い、言われたんです。前と、違うことはないかって。違ったことは、ひとつしか、ないです。カカシ先生と、付き合うように、なって、セッ……クス、するように、なった、こと、しか」
 声を震わせてイルカは口にした。卓袱台を横にどかしたカカシはイルカの正面で震える両手を包んでやった。
「俺とのセックスが体に悪いから? だから俺と付き合えない? それっておかしいよねイルカ先生。それじゃあ俺たち体だけの関係みたいじゃない」
 イルカは唇を引き結ぶ。イルカの手を揺らしてカカシはイルカからの応えを待った。
 時を刻む音が静かに心に満ちてくる。こんな状況だが、心は平安を感じる。傍らには愛しい人間がいる。イルカがいるだけで、満たされる。ふとカカシは、なんとなくだがイルカの不安がわかった気がした。
 体だけの関係みたいだとたった今自分で言った台詞。もしイルカが少しでもそう思っているとしたらそう思わせたのはカカシだ。イルカに好きになってもらえてから、こんなふうに穏やかに過ごすことをあまりしていなかった気がする。イルカと付き合えて、嬉しくて、子供みたいに夢中になって、どうしても抱き合う頻度が高くなっていた。
 そう思い至るとカカシは覚えず赤面していた。
「あー、あのね、イルカ先生。付き合うってのはセックスしなきゃならないってことじゃないんだ。別に、セックスしなくてもいいんだよ。俺、イルカ先生と一緒にいられるだけで幸せだから」
 照れつつもきちんと告げれば、イルカが顔を上げる。濡れた目はとても澄んできれいだった。
「ごめんね、最近セックスばっかりしてたね。勿論、イルカ先生と抱き合うことは好きだし嬉しいけど、でも、もしだよ、もしイルカ先生と一生抱き合えなくなっても、大丈夫」
「どうしてですか? だって、あんなに」
「簡単なことだよ。イルカ先生のこと、大好きだから」
 わからない、と言うようにイルカはひたすらに見つめてくる。そんなイルカの黒髪をかきあげて、頭を撫でて、そのまま抱き寄せた。
「イルカ先生が好きなんだよ。それだけなんだ」
 強く、強く抱きしめる。
「イルカ先生とずっといられるならそれで俺は満足だよ。だから別れたりしない。ずっと、ずっと一緒にいるよ」
 イルカの手が、ためらいがちにゆっくりと背に回される。
「……ふしだらだって思われても仕方ないんですけど」
「イルカ先生はふしだらじゃな〜いよ」
 律儀に返せばイルカは安心したような吐息を落とした。
「俺は、カカシ先生と抱き合うことが、好きです。安心するんです」
 意外な告白にカカシは思わずイルカの顔を見つめた。赤い顔をしたイルカは拗ねたように口を尖らせていた。ふて腐れたような表情が微笑ましくて、思わず笑ってしまう。
「そうなんだ。それは知らなかった。嬉しいな」
 カカシの感想にイルカは顔を隠すように自分から抱きついてきた。
「俺、抱き合うことを否定するようなこと言いましたよね。でも、カカシ先生に抱きしめて貰うと、俺は、俺なのかなって。人間なのかなって。ロボットだって思わなくもいいのかなって……思えて……」
「そうだよ。イルカ先生はイルカ先生だよ。俺はイルカ先生が好き。イルカ先生は俺のことが好き。それだけだよ。セックスしなくたって、わかるでしょ? 信じられるでしょ」
 いろいろなものをはぎとって残るのはシンプルな、そして確固たるもの。それさえあればいい。
 背に回されたイルカの手に力がこもり。その強い力がイルカの心を物語っていた。
 その夜、落ち着いたイルカはカカシが泊まることを承諾してくれ、並べた布団にそれぞれが潜り込んだ。しんとした部屋。闇は優しく二人を包んでいた。
「なんか、こんなふうにしてると俺達家族みたいですね」
 呟けば、イルカが顔を向けた気配がした。視線を合わせれば、イルカははにかんだように笑う。
「イルカ先生に違うことはないかって言った医者は誰です? 明日怒鳴り込んでやりますよ」
 冗談で軽口をたたけばイルカは小さな声で「火影さまです」と伝えてきた。
「あ〜、火影さまですか〜。俺たちのこと、何か言ってました?」
「カカシはけしからんって言ってました」
「ええ? ほんとに?」
 慌てたカカシにイルカは小さな笑い声をたてる。
「嘘です。火影さまは、よかったなって言ってくれましたよ。でも……」
 イルカの表情が曇る。手を伸ばして、カカシは布団の下でイルカの手を取った。
「だ〜いじょうぶ。俺がいるよ。ね、イルカ先生」
 指をからめてつないだ手。互いに強く握りかえす。イルカは無言で頷いて、目を閉じた。



「イルカのことを脅したわけではない」
 火影は憤慨して口を曲げた。
 翌日カカシは子供たちとの任務が終わった夕方、火影の執務室を訪れた。やはりきちんと問いただしておかないと気がすまなかったのだ。
 イルカがどれだけ心を痛めたかねちねちと訴えかければ、最初は黙って聞いていた火影もそのうちに不穏な空気をかもしだした。
「カカシよ。言っておくがな、イルカがロボットだからという以前に、過度のセックスは健康によくないということくらい知らんのか。どうせ覚えたての鼻垂れのようにイルカを振り回しておるのじゃろう。ついこの間までイルカにつれなくされると愚痴っていたというに、なんじゃこれは。わしの許可もなく」
「なんで火影さまの許可が必要なんですか。イルカ先生の保護者でもないくせに」
「保護者のようなものじゃわい」
「だとしても、イルカ先生も俺も大人なので、いちいち許可は求めません」
 互いがしばし睨み合って顔を背ける。しかし本題からずれてしまったと同時に気づいたのか、ため息をついたのも同時だった。
「喧嘩しにきたんじゃないんです。イルカ先生のことです。どうなんです? 正直なところ」
 火影の執務室ではすっかりいつもの位置となったソファの一画に腰を下ろす。火影もパイプを吹かして渋面を作った。
「体調が芳しくないのは本当じゃ。綱手に学んだ優秀な奴が調べておるところじゃが、近々精密検査をしたいと思ってな。ひそかに綱手のことも探さしておる」
「綱手さまを」
 木の葉一と言ってもいい医療忍者の綱手の名が出て、さすがにカカシも腹の底が重くなる。
「あの、イルカ先生は、そんなに」
「ロボットじゃからな。普通の人間と同じには考えられん」
 火影の固い声音にカカシにも急に不安が押し寄せる。なにが作用したのかはわからないがイルカに異変が起きていることは確かで、自分にできることはないかとカカシは立ちあがった。
「俺に、できることはありませんか? なんでもいいんです。少しでも役立つことがあるなら」
 思い詰めたようなカカシに、火影はしわの多い顔をほころばせた。
「なにをいきりたっておるのじゃ。おまえにできることなどひとつしかなかろう。そばにいてやればいい。イルカのそばにな」

 

 

 

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