おとぎばなし 3    








 もしも聞かなければ、生涯思い出そうとしなかっただろう。
 けれど忘れることはなく、記憶の奥底に封じていただけだ。
 忘れていたかったのは向き合いたくなかったから。嫌なことから目を背けることが悪いことだとは思わない。己を守るためなのだから、何も悪いことなどない。
 己の定めを見極めてからずっと、誰とも深く関わることなく、たゆたうように生きていこうと思った。
 けれど生身の生きている身にとっては思うようにいかないことばかりで、感情を揺すぶられることもある。ナルトのように、心動かされる存在に会うこともある。
 ああそういえば、と不意に思い出す。
 カカシはどこか浮世離れしている。
 カカシと出会った時、現実から遠く離れた場所にいて、花と星の世界に遊離しているような感覚を覚えたものだった。
 嫌いな言葉、運命。
 けれど偶然と片付けるには、カカシとの間に確かな道筋ができてしまっているような気がした。





 外回りの任務に出たのはいつだったかすぐに思い出せないくらいだ。
 アカデミーの子供達を連れて遠足やら演習やらに連れて行くことはあっても、里からの見えない結界が張り巡らされている、危険のない範囲内に限られていた。
 だから結界を超えた場所は開放感と共に緊張感もあり、背筋がきりりと伸びるような感じがする。適度の緊張が快い、大人の足であと半日も歩き続ければ里に着く距離。
 木の葉の里を潤沢にうるおす緑の中には危険はなにもない。
 それはわかりきっていることのはずなのだが。
 イルカはぴたりと足を止めた。
 ため息をつけば背負った荷は軽いはずなのにどっと重さを感じてしまう。
「カカシ先生。出てきていただけませんか?」
 気配が、あからさまに動揺する。イルカの目の前に立ったカカシはさすがにばつが悪そうな顔で、頭部に手をやっていた。
「カカシ先生。俺は要人ではありませんよ。護衛していただかなくても、誰も襲ってきません」
 とがめるつもりでいたのだが、カカシがふて腐れたようでいて照れくさそうに白い頬に朱をのぼらせるから、イルカは小さく笑ってしまった。
「戻りましたら、カカシ先生に会いに行こうと思っていたんです」
 歩きながら話しましょうと言って先に進みだす。
「先日は、と言ってももう半月も前になってしまいますが、大変申し訳ありませんでした」
 かるく頭を下げればカカシは肩を竦めた。
「よしてくださいよ。もとはと言えば俺が悪いんですから」
「ですが、あとから考えてみましたら、あんなに感情をぶつけるようなことではなかったので。それに、目上の方に対して礼を失する態度をとってしまいました」
「あ〜あ。他人行儀なんだから」
 せっかく迎えに来たのに、と両手を頭の後ろで組んだカカシはぼやく。
 やはりそうかと、イルカは内心で苦笑する。カカシがなぜこんなところにいたのか、それは想像に難くなかった。いきなり姿を消したイルカの消息を辿ったのだろう。
 カカシともめたあと、すぐにイルカは火影の遣いという任務を仰せつかった。というよりも、無理矢理届け物の任務をひねりだしてもらったというほうが正解だ。
 任務の実質は十日ほどで済むところに有休をかぶせた。そのわけはもちろん火影には話してある。それ相応の理由だと、認めてくれだのだろう。
「そう言えば、カカシ先生。“貞操の危機”はどうなりました?」
「ああ。もちろん、守り通しましたよ。イルカ先生に捧げるためにね」
 軽口をたたくカカシに、苦笑する。苦笑したまま、自嘲に笑みを変えて、語る。
「俺、あの人があの後どうしたのかなんて、全く、知りませんでした」
 カカシから聞いたあの男の家族が隣国の僻地に移り住んでいることを調べた。会ってどうするというのか。なにかを語ることができるわけでもないのだが、出かけずにはいられなかった。
 イルカは、何も知らなかったから。
 今回、任務に赴いた場所からそう遠くない場所は、自給自足で自然とともに穏やかに生きていけるところだった。
 出会った時、男は奥方と二人の息子の写真を大切に懐に偲ばせていた。写真を見せるのはもったいないといいながらも、幸せそうな顔で、イルカに語って聞かせてくれた。運命の相手を待っていた甲斐があった。おかげで最高の女と、かわいい宝物を手に入れることができた、と。年甲斐もなくロマンチックなことを、と照れながらも輝く目をして語ったのだ。
 本当に、幸せそうに。
「あの人に家族がいたことは、ご存じでしたか?」
 いきなり問いかけたが、カカシはちらりとこちらを伺って頷いた。
「ええ。最後を看取ったのは俺でしたから。形見もあって、会わざるを得なかった」
「俺が言うようなことではありませんが、ありがとうございました。写真が、ちゃんと飾られてました」
 くしゃくしゃだったものを丹念にのばして飾ったのだろう。あの美しい奥方はもう男のことを許している。
「美しい奥方でしたでしょう? 品があって、聡明で。村で学校の教師をしていましたよ」
 二人の子供たちも大人の世界へと足を踏み入れる年にはなっていた。あの男に似て力強く、そして奥方に似て賢そうな目をしていた。
「そうですね。きれいでしたね。若いころはさぞかし美人だったと思います。俺だったらあれくらいきれいな人と一緒になって子供までいたら、別れたりしませんけどね」
 カカシはさらりと突くべきところを突いてきた。
 歩いていてよかったとイルカは思う。正面から向き合っていたら、目を逸らしていたことだろう。俯いたことだろう。横顔にカカシの視線を感じるが、前を向いたままで、こたえた。
「あの人が奥方と別れることになったのは、俺のせいです。俺が、あの人の人生を狂わせてしまった」
 自嘲を声に乗せたが、カカシは首を振る。
「何があったのかは知りません。でもイルカ先生はあいつに何も悪いことはしてないでしょ。あいつはイルカ先生のこと忘れられない存在だって。あなたのことを語る時、幸せそうでした。恨みなんてかけらもなかった」
「恨んでくれるほうが、よかったんですけどね」
 恨んでもらえたならどんなにか楽だっただろう。
 イルカとの件の後であの男が家族を捨てて外回りの忍としての道を選んだことは今回初めて知った。
 昔世話になったことがあると訪ねてきたイルカを、奥方は快く迎えてくれた。
 ご家族と別れていたことを知らなかったと水を向ければ、奥方は苦笑しながら語ってくれた。
 ある時任務から戻ったらいきなり別れたいと切り出されたと。理由もないままに了承はできず重ねて問いつめれば、家族以上に大切な存在に出会ってしまったと告げられた。
 昔のことですからね、と奥方は目元に優しげな皺を刻んで笑っていたが、大切な存在、と言いながら、男がとても辛そうな顔をしていたことが印象に残っている。忍ではない自分にはわからないことが男の身に起こったのだろうということを察して、別れることは了承したが、いつか気持ちが落ち着いたなら戻ってきて欲しい、子供たちと会ってもかまわないと思っていたが、当の子供達のほうが、不実な父親とは二度と会わないことを選んだという。
 結局男は一度も戻ることはなく、ある日形見とともに訃報が届けられた。
 何も家族と別れる必要などなかった。なのに生真面目な男は、心の中を占めてしまった相手がいながら、それを押し隠して愛する家族とともにいることが許せなかったのだろう。
 男は任務後に別れる時、忘れないで欲しいと言った。願われた。だがイルカは、たったそれだけのひとつだけの願いも果たさずに、男の記憶など封じ込め、生きてきた。
 一息入れようと顔を上に向けて息を吐く。吸い取った空気は緑が濃く、生きているものの香がした。けれど少し息苦しい。
「中忍になったばかりの十代の頃です。任務で、あの人と組むことになりました。長期の潜入任務でした。完遂まであと少しのところで手違いがありまして、あの人と、寝ることになってしまったんです」
 手違いの中身は言えないのですが、とワンクッションいれる。
「たった一度、一晩だけでした。それが、あの人の人生を変えてしまったんです」
 拳を、ぐっと握りしめる。手のひらは汗ばんでいる。どうやら緊張しているようだと人ごとのように思う。
「カカシ先生?」
 隣を同じ速度で歩いていたカカシが立ち止まってしまう。振り返れば、カカシは上忍らしからぬ無防備な表情をしていた。
「どうかしましたか?」
「たった一度抱いた相手が忘れられなくて、あいつは家族を捨てたって言うんですか?」
 カカシの疑問は当然だ。そんな馬鹿な話。夢物語でもなければあり得ない。あり得ないが、実際に起こったこと。
「この際ですから言いますけど、カカシ先生が捕らえたという里の裏切り者。あの男とも、一度寝ただけです。これは純粋に捕えるための任務の一環で」
 二人とも、たった一度寝ただけ。
 だが大きな違いがある。イルカの気持ちがこもっていたかいなかったか。
「……」
 カカシは言葉もなくイルカのことを見つめる。なにかを探ろうという視線ではなく、ただ単純な愕きに目を見開いている。
「おかしいですよね。ありえないことです。でも、嘘は言ってません」
 愛を深め合った恋人同士ならば納得できることもあるだろう。だがそうではない。行きずりの相手みたいなものだ。それが絶世の美女ならばまだ話が通じる。けれどあいにくとイルカは少年の頃もどこにでもいるような風貌の、とりたてて目立ったところのない子供だった。それは今の凡庸な見た目からもわかることだ。
 それなのに、忘れられなくなる。
「イルカ先生は、一体……」
「だからカカシ先生。俺にまとわりつくのはやめて頂けますか」
 押し黙るカカシと対峙する。緑を縫って差し込む陽射しはどうしてか暗く、互いの顔に濃い影を落とした。