れぷりかんと   15    







 眠るイルカの傍らでカカシは壁にもたれて座っていた。
 とりあえずイルカの体にタオルケットをかけてから、どうしても離れられずに座り込んだ。
 静かすぎる夜に身をゆだねればぼんやりとする脳裏に浮かんだのはあの人のこと。
 最近はイルカのことばかりであまり思い返すことがなかったが、あの人との最後の晩もこんな静かな夜だった。遠のいていた記憶はイルカと巡り会ったことで再び取り戻すことができた。たった1週間だった穏やかな日々が今は全てカカシの血肉となって体の中にある。
 最後の夜には夕飯を食べた後、縁側に出て星を見上げた。月のない夜に空一面に散りばめられた星たち、その軌跡が形作る名前をあの人は教えてくれた。父がそうしてくれたようにあぐらをかいた膝の上でカカシを抱きしめて、ぬくもりを分け与えてくれながら。
 あの人の話があまりに長くて、最初は真剣に星を追っていたカカシも最後にはは眠いと機嫌を損ねて小さな子供のようにぐずりだした。ごめんごめんと言って笑ったあの人の染み入るような優しい顔を、かすかな胸の痛みと共に覚えている。
 その顔がイルカと重なり、カカシは目を開けた。
 どうやらまどろんでいたようだ。深まっていた闇はすでに光に浸食されつつあった。
 慌ててイルカの様子を確認する。あの人のことを思っていたから、まさかイルカまでもいきなり心臓が止まったりしていないだろうかと心配になる。
 そっと気配を確認すれば、間違いなく息をしている。そのことに安堵してカカシは再び壁にもたれた。
 結局、この先なにをどうすればいいのか何も考えつかない。
 ただイルカのことが好きなだけなのに、どうしてややこしいほうにばかり進んでしまうのだろう。今までに通り過ぎてきたいくつかの恋にはこんなに難しいことはなかった。もちろん女性が相手だったからということはあるが、イルカが同性であるということ以上に、ロボットであることが障害になっているのだろうか。
 そう思った途端、カカシは己の考えにひっかかりを覚えた。
 思わずイルカの寝顔を食い入るように見る。
 今カカシの思考は自然な流れで“イルカがロボットだから”と考えた。
 何度かイルカに言ってきた。ロボットであることをいいわけにしていると。だがそれはカカシも同じだったのではないだろうか? イルカとわかりあえない、イルカの理解できない部分を、イルカはロボットだからと心のどこかで意識するまでもなく、自然に、普通に思っていたのではないか。
 顔を歪めたカカシはこぶしを口元に持っていき、歯の奥をかみしめる。
 自分が根本的なことを間違っていたとやっと気づいた。
 わかりあえなくたって、いい。そんなこと、当然ではないか。ふたつの別の体と心を持っているのだから、わかりあえなくたってなにも問題ではない。頷くことができなくてもそこに寄り添えばいいのだから。
 あなたのことがわからない、あなたはわかってくれないと嘆くよりもよほど建設的ではないか。
 カカシは心の底からの息を吐き出していた。
 体の中で縮こまって固まっていたものが一緒に出て行くような深い呼吸。
 ちょうど差し込んできた朝の光に、目を細めた。





「なにしてるんですか」
「おはようイルカ先生。ゆっくりできました? よく寝たね」
 差し込む陽射し。居間には卓袱台。音がしぼってあるがテレビからは出演者の笑い声。カカシは番組を見ながら暢気にくつろいでいた。
 タオルケットをのけて起きあがったイルカはゆっくりと部屋を見回している。少し乱雑だった室内が片付けられていると気づいたのだろう。顔を向けてきたイルカの機先を制するように話しかけた。
「なんか作ろうかなあって思ったんですけどたいしたもの作れないし、総菜買ってきました。まあ見栄えだけはよくしたんでそれで勘弁してください。イルカ先生があんまり起きないから先にちょっと食べちゃいましたけどね」
 朝方、一旦部屋を出たカカシはその足で自宅に戻ってシャワーを浴びた。
 家で、気持ちを落ち着かせた。しでかしたことを悔いても仕方がない。それでもイルカを諦められないなら未来のことを考えなければいけないと決めた。
 私服に着替えたカカシは早いうちに街なかに出て食料品の買い出しをして決意も新たにイルカの家に向かった。
 イルカがちょうど休みであることは知っていた。いい加減起きているだろうとおとないをいれたが返答はなかった。気配があるから遠慮しつつも家にあがれば、イルカはカカシが去った時のままで、眠っていた。
 しんとした部屋の中、空気にイルカの気配は溶けこんでいた。
 ふと見ると光の中にほこりが舞い、部屋には掃除が行き届いていないことが明かだった。
 まだ目覚める気配のないイルカを確認してから動きだした。
 音に気を遣いながら掃除をして台所で買ってきた総菜を皿に並べた。
 それでもイルカはまったく起きる気配がなかった。近づいて顔を間近でのぞき込んで鼻息をかけてしまったというのに目を覚まさないイルカをそろそろ起こしたほうがと思ったところでやっとイルカが身じろいだのだった。
 慌てて卓袱台に戻ったカカシは何喰わぬ顔でイルカに声をかけたのだ。
「カカシ先生……なに、してるんですか……」
 起き抜けのイルカはあからさまな不機嫌な声だったがカカシはそんなこといちいち気にしない。にこりと笑いかけた。
「イルカ先生と一緒にごはん食べようと思って待ってたんです。ついでに掃除もしました。忙しいとは思いますがたまには家の中すっきりさせないとね。家の中って住んでいる人の内面を象徴するっていいますよ。俺が片付けたからこれでイルカ先生も少しはすっきりするかな」
 ごはんの前にシャワー浴びて着替えてくださいと促したが、イルカはカカシを睨み付けたまま動こうとしない。頑固なイルカにため息をついたカカシはかすかに震えそうになる手をぎゅっと握ってイルカに近づいた。近づけば体を強ばらせるイルカに笑いかけてから、上着の裾に手をかけた。
「ちょっ、と! なにするんですかカカシ先生!」
「だーって、いつまでもそんな姿でいるからですよう。汚れてるじゃないですか」
「誰のせいでっ」
「あ、俺のせいかあ。じゃあ一緒に風呂に入って俺がきれいにしてあげましょうか」
「へんたい!」
「いーですよ。ヘンタイだろうがふしだらだろうが破廉恥だろうが。好きな相手の前で木石みたいなほうが問題でしょうよ」
 開き直って図々しく言い放てば、イルカはカカシの手を乱暴に払って立ちあがった。ぎっと睨み付けてから、タンスの中から適当に服を取り出すと足音も荒く風呂場に向かう。
 固唾を飲んで風呂場のほうに神経をむけたカカシは、ほどなくしてシャワーの音が聞こえてほっと息をつく。その間に昨日汚してしまった畳をきれいにしてイルカを待つことにした。
 決意してイルカの家に乗り込んだが、不安はあった。どんなに拒絶されても逃げたりせずに向き合おうと、それだけを決めてやって来たのだ。
 イルカが出てくる頃あいにみそ汁に火を入れて総菜を電子レンジに入れる。温かなごはんをよそってまずは及第点の出せる食卓でイルカを迎えた。
「温かいうちにどうぞ。みそ汁の具は俺の好みで茄子と茗荷です。おいしいですよ」
 イルカはなにも言わずに座ったが、きゅっと口を引き結んでいる。髪が濡れたままなのとほとんど癒えているようだが右手の赤く腫れた傷が気になったカカシはイルカの腕を引いた。まずは包帯を丁寧に巻いてから、タオルで髪を拭いてやる。抗議の目を向けたイルカだが、文句は言わずにカカシのしたいようにさせている。
「イルカ先生の髪、意外と柔らかいですね」
 カカシのなすがままにされているイルカが気になるが、黙ったままうつむいたイルカの頬の丸さや伏し目の睫毛の長さに、たまらずほんの少し背中から抱擁する。
 ぎゅっと一瞬力をこめたがそれでもイルカは何も言わない。髪に唇を当てて、好きですよ、とそこに言葉を埋めた。
「あとでちゃんとドライヤーかけますね。まず冷めないうちに食べましょうよ」
 そこでやっとイルカは振り返った。
 黒々とした目がじっとカカシを見つめる。そこに読める感情はなく、まるでガラス玉のようだった。
「あの……イルカ先生」
 イルカはこくりと頷いた。
 カカシに渡されたお椀と箸を受け取ってもくもくと食べ始める。
「総菜、おいしいでしょ。俺も一人暮らしだから料理なんてめったにしないんで、よくお世話になっているところなんです」
 イルカは無言のままだ。むすっとしたままそれでも箸は休めない。当然だが、かなり怒っているようだ。まあたたき出されないだけましかと前向きに考えたカカシは気にせずに他愛のない話を続けた。
「……みそ汁と、ごはん」
「はい?」
 不意にイルカが言葉を発する。問い返せば、イルカはカカシのほうをきちんと見てくれた。
「みそ汁とごはんが、おいしいです」
 ぶっきらぼうなそんな一言に、かあっとなる。
「そ、そうですか? そっか、よかったよかった。お口にあったようですね!」
 どぎまぎとしたまた口にすれば、イルカはこくりと頷いた。
 そのまま、カカシは気持ちを高ぶらせたままでの食卓となった。
 食事の間中ほとんどイルカは話さなかった。だがカカシが話すことをきちんと聞いて、受け答えはしてくれた。イルカの気持ちがわからないままにそれでも怒っているふうには見えなかった。
 食事が終わり、イルカには髪を乾かすように言って、台所でカカシは洗い物をしながら思いがけないイルカの様子に安堵していた。イルカの治療の姿を目にしたあとの行き違いの際には容赦ない対応をされたからある程度の覚悟はしていたのだ。
 今日はこのままイルカを外に連れ出すつもりで来たが、イルカはのってくれるだろうか。
 ずっと部屋にこもってもんもんと考えているからろくな思考にならないのだ。イルカに必要なのは気分転換。もっと外に目を向けることだ。
「ごはん食べたら出かけましょうよ」
 お茶をだしてさりげなく切り出したがイルカは無表情のままちらりと目を向けてきた。
「……出かけるって、どこにですか。行きたいところなんてありませんよ」
「いいじゃない。ぶらぶらしようよ。映画見たり、そうだ、買い物付き合ってよ」
「やですよ。なんで俺が」
「いいじゃないですか。お互い休みだし。夕飯ご馳走しますよ」
「行きません」
「行こうよ」
「行きません!」
「強情だなあ」
「どっちが」
 卓袱台を挟んで睨み合う。一歩も引かないとばかりに決意の込められたイルカの目に、カカシはまたほっとした。沈んでいるよりはたとえ怒っていても元気な姿のほうがいい。
「じゃあ〜、帰ります。頑固なイルカ先生にはかなわないや」
 立ちあがろうとすれば、イルカは急にすがるような目でカカシのことを見た。イルカに、自覚はあるのだろうか。そんな目で見られたら、帰れないではないか。
 動けずにイルカの言葉を待つ。時計の針の進む音を聞くでもなく耳にいれていると、そういえば肝心なことを忘れていたとカカシはきちんと座りなおした。
 昨日のことは、やはりカカシは自分のほうが悪かったと思うのだ。そのことをきちんと謝らなければならないと思う。
「ごめんなさいイルカ先生」
 イルカの身じろぐ気配がした。
「あの……」
「昨日言ったことは訂正はしません。俺だけが悪いとは思いません。でも、やっぱり、俺のほうが悪かったって、思います。本当に、すみませんでした」
 微妙なものいいかもしれないなと思いつつも潔く頭を下げて顔をあげれば、イルカはなにかさぐるような深い目の色でこちらを凝視していた。
「イルカ先生?」
 名を呼んで、それ以上続けられない。
 イルカはかすかに首をかしげて、カカシのことを見つめていた。カカシのことを責めるような感じはない。懸命に考えている。なにを? 一体なにを思っているのだろう。
「カカシ先生」
「はい」
 腹の底に力をこめてイルカの言葉を待つ。
 イルカは不意に気弱げに表情を曇らせた。
「カカシ先生は、なんで、あんなふしだらなことをしたんですか?」
 え、とカカシが反応できずにいるうちにイルカは困ったように眉尻を下げる。
「なんで、あんなこと……」
 イルカは泣きそうな顔になって、両手のこぶしを膝の上できつく握りしめていた。
「カカシ先生の言うことは難しくて、俺にはわからないんです。俺は、男で、ロボットだって言ったのに、どうしてカカシ先生は、俺にあんなことができるんですか」
 一言一言をかみしめるようにイルカは口にした。
「以前にもカカシ先生に言われましたよね、ロボットだってことをいいわけにしているって。でも仕方ないじゃないですか。俺がロボットなのは事実なんですから。人間だったらわかることがわからなければ、自分はロボットだから仕方ないって納得させるしかないじゃないですか」
 言葉を止めたイルカは苛立ったように髪に手を差し入れて俯く。
 ぽたりと落ちたイルカの涙に突き動かされ、カカシは卓袱台を回り込んでイルカの手を引いていた。座ったままイルカを胸に抱き寄せる。
「泣かないで、イルカ先生」
 下ろしたままのイルカの髪をそっと撫でる。大切な宝物のように、丁寧に、心をこめて。
「ごめんなさい。イルカ先生がロボットだってことをいいわけにしてるってことを俺のほうがいいわけにしてました」
「なん、ですか、それ……」
 とまどいに揺れているイルカの声。カカシは抱きしめる手に力をこめた。
「難しいことはやめにしましょうってことです。俺は、イルカ先生が好きなんです。それだけを受け止めてください。それだけでいいですから」
 説明にもなっていないカカシの言葉に返すようにイルカの鼻をすする音がする。
「イルカ先生が好きです。だから俺、ふしだらなことしちゃうんです。だってイルカ先生のこと愛しちゃってるからね。昨日は本当にごめんね。でもイルカ先生のことが大事だから、最後まではしないで我慢しましたよ」
 少し茶化して言えばイルカが体を離して赤い目をして真っ直ぐに見つめてくる。
「俺は、カカシ先生のこと、嫌いではないです。でも、よくわからないんです。昨日は治療を頼んだだけで、なのに、カカシ先生はとても興奮してました。好きな相手に対しては、あんなふうになってしまうものなんですか? 俺には、わかりません」
 わからないと言ってイルカは真剣な顔で訴えかけてくる。不安げに瞳を揺らして。
 生きていくことはわからないことにぶつかって、わかったり乗り越えたり諦めたりとそんなことの繰り返しだ。
「わからなくてもいいよ。でもね、イルカ先生。イルカ先生のこと好きだっていう男の前で、まあそれは俺のことですけど、あんな格好はしないでください。イルカ先生としてはただの治療だってことはわかってるんです。でも男は単純な生き物だから、好きな人間のあんな姿見せつけられたら、わけわかんなくなります。好きな人じゃなくても、たとえば若い女性に裸で目の前に立たれたら理性なんてすぐに飛んでっちゃいますよ」
 言い含めるように静かに口にすればイルカは不満げに顔をしかめる。
「俺だって男です。それくらいわかります。でもカカシ先生は男だから。男なのに俺みたいな特別でもなんでもないロボットのこと好きだなんていうから」
「特別だよ。イルカ先生は俺の特別な人」
 静かに告げればイルカは瞳を見開いた。
「とく、べつ?」
「うん。好きな人だから特別な人。誰よりもイルカ先生が大事。イルカ先生が俺の一番」
 カカシの言葉に不思議そうに瞬きを繰り返すイルカに苦笑する。
「もう。何回も言ってるでしょ。イルカ先生が好きだって」
 潤んだ赤い目が間近にあって、カカシは誘われるように自然と首をかしげていた。
 うすく開いていた唇に一度触れてから、イルカの目をじっと見つめたまま舌を差し入れる。びくりと反応したがそのまま舌を受け入れてくれる。ぞろりと舐めて、絡める。ん、と吐息を漏らしたイルカだったが目を閉じてカカシの行為を許してくれている。跳ね上がる心臓に落ち着けと言い聞かせ、甘い唾液を味わって、名残惜しいが身を離す。
 息が上がったまま、イルカはカカシの肩に額を伏せたままでいた。
 そのまま背に手を回してしまえば抑えがきかなくなりそうで肩に置くことで堪える。
 落ち着いたイルカが顔を上げた時に笑いかけた。
「ね、仲直りしようよイルカ先生。ね……?」
 そっとお伺いをたてれば、泣いて潤んだ目をしたままで、イルカは頷いてくれた。

 

 

 

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