僕忍(ぼくにん)−カカシ− 転






 一瞬の間。空気が変わる。
 イルカは突然の移動に目をぱちぱちとさせて周囲を見回す。
 里の郊外、カカシの自宅は瀟洒という表現が似合う家だった。
 鉄の門扉があり、そこを開けて砂利が敷き詰められた道を歩く。ポーチの両脇にはプランター。色とりどりの花が綺麗に手入れされて咲いている。白く頑丈そうな扉には獅子の頭部を模したノッカーがついている。しかし威圧感を与えることはなく、家の全体はこじんまりとまとまり、物語の中のかわいらしいおとぎの家のようだった。
 その現実感のなさがイルカを現実に戻す。
 隣に立つ上忍の顔をぎこちなく見つめる。
「あの、はたけ、上忍、俺」
「申し訳ないけどねイルカ先生」
「ははは、はいっ」
 イルカは思わず直立不動になる。今更ではあるが家にひきこもって早五日。その間着のみ着たまま、風呂にも入らずにいた自らを省みてカカシと距離をとる。カカシは固い表情をしているが相変わらず整った顔でイルカに引け目を感じさせた。
「申し訳ありませんでした。俺ちょっと、いろいろありまして。あ、いえたいしたことではなくてごくごく個人的なことで中忍の俺の個人的なことといったらそれこそミジンコみたいなものなんですがそれでも俺なりになんと言いますか深刻でもありまして、なんもやる気おきなくて、それならそれでとことんやる気をなくそうって思ったんですけどやっぱおなかは空くしトイレは行くしでまあこれが生きてるってことかなーと」
「あのね、イルカ先生」
 カカシに遮られてイルカは再び失態に気づく。いつも言われているではないか。自分だけ喋るなと。イルカは両手で口を塞いだ。そしてそのまま深く頭を下げると身を翻そうとした。
「そっちじゃなくて、こっち」
 カカシの綺麗な手がイルカの汚れた服の裾をはっしと掴んだ。ひっとイルカは飛び上がりそうになる。
「あああああの! はたけ上忍、手が、汚れます。俺、俺ってば、五日も風呂入ってないってばよ!」
 なぜか動転したイルカはナルトの口癖になっていた。あわあわと馬鹿みたいに口を開けてパニック寸前のイルカの手を引いて、カカシは家の横から勝手口のような少し小さめの入り口に連れてきた。
 そこはキッチンと風呂場へ入れる裏口だった。
 そのキッチンも、ステンレスがぴかぴかに磨かれていた。うすいピンクのタイルの壁を基調にした乙女チックなデザイン。ナベのたぐいはすべて赤。鍋掴みはハートの模様があしらわれ、エプロンはフリルがついて大きなリボンもデザインされている。
 ぽかーんと口を開けてイルカが見回していると、風呂場のほうから呼ばれた。
 男二人がいても狭さを感じさせない脱衣所でカカシからお風呂セットを一式渡された。
「まずは、体きれいにして、それから、お話しましょう」
「えええ? でも、俺」
「あのねえイルカ先生。いい加減僕も怒るよ」
 苛立つカカシの声にイルカはひゃあと奇声を発した。
「わかりました。とにかく、お湯、もらいます」
 イルカは慌てて風呂場に逃げ込んだ。
 しかしそこで再び固まる。
 ゆったりと大の大人が足を伸ばせる白亜のバスタブ。淡いグリーンの湯には桃色の花びらが散っている。窓際にはプランターにグリーン。日差しがきらりきらりとまぶしく注ぐ。お湯はとうとうと沸き、贅沢に花びら模様のタイルを濡らす。広々とした洗い場にはシャンプー、石けんだけではなく用途不明な風呂場グッズがたくさんならんでいる。四方を囲む壁のひとつには全身を移せそうな鏡が特殊加工でもしているのか曇らずにイルカの間抜けな姿を映していた。
 ぽかんと口を開けたままぐるりを見回すイルカの鼻にはかぐわしくもさわやかな香りが満ちる。ついつい鼻をうごめかしてくしゃみを連発した。
 鼻水をすすりつつ、五日間着たままの小汚い自分の服を脱ぎ捨てるにはどうしたものかとイルカが考えていればせかす声がした。
「イルカ先生。脱いだ服はここに置いておくかごに放り込んでおいて。あとで洗うから」
 ひーっとイルカは飛び上がる。
「めめめ、滅相もありません。捨ててください。俺術使って帰りますからっ」
「イルカ先生」
 ぴしりと冷たいカカシの声にイルカはまた口を塞ぐ。なんだかよくわからない状況なのだがカカシの不穏な気配から、逆らわない方がいい気がするのだ。
 手早く素っ裸になったイルカは服を丸めてしばってがらりとガラス戸を開ければまだそこにいたカカシと鉢合わせした。
「うわあっ。ちょっ、すいません!」
 別に男同士なのだがとにかく慌てまくったイルカは下半身を隠して背を丸める。そのまま背をむけて戸を閉めてしまえばいいのだが、なぜか蛇ににらまれたカエルのようにイルカはカカシから目が離せずにいた。
 カカシは涼しげな顔をして、忍服のベストは脱いでいた。細いが引き締まった体にフィットした黒のアンダーと白い肌の対比の妙がカカシのことをなまめいて見せていた。じっと見られて沈黙耐えきれずにイルカはまた口を開けた。
「あのあの、俺なんかが湯船に入っていいものでしょうか? いえもちろん綺麗に洗います、そりゃあもう生涯ないくらいに磨き上げますよ。でもそれでも俺にしみついた貧乏くさい匂いといいますかそういうのが残り香として残ったら申し訳ないので、あ、そうだ。俺ぴっかぴかに風呂場を磨いてからあがります。はいそうします。それでこっそり裏から帰りますので」
「イルカ先生」
 目の前のカカシがにっこり笑った。とてもきれいな顔で。一瞬みとれるくらいの整った笑みだった。ぼーっとしているうちにカカシの細い指先がイルカの口のあたりですっと横にひかれた。
「お口にチャーック」
「むごっ!?」
 術にかけられたようだ。イルカは喋れなくなった。裸であることも忘れて両手を鳥のようにばたばたさせて暴れる。このまま喋れないなんて、と涙目になってしまう。
「もがもがうるさいですよ。お風呂からあがったらちゃんと解けますから。黙って、大人しく、綺麗にしてきてくださいね」
 イルカはぶんぶんと首を振る。カカシは最後にもう一度優雅に微笑んで背を向けた。





 がっしがしに磨いて風呂場から出た。
 カカシに言われた通りに用意されていた服を広げれば、なんてことはない、バスローブだった。それもタオル地のものではなくて、つるつるとして、おそらく上等なシルクと思われるもの。しかも色はワインレッド。それを広げて呆然としたイルカは周囲をきょろきょろさがしたが服のたぐいは一切なかった。
「か、勘弁してくれ」
 ひーとイルカは頭を抱えた。
 仕方なくタオルで拭いたあとの体にそれをはおって、ふわふわのスリッパを履き、ほどよく空調がきいた家の中、キッチンから通じる大きな樫の扉を開けた。
「はたけ上忍、ちゃんとした服貸してください。こんなんじゃ俺」
「いらっしゃーいイルカ先生。しっかり磨いた?」
 イルカは、これで何度目か固まることになる。
 広い部屋のコーナーの一角に置かれたソファでカカシはくつろいでいた。天井には小さいがシャンデリア。木の床には花模様が織り込まれたカーペット。部屋の三分の一を占める大きなベッドにはクリーム色の天蓋がついている。ふわっふわの羽毛に間違いない布団。イルカの見たことある範疇を超えている部屋だが、何よりも目を釘付けにされたのは、カカシだった。
 カウチソファに座って優雅に長い足を組んでいるその姿。
はるるさんから頂いたひらひらカカシv  ひらひらの袖がついたこれもシルクに違いない生地のシャツ。胸元は大きく開いて、そしてそこもひらひらとしている。袖口もきゅっとしぼられてひらひらがついている。下半身はぴったりとした皮の黒いパンツ。黒いブーツもきちっとはいて、手元には小さなカップを持って。
「イルカ先生、僕の隣においでよ。お紅茶飲む? それともワインがいい? 他にウイスキーと、ウオッカと、ビール、もあるかな。おつまみはチーズと、ナッツがあるけど」
 大理石と思われる丸テーブルにカップを置いたカカシはイルカの隣を抜けてキッチンにいく。ふわりと流れた風は香水なのか甘い匂いを運んだ。
「どうしたのイルカ先生。お口開いてるよ」
 さあさあとカカシに肩をおされてイルカはカカシの隣に座らされた。
「はーいイルカ先生。かんぱーい」
 無理矢理もたされたグラスにはカカシと同じワインが入っている。ちん、と合わせた時の音がまた清らかな音で、グラスも高いに違いない。
 カカシは慣れた手つきでおいしそうに飲むが、イルカは自棄気味で飲み干してテーブルに置いた。これ以上この家にいて想像の範疇を超えることを見せつけられたら脳みそがどこかおかしくなってしまうかもしれない。
「あの、はたけ上忍、この家は、一体……」
「僕のおうちだよ。パパと暮らしていたんだ。でもパパも僕も任務が続いてたからあまりゆっくりしたことはないんだけどね」
「はたけ上忍の、格好は……」
「素敵でしょ。僕ひらひらのお洋服大好きなの。木の葉の忍服はちょっとかたいよね〜。もっと、おしゃれな感じにすればいいのに。僕絶対公募があったら応募するつもりなんだ」
 喜々として語るカカシの言葉からついイルカはひらひらの忍服をまとった木の葉の忍軍団を想像してしまいくらりと目眩を覚えた。
 やはりさっさと退場するに限る。
「はたけ上忍、お話、します。洗いざらいぶちまけますから!」
「そんなに気負わないでよ。僕楽しくなってきちゃった」
 カカシはくすくすと笑っているがイルカはそれどころではない。ぐるぐる回る思考を立て直して、きちっと背筋を伸ばす。膝のあたりに手をおいていざ、という時に不意にカカシの手が伸びてきた。
「イルカ先生、きれいな黒髪だね」
 目の前にカカシがいた。それこそ息もかかる目の前に。生乾きのイルカの髪を指でつまんでいる。美形の至近距離にイルカはがーっと頭に血が上る。
「なーにを言ってるんですか! はたはた、はたけ上忍みたいな人が綺麗って言うんですよ」
「うん。それは知ってるよ」
 にこっとカカシが笑うからイルカもつられてにまっと笑う。するとカカシは吹きだした。
「もう、何をそんなに緊張してるの。リッラクスしてよ」
 ぽんぽんとカカシはイルカの頭をいなすように叩く。
 リラックスできるわけなどないはずなのだが、カカシの手が存外優しくて、イルカはふっと肩の力が抜けた。
「そう、ですね。今度はビールでももらえますか?」
 イルカが鼻の傷をかきながら告げればカカシはにこやかに、優雅にイルカを饗応した。




光琳堂のウメさんから頂いたひらひらカカシv