おとぎばなし 22    






 一緒に生きていこうと気持ちを確認しあって、もう一度幸せな眠りについて、次に目を覚ましたら輝かしい世界が待っているとばかり思っていたのに、イルカは目覚めなかった。
 陽が高く昇ってしまった頃合い、これから続く愛おしい世界に思いを馳せれば、カカシは腕の中の愛しい人間に、面はゆい気持ちで声をかけたのだ。
 寂しいからそろそろ目を覚まして、ね、と。
 イルカは安らかな満ち足りた顔で眠っていた。
 その眠りをやぶるのはかわいそうな気がしたが、寂しいのは本音で、カカシはイルカの顔中にキスをして、頬を撫でて、いたずら心を起こして頬を引っ張ったりもした。
 どれくらいの間そうしていただろう。
 おかしい、と思い始めた。
 どんなに疲れていたとしても、身じろぎくらいはしなければおかしいはずなのに、イルカはピクリとも動かないのだ。
 心臓に耳をつければ鼓動は間違いなく刻まれているからとりあえずは安堵する。
「イルカさん、ねえ、起きましょうよ。ねえ!」
 揺する。何度も何度も揺する。少し乱暴に揺すってみる。
 がくがくと動かしても、イルカは全く反応しないのだ。
「イルカさん!」
 思わず頬を張ってしまっていた。
 それでも目覚めないイルカにカカシは絶望的な気持ちになった。
 呼吸が苦しい。背を嫌な汗が伝う。
 目の前がちかちかして、ぎゅっと目をつむっていた。落ち着け、落ち着け、と己に言い聞かせる。深呼吸を繰り返し、正常な呼吸と思考を取り戻してからは早かった。
 素早くイルカの体を洗い、服を着せて、飛んだ。
 落ち着いていると思っていたが、血相変えて飛び込んだらしい。アキハには随分と迷惑をかけた。
 イルカは生きているのだから落ち着いてほしいと言われ、肩を強く掴まれて、カカシはよろめいて壁に体を預けた。
 アキハの他にも医療班の者がイルカのことを診てくれている。そうだ、イルカは生きているのだから、大丈夫だ。
 大丈夫なのだから、と思いながらも、もしこのまま目覚めなかったらどうしたらいい?
 そんな絶望的な想念が湧き上がる。
 いや、今までだって、イルカは他者と体を重ねた後にこういう事態に直面してきた。その都度必ず目覚めたのだから、大丈夫だ。
 だが、必ず目覚めると言う保証はない。
 否定したくても浮かんでくる嫌な想念にカカシはぎりっと歯を鳴らした。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
 祈るように呟いていれば、アキハがやってきた。
「はたけ上忍、ひどい顔色です。少し休んでください」
「大丈夫だよ俺は。何も、疲れていないし、大丈夫」
「海野中忍が目を覚ました時あなたがそんなだと心配されますよ?」
「いつ」
「え?」
「いつ目を覚ますの? 教えてよ」
 アキハはぐっと口を引き結ぶ。
「ねえ、すぐに目を覚ますんでしょ? 明日くらいまでなら待ってもいいよ? でもそれ以上は待てないかな。俺あんまり気が長いほうじゃないから」
 アキハの肩を握りつぶすように掴んで揺すっていた。
「はたけ上忍……」
 カカシがするがままに揺すられていたのはアキハの優しさだろう。
 どれくらいそうしていたのかわからなかった。カカシの動きを止めたのは後方からかけられた声だった。
「そのくらいにしておきなカカシ」
 ぴたりと動きを止めて振り返れば、綱手が立っていた。



「おまえに任務だよ」
 綱手が当初の予定よりも早く帰還してから三日、呼び出されたカカシは任務を命じられた。
 ずっとイルカの病室で過ごしていた。イルカの呼吸は浅く、心臓に直接耳を当ててもかすかな弱い鼓動に、本当に生きているのかと思ってしまう。ベッドサイドモニターを何度も確認してなんとか安堵するが、安堵したそばからすぐに本当は死んでしまっているのではと考えてしまい、寝ようと思っても睡魔は訪れなかった。妙に冴えた意識のまま、時おり仮眠をとることはあってもちゃんとした睡眠をとることなくこの数日を過ごしていた。
 もともと一流の忍であれば睡眠は少なくとも体調を整えることはできる。カカシの普段通りの色の薄い顔は疲労の色を見せてはいなかった。
「行きません。イルカ先生のそばにいたいんで」
「おまえじゃなければ駄目な任務なんだよ。じゃなきゃあわざわざ呼び出して命じない。それに、お前がそばにいたってイルカは目覚めやしないよ」
 わかりきった事実は聞き流す。黙ったままでいれば綱手はため息をついた。
「来たるべき時に備えてお前の写輪眼でコピーしてもらいたい力があるんだよ」
 無表情なカカシに綱手の声は幾分優しくなる。綱手をじっと見つめて、カカシはかすかな声を出した。
「綱手さま」
「なんだい」
「イルカ先生は、目覚めますか? あなたなら、目覚めさせてくれますか?」
 静かではあるが断固たる意思を秘めた声だった。綱手はすぐには答えない。机の上で両肘をついて組んだ手の上に顎をのせてカカシの視線を受け止めた。
「目覚めさせると言えば任務に行くかい?」
「行きます」
 即答したカカシだ。綱手は苦笑した。
「ずいぶんと惚れこんだものだねえ。うらやましいよ。若いってのはいいもんだ」
 見た目は若いままの美貌の綱手にそんなふうに言われてカカシは口元を緩めていた。
「若いって、俺の本体は綱手さまよりも随分と年上ですよ? 初代火影さまと同世代なんですから」
 綱手の軽口にカカシも軽口でこたえることができるくらいの気持ちの落ち着きは取り戻していた。
 綱手は可能性の全くないことに対して冗談であってもいい加減なことは言わないだろう。ましてや彼女の専門分野である医療に関することだ。
 ふと、わがままを言うのも大概にしなければならないなとカカシは冷静に思った。カカシは忍だ。一個人である前に忍だ。そうありたいからこそ、長い時を渡ってきたのだ。ここで忍であることを放棄すればカカシが生きる為に犠牲にしてきた多くの命に申し訳がたたないだろう。カカシの命はカカシ一人のものではないのだから。自分だけのものだと言ってしまうのは傲慢に過ぎるだろう。
「任務の内容を聞かせてください。イルカ先生のこと、くれぐれも頼みます」
「そうかい。行ってくれるかい」
「はい。行かなきゃダメですよね。行かないなら、俺は今までの生を否定することになる」
 綱手は笑った。
「そんな大げさなことじゃないさ。おまえは木の葉の上忍だ。しかもただの上忍じゃない。だから、おまえにしかできないことがあって必要とされれば行くんだよ。それだけのことさ。イルカのことは任せな。あいつを目覚めさせなきゃあおまえだけじゃなくナルトにも無能扱いされそうだからね。それは癪に障る。絶対になんとかするよ」
 綱手がさばさばと言ってくれたのが嬉しかった。

 イルカと出会うまで、長い長い時を渡ってきた。
 イルカと出会うために生きてきたのだろうか?
 そうだと言うには羞恥が先に立つ。
 イルカだけでなく、様々な人たちに出会うために生きてきたのだろう。思い出せる人、忘却の向こうに行ってしまった人、全てがかけがえのないもので一つ一つがカカシの血肉となっている。
 長い、長すぎる生。
 やっとゴールを迎える決心がついた。
 はたけ・カカシの体を持って、イルカと共に。
 そうだ。イルカと共に生きるのだ。
 任務に出立した日、そんなことを考えて、カカシの気持ちは浮き立った。別れを告げたベッドの上のイルカは穏やかで、今にも目覚めそうだったではないか。
 だから、イルカは目覚めると、信じることができた。


 イルカと生きたい、生きるのだと覚悟したことは本当だ。けれど最後の最後で、たった一つの命を生きる者の強烈な光に打ちのめされた。
 油断したわけではない。子供だからだとて手だれの忍であれば容赦することなどない。そんな甘い気持ちは任務であればいくらでも切り捨てられる。そうでなければ他者の体を奪ってまで忍としての生に執着し、暗部に所属もして上忍としてやってこれなかっただろう。
 野盗の首領にとどめを刺そうとした時にも油断はなかった。
 カカシがコピーしなければならない術を死の間際になっても発動しようとしない男に違和感を覚えはした。だがそのまま死へ向かうというならばそれもいい。
 いざどどめをという瞬間に、男がもたれて座り込む大木の背後、森の木々の奥、カカシの視界の死角になる場所から巧みに飛び出してきたもの。
 薄汚れた、子供。
 眼にもとならぬ滑らかな動きで複雑な印を結ぼうとしたところにクナイを投げつけた。生きるか死ぬかの一瞬だ。ただならぬ殺気に手加減できる余裕などない。無論、額の中央を狙った。子供はそれを印を結んでいた手で受け止めた。勢いのまま小さな手をクナイは鋭く貫く。精密な印を結ぶためには両手は健全でなければならない。更に印を結ぶことは不可能だったはずだ。
 だが子供は、血まみれの手で、きっと神経まで傷が痛みが達しているはずの手で、正確無比に印を結んだ。
 その印こそがカカシがコピーするべきものだったと瞬時に悟る。
 写輪眼がうごめいていた。コピーしたが、同時に、カカシは術をくらっていた。

 避けられたのだろうか?
 躱すことができたのだろうか?
 カカシは、苦痛に顔を歪めながらも、父親を助けるために、生きるために必死になって己の限界を超える力を発動させた小さな命にほんの一瞬、目を奪われた。
 カカシはその時その一瞬で思い出していた。
 父と、はたけ・サクモと一度だけ任務に赴いた時のことを。
 サクモを守るために、カカシは無茶をした。無茶をして危うく命を落としそうになった。
 結局サクモが重傷のままに敵を倒し、カカシが目覚めた時にはかすむ視界の向こうに血だらけのまま泣いているサクモがいた。
 父を呼ぶ前に抱きしめられていた。
 何も言わずに強く強く抱きしめられ、気付けばカカシもサクモの背に腕を回し、泣いていた。
 よかった。生きていてよかったと何度も何度も言われた。
 サクモに幾度となく教えられた。生きることを。
 カカシをはたけ・カカシとして立たせてくれたサクモが己の命を自ら絶ってしまったことは皮肉なことではあったが、だからと言って、教えられたことが色あせることはない。
 愛されたのだから。
 きっと幼子も父親に愛されたのだろう。だから全身全霊をかけて父親を守るのだ。
 死への道筋を確実に刻む術をくらいつつ首領の男は命乞いの途中でとどめを刺した。叫ぶ子供は隙だらけで、簡単な当て身だけで捕獲した。
 早く早く、一刻も早くイルカの元へと急く気持ちを抱えてカカシは駆けた。途中で合流した支援のものに捕獲した子供預け、更に道を急いだ。
 早く着かなければ二度とイルカに会えない。それがわかるから必死になって駆けた。眩みはじめた視界にまだもってくれと祈りを込めて駆けた。
 カカシの脳裏にこれ以上命を繋ぐ選択はなかった。
 イルカと生きたかったが、これで終わらせなければならない。
 誰もがそうやって生きているではないか。
 思いがけず訪れた死には後悔も嘆きも恨みもあるだろう。
 それでも一度きりの生なのだから、終るべき時に終わらせなければならない。
 カカシは一度それを誤ったのだから、二度はない。
 死にたくないと心から思うが、それでも、カカシはもう死ぬべき時を誤ることはない。



「はたけ上忍!」
 血相変えたアキハに抱えられて、綱手の元に参じた。
「カカシ……!」
 綱手はすぐに治療をほどこそうと伸ばした手を、途中で止めた。カカシの顔に現れた死相に眉を顰め、次には静かに印を結んで、カカシのチャクラを診療して、重い息を吐き出した。
「報告を、聞くよ。立ってられないだろう? 座りな」
「いえ、座ったら、やばそうなんで、このまま……」
 アキハに支えられたままという情けない状態ではあったが、カカシは任務の報告をした。前もって木の葉の諜報部が盗賊のことを調べていたのだが、それを上回る巧みさで事の真実は隠されていた。
 カカシの話の途中で綱手は何度か表情を険しくしたが、何も言わずに最後まで聞いた。
 体の力が抜けていくのが目に見えるようだ。最期は近い。
「綱手さま、俺、イルカさんのとこに、行かないと……イルカさんは、目を……」
 そこで意識が闇に落ちた。

 うっすらと覚醒した時に、嗚咽が聞こえた。
 ぼんやりと靄の中に閉じ込められたような視界に輪郭が徐々に結ばれ、それがアキハだと知る。
 名を呼ぼうとして、だが声などだせる状態ではなく、口さえ動かせたか定かではない状況で、アキハは気付いたようだ。
「はたけ上忍、気づかれたんですか?」
 顔を寄せられて、彼女の美しい顔がひどく憔悴していることがわかる。
 カカシは何も言えず、ただアキハを見つめれば、何か悟るものがあったのか、彼女は語りだした。
「帰還されてから二日経ってます。海野中忍はまだ目覚められませんが、綱手さまの見立てでは明日にも目を覚まされると。だからはたけ上忍が先に目を覚まさないと、かっこつきませんよ」
 泣き笑いの表情で、アキハは事実を簡潔に告げた。
 確かにアキハの言う通りこれでは立場が逆だ。
 任務に赴く前に眠るイルカに別れを告げたというのに、今度は眠るカカシをイルカが見下ろすことになる。
 いや、眠る、ではなく……。
「はたけ上忍。ダメですよ、生きないと。あなたが今までずっと生に執着してきたのはこんな終わり方をするためではないはずですよね。こんな終わり方が、はたけ・カカシとしての生をまっとうすることですか? 違うでしょう」
 訴えかけるように、諭すように、頬を濡らしたまま静かな声でアキハは語った。
 カカシがきちんと喋れたのなら、笑いながら言い返してやりたかった。
 勝手なこと言わないでよ。
 あんたちょっと前に俺にはたけ・カカシとしての生をまっとうしろって言って、本当は過去の時点で死ぬべき命だったとも言ったじゃない?
 まあね、過去のことはいいよもう。
 命をまっとうするってさ、思い通りにいかないんだよ。思い通りにいかないことが命なんだよ。でも、それでもしっかり生きて死が訪れたなら、寿命なら、逆らわないことが、命をまっとうすることじゃないかなあ? だってさ、死って結局理不尽なものでしょ?
 なんて、俺も今回の任務で悟ったというか、わかったんだけどね。さんざん逆らった後で言うのも調子いい話だけど。
 ねえ、だからさ。
 俺はもう終わりにするよ。
 終わりにしなければならないんだよね……。
「はたけ上忍? はたけ上忍!?」
 ごめんねイルカ先生。
 やっぱり油断したのかもしれない。
 結構な悪党だった父親をそれでも命をかけて守ろうとした子供に、はたけ・カカシとして生きた自分を重ねてしまったのかもしれない。
 だから間抜けにも術をくらってしまったのかな。
 でもわかって欲しい。こういうことが生の本質だってこと。
 生き死には人の手の届かないところにあるってこと。
 あなたなら、わかってくれるよね?
 仕方ないですね、と言うかのように皮肉な、けれど柔らかなイルカの笑みが脳裏の果てに浮かび、カカシはうっすらと笑う。
 死にたくはない。これからイルカと生きる覚悟を決めたのだから。だが、それでも不意に訪れて容赦なく未来を奪うのが死の一面だ。
 死なないでくださいと届いたアキハのか細い声を最後に聞き、そういえば、もう俺を生かさないで欲しいこのまま逝かせて欲しいと頼んでなかったと思い出したが、きっとアキハならわかっているだろう。彼女に対してそれくらい信頼がある。綱手もきっと、わかってくれる。あの人も愛しい人を亡くしてそれでも生きてきた人だから。理不尽な死に何度も直面し嘆き、それでも、進んでこれた人だから。納得いかなくても死を受け入れなければならないと、知っている。
 世話になったねと心でアキハに感謝して、愛しいイルカに想いを馳せて、カカシは二度と目覚めることはなかった。





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