おとぎばなし 2
カカシが口にした男の名に、刹那、脳裏が白く染まる。
咄嗟に取り繕うことはできなかった。イルカの反応を確かめるためにあえてこんな時間帯を狙って訪れたのだとしたら、さすが上忍と言うべきか。
ちょっといいですか、と言って玄関の框にカカシは腰を下ろす。ひとり突っ立っているのも馬鹿らしく、イルカもその場に膝をついた。
はたけ・カカシは語る。
「まだ十代の頃です。大がかりな任務がありましてね、廓が根城だったんです。まあ血気盛んな頃でもありますし、女たちも放っておいてくれなかったから、俺は毎晩毎晩とっかえひっかえでした。俺だけじゃないですよ。皆、多かれ少なかれ任務の合間にいい思いをしてました。そんな中にね、不思議な奴がいたんです」
それが、くだんの男。
「そんなに若くはなかったですけど、いい男でしたよ。大人の男の渋みと色気があってね、俺と張るくらいに女たちの視線を集めていました」
でもね、とカカシはにやりと笑う。
「どんなに色目を遣われても、誰のことも抱こうとしなかった。やんわりとすべての誘いを断るんです。女はダメなのかってことで陰間も乗り出してきましたけど、同じように断るんです」
もったいないよねえとカカシは往時を偲ぶような遠い目をする。
「俺も不思議だった。不能ってわけでもない。なのにどんなに極上な女たちや性を知悉したくの一たちが誘っても絶対に心を動かされない。いったいなにがあるのか、純粋に不思議でした。でね、面倒だからてっとり早く直接聞いたんです」
そしたらね、と一拍おいて、カカシはイルカのことを見つめた。
「忘れられない存在がいるって言ったんです」
イルカはさりげなく視線を逸らす。落とした視線の先に揺れて、見えるものはなんだろう。忘れたくても澱のようにこびりつく記憶だろうか。
「俺的にもうびっくり。いくら忘れられない惚れた人間がいても、所詮遠く離れていたら、絵に描いた餅でしょ。忍者って言っても人間だし、辛い任務の時には目の前の一時の快楽に走ったって誰も悪いことだなんて思わない。でもあの男は違った。たった一人でも、知ってしまったからもう誰も抱けないって。しつこく聞きましたよ。一体どんな女なんだって。でもね、ヒミツだって言って絶対に教えてくれなかったんです。もったいないって言って。
それから俺はそいつと親密になっていきました。年はかなり違いましたけど、なんか、馬があったんですよね」
うつむいたまま、イルカはひっそりと笑む。あの男の、明るく他者を包み込むような気質。殺伐とした前線ではそれに惹かれない者はいないだろう。
話を聞いているだけにしようと思ったが、問わずにはいられなかった。
「どんなふうに、亡くなられたんです?」
「気になる?」
「世話になった方です。ひどい死に方をされてなければいいと思います」
「そっか。あいつとのこと、否定しないんだ」
そこでイルカは口元を緩めた。
「カカシ先生は詳しいことはなにも聞いていないはずです。あの人は心に秘めたことを軽々しく口にする方ではなかった」
「お見通しなんだ。残念」
口で言うほど残念がってはいないようなカカシは、不意にイルカの頬に片手を添えた。間近にあるカカシの隻眼はそらすことを許さずにイルカを見つめた。
「こうしてね、最後の時に俺に手を伸ばしてきた。もちろん、俺じゃない愛しい誰かの顔が、その目には映っていたんでしょうね」
カカシの手は優しくイルカの頬を撫でる。
「イルカ、って一言呟いただけです」
「そう、ですか」
吐息が漏れる。カカシの手をはずして一旦顔を伏せてから上げた時には、いつも通りのゆるがない目を向けることができた。
「それが、カカシ先生が俺に興味を持った理由ですか」
「それともう一つ」
そう言ってカカシは指を一本立てた。
「あの男が死んでからも俺はずっと外回りでした。久しぶりに里に帰還して、イルカ先生のことを受付で偶然知って、あの男のことを思い出しました。最初はあの男が焦がれた“イルカ”がイルカ先生と結びつきませんでしたよ。でもねえ、里にイルカっていう名のくの一はいないし、やっぱりイルカ先生なのかなって思って、それなら是非お相手願いたいと思いまして告白したのが最初の時です」
もしもイルカがカカシの告白を受け入れていれば、すぐにでも体の関係を結ぼうとしたと悪びれずに口にする。
「いきなり変な条件だされて、それでも最初は守ろうって思ったんですよ。けどねえ、どう考えてもイルカ先生が一人の男に命がけで思われるような人には思えなくて、馬鹿らしくなってすぐにやめたんですよ。正直、もうどうでもいいやって思ってました」
「それなら、どうして」
1年経った時に呼び出したりしたのだろう。イルカが答えを求めてじっと見つめれば、カカシは頷いた。
「それが運命の不思議っていうやつです」
「運命?」
「そう。偶然も重なれば運命です」
カカシが脳天気に言い切るのが勘に障る。イルカは馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「俺は、そういう言葉が嫌いです」
「そう? それはごめんね。でも聞いて。イルカ先生のことどうでもいいやって思っていた俺に暗部の任務があって、抜け忍を捕らえたの。10年近く前に里の重要な情報を手みやげに他の里に通じた奴で、そいつはね、一度捕らえたのに逃げた奴なんですよ。そのまま里に戻って来なければよかったのに、間抜けにも里に戻ってきた。捕らえてみれば、なんて言ったと思う?」
「さあ。許してくださいと命乞いでもしたんですか?」
「罰は受ける。なんでも言うことを聞くから、うみのイルカに会わせろって言ったんです」
「カカシ先生」
カカシの声を遮ってイルカは立ち上がる。
「そろそろお帰り願えませんか。いきなり朝からたたき起こされて迷惑なんです。それもこんなくだらない話ですからね。勘弁してください」
「最後まで聞かなくていいの?」
素直に玄関のドアを開けたカカシはからかうようにかるく言う。
「聞く必要はありません」
「そうなの? あいつも救われないなあ。10年ちかく思った人間に会いたくて命の危険を顧みず戻ってきて結局殺されたってのに。どれだけ思ってたのか聞いてもらえないなんてね」
「ねえカカシ先生」
カカシのことを玄関から追い出して、ドアのノブを掴んだイルカはそこに思わず力を込めていた。
「人には誰だって訊いて欲しくないことってあるんですよ。もちろん俺にだってあります。それをさらけ出されるのは不快です。もうこれ以上俺にまとわりつくのはやめてください」
「まとわりつくって、ひどいなあ」
「昔のことを話せば満足ですか? それでしたら少し待ってください。整理をつけてからお話しますよ。でも話したらもう一切俺に関わらないって約束していただけますか?」
平坦な声と不快感を表した顔を作ったが、カカシは首を振った。
「それは約束できない。そんな約束させられるなら聞かなくていい」
「なぜですか。俺の秘密が知りたいだけでしょう」
「最初はね」
カカシは急に真面目な顔になった。
「でも今では本当にイルカ先生のことが好きだから」
そこが我慢の限界だった。イルカはかっとなって怒鳴っていた。
「ふざけるなっ。あんた、ひとを馬鹿にするのも大概にしろ。あんたの好きなんて言葉に真実なんてひとつもないだろ。それをはずがしげもなく口にするな」
「あんたこそ」
イルカに負けずに声を荒げたカカシは顔を近づけてきた。
「過去になにがあったか知らないけど、それこそ俺達忍者にはみんな語りたくない嫌な過去がある。あんただけじゃない。それをいつまでも後生大事に抱えて生きたって仕方ないだろ」
「そんなこと、わかってる。けど、俺の傷みは結局俺にしかわからない。あんただってそうだろ? 俺はまだ、あんたみたいに過去と折り合いがつけられないんだよ」
自分が弱いことは知っている。知っているがそれを突きつけられるとかっとしてしまうのは仕方のないことだろう。
思わず口にした本音。言った言葉を戻すことはできないが、イルカは口元を押さえる。一瞬の激高はすぐに鎮火する。カカシに対して、深く、頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした。上忍の方に対して、不遜でした」
「イルカ先生」
カカシに、呼ばれる。一発殴られるかもしれないとぼんやり考えたが、その思考ごと、ぬくもりに包まれていた。カカシの、腕の中。イルカは抱擁されていた。
身長差がほとんどないから肩口に顔を乗せているのに、耳に直接響くカカシの心臓の音。それは早鐘のように、鼓動を刻んでいた。
「ねえイルカ先生。俺、どきどきしてるでしょ。この心臓の音に嘘はあるかな。嘘だと思う……?」
ねえ、と耳元で囁かれる声。その甘い声が耳から落ちて深い場所に届いてしまう前に、イルカはカカシのことを突き飛ばしていた。
目を見張るカカシにイルカはなにも言わずに頭を下げて、ドアを閉めた。
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