れぷりかんと   16    







 イルカとの日々が戻ってきた。
 カカシが誘えばイルカは用がない限り応じてくれる。話に熱心に耳を傾けてくれる。イルカが笑いかけてくれると、それだけでカカシの心は弾み、体中が暖かくなるような心地を味わった。
 互いの家を行き来する回数も増え、酒の席ではいつからかカカシさんと呼ばれるようにもなった。
 以前よりもイルカの心に近づけていると確信を持てるくらいにはなっていった。



「ロボット三原則って知ってますか?」
 昼下がりの書庫には穏やかな空気が満ちていた。
 その日アカデミーの授業は昼で終わり、イルカたち教師はそれぞれの用をこなしていた。昼食の後、書庫で調べものがあるというイルカに付き合いカカシも椅子に座って愛読書を開いていた。
 カカシたち以外にも何人かの教師たちも室内にはいたが、二人は奥まった一画で静かに過ごしていた。
 イルカがあまりに熱心に調べものをして見向きもしてくれないから、少し気を引きたくて最近仕入れた知識を披瀝してみた。ロボットであるイルカに言うのはどんなものかと思いながらも口にしていた。
 踏み台の上に座って資料を開いていたイルカがカカシのほうを振り返る。今日のイルカは銀の細いフレームのメガネをかけていた。
「知ってますよさすがに。それがどうかしましたか?」
 特に動揺した様子もなく、イルカはいたって普通だった。
「うん。あの原則って、結局ロボットは人間に絶対的に服従するってことでしょ。人間にとって都合のいい存在ですよね。もしすべてのロボットがそんなふうに作られたら、つまらないなあって思って」
 肩を竦めれば、イルカは少し首をかしげて、目を通していた本を閉じた。
「つまらない、ですか? でも、そのルールがあるからロボットはロボットだって気もします」
「つまらないよ。なんでも言うことをきくなんて、それはただの奴隷でしょ。気持ちがなにもない。俺はそんなの、嫌だな」
「でも……」
 口をつぐんだイルカは顎のあたりに片手の指先をもってきて、かすかに笑う。
「俺がもし人間に完全に服従するロボットだったらって思ったりしませんか? もしそうだったらカカシ先生も嫌な思いをしなくてすんだでしょうし。自分に絶対に服従してくれるなんて、人間にとっては嬉しいことでしょう?」
 椅子から立ったカカシはイルカに近づいて、意外と繊細な指先を捕らえる。引き寄せて先端にキスをして、イルカを見上げた。
「それなら俺はイルカ先生のロボットだよ」
 握る手に力をこめて囁いた。
「俺は、自分の意志で、イルカ先生に服従できるよ。イルカ先生に従うことが俺にとっての喜びなんだ」
 イルカは何も言わずに見つめてくる。掴まれた手を引くこともせずに、じっと。
 そのまま音の遠のく部屋で、しばしの間互いだけをその目に映した。



 一度イルカに触れてから、どうしたって欲がでてくるようになった。
 キスは許してくれる。時に舌を絡めてしまっても受け止めてくれる。だがそこにイルカの心があるのかは見極められない。
 もっと、もっとイルカを知りたい。イルカに触れたい。触れた熱が忘れられずに何度か己を慰めてしまっている。
 そんな思いがきわまってしまったのは、関係が修復されてからひとつきほど経った、夏にさしかかろうという頃だった。
 その日イルカを迎えに職員室に行ったが、入り口で思わず立ち止まった。
 イルカは同僚と思われる女性教師と楽しそうに話をしていた。それはなんてことのない日常の話だろう。だがひどく楽しげに見えて、見ていたくないと思った。
「イルカ先生」
 二人の間に割ってはいるように声をかければ、女性教師はカカシに会釈をして教室を出て行った。
「すみませんカカシ先生。わざわざ迎えに」
「今の人は、同僚の先生?」
 思わずイルカの言葉を遮るように聞いていた。イルカは頷く。
「ええ。今度飲み会の幹事を二人でやることになったので、そのことをちょっと話していたんです」
「ふうん」
 一度できた引っかかりはなかなかおさまってくれない。
 そのまま気持ちを引き立てることができないままにイルカと連れだって馴染みの居酒屋に行った。いつもは向かい合って座るのだがあいにくカウンターの席しかなく、並んで腰掛けることになった。タイミングが悪いことに店は混み合い、カウンターの席も窮屈にイルカとかなり接近することになった。
 お疲れ様ですと言ってジョッキを打ち鳴らすことでいつも食事は始まる。
 他愛のないこともイルカと話すだけで輝いてまったく別の話となった。それが今夜はろくな受け答えができない。
 自分のコイゴコロにだけ夢中になって、イルカが普通に恋をする可能性を考えずにいた。
 カカシはイルカのことが好きで仕方がないが、イルカからの気持ちは確たるものはひとつももらっていない。いや、もらうもなにも、イルカの思考はロボットに関すること以外いたって普通なのだから、男であるカカシが男であるイルカを好きだなどと、受け入れる以前の問題なのかもしれない。
「カカシ先生。今日は元気ありませんでしたね。体の調子でも悪かったんですか?」
 帰りの道すがら酒で頬をかすかに染めたイルカが邪気のない顔で聞いてくる。イルカは、手を伸ばせば触れることができるほど近くにいる。なんてことを思った拍子にイルカの手が触れて、思う間もなく握りしめていた。
「カカシ先生?」
 怪訝そうなイルカの声は聞こえないふりで、握る手に力をこめる。
 そのまま無言で家路を急ぎ、二人の家の分かれ道で立ち止まる。くるりと振り向いて、そこでイルカの手を離した。人通りがまったくないことに後押しされ、理性が止める間もなく訊いていた。
「どうしたら、俺のこと好きになってくれる?」
 馬鹿なことを、と思いながらも止められない。
「好きなんだ。好きなんだよ、イルカ先生のこと。さっきみたいにイルカ先生が女の人と楽しそうに喋っているだけで、嫌な気持ちになるんだ。イルカ先生が俺だけに笑いかけてくれたらいいのにって思うんだ」
「カカシ先生」
 イルカは困ったような顔をしている。
 時間をかけて待とうだなんてとんだきれい事だ。イルカの気持ちが少しでもカカシに向いていると確証があるのならそれもできることだ。だが、イルカはカカシにあんな姿を見られても、キスをしても、肌を重ねても、変わらない。カカシの恋情がイルカの固い皮膚を突き抜けていくことがあるのだろうか。
 ネガティブに傾く思考というのは勢いがある。この傾斜を転がりだすとなかなかには止まれない。
 イルカのことを散々後ろ向きだと思っていたが、人はこんなにも簡単に後ろ向きになれるのだ。
「ごめんイルカ先生」
 黙したままのイルカになんとか笑ってみせる。イルカを困らせたいわけではないのだ。
「ごめん、今言ったこと、気にしないでねって言っても気にしちゃうか。ホント、ごめんね」
 なにげなく伸ばした手をさらりとイルカの頬に触れさせる。その手に、イルカの手が重なった。包み込むように触れてきた。
「カカシ先生は、俺と、どうなりたいんですか?」
 突然イルカは揺るぎない目をして問いかけてきた。
 どうなりたいかなんて、わかりきったことを聞いてくる。そんな憎らしいイルカに苦笑する。
「ふしだらな俺はね、イルカ先生と何度でも抱き合いたいんですよ。あなたのものになりたいし、あなたを俺のものにしたいんです」
「そんな方法、あるんですか? 誰かを自分のものにするなんて、そんなこと、出来るんですか?」
 イルカは純粋に疑問に思ったから訊いてきたのだろう。だが、言わずもがなのことを訊かれ、内心でもやもやしたものがくすぶっていたカカシはかっとなった。思わずイルカの両肩を強く掴む。
 口を開けて、けれど、なにか言う前に、あまりに無垢な黒い瞳の色に力が抜ける。
 ロボットだということを知らされて新たに己の存在を把握しようとしているイルカは、生まれたての存在のようなものなのかもしれない。そう思えば、一人で空回りしているような己に苦笑が沸き上がった。
「そんなこと、出来るわけないよ。それは、わかってるんだよ。あなたと俺は別の存在なんだから」
 カカシの声は弱々しく響いた。
 自分とは違う存在だから、だからこそ、限りなく、限界まで交ざり合いたいと思うことはとても単純な原始的な欲求だ。時が経てば、イルカにもわかるのだろうか。わかってもらえるのだろうか。
 ほんの少し笑んで、カカシはイルかから離れようとしたが、イルカは、カカシの手を離さなかった。
「イルカ先生?」
 向かい合ったまま互いの間でぎりぎりに伸ばされる手。俯いたイルカの表情は見えないが、握られた手は温かい。離すべきなのに離したくない。
「カカシ先生」
 顔を上げたイルカに固い声で名を呼ばれた。イルカに真っ直ぐに見つめられる。
「俺のこと、特別だって、言ってくれましたよね」
「言ったよ。大好きな人だって言ってるよ」
 すかさず答えれば、イルカは口を引き結ぶ。掴まれた手には力がこもる。
 イルカがなにを言い出すかわからないが、イルカの言葉を待って、カカシは動けずにいた。
「……兄さんは、カカシ先生のお父さんのことを思って、カカシ先生の元に行きました。サクモさんのことが好きだったからです」
「うん。そうだね」
「兄さんは、なにも求めていなかった。ただ、サクモさんとカカシ先生のことを思って、駆けつけたんです。そういう、無心な気持ちが、人を思うってことじゃないんですか? 愛なんじゃ、ないですか?」
 たどたどしく自分の考えを伝えてきたイルカはそれが正しい回答なのかをカカシに判断でもしてほしいのだろうか。探るような不安なそうな目で待っている。懸命な姿をないがしろにできなくてカカシも気を取り直して向き直った。
 一歩、イルカに近づいた。イルカのもう片方の手をとって、カカシから握りしめる。
「イルカ先生の考えは間違っていないよ。それもひとつの正解。でも、人を思う気持ちは、愛は、それだけじゃない」
 愛なんて言葉を、真面目に、真摯な気持ちで口にしたことがあっただろうか。だが照れくささは欠片もなかった。握った手に力をこめてイルカの視線を受けとめた。
「イルカ先生が言う愛は、とても深くて穏やかで、多分それが一番完全な形のものだと思う。みんな、そこに辿り着きたいのかもしれない。俺が救われたのもあの人のそんな愛があったからだよ。でもね、イルカ先生」
 イルカの手を引く。
 抱き寄せて、体を密着させる。確かに存在する腕の中の体にほっと息が漏れる。
「愛にはいろんな形があるんだよ。恋人同士が抱き合うことも必要な愛だよ。だって体の愛がなければ、そもそも人は続いていかないでしょ」
「俺は、男です……。カカシ先生と抱き合っても、なにも生み出せない」
「形あるものは生み出せないけど、目には見えないものを生み出せると、俺は思う。だから、これも愛のひとつなんだよ」
 イルカの頬を両手でそっと包み込んで、キスをした。触れるだけのキスを。
 間近にあるイルカの目の中に、自分が映る。それはなんてすばらしいことだろう。
「ねえイルカ先生。先に結果を考えたりこういうものだって決めつけて人を好きなるものなの? そうじゃなくて、心の底からわきあがる衝動が、人を動かすんじゃないのかな。あの人は、そうしたよね。だから俺のところに来てくれて、役目を終えたら、父さんのもとに行ってしまった。あの人は間違いなく、父さんのことも俺のことも愛してくれたと思う」
 イルカは目を伏せた。けれどカカシから離れようとはしない。カカシが願う愛は果たしてイルカにとっても愛だということになるのだろうか。
「カカシさん。俺は……」
 一旦口を閉ざしたイルカは、体の脇にたらしたままだった腕をカカシの背に回してきた。
 初めてのイルカからの抱擁に、カカシは目を見開いた。
 イルカは力強く、すがるようにカカシに体を押しつけてきた。
「イ、イルカ先生?」
「俺は、知りたい。カカシさんの言うことを、わかりたい」
 イルカの熱い体に目眩がする。
 調子よく跳ね上がる鼓動を落ち着かせて、ごくりと喉を鳴らす。
「イルカ先生、それは、あの……」
 乾いた喉がうまく言葉を紡げない。みっともなく焦るカカシをイルカは真剣に見つめ返してきた。

 

 

 

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