れぷりかんと   10    







「あの、イルカ先生、その後具合の方は」
「問題ないです。ちゃんと治療してますから」
「ち、治療、ですか」
 アカデミーの廊下でイルカに追いついて尋ねれば、すげなく返される。
 ちらりとカカシのことを見たがすたすたと歩みを止めない。
「あ、あの、具合がいいなら、今晩、めし食いにいきませんか?」
「いえ、結構です。お疲れ様でした」
「イルカ先生……」
 それ以上追いかけられなかった。
 その場で足を止めて肩を落とす。
 無視されないだけマシだと思わなければならないのかもしれないが、まともに口をきいてもらえないなんて辛い。何度も思っていることだが、あの時イルカを罵倒した己をぎたんぎたんにして簀巻きにして海にでも沈めてしまいたいカカシだった。
 しばしその場で沈んでいたカカシだったが、気を取り直して歩き出す。決めたのだ。決して諦めないと。
 それからもめげずにイルカに声をかけ続け、イルカの元に出没を繰り返していると、ある時とうとう、ちょっといいですかとイルカの方から声をかけられた。
 もうそれだけで天にも昇る心地になったカカシはしまりのなくなりそうな顔をなんとかきゅっと引き締めてイルカの後を追う。職員室からでたイルカがカカシを連れてきたのは生徒がいなくなった放課後のアカデミーの教室。そこは偶然にもあの夜にイルカのことを見た教室で、カカシはなんとなくいたたまれないような気持ちになった。
 しかしイルカは全く頓着なくくるりと振り向くとカカシを見てため息をついた。
「カカシ先生。いい加減にしてください。はっきり申し上げて、うっとうしいんですけど」
 ずばりのことを言われてカカシは一気にテンションが下がる。
「すみません……」
 まずは謝罪の言葉を口にすれば、イルカは苦笑した。
「謝るくらいならやめていただくと嬉しいんですけどね。カカシ先生ストーカーって言われてるんですよ」
「ス、ストーカー!?」
 うっと息がつまるが、しかし、ただの事実だ。そう考えれば開き直ってカカシは顔を上げた。
「ストーカーでもなんでもいいです。それより、イルカ先生の体が心配なんです。本当に、大丈夫なんですか? 少しでも具合悪かったら無理しないで火影さまの元にでも行ってください」
 意気込んで告げれば、イルカは窓際に寄りかかると、カカシから視線をはずすように外を見た。ふわりと風が舞い込みイルカの髪を揺らす。
「心配してくださるのはありがたく思います。でも、本当に大丈夫なんですよ。そもそも俺はロボットだから、そう簡単にどうにかなったりしませんよ」
「でも……」
 イルカはそうは言ってもカカシはなかなか納得できない。
「未知のことが多いですよね。今木の葉にはロボットの研究者はいないし、なにかあったらイルカ先生はどうしたらいいんですか。俺、イルカ先生にもしものことがあったら」
 それ以上のことが考えられない。怖くて、考えられない。
「どうしてカカシ先生が、そんな、辛そうな顔、するんですか」
 意外だ、という声音がありありのイルカの声。イルカの目の奥は無垢過ぎて、カカシには読み取ることができない深いものを湛えていた。
「言ったじゃないですか。イルカ先生のこと、好きだって」
「俺のことが好きだとカカシ先生が辛いんですか」
「そうです。好きだから、イルカ先生にもしものことがあったらって考えると、辛いんです。苦しくなるんです」
 訴える声ですらかすかに震える。目を逸らさずにイルカを見つめれば、イルカはそっと目を伏せた。
「正直言って、わからないんです。そういう気持ちが」
 どこか疲れたようなイルカの声。
「俺、自分がロボットだって知って、全くショックじゃなかったとは言いません。ずっと人間だって、兄さんたちのオリジナルだって思ってたんですから。でも、納得できる部分もあったって言いましたよね」
 そうだ。あの時イルカは確かにそう言った。その続きの言葉を聞くことはできなかったが。
「俺、ガキの頃の記憶が曖昧な部分が多いんです。兄さんや姉さんたちといたことはすごく覚えているし、父さんのこともカカシ先生のお父さんのことも覚えています。でも、五歳の時に死んだっていう母さんの記憶は全くないし、兄さんたちがいなかった頃の記憶も全くなかったんです。別段、そのことがおかしいって思ったこともなかった。母さんのことは小さすぎて覚えていないだけだって父さんに言われてましたしね」
 でも五歳ですよ、とイルカはため息を落とした。
「俺にはわからないことが、感情が、たくさんあります。俺、恋愛感情って持ったことないんです。カカシ先生が言うような、特定の誰かを失ったら自分がどうにかなりそうな怖い感情なんて、知りません」
 イルカはかすかに笑ったようだ。
「俺の治療は、まるで自慰をしているような姿なんですよね。だからカカシ先生はふしだらなんて言ったってことは理解はしました。でも俺ふしだらなんて言葉、本当に知らなくて、意味を知った時、すごく、すごくショックでした。こんな言葉があって、そう思われる自分がすごく嫌で」
「それは」
 とにかくイルカはふしだらと言われたことに深く傷ついてしまっているようだ。いつまでもそのことを口にされるとさすがにカカシは辛い。言った事実をなかったことにはできないから。
 床を見つめたままイルカは話し続ける。
「自慰なんて、知識としては知ってますけど、したことありません。もちろん、セックスだって。俺には必要ないことだから」
 思わずカカシは問いかけそうになり、口をつぐむ。健康な成人男子がそのての気持ちを持ったこともないというのは確かに、普通とは言えないのかも知れない。
「友達もいるし、ナルトや生徒たちのことだってかわいいと思います。でも、感情の深い部分で、受け入れていないのかもしれない。そんなふうに思うんです。だから俺ロボットなんだって」
「そんなことないです。イルカ先生は優しい人です」
 カカシは否定した。否定せずにはいられなかった。目を見張るイルカにぐっと視線を据える。
「イルカ先生は、優しいです」
 もう一度しっかりと言い切ったが、イルカはふっと笑った。
「優しいなんて、そんなことはいくらでもふるまえます。だって俺達ロボットは人間に優しくしたいってプログラミングがされてるはずですから」
「それは違うよイルカ先生。断じて違う。じゃあイルカ先生は、あの人が俺の父のことを好きになって、それで俺の元に来てくれて自分で命を止めてしまったこともプログラミングのせいだって言うの? 違うでしょ。それは違うよね」
 たたみかけるように言えば、イルカは口を引き結ぶ。
「ちゃんと、自分の意志で、自分の感情を持っていたからです。イルカ先生だって、そうです。だいいちそんなプログラミングがされているって言うなら、イルカ先生が俺に冷たいのっておかしいじゃないですか」
「おかしい、ですか?」
「イルカ先生は最近俺に冷たいです。プログラミングされているなら俺に優しくしてくださいよ」
 本音をのぞかせたカカシの言葉にイルカは首をかしげる。しばし考えて、ふと笑った。
「そうですね。確かに俺、カカシ先生に冷たくしてますね。ロボットなんだか人間なんだか、中途半端ですね」
「それでいいじゃないですか。イルカ先生はイルカ先生なんだし。ロボットだからとか、言わないでくださいよ。いいわけみたいに聞こえます」
「いいわけかあ……」
 背を向けたイルカは窓を大きく開け放つ。グラウンドから届く子供達の大きな歓声が教室の中に入り込む。カカシは黙ったままイルカからの言葉を待った。
「父さんは、どうして“イルカ”の代わりが欲しいなんて思ったんでしょうね。カカシ先生はどうです? 今までに失った人たちが取り戻せるなら、取り戻したいと思いますか。全くの同じ人物ならそれもいいでしょうけど、所詮は偽物なのに、それでもって思いますか」
 イルカの言葉は問いかけではなかった。誰だってそう思うとわかってはいるのだ。
 イルカがこちらに顔を向けないのが幸いだった。もしもイルカに見られたならカカシはいささか情けない表情をしていただろうから。
 あの人が取り戻せるなら、と思わなかったとは言えない。あの人の面影を感じて最初はイルカに近づいた。だから結局そこから導き出される結論は、どうしようもなく、もう一度と思ってしまう気持ちを否定することはできないということ。失った存在に対してはどうしたって後悔が残る。その気持ちを昇華させたいと思うのは、それは、要するに。
「生きている側のエゴだとしても、取り戻したいって思います。それは、当然でしょう?」
「一度きりだから尊いって言いませんか、命は」
 イルカの醒めたような声音にカカシはむっとした。
「そういう、きれい事は言わないでくださいよ。大切な人にはずっと生きていて欲しいって思って何が悪いんですか。取り戻せるなら取り戻したっていいじゃないですか。イルカ先生の唐変木!」
 子供なら舌でも出しそうなカカシの剣幕に、イルカは振り返って少しばかり驚いたような顔をする。
「トウヘンボク……」
 脱力したようにイルカは肩を落とした。そのまま寂しそうに口の端を結んだ。
「カカシ先生は、いいですね。とても、人間らしくて」
 かみしめるようにそんなふうに言われてしまって、カカシはそれ以上続けることができなかった。

 

 

 

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