おとぎばなし 20    






 イルカの体のことを案じながらも、不思議と安らかな眠りに引き込まれた。
 柔らかな、暖かな日差しの中にいるような夢を見ていたような気がする。
 ずっとそこにとどまっていたいと思ったが、目を覚ましたのは、名を呼ばれ、優しく頬を撫でられたからだ。
「カカシ先生、起きてください」
 何度か頬を撫でられて、それでも目を開けなければ、鼻先に、唇にキスをされた。繰り返す愛撫がくすぐったくて、とうとうイルカを抱き込んだ。
「おはようイルカ先生。体は大丈夫なんだね?」
 穏やかな声からも、手つきからも、イルカが体調を崩していないことはわかったが、念のために聞いてみた。
 カカシの問いかけに、腕の中で笑うイルカがいた。
 嬉しくて、そしてなにより愛しくて、カカシはイルカを強く抱きしめた。
「大丈夫なんです。嘘みたいです」
 イルカが言うには、昨晩行為の途中でも終わった後でも、気持ち悪さはあった。頭痛が打ち寄せる波のように押し寄せ、鼓動は嫌な感じで刻んだ。
 やっぱりダメなのだと、覚悟した。
 きっと朝になるまでに具合が悪くなって夜中に病院に運び込まれることになるのだなと思った。
 それでも、できるだけ長い時間カカシのそばにいたくて、カカシの力強い腕の中で目をつむったのだ。
 疲労のせいかすぐに訪れた眠り。
 夢は見なかった。
 ただ深く深く意識を沈め、安穏とした場所で横たわっていた。
 窓から差し込む日差しに目をゆったりと開ければ、かつてないくらいに気分のよい目覚めだった。
 呆然としながら抱きしめられたままのカカシの腕から抜け出して、上半身を起こし、なんとなくあたりを見回した。
 見慣れない風景に、そうだ、カカシの家に連れて来られたのだと思い出す。
 昨日、カカシに抱かれたのだ。
 裸のままの己の体を見れば、ところどころにうっ血の跡があり、顔に熱が上る。
 愛されたのだなと、愛し合えたのだなと、満たされた気持ちが溢れた。
 そしてそこでようやく、体が不調を訴えていないことに気付いたのだ。
「よかった。俺暢気に寝ちゃって、ごめんね。心配してたんだけど」
「ずっと抱きしめてくれてたじゃないですか。絶対に離さないって感じで。それだけで、嬉しかったです」
「欲がないなあイルカ先生は」
 苦笑してカカシはさらにイルカを抱く腕に力をこめた。
 じっとイルカを見つめてそっと口づければ、それだけでイルカの顔は赤く染まる。かわいらしいさまにカカシは笑みを深くした。
「ねえイルカ先生、具合が悪くならなかったの、俺のおかげかも」
「どういうことです?」
 イルカの真っ直ぐな目にカカシはにんまりとほくそ笑む。
「だって、俺、昨日イルカ先生の中に出したよ? はたけ・カカシの体で初めての記念すべき射精だよ? 昨日はお互い疲れてたしかきださないでそのまま寝ちゃったから、きっと俺のエキスが、イルカ先生の毒を中和させたんだと思うな」
 途端にイルカは嫌そうな顔をして身を引いた。
「カカシ先生、下品です」
「ちょっとー、イルカ先生だけいきなり清廉潔白にならないでよ」
「カカシ先生!」
 嫌がるイルカを押さえつけ、無理矢理もう一度抱き寄せて、組み伏せる。
 イルカは睨み付けてくるが、その目はかすかに潤んで口元はわなないているからなんの効力もない。
 目尻に唇を寄せて、そのまま耳までスライドさせる。
「愛してますよ、イルカ先生」
 瞬時にイルカの耳が赤くなる。頬も染まり、カカシから顔を逸らせてしまう。
「イルカ先生〜」
「知りません」
 追いすがるカカシに今度は肘鉄をくらわし、イルカはシーツの中に頭をもぐしてしまったのだった。




  ※ ※ ※





 ぼんやりと目を覚ました時、イルカは自分のおかれている状況がすぐには理解できなかった。
 何度かゆっくりと瞬きを繰り返し、ぼうっとしたままでなんとか動いた重い手をあげて、頭に触れてみた。
 そのままで思考を集中して思い返せば、最後の記憶はカカシと寝たところまでだ。
 カカシの腕の中で眠りについた。そしていきなり今、ここに、病院にいる。
 人の気配がないからここは個室だ。なんとか首を動かせば、左の腕には点滴がさされている。体が重いを通り越して、まるで自分の体ではないような違和感さえ覚える。
 やはり、と自嘲の笑みが口元には浮かんだ。
 もしかしたら、と思っていなかったといえば嘘になる。
 本当に好きな相手となら、互いに思いあった相手となら、もしかしたら体調不良を訴えることはないかもしれないと、そんなふうに心のどこかで思っていた。
 結局は夢物語のような、おとぎばなしのような調子のいい結果が訪れることはなかった。
 容赦ない現実にため息も出てこない。
 ただ、幸せになりたいだけだ。好きな相手と愛し合って、未来を夢見て、語って。
 それだけのことがどうして困難なのだろう。
 自嘲に歪んだ口元はわなないて、嗚咽が漏れそうになる。乾いた喉が咳き込んで、水を、と思いベッドの脇のテーブルの水差しに震える手を伸ばそうとしたその手を、握られた。
「泣かないでイルカ先生」
 涙で潤んだ視界に、カカシが映った。
 名を紡ぐこともできずに嗚咽を堪え口を引き結び、じっとカカシを見つめれば、カカシは穏やかな顔で微笑むと、水さしをイルカの口元にもってきてくれた。水がほとんどなくなるくらいに飲み干してやっとひと心地つく。
 枕に頭をしずませてから改めてカカシを見れば、忍服のカカシはよく知ったひょうひょうとした姿でそこにいた。
「、カシ、先生……、へいき、ですか?」
 イルカとしては必死に問いかけたのだが、カカシは、小さく吹き出した。
「イルカ先生、それは俺が言うべきことじゃないの? 具合はどうですかイルカ先生って」
「……俺は、いつもの、ことです。それより、カカシ先生、が」
「慌てないでイルカ先生。先生はね、あれから三日間眠り続けたんだよ。朝起きたらイルカ先生ぐったりして、呼んでも叩いても反応しなくて、死んじゃったかと思った。目を覚ましてくれて、よかった」
 痛みに耐えるようなカカシの表情に、本当に心配をかけたのだとイルカのなかに申し訳ない気持ちが広がった。
「ごめんなさい、カカシさん。でも、俺は、大丈夫ですから」
 うっすらと微笑んでみせればカカシも笑顔をみせてくれた。
「俺も、問題ないよ。イルカ先生と寝て、イルカ先生のことが大切だなあって気持ちが大きくなった。イルカ先生と寝たことは嬉しかったよ。最高に、嬉しいことだったよ」
「そう、ですか」
「これでやっと旅たてるよ」
「え?」
 イルカの表情は強張った。
 今はずっとそばにいて欲しいのに、どこに行ってしまうのだろう。イルカの不安が伝わったのか、カカシは肩をすくめてイルカの額にキスをしてきた。
「綱手さまが帰還されてね、イルカ先生とのことはきちんと伝えました。種なしではないことはわかりましたけど、イルカ先生の中にしか出す気はありませんってはっきりと言いましたよ」
 いたずらが見事成功した子供のようにカカシは得意げだ。
「綱手さまは話がわかる方なんですよ。はたけ・カカシで生きていくなら、もう特別な扱いはなしだって言って、早速きつい任務を仰せつかったんです。今までだってこき使われて、特別な扱いなんてされた覚えないんですけどねえ」
 任務、ということでとりあえず安堵したが、だからといって快く見送りたいような心境にはなれない。忍の者にあるまじきことだが、カカシにそばにいて欲しかった。
 もしかしてと、ふと思う。
 カカシと寝たのだから、イルカの意思の元にカカシを命じることができるのではないか、と。
 思った途端に、馬鹿な、と自嘲する。
 たとえできたとしても、誰より愛する人間にだけはしていいことではない。
 それに、どちらかと言えばイルカの効力が及ばないような気がするのだ。カカシはずっと穏やかな顔で、慾に濡れた目でイルカを見てはいないから。
「大丈夫ですよ。すぐに帰ってきます。予定では三日です」
「はい……。ご武運を」
 なんとか笑顔を作って見上げれば、カカシは優しく穏やかな顔で、イルカの髪をそっと撫でた。
「戻ったら、これからのこと、たくさん話しましょう。この先、俺たちは二人で生きていくんですからね」
 はい、と頷いた時、こみ上げるものをぐっと堪えた。





  ※ ※ ※





 そうこうするうちに綱手が帰還を果たし、明日、カカシの検査を行うという前の晩、イルカは向かい合った食卓で問いただしていた。
「なんだかよそよそしくなりましたね」
 カカシはちらりと視線を寄越した。ちょうど口の中にほうりこんだものが入っているところだったから、きちんと咀嚼して飲み込んだ後で、箸を置いた。
「ごめんね。やっぱり気にしていた?」
「そりゃあそうですよ。キスさえしかけてこないじゃないですか」
 イルカのストレートなものいいにカカシは苦笑した。
「キス、してほしかった? 待ってた?」
「ええ。待ってましたよ。オレが物欲しそうな顔しているの気づきませんでした?」
 イルカは悪びれずに返した。カカシはそっと身を乗り出すと、イルカの額にキスをくれた。
「今はこれが精一杯かな」
「今は?」
 カカシは頷く。
「明日、検査を受けて、これからのことを綱手さまと話します。その時に、自分がこの先どうしたいかってことを見定めたい。出来る限り自分と向き合って、先に進もうと思うんです」
 カカシの言い方は曖昧で、結局どうしたいのか、イルカにはわからない。やはりイルカとのことを悔やんでいるのだろうかと、そんな後ろ向きな思考が芽生える。
 カカシと寝た翌朝、イルカは少しばかりの体調不良にはなったが、大袈裟なことにはならなかった。
 カカシにイルカの力が及んだのか、それも曖昧だ。だがカカシはあの日以来、極力イルカに触れてこない。夕食を共にしても、必ず帰って行く。
「ああ、違うよ、イルカ先生。先生と寝たことは嬉しかったよ。最高に、嬉しいことだったよ」
 イルカの落ちた視線だけでカカシは気づいてくれたようだ。カカシの手が、優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「俺にとってイルカ先生は他には代えられない大切な存在ですよ。だからね、だからこそ、先のことをきちんとさせてから、イルカ先生と共に生きていきたいって思うんです」
 顔を上げたイルカはカカシのことを食い入るように見た。
「それは、はたけ・カカシとして、ですか?」
「ええ。そうですよ」
 明快な答えに、イルカは強ばっていた全身が弛緩するのを感じた。
「よかった……!」
 思わず安堵の気持ちを声にすれば、カカシがおどけたように笑う。
「あれ? もしかして俺がまた別の人間として生きるかもしれないって、心配してたんですか」
 軽い口調のカカシにイルカはむっとなった。
「当然じゃないですか。だってカカシ先生は、誰よりも忍だから……」
 そもそもカカシが長い生を生きることになった始まりは、優秀すぎる忍であったことが原因だ。
 そして本人もそのことを自負して、なによりも忍であることを望んだからだ。純粋に忍として生きて、技を、術を会得して、使えるようになって、着実に力をつけていく、そういうことに喜びを見いだすことが体の中に染みついているのだから、イルカ一人の存在がカカシを引き留めることができるだなんて、そんな自信は持てなかった。いくら力があってもうぬぼれることもできなかった。
 そんなカカシが、共に生きたいと言ってくれたのだ。
 涙ぐむ目でカカシを見つめれば、カカシは困ったような顔でイルカから視線を逸らした。
「あ〜、ごめんねイルカ先生。そんな目で見つめられると、ちょっと、困るかな」
「困る?」
「そう。困る。押し倒して、めちゃくちゃに愛したくなっちゃうよ」
 カカシの言葉にイルカの心は高揚する。そうしてくれたなら、と思う。めちゃくちゃに、なにもかも忘れて、欲だけで向き合えたならと、思う。
「ねえカカシ先生」
 カカシはちらりと視線を向けてきたが、やはりすぐに逸らしてしまう。カカシのそんな様子にもイルカは心臓が高鳴った。
「俺ね、俺も、カカシ先生に夢中ですよ。あなたと一度寝てから、また寝たい、抱いて欲しいって思います。体が辛くなるのはわかっているけどそんなことどうでもいいくらいは、あなたに溺れてますよ」
 嘘偽りのない心情で向き合える。そのことが嬉しい。カカシはぽかんとした顔でイルカのことを見つめ、次には柔らかな笑みをみせてくれた。
 幸せだなとイルカはふと思う。
 さりげない日常のやりとりで愛する人と笑いあう。
 これが、この単純なことが幸せの正体なのかもしれないと思った。





  ※ ※ ※





 結局。
 どれも淡いまどろみの中で見た夢だ。
 本当もある。嘘もある。
 カカシと抱き合ってからわずか10日だ。
 なのに、どうして今こんなところにいるのだろう。
「海野中忍」
 腕を取られて、イルカは夢想の中から戻ってきた。
 振り返れば、カカシを担当していた暗部の医療忍のアキハがいた。
 彼女は端正な顔を厳しくさせてイルカのことを伺った。
「大丈夫ですか? 対面、されますか?」
 心配はありがたいが、イルカは失笑した。
「当然です。俺が会いにいかないでどうするんです。俺はあの人の恋人ですよ?」
 真っ直ぐに見つめて言えば、アキハはかすかな笑みをみせた。
「わかりました。行きましょう」
 アキハは頷いて歩き出す。イルカはその背を追う。
 待たされていた部屋から出て連れて行かれるのは、血継限界などの特殊な能力を持った忍たちが運ばれる方の部屋だ。
 イルカとカカシの結末は、これから対面する目の前の現実。
 イルカは霊安室でカカシと対面した。





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