おとぎばなし 23    






 カカシの死は公にできるたぐいのものではなかった。
 ビンゴブックにも載る二つ名を持つ上忍であり、木の葉の情勢が不安定な今、カカシが死んだなどと明かせば他の忍びたちは動揺するだろう。
 木の葉の上層部とカカシの医療に関わった者以外はイルカが知るだけだ。
 いづれ知られること、公にしなければならないことだとしても、それは今ではなかった。
「きれいごとだったってわかりました」
 写輪眼を抜かれたはたけ・カカシの体がこの世からひっそりと消滅する日、アキハはイルカの家を訪れた。
 カカシの本体と言えた脳は医療班での手続きを経てから処分されるが、体の方は今日、焼かれる。
「わたしは、はたけ上忍のことを愛していたようです」
 玄関先でアキハは淡々と告げた。
「はたけ・カカシの生をまっとうしろだなんて、きれいごとです。今更ですが、あの人にどんな姿でも生きてほしかったと思いました。それが本音です。すみません」
 謝って苦笑するアキハは寂しげで、それでいてどこか突き抜けたような様子もうかがえた。
「アキハ上忍は、あの人があの人ではない姿になったとしても生きていてほしかったですか?」
 その問いかけはアキハに向けたがイルカ自身の心に向けたものでもあった。
 見た目の姿が別人であっても中身がカカシならば、それは充分カカシと言えるのではないか。それを真っ向から否定して、はたけ・カカシのままで生きて欲しいだなんて、今となってはおこがましい考えだった気がするのだ。
 カカシという個体にこだわる必要があったのだろうか? カカシの心さえ残ればそれでよかったのではないか?
 それも今となっては虚しいだけの繰り言で、結局自分が何を望んでいたのかわからなくなる。確かなことは、ただ、カカシにそばにいてほしかった。カカシと共に生きていきたかった。
「そう、ですね。今となってはそう思うんです。はたけ上忍に永遠を渡って欲しかったと。だって、誰だって、愛する人には一分一秒でも長く生きていて欲しいと思うものでしょう? 自分より、少しでも長く」
「でも、あの人は疲れていたのかもしれない。俺たちには想像できないじゃないですか。体を替えて、ずっと生きてきた人の気持ちなんて」
 イルカはわざと茶化したように口にした。アキハはかすかに微笑んで、それでは、と去って行った。イルカにも立ちあわないかと言ったが、それは丁重に辞退した。
 たとえ偽りの体であったものだとしても、カカシが本当に消えてしまうのを見たいとは思わない。
 偽り? 違う、そんなことはない。
 イルカにとってあの姿こそがカカシだ。他のことなんて知らない。
 子供の頃に最初に接した大切な人の死は両親だった。とはいっても、死にゆく姿も死体も見たわけではない。すべては九尾の混乱に飲みこまれた。逆にそれがよかったのかもしれない。親の死が本当のことだとは思わずに生きてこられた。現実を見ずに、生きてこられた。物心ついて振り回され続けた現実からちょっとくらい目を逸らすくらい許されるだろうと、それは今でも思っている。
 だが結局、最後は容赦ない現実に白旗を上げるしかないのかもしれない。
 カカシはもういない。
 どこにもいないのだから。
 数日前に霊安室で泣くだけ泣いて、今はもう落ち着いている。
 最初からこんな結末しかなかったのだろう。
 歪な2人には、歪な結末。
 カカシとの思い出を胸にしまいこんで抱えて生きていくなんて、センチに過ぎるだろうか?



 カカシの体がこの世から消えて一週間、綱手からの遣いで火影の執務室に行けば伝えられた。
 医療班での用が終わり、とうとう明日の未明には、カカシの本体も消滅することになると。
 心に波は立たなかった。
 そうですか、と冷静に返すことができた。
「最後に、カカシに会っておきな。特別に許す」
「いえ、お気持ちはありがたいですが、遠慮します。今更目にしたいものではないですから。あれはもう、ただの脳です」
 苦笑したが、綱手は黙ったまま、イルカを見ていた。
 落ち着かない視線に暇を告げようとしたが、綱手は引き留めるように手を上げた。
「明日の朝、早い時間にカカシは完全にこの世から消滅する。今日のうちに、会っておきな。年寄の助言は聞いとくもんだ。少なくてもイルカ、お前より人生経験豊富だよ」
 少しぶっきらぼうなもの言いは綱手らしいが、どことなく寂しそうにも見えた。
「綱手さまも、大切な人たちにはずっと生きてほしいと思いますか? たとえ姿を変えても心がそこにあるなら構わないって思いますか?」
 イルカのことをじっと見ること数秒、綱手はかすかに笑った。
「さあな、わからないよ。想像もつかないが大蛇丸みたいになるのはごめんだね」
「それは、確かに」
 イルカもつられて笑ってしまう。
「ひとつ言えるのは、ひとそれぞれ、行きつく場所があるってことだと思うよ。あたしもお前もね。カカシの行きつく場所はどこなんだろうね」
 無言のまま一礼してイルカは執務室を後にした。
 なんとなく、おかしさがこみ上げる。
 三代目にはずいぶんと可愛がってもらったが、綱手にも気にかけてもらえている。自らの出自を恨むことの多かったこれまでの人生だが、こんな特別扱いがあるのなら、少しだけよかったと思えた。



 布団にもぐりこんでも、全く眠気が訪れない。
 心に浮かぶのはひたすらにカカシのことだ。
 ある程度吹っ切れたと思っていたが、今夜を限りにカカシが本当にいなくなると思うと、眠れるわけがない。
 落ち着いている。心は穏やかだ。
 それは間違いない。
 それでも、眠れない。
 むくりと起き上り時計を見れば、布団に入ってから2時間は経っていた。
 今更眠る気になれずにカーテンをめくれば、空は闇から灰色へと変わり始めていた。夜は、明けようとしている。窓を開け、乗り出すように遠くの山を凝視する。そこから陽がのぼれば、いや、のぼる前にカカシの命は本当にこの世から消えるのではないだろうか?
 未明には、と言った綱手の声が脳に響く。
 イルカさん、と優しい声で呼んでくれたカカシの声がよみがえる。
 端正な顔も、笑うと目尻が下がって親しみやすいものになる。触れた体は温かくて、着やせする性質なのか、思ったよりもがっしりとしていた。いくさ忍として鍛えられた体だった。
 口づけられて、愛を囁かれて、溶かされて、精いっぱいの気持ちで、カカシを愛したいと思った。呪わしい体だとか、そんなことはどうでもよくて、ただ、カカシと結ばれたことが喜びだった。
「カカシさん……」
 名を呼べば、せき止める間もなく視界が歪み、涙が溢れた。
 霊安室で泣いた日以来、カカシの名を口にしていなかったのではないだろうか。声に出して、耳に入って、それがまた心の奥へと到達することを避けていた。
「カカシさん。カカシさん!」
 声が震える。胸が痛い。
 アキハは、姿を変えてもカカシに生きてほしかったと言った。
 綱手は、わからないと言った。
 イルカ自身はどうだ? イルカは、結局のところカカシにどうあって欲しかった?
 空が、確実に明るさを増してくる。山の稜線が、確かな輪郭を持ち始める。
 行かなければならない。
 忍服を手に取った時には何も考えていなかった。
 普段通り出勤するかのように素早く着替えて、イルカは家を飛び出した。





 久し振りにたどり着いた白い部屋には、変わらずカカシの脳が、浮かんでいた。
 これから処分されるというのが信じられない静けさだ。この先もずっとカカシはここにあり続けるのではないかと思える。
「カカシさん、イルカです」
 まるで初対面のような気持ちで名乗ってみた。ぎこちないが笑いかけてみる。
 そういえば初めて見た時、はたけ・カカシは現実から遠い場所にいるように思えた。その印象は間違っていなかったということだ。生きていながら生きていないような、それがカカシだったのかもしれない。
 浮かぶ球体にぎりぎりまで近づいて、両手をのばす。差し伸べる。
「カカシさん、来ましたよ、俺」
 もちろん、カカシはなにも返さない。
「俺は、どうしたいんでしょうか」
 そんなこと、俺に聞くの? 俺が決めていいの?
 カカシの声と笑い声がよみがえる。意識しなくとも、イルカの中に棲みついたカカシは容易にイルカを捕える。
 自分がどうしたいのか?
 自分で、決めなければ、選ばなければならない。
 イルカは望まずに与えられた力のせいでそのことをいいわけにして生きてきたところがあった。それでいいと、それが仕方ないことだと思っていた。たゆたって生きるのが自分なのだと。
 この力があるから。この力のせいだ、と。
 だが選べばいいのではないか? やりたいようにやればいいのではないか? ためらいは必要ないのではないか?
 後に起こることを、結果を考えずにやればいい。もともと結果なんて、やらなければ、始めなければわからない。
「カカシさん、俺は」
 イルカは、カカシに……。
 心臓が破裂しそうなくらいうるさく騒ぐ。
 回答を導くことがこんなにも高揚して、苦しいなんて。
 だが今は、心のままに従えばいい。
 イルカは、カカシに。
 カカシに生きてほしい。共に生きてほしい。それだけが真実の、シンプルな願いだ。そんなこと、とっくにわかっていた。
 認めれば、あまりに簡単なことに笑いたくなる。
 体中に溢れる力が、ほとばしる。指先から力が揺らめき、カカシへと向かう。
 イルカはひとこと、告げた。
「戻ってきてくださいカカシさん」
 俺の元に。





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