おとぎばなし 8
帰宅して機械的に夕飯の準備を進めたが、食欲は全く沸かなかった。
結局作ったものに手をつけずに冷蔵庫にしまい、酒を取り出して一口飲むことで、やっといつもの平坦な気持ちが戻ってきた。
ごろりと寝転がれば疲れを感じた。カカシの顔が浮かぶ。
ムキになって辱めるようなことをするべきではなかったと、後悔が少しばかり押し寄せる。
男のあんなものをくわえるなど正気の沙汰ではないと知らず苦笑が浮かんだ。力を使ったわけではないから、あれだけのことでイルカにはまるということはないだろうが。
目を閉じれば、思い出したくもないことが脳裏を巡る。
3才の時に起きた事件の後、数年の間、イルカは実質的に自宅に軟禁された。イルカに対して耐性のある両親とだけ過ごし、友達と遊ぶことも許されず、いつも家の中で過ごすように命じられた。
アカデミーに通える年齢になった頃に力の訓練を受けることになったが、イルカは、それにたちまち魅せられた。
面白くて仕方なかった。力を使えば相手がいいなりになる。
自分の力の意味するものがよくわからないままに、何度となくイルカの前で膝を折る人間を見て満足を得た。
里の忍である大人たちが、イルカのことをうっとりと見つめ、愛を請うのだ。さっきまで厳しく叱りつけていた者が、イルカが見つめてそっと触れると、イルカの歓心を買うためにぎこちなく笑うのだ。
そんなイルカに両親だけは厳しかった。特に母は、誰より厳しくイルカを戒めた。
それはイルカを駄目にする力だと何度も言われた。イルカの小さな肩をきつく握りしめ、涙を堪えた目で訴えかけられた。
人の心を操るとは言っても、イルカにとってはゲームのような感覚で、何が悪いのかわからなかった。だが母が辛そうで、ごめんなさい、と謝った。
両親の辛そうな顔を見たくなくて、イルカは力の行使を控えるようになったが、本当にはわかっていなかった。
この力が、忌まわしいものだということを。
実感として力の呪わしさを知ったのは、好きな子ができた時だ。
アカデミー入学当初からずっと一緒の子だった。その子には別に好きな相手がいることは知っていたが、それでも好きになって欲しかった。だから気持ちを伝えた。幼く真っ直ぐな心のままに、伝えた。
すがすがしいほどに真っ直ぐな心根を持ったその子は、イルカの告白にあいまいなことは返さずにはっきりと他に好きな相手がいると言い切った。それでも好きだと重ねて告げた時、思わずその子の細い肩をつかんでいた。祈るような気持ちを込めていた。
びくりと震えた華奢な肩。その感触を未だに忘れることができない。
揺らいだ瞳。ぼうとした目が焦点を結ばず遠くに泳いだあと、イルカを見つめ返す時には憑かれたようだった。
青白い顔をして、しぼりだすような声で苦しげに、たどたどしく好きだと告げられて、イルカは思わず突き飛ばしていた。
走りながら足下が揺らいだ。もつれて、何もないところで転んだ。
心臓が早鐘のようで、こみ上げてくるものに口を押さえた。
操ったのだと、はっきりとわかった。初めて、わかった。意に沿わないことを言わせた。無理矢理に、言わせた。好きだと言われてもこれっぽっちも嬉しさなどない。あの子には他に好きな相手がいることを知っているから、偽りの言葉だとわかるから。
ずるをして誰かの心を己のものにするなんて!
その時が初めて心の底から己の能力を嘆いた時だった。
母を責めた。母のせいだと、実験にされた母を責めた。母はひとことのいいわけもせずに、泣いてこぶしをぶつけるイルカを抱きしめてくれた。ごめんと言ったしゃがれた声が、耳に残っている。
その時に、うっすらとだが、自分の先が見えた気がした。
誰も好きになってはいけない。好きになんかならない。
そう決意して、必死になって能力をコントロールすることにまい進した。
この力は操って支配下におかなければ己の心を滅ぼしてしまう力だと、自覚したから。
里の上層部では力を封印することはできないのかと、さまざまな方法が模索された。イルカだけのことではなく、他にも大蛇丸の実験の犠牲になった者たちがいたからだ。
だが、力を持ってしまった者たちにとって、それは持ってしかるべき能力なのだ。望まなくとも与えられてしまった力ではあるが、力を持っている今の姿はその者にとっての自然の姿だ。無理に封じれば逆に体に負荷をかけることにもなりかねないという意見が大勢を占め、そしてそれが実証された報告されて、現状のまま力を操るすべを学ばせることしかないと、結論づけられた。
それならば、と両親はイルカ共々里の忍であることから身を引こうとしたが、国の情勢がそれを許さなかった。
犠牲者たちを三代目火影がいくら庇いたくても、むしろ大蛇丸の悪行を許した責任の一端でもある火影だからこそ、強行に主張することはできなかった。
国の大事なのだから、力のある者は力を行使するべきだと。
忍としての生を逃れられないと悟った時、母はイルカの力がどのように使われるべきものなのかを伝えてきた。もしもイルカが忍としての生を望まなければ、その通りにしてみせる。絶対に誰にも文句は言わせないと、両親は言い切った。分別もつく年になっていたイルカは、そんなことをして、両親がただですむはずはないとわかっていた。
親を思う気持ちと、そして、なにより自分の意志で、イルカは忍の道を選んだ。力は忌まわしくとも、里は好きだ。ずっと忍になるのだと思って生きてきた。だから迷いはなかった。
進むべき道を決めたのは、九尾の襲撃のみつきほど前だった。
心を閉ざしていたイルカの中にあの男はするりと入りこんできた。
九尾の事件後に天涯孤独となったイルカにとって懐かしさを覚える暖かな笑顔に安堵した。言葉を交わせば心が満ち足りた。何も知らなかった、幸せだけを知っていればよかった頃の気持ちが自然と蘇った。
だから、力をおさえなければと思っていたが無意識に開放してしまったのかもしれない。それが、あの男の人生を狂わせた。
任務を失敗するわけにはいかない。仕方ないことだと念じつつ抱かれたのに、情けないことに体が喜びを感じた。体をなぞられて、心も震えた。
あの時、あの瞬間、あの男を愛した。
だからこそ忘れたかった。どんなに愛したとしても、あの男の傍らはイルカがいていい場所ではない。
別れる時の、思い詰めたような目の色を見たくなかった。なぜならそれは術ゆえのものだから。一時のものだから。イルカは愛した。だがあの男には愛する人間が別にいる。つきつけられる事実から目を逸らして、別れた。
その時に里に戻ってから体調不良でひとつきほど療養することになったのは、力の本格的な行使につきまとう報いの予兆だった。
火影の庇護もあり、力を行使する機会はないままに数年経ったが、中忍として充分経験を重ねた頃に、初めて力を使う任務が下された。任務として明確に拝命した。
心の伴わない相手に身を任せた時、こんなものかと思ったのが正直な感想だ。
暴力的な気配をまとった男はイルカを乱暴に組み敷いた。何度か頬を張られたが、マニュアルを駆使して男の背に両手を回して真っ直ぐに見つめれば、男はとろんと酔ったような目になり、イルカの体を丁寧にしつようになぞりだした。イルカの屹立したものをしゃぶり喜んでイルカの放出したものを飲み込んだ。
ぞっとした。
男は快楽に喘ぐが、相手が溺れれば溺れるほどイルカの脳裏は冷めた。
頭痛と吐き気が同時に襲ってきたのは嫌悪ゆえだと思ったが、どこかに違和感を覚えた。
長引かせるのはまずいと本能的な部分で悟り、体中の倦怠感やしびれに耐えて、気力を振り絞り自ら男にまたがった。体を揺すりながら男の耳元に毒を注いだ。
苦しくて仕方ない。治療のできるところに連れて行って欲しいと。治ったならまた、と告げれば、男は素直に従った。
上官に男を引き渡した後、イルカは倒れた。
高熱が続き、意識は朦朧として、食事をまったく受けつけず、一週間で10キロも体重を落とした。
医療班に徹底的に調べられた結果、今回の任務によるものであると断定された。たった一度の任務からそうだと断定していいものかと異論はでたが、精神的なものだけではなく、他者との交わりが毒になると検査結果が出た。
その結果に誰よりも異論を唱えたのはイルカだった。せめてもう一度試させて欲しいと願い出た。
このまま役立たずのままで終わりたくない。
だが、その道のエキスパートが自ら訓練を買って出てくれたが、結局、検査結果を裏付けただけだった。開花した力が火花のように散りばめられていたのだ。ほんの少しの接触で、イルカが具合を悪くしただけでなく、その道の手練れがイルカに夢中になり、術をなかったことにするために強力な催眠療法を施すことにまでなった。
結局。
それだけがイルカが力を使った唯一の任務となった。
次から次に泡のように浮かぶ過ぎた日々に、眉間に皺が寄る。
忍になったことを間違いだとは思わない。けれど自分のような心弱い人間が忍になるなど、適正としては間違っていたのかもしれない。
弱さゆえに、あの男の人生を壊した。里の裏切り者とはいえ、たった一度の任務で抱かれた男のことも10年もしばりつけた。
なんていう呪い! これほどのものだとは思っていなかった。
けれど今更どうやって違う生き方を選べばいいというのだろう。
カカシになら、と不意に思ったのは何故なのか。
強いカカシになら、イルカの惑いなど吹き飛ばす力があるだろうか。
そんな馬鹿なことを考えて、目を閉じた。
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