僕忍(ぼくにん)−カカシ− 承






 あの時、泣いたイルカ。あんなふうに子供のように手放しでぼろぼろ泣かれると後味が悪い。父にも言われていた。女性や弱い者には優しくしろ、と。イルカは中忍。カカシより弱い。その弱い人間を泣かせてしまった。
「いいじゃねえかよ。あれ以来好きだ好きだってまとわりついてこないんだろーが。お前の生活に平和が戻ってきたんだろ」
「そうだけど、あんなに泣かせてちょっとかわいそうだったかなって。あれ以来受付で会っても元気ないんだよあの人」
 カカシは任務で一緒になったアスマに帰り道でぼやいてみた。木々を猛スピードで移動しているが、互いの声は暢気だ。
「ったく面倒だなお前はよ。だったらイルカに言い過ぎたって謝ればいいだろうが」
「そんな簡単に言わないでくれる? あの人僕と目が会うとおどおどしちゃって人が変わったみたいになっちゃったんだから。そんな人に無理矢理詰め寄るのも難しいの。それにへたに謝ってまた勘違いされても困るし」
 はあとカカシはため息をつく。
 今更ながら気づいたが、イルカはやっかいな人間だ。関わってしまうといてもいなくても人の生活をかき乱す。だいたい今までカカシに対してこれほどまでに傍若無人にまとわりつく者はいなかった。
 しかし思い悩んでも仕方ない。少しの申し訳なさはあるが、ここでへたに歩み寄るのは互いのためによくないだろう。
「ところでカカシよ」
「な〜に?」
「任務も無事に終わってそんなに急ぐ必要ないだろーが。ちょっと、寄ってかねえか?」
 アスマがにやりと口の端をあげる。
「駄目駄目。僕用事あるから」
「用事?」
「うん」
 と、その瞬間はカカシの顔がにこやかに華やぐ。
「今日はね、通信販売で頼んでおいたお洋服とお紅茶が届くの。帰りにスイーツを買って、お洋服着替えて、お紅茶飲みながら読書して過ごすの」
 アスマは飛び移った木から一瞬足を滑らせそうになった。



 昼過ぎには受付所に任務報告ができた。アスマと軽い昼食をとって、木の葉名店街でお気に入りのケーキを買ってついでに花束を買い、カカシはいそいそと自宅への道を急いでいた。ずっと楽しみにしていた商品が届けられる。気持ちが浮き立ちイルカのことも頭から消えていたが、こらあ! とどこからか怒声が聞こえた。下品な声にカカシは眉をひそめてきょろきょろとあたりを伺う。
 そこは木の葉の中心地が少し離れて、忍ではない一般の人々が育てる稲田が道の両側に広がっていた。折しも季節は田植え時。里への任務要請の中でもこの時期一番多いものだ。アカデミーを卒業して順当に下忍、中忍とステップアップする間におそらく100%の子供たちが田植えを経験すると聞いたことがある。カカシは特殊な育ちをしたのであいにく田植えをしたことがない。任務とあればやるしかないが、スリーマンセルを率いての際はカカシはもっぱら監視役に徹していた。正直、泥くさいことはあまり好きではない。
 田の中に、子供たちのかたまりがあった。一人背の高い男は頭のてっぺんを結ぶトレードマークのイルカ先生。イルカの怒声がただっぴろい場に響いていた。
「お前ら、精魂込めて植えないと罰があたるぞ。飯好きだろ? この小さな稲がなあ、秋には米になるんだからな。新米で作ったにぎりめしうまいだろうが」
 すると子供の誰からいきなりおなかがすいたーと喚く。他の子供らも唱和してごはんーごはんーと騒ぎ出す。絵に描いたようなやぶ蛇。
 イルカはとうに昼を過ぎていたことに今頃気づいたのか慌てて子供らを田んぼの畦からあげる。するとちょうどいいタイミングでやってきた田んぼの所有者らしい矍鑠とした老人が皺の多い顔で笑ってねぎらう。ぺこぺこと頭を下げるイルカは子供らを導いて大きな藁葺き屋根の家に消えていこうとしていた。
 ぼんやりと、ただなんとなくそこにたたずみ様子を眺めていたカカシだが、なぜかくるりと振り向いたイルカと目が合ってしまった。無防備でばちりと視線が絡む。
 イルカは、目をそらすか気まずげな顔をするかと思いきや、笑った。豪快に笑って、ぺこりと頭を下げて、走っていった。



 ふむ、とカカシは頷く。
 なぜか勝手に足が動く。そのままとことこと農家に向かった。



「はたけ上忍!?」
「こ〜んにちは〜」
 いきなり広い居間に縁側から入ってきた上忍にイルカはあわあわと口の端に飯粒をつけたまま立ち上がった。
 老人の妻と思われる綺麗に日焼けした老婆に買った花とケーキを渡してにこりと微笑めばそれだけで場を用意されて茶を運ばれた。
 アカデミーの低学年と思われる子供たちはものおじせずにこの人誰ーと聞いてくる。
「こら、お前ら! こちらはな、はたけカカシ上忍だぞ。写輪眼の使い手で、えーと、千だったか万だったかの技をちゃっかりコピーしてリサイクルして使うエコノミー忍者なんだぞ。環境に優しいまさに木の葉にぴったりの方なんだ!」
 イルカの訳のわからない説明に子供たちは一斉に首をひねったが、老婆がメロンを運んできてくれると一気に関心はそっちに向いて、イルカとカカシは取り残された。
 お前らー! とイルカは一人憤っているが、懐かしく感じるイルカの言動にカカシはつい小さく吹きだしてしまった。
「な、なんですかはたけ上忍」
「いや、あいかわらずだなーって思ったらおかしくてね」
 イルカはぷうと頬を膨らませて怒ったが飯粒がついた顔ではまったく効力がない。カカシはのんびりとつやつやとしたおにぎりを咀嚼していたが、傍らのイルカが居心地悪そうにしているのは察知していた。
「あの、はたけ上忍、今日は」
「任務の帰り。帰るところで偶然ね」
「はあ……」
 確かに、はあ、としか言いようのない返答だ。アカデミーの授業の一環としてここにいるイルカたち。カカシはここにいる必要はないのだ。
「あの」
「ごめんね」
「はい?」
 イルカの言葉を遮って謝罪の言葉を口にした。
 お茶を飲んで一息ついて、イルカを見れば惚けたようにぱかりと口が開いていた。
「だから、大嫌い、なんて言って、ごめんね。さすがにあんな言い方はなかったよね。僕反省したんだ。許してくれる?」
「え? あ、いや、その、そんなっ」
 イルカはがばあっと頭を下げた。
「と、とんでもないことですっ。もともとはたけ上忍は高嶺の花だったんです。わかってたんです。俺が勝手に勘違いしてまとわりついてたんです。はっきりおっしゃっていただいてよかったんです。俺そうでないと多分ずっと気づかずに馬鹿なアタック繰り返していたと思うんですよ。いや昔から結構そんなとこあって」
「イルカ先生〜。子供たち見てるよ〜」
 いきなり土下座した担任を子供たちと家の老爺老婆までじっと見ている。イルカは我に返って居住まいを正して赤い顔をして頭をかいた。
 子供たちはげらげらと笑う。イルカもつられてそのうちに笑い出したが、なぜかその横顔は少し寂しげだった。





 それからイルカは受付所でもカカシに対して普通に接するようになった。
 上忍に対する敬意を持って職業意識を持って、そつなく仕事をこなす。
 けれど必要以上にはカカシに対して声をかけることもなく、カカシはなんとなくそのことに物足りなさも感じていた。
一度くらいに飲みに誘ってみようかと思っていた頃にイルカは突然アカデミーも受付も休みだした。もちろん無断ではないが。
 他の中忍に聞いたところ、連続休暇が許される2週間をすべて有休を費やして休む予定でいるという。
「関わらねえほうがいいんじゃねえのか?」
 イルカの自宅に行ってみると言い出したカカシにアスマはもっともなことを口にした。
「でもねえ、気になるんだよね。ちょっと顔みて元気だったらそれですっきりするし」
 優雅にランチステーキにナイフを入れながらカカシは告げた。
 禁煙の店にいらいらしているのが丸わかりのアスマは仕方なさそうにワインに口をつけてぐびりと飲む。
「イルカのこと嫌いなんだろ」
「前はね。今はそんなことな〜いよ。せまってこなくなったら礼儀正しいし話はずしてるところがいいし、結構面白い人なんだあの人」
 のほほーんとカカシは邪気のない顔で微笑むが、アスマはしかめっ面のままふうと息を落とした。
「まあ、見舞いだってなら止めねえけどな」
 アスマはなんとなくやめたほうだいいと言ってきたが、カカシはその日の夕方イルカ宅の戸を叩いた。
 中忍たちが居住する質素なアパート。イルカの部屋は一階の角部屋だった。
 茶色のドアはところどころ色あせて、壁も灰色で、確実に築20年は経っているとみた。もちろんチャイムなんてないから、カカシはノックした。
「イルカせんせ〜い。カカシで〜す。はたけカカシで〜す。いますかー」
 気配があるからいるのはわかっている。だがきちんと声をかけるのがカカシの流儀だ。優しく軽快なノックをしつつ、声をかける。しかしイルカは答えない。
 カカシの決断は早かった。
 鍵をかけているがさっさと開けてしまう。
 そして開けた途端、空気のこもった匂いにむっとなる。家の匂いと、人の匂い。しかもこもった匂い。風呂に何日にか入っていないような、汗というか自然とかもしだされる体臭。
 口布をしているカカシがだがその上から手を当てて、家にあがった。
「イルカ先生。あがりますよ。この家なんか臭いですよ」
 台所、風呂場、トイレ。すぐに居間。六畳ほどしかない。窓際にベッドがあり、イルカはそこに仰向けに寝ていた。両手を頭の後ろで組んでぼんやりと天井を見ていた。
「イルカ先生〜?」
 近づいて、カカシは眉をひそめる。イルカは明らかに風呂に入っていない。ほとんど体臭などないはずのイルカがここまで臭うとは。ふとベッドの下の板の間を見れば、カップ麺の空やら弁当の空やら菓子の食べかすやらペットボトルやらと散らかっている。小さな虫もたかっているではないか。
「ちょっと、イルカ先生。汚い。どうしたの」
 反応しないイルカの顔には無精ひげ。なんとなく顔が薄汚れているのはやはり風呂に入っていないからだろう。
「イルカ先生……?」
 さすがにカカシは心配になる。イルカはまるで人形にように、息をしているのかも定かでないような生気のなさだ。とにかくカカシは窓を開け放って空気の入れ替えをして、目に付くゴミを片付けた。しかしあまり触れたくないようなものも多数有り、適当なところで切り上げてカカシはイルカのベッドの端に腰掛けた。
「ねえイルカ先生。どうしたの? 何かあったの? 僕でよければ相談というか、お話きくくらいはできるよ?」
 カカシが優しく申し出てもイルカは無視だ。
 ただ天井をじっと見つめたまま、勝手にあがりこんだカカシに気づいているのかもあやしいイルカはきっと何かあったのだろう。それも、ショックなことが。それはわかりやすい態度で憶測できるが、その内容をいちいち聞き出す必要などない。きっとイルカは一人でじっと堪えて、そしてまた日常に戻るという選択肢をとったのだろう。だから無断ではなく期限つきで休んだのだろう。
 ならばここにカカシがいてもきっとイルカにとっては大きなお世話だ。何も言わないが内心放っておいてくれと思っているかも知れない。
「めんどくさーい」
 まるでアスマのようなことをぽつりと呟いたカカシは立ち上がった。
「ごめんね勝手にお邪魔して。僕帰る。でもイルカ先生、お風呂は入った方が、いいと思うよ」
 カカシ精一杯の気持ちをこめて言ったのだ。なのにイルカはそこで初めてカカシにちらりと視線を向けた。
 初めて見るイルカの目の色にカカシは立ちすくむ。すさんでよどんだ目の色をしたイルカは、ぼそりと返したのだ。
「うるせー……。帰れ」
 と。
 そこでカカシはもちろん怒って帰るのが正しい反応というものだろう。確かにカカシはお節介なことをしている。頼まれてもいないのにのこのことやってきて。しかもつい最近までまとわりつかれ迷惑していたイルカの家に。
 だがカカシは、イルカの言葉に怒りよりも、なんというか、腹の底が冷えるよう空虚なものを感じた。
 あんなに生き生きとしていたイルカが、何があったか知らないがここまで暗く沈んですさんだ色合いを身につけてしまっていることが悲しい。そう思ったカカシの行動は早かった。
「起きなさいイルカ先生」
 言いつつぐいっとイルカの腕を取る。
「っ……離せよ、出てけよ」
「何かあったんだなってことはわかるけど、あなたこんなところにいたら駄目だよ。もっともっと気持ち沈んじゃうよ」
「ほっとけって言ってるだろーが。あんた、俺にまとわりつかれて迷惑してただろ! どっか行けよ!」
「行くよ。イルカ先生連れてね」
 だだをこねるように手を振り回すイルカを掴んだまま有無を言わさず印を結んだ。