僕忍(ぼくにん)−カカシ− 起






 追いつめられていた。
 逃げ場のない壁際だ。顔を囲うようにして壁に押しつけられた二本の腕。顔を見ていたくなくてうつむけば、なにやら下肢が至近距離にせまっている。ひーっと心の中で悲鳴をあげて青ざめたまま慌ててまた顔を上げれば、にんまりと笑う顔とばっちりと目があった。
 すでに内心冷や汗だらだらだ。
「今日こそ色よい返事、聞かせてくれるんですよね」
「い、色よい返事って、前から、とっくに、返事してるじゃないですか」
「俺が聞きたいのはそんな返事じゃあないんですよ。てか俺の耳便利にできてるんで、きちんとした返事じゃないと受け付けないんです」
「そんな、横暴です! あれ以外の返事なんて持ち合わせてません」
「はあ? 聞こえませんねえ……」
 相手はわざとらしく耳に手をあてて、あらぬ方を向く。
 涙がちょちょ切れそうになりながらも息を吸い込み、声をあげた。
「だから、あなたとはお付き合いできません! イルカ先生!」
 頑張って叫んだカカシの声は残念ながら裏返っていた。





「何で僕がこんな目にあうわけ〜。もうほんと最悪ー」
 上忍控え室でカカシは同僚のアスマ相手にぼやいていた。
 ちんまり抱えた手の中のカップにはホットミルクが入っていた。
 向かい側に座るアスマはたばこの煙を盛大に天井に向けて吹いた。
「ま、なんだな、てめえの運の悪さを呪うんだな」
「ひっどい。人ごとだと思って」
「そりゃあ人ごとだろうさ。楽しい見せ物だな」
 アスマは人の悪い顔でにんまりと笑う。
 この春、カカシはアカデミー卒業生の担当教官の任につくことになった。うちはの生き残りと九尾を抱えた子供がいるということで、火影直々の指名だった。
 カカシの手厳しい試験に見事合格した子供たちの担任だったというのがうみのイルカという中忍教師だった。
 そして桜の木の下で初めて出会う。
 真っ黒の髪を頭のてっぺんで結わえて、90度に頭を下げられた時は礼儀正しい好ましい人物だと思ったのだ。
 顔をあげたイルカは少しの間カカシのことをじっと見つめて、大きな口で豪快に笑った。
「いやあ、かっこいいっすね、はたけ上忍! いや他人行儀だしカカシさんって呼ばしていただきますね。俺のこともイルカと呼んでください。俺あなたのこと知らなかったんですよー。なんか火影様が言ってましたけど有名人なんですってね。この間食堂で初めてあなたのこと知りました。ビンゴブックに載っている、写輪眼の使い手だって。でもぶっちゃけ写輪眼ってなんすか? まあどうでもいいですけど、忍者データブックの写真いけてなかったですよ。なんか胡散臭いし変質者みたいな感じで、絶対にかかわらねえと思ったんですけど、実物いいじゃないですか。わかりましたよ、あれっすね、うっかりビンゴブックに載るへまやらかしちゃったから、なるべくねらわれないために、変な写真載せたってことですよね。さっすが写輪眼の使い手は違うますねってしつこいようですが写輪眼がどんなのか知らないんすけどね」
「・・・・・・」
 立て板に水、なんてものじゃない。大瀑布に落ちる滝のようにでかい声と唾が飛び散るような勢いでイルカは語っていた。早口で滑舌も悪いから半分くらい何を言っているかカカシにはわからなかった。ただお坊ちゃん育ちゆえ曖昧な笑みを浮かべて拷問のような時間に耐えていた。
「でも上忍もたいしたことないっすね。ビンゴブックに載っちゃったら、外まわりの時大変じゃないですか。俺カカシさんとは任務に就きたくないなあ。ほら、狙われる率高くなるしね。俺の夢は年金生活で悠々自適ってやつなんすよ。命あってなんぼのものじゃないですかー」
 そうですね、と相づちを打つ気にもなれずにカカシは口布で見えないのを幸いに口元を引きつらせていた。
 そこにいきなりイルカの手がにゅっと伸びてきたものだから、カカシは咄嗟のかわすこともできずに口布を下ろされ、左目の額当てをはずされていた。
「うっはー。いい男っすね。超いけてますよ。これは隠して正解。こんな顔さらして歩いていたら襲われちゃいますよ。目の色違うんですね〜。あ、どれどれ、写輪眼って、なーんだ、ようするに目になんか模様があるけどこれがそういうことなんすね。でも写輪ってより、なんか勾玉みたいですね〜。いやおたまじゃくしかな」
「・・・形より、回るから・・・。あと、敵の術を、コピーできるし・・・」
 写輪眼の誤解くらいは解きたくて、カカシは小さな声で告げる。そこにかぶさるようにイルカのでかい声が響いた。
「ええ〜!? まじっすか? 回せるんすか? コピー? それって人間じゃないですよ。もしかしてカカシさんメカ? ロボ? コピーできるならテストとか楽勝じゃないですかー。俺中忍試験の時テスト問題のせいで3年間落第ですよ。カカシさんは写輪眼のおかげで楽勝でしたね〜。いいなー。まじ羨ましいっすよ」
 イルカが心の底から感動しているのは、なんとなくだが、わかる・・・。わかるが、いい加減温厚なカカシも切れそうだった。
「あの・・・」
「というわけで惚れました」
 あの、と言ったままでカカシの口はぽかんと開いたままになった。
「カカシさんがロボだろうがメカだろうがおたまじゃくしだろうが、俺には関係ない。あなたを幸せにします」
 イルカのたくましい手がカカシの両肩にがっしと置かれ、目を見開いて固まったままのカカシに口を突き出して頬をうっすらと染めたイルカが、んーと顔を寄せてきた。
「ぅわ〜! へんたーいっ」
 カカシは思わず上忍の全力でイルカを吹っ飛ばしていた。
 それからもイルカはカカシにまとわりついてくる。気の弱いカカシだが言うべき時はきちんと言うのだ。付き合えない、とズバリ断っているのにどこ吹く風。イルカはめげずに今日も油断したカカシを校舎の脇に連れ込んで迫ってきたのだ。
「あの人おかしいよ。僕は何度も何度も断っているのに全然わかってくれないの。もうなんとかしてよアスマ〜」
 カカシはテーブルに顎を載せて突っ伏した。
 恨みたらしくアスマを見上げる。
「おめえがつけこまれる隙を与えてるんだよ。その坊ちゃん坊ちゃんした見た目と言葉使いから改めろ」
 アスマに指摘されてカカシは己を省みる。
 身なりはこざっぱりと、標準の忍者と何も変わらない。銀髪と白い絹のような肌は父の自慢だったからきちんとお手入れしているが、他に何もかわることはないと思うのだが。
「まあ言っても仕方ねえか。おめえはもう雰囲気がぼっちゃんだから仕方ねえよな。こればっかりはな」
「なんで? 僕普通だと思うけど? だって今更“俺”なんて言いづらいし、なんかしっくりこないっていうか、気持ち悪いんだもん。でもね、任務の時とか、必要な時は僕だってやるよ。やる時はやらなきゃってパパにも言われてたからね」
 カカシは今は亡き自慢の父のことを話す時、花が周囲に飛ぶようなほんわりとした笑顔になる。くの一たちをいちころにする母性本能を直撃する笑顔だ。
 これで26才の立派な成人男子なのだから、アスマもため息しかでてこない。カカシの無防備な外見はそれゆえに誰も手がだせずに、庇護を受けて生きてきたといっていい。かくいうアスマもガイも紅も古いつきあいのカカシのことを自然な感じでかばってきたように思う。
 だがまあもともとカカシは強い。誰もかばう必要などない。だから中忍イルカなどカカシの敵などではないのだが、カカシがとまどうのもわかる。今までこんなにもストレートにカカシにせまってきた者はいない。黙っているとなんとなく近寄りがたいカカシの外見からまず告白しようなんて猛者はいなかったし、あこがれが強すぎて、自分一人のものにしたいなどと思う輩がいなかったのだ。
 しかしイルカは違う。得体が知れない。きっと何も考えていない。いや、カカシのことだけ考えているのか。
 イルカに追いかけ回されて憔悴しているカカシというのもアスマには新鮮だった。
「お友達から〜とか言って少し付き合ってやるってのもいいんじゃねえか? で、あの中忍にいかに自分たちが合わないかって突きつけてやりゃあいいじゃねえか」
「駄目だよ。一回付き合うなんて言ったらきっと僕一生つきまとわれちゃうよ」
 とんでもないとカカシは目をむく。
「だったらカカシが彼女作ればいいのよ」
 入ってきたのは紅。つややかな黒髪を柔らかくなびかせて、カカシの隣に腰を下ろした。
「あたしがフリをしてやろうか?」
 甘えるようにカカシの肩に寄りかかる。カカシはそんな紅の頭にちゅっと口を寄せた。
「ありがとね紅。でも僕嘘は嫌だよ。紅にも迷惑かけちゃうかもしれないし。あの中忍さんってストーカーみたいなんだもん。僕も夜道には気をつけているんだ」
「カカシだったらいくらでも返り討ちできるでしょ」
「ストーカーは一筋縄じゃいかないんだよ。普通の人間が思いもしないことを仕掛けてきたりするんだよ? 絶対あの人僕の任務の経歴とか集めてうふうふ言ってるよ。最近はゴミだしも気をつけているんだ。個人情報の漏洩だからね!」
「ビンゴブックに載っている人が個人情報の何もあるわけないじゃないですかー」
 悪夢の声が降ってわいた。
 控え室の入り口のところでイルカがかりかりと戸をかいていた。
「なんなんですかこれー。中忍は入れない結界とか張っちゃって。感じ悪いっすよ上忍の方々」
「俺は反対したんだけどな。誰かさんがここでくらい一息つきたいとか泣きつくからな。了承してやった」
 アスマはわざとらしくカカシのほうを見て告げる。しかしイルカはわからないのか、首をかしげた。
「誰かさんて誰ですか? そんな陰湿な方がいましたっけ?」
 ぶっとアスマは吹き出した。この会話の流れでカカシ以外の誰がいるというのか。
「ちょっとイルカ先生。あなたいい加減カカシにつきまとうのやめてくれるかしら?」
「つきまとう? 心外な。俺は誠心誠意をもってプロポーズしてるだけですよ紅上忍」
「だからね、カカシは嫌だって言ってるでしょ。さっさと諦めなさい」
 立ち上がった紅が近づいて指を突きつけると、イルカはぱちぱちとまたたきを繰り返した。
「いつカカシさんが嫌だって言いました?」
「はあ!?」
 さすがの紅も頓狂な声を上げてしまった。アスマもずるりとソファ滑る。カカシは頬に片方の手を当てて、ぽかんと口を開ける。
「カカシさんは俺のプロポーズを受けられないっていいますけど、嫌だなんて言ってませんよ? ね、カカシさん」
 確かに、カカシはイルカに対して嫌いだと直裁的な言葉は使っていない。だが普通なら、これだけ逃げ回られたなら、嫌われていると察するものではないか、と思っていたのが甘かったということか。
 カカシはイルカのそばに近寄ってきた。途端にイルカの見えないしっぽが振られる。
「俺、おいしい店知ってるんですよ。今日給料日なんで、おごります。こいつらにもカカシさんのこと紹介したいし、どうですか?」
 イルカは満面の笑みで給料袋でも入っているのか懐をどんとどついてげふっと咳き込む。イルカの背後には、見たことはないが中忍と思われるひと組の男女が控えめに立っていた。
 悪い、人間ではないのだろう。だが、交際はお断りしたいのだ。元来がぼっちゃん育ちのカカシにとって嫌な相手でも他人に対して傷つくような言葉はあまり使いたくない。だがこのあたりでばしっと言ってやらないと、イルカの為によくない気がした。これ以上、イルカが勘違いしないうちに。
「あのね、イルカ先生」
「はい! 何時頃お迎えに来たらいいでしょうか? 俺は今日5時までです」
「そうじゃなくて。僕、イルカ先生のこと、嫌い、なんだ」
「え? もう少し大きな声で言ってくださいよ」
 イルカは耳に手をあてがって結界ぎりぎりに押しつけてくる。はあとため息を落としたカカシは覚悟を決めて息を吸いこんだ。
「僕、イルカ先生が、嫌い。大嫌いなの。だからもうつきまとわないで」
 カカシは拳をきゅっと握って目をつむって大きな声ではっきりと告げた。
 イルカは、のろのろと顔を上げる。捨て犬のような頼りない光が黒目に揺れる。
「俺のこと、嫌い、なんですか?」
 イルカはみじめな様子で問い直してくる。うっと詰まってしまうカカシだが、ここでひるんでいはいかんと更に言葉を重ねた。
「はっきり言って、タイプじゃないの。嫌いです」
 今度は目を開いたまま、イルカを睨み付けるように見たままで言えた。
 イルカはかくんとうなだれて、そのまま威勢良く土下座した。
「も、もうしわけありませんでしたー! 俺、馬鹿だから、嫌われてるって気づかないで、まとわりついてたんですね! 本当にすみませんでした!」
「ちょっ、と。何も土下座することないでしょ」
「いいえ! 本来なら上忍の方に無礼の数々。死してお詫びしなければならないようなことです。でも俺もまだまだ先のある身なんで今死ぬわけにはいきません。だからお詫びします。でもナルトたちのことはこれからもよしなによろしくお願いしますー!」
 がーっと一息で言い切ったイルカは、土下座したままずずりずりと後ろに下がって、くるり向きを変えると、走り去っていった。
 その後を、友人らしい二人の中忍が追う。律儀にカカシに頭を下げていった。
 一瞬のスコールを浴びたような気分で残された上忍三人。
 なんとか口火を切ったのはアスマだった。
「まあ、よかったんじゃねえか?」
「そうね。これでまた明日から平穏な日々が戻ってくるわよ」
 うん、と二人に頷きながら、カカシはどこかに一抹の寂しさも感じていた。