おとぎばなし 18    






 強ばるイルカの体を抱えたまま、自宅へと飛んだ。
 そのまま無言でイルカを風呂場へと運ぶ。イルカが何か言い出す前に浴槽に横たえ、シャワーのコックをひねった。
「カカシ先生!」
 イルカは悲鳴のような声をあげてそこから抜け出ようとするが、洗い場に膝をついたカカシはイルカの肩を抑えた。
「イルカ先生、任務帰りなんでしょ。まず体をきれいにしないと」
「っそんなの、自分の家に戻ってからきれいにしますよ!」
「そんなに興奮しないで」
 苦笑を含んだ声でそっとイルカの頸動脈をおさえる。途端、イルカの体からはかくっと力が抜けて、両手は体の横に落ちた。
「カカシ先生……」
 恨みのこもるイルカの声に笑って、ベストを脱がせる。アンダーを脱がせようと腹のあたりに手を持っていけば、イルカは叫んだ。
「やめてください」
 動かない手をそれでもなんとか動かそうとするイルカの様子からなんとなく察しはついたが、なんでもない顔でそのまままくりあげれば、イルカの腹、胸のあたりには鬱血のあとがいくつか見えた。
 カカシは特に表情を変えることもなくそのままアンダーを脱がせてしまった。イルカはうつむいたまま唇を噛んでいる。
 互いに黙ったままでシャワーの音だけが風呂場に満ち、湯気が充満していくことで表情を消してくれることをありがたく思う。
 イルカの体に残された跡に動揺しなかったわけではないが、それよりもカカシが目を奪われたのは、イルカがとてもきれいな体をしていたからだ。
 浅黒い肌はシャワーからの湯をはじき、つややかになめらかに輝く。
 胸の飾りは薄い色合いで、腹筋は無駄なくそして柔らかくついている。そこに散る赤い跡は艶めかしく鮮やかな色をつけていた。
 なるほど、とカカシは納得する。
 イルカの体はそれように作られた体だ。
 閨でイルカの裸を目にして触れたら最後、のめりこむようにイルカへと導かれるのだろう。
 意外と冷静なおのれの内部にカカシはゆるく笑う。イルカの首筋にもう一度指をおいて体の自由を戻した。
「使い方、わかりますよね? ゆっくりつかってください。食べるもの用意しておきますから」
「カカシ先生」
 立ちあがったカカシのことをイルカは見上げる。黒い瞳は強い光を宿しながらもどこか揺れて不安げでもあった。鼻を横切る傷が桃色に色づき、下唇が少し厚めの口元は赤く濡れて、背筋がぞくりとする。そんな自分をなだめようとカカシは茶化すような声を上げた。
「キスは、許してないよね? 最後までやってないっていったけど、どこまで許しちゃったの?」
 もう一度膝をついて、指先でイルカの頬に触れてみた。脈打つおのれの鼓動を意識する。
 今まで頬に触れたりキスしたりとそれくらいはいくらでもしてきたのに、いつもよりしっとりとして吸い付いてくるように感じられる肌だった。そのまま唇まで指をすべらせる。弾力を楽しむように指先に少し力をいれればイルカの口がうすく開く。
 誘われるように口を寄せていた。上唇をはさみこむように吸い付いて、ぺろりと下唇を舐める。イルカの唇がかすかに震える。そこに舌をさしいれてイルカの唾液を舐める。キスくらいならとうに慣れたと思っていたが、触れるそばから加速して高鳴っていく鼓動が不思議だ。意識しないままにイルカのことを強く抱きしめようと手を伸ばしたが、絶妙のタイミングでイルカの手が胸を押した。
 じっと見つめてくるイルカの目はせつなげに潤んでいた。ひとつ呼吸をして、カカシは笑いかけた。
「任務で触られたところ、あとで俺が全部触ってあげるから、楽しみにね」
 おどけて、余裕をみせて、けれど内心では焦る気持ちを抱え、浴室を後にした。
 キッチンに立って、手近なコップで水道水を飲んだ。口元を拭って、シンクに両手をつく。深い呼吸を繰り返して鼓動を落ち着かせる。
 風呂場からのシャワーの音が耳に届いてきたことで、冷蔵庫の中を物色する余裕がでてきた。
 イルカはきっと朝から何も食べていないだろうが、カカシとて、検査が終わってからそのままイルカを探し歩いた。自覚すれば空腹を意識する。けれど普段料理などしない冷蔵庫には適当なものが入っているはずもなく、レトルトのごはんを利用してなんとかおかゆを作ってみた。奇跡的に入っていた卵は少しばかり期限が過ぎているがまあたいした問題ではないはずだ。
 溶き卵を入れて、若干塩で味を調え、なかなかのものができあがると自然と笑みが沸き上がる。
 そのタイミングでちょうどイルカがあがってきた。
「イルカ先生、おかゆ……」
 振り向けば、イルカはそこにバスタオルを腰に巻いただけの姿で立っていた。
 濡れた髪はかるく水気を吸い取っただけだろう。頬に張り付くさまに色香がある。温かみを増したからか、生気を取り戻し活性化したような体は間違いなく同じ男としてのものだというのに、腰のラインが悩ましいものに感じられ、触り心地のよさそうな極上の肌に改めてどきりとする。
 イルカはカカシのことを挑むように見たままずかずかと近づいてきた。
「しましょう。もう面倒だから今すぐしましょうよ。そしてそれで終わりにしましょうこんな不毛な関係は」
 自棄になって怒っているイルカにカカシは吹き出してしまった。
「イルカ先生。色気ないなあ。ムードもなにもあったもんじゃないでしょこれじゃあ。不毛な関係ってものなんか下世話な感じだし。ほら、風邪ひくとわるいから、服着てよ。脱衣カゴに用意しておいたでしょ。俺の替えのアンダーで申し訳ないけど、下着は新品だから」
 イルカを落ち着かせようとか、気を逸らせうようとか意図的に考えたわけではないが、カカシの態度にさすがにイルカは毒気を抜かれたのか、惑うような顔になる。なにか言いたそうな顔をしたが、黙ったまま背を向けた。
 イルカに気づかれないようにカカシはほっと息をつく。
 いきなりは反則だ。心臓をわしづかみにされたような気分だ。それでも何喰わぬ顔でおかゆの椀ふたつとお茶をテーブルに運ぶ。ソファに腰掛けてイルカを待つ。イルカはほどなくしてカカシがだしておいた替えの服を身につけて現れた。強ばったままの顔のイルカに笑いかければ、憮然としたままではあるがイルカはカカシの隣に腰を下ろした。
「イルカ先生。冷めないうちに食べてください。結構うまくできましたよ。おなかすいてないかもしれないけど、少しでもいれたほうがいいと思うから」
 もちろんすぐに匙を掴むわけがない。カカシは気にせず温かいうちにと口に運べば、腹の底に染みこむおいしさに、自然と口元が緩んでいた。かたくなに強ばっていた心は、簡単なことでほどけるのだなと知る。
「不思議だなあって思うんです」
 不意に言葉が口をついてでた。イルカが顔を向けてくる。ちらりと視線を向けてカカシは話を続けた。
「俺はここにいるけど、俺の本体である脳は違う場所にある。でもここでイルカ先生と並んでおかゆを食べておいしいなあって思う俺は間違いなくここにいる。結局どっちの俺が本当の俺なんだろうって。でもどっちも俺なんですよね」
 カカシの述懐をイルカは黙したまま聞いてくれている。カカシの言葉を一言一句聞き漏らすまいとするようなひたむきさが感じられて、カカシは椀を置いて、イルカの手に触れてみた。膝の上で一瞬こわばったイルカだが、カカシが包み込むように手を握ると、力が抜けた。
「好きですよ、イルカ先生」
 静かに告げれば、イルカが目を見張る。
 素直に驚いてみせるその顔がかわいいなあと思える。心が温かくなる。イルカのことが好きなんだとシンプルな答えに戻ることが出来た。
「カカシ先生、俺は」
 その時イルカの腹の音が盛大な音をたてた。決まり悪げに口を尖らせるイルカにカカシは椀を差しだした。
「まずは腹ごしらえですよ。腹が減ってはいくさはできぬってね」
 イルカは素直に受け取ってくれた。それからしばしの間、二人とも黙ったままで椀のおかゆを咀嚼した。テーブルの上に空の椀を戻したイルカはごちそうさまと言って行儀良く手を合わせた。
「おいしかったです。ありがとうございました」
「そ? それはよかった」
 そして唐突に落ちる沈黙。
 さっきイルカは何か言おうとした。だからイルカの言葉を待った方がいいと思ったが、なかなか話しだそうとしないイルカに、沈黙に耐えきれなくなったのはカカシのほうだった。
「あの、俺、今日、いや、ていうよりさっきかな。わかったんです。俺のほうこそイルカ先生を従わせたいって思っていて、だからイルカ先生に従うことになるかもしれないことがなんか、嫌だなあって思ってたみたいなんですよね。くだらないプライドというか、まあ、そんな感じで。でもイルカ先生さっき言ったでしょ。命令するなって。俺が命令されるのが嫌ならイルカ先生だって嫌ですよね。でも俺はイルカ先生には色を使った任務にでてほしくなくて、それはだからイルカ先生のことが、好きなんだって……」
 しどろもどろに話していたカカシの唇にそっとイルカの指先が触れた。びくりと震えれば、イルカの視線に縫い止められる。身を乗り出してきたイルカの顔が間近にある。息が届きそうなところにあるイルカの顔。目を奪われている隙に、イルカが触れるだけの口づけをくれた。それだけのことに頬が熱くなる。
 口元を片手でおおって身を引くカカシをイルカはくすぐったそうに笑って見やる。
「カカシ先生、かわいいですね」
「かわいい!? それは、違います。俺のほうこそ、イルカ先生のことかわいいなって今思ってましたよ」
「じゃあ俺たちお互いかわいいって思ってるんですね。男同士なのに、恥ずかしくないですかそれって。気持ち悪いですよ」
「は、恥ずかしくありません。気持ち悪くもない! かわいいものはかわいいんですから」
 ムキになるカカシにイルカは吹きだした。
「やっぱ、カカシ先生、かわいい……っ」
 ソファの背もたれに身を預けて、イルカは体を震わせている。心外だといきりたったカカシだが、イルカが屈託なく笑ってくれるから、ほっとする。アカデミーで見た時のとげとげしさがなりをひそめたことに安堵する。
 笑っているイルカをおいてテーブルの椀を台所に運んだ。
 気持ちは平静だ。ただイルカへの思いを噛みしめたくて、ゆっくりと椀を洗う。
 イルカという存在を知ったとき、最初はただ純粋にイルカにまつわる人々の思惑の意味するところを知りたくてイルカに興味を持った。ただの興味からイルカへと気持ちは深くシフトして、本当に好きになって、イルカの運命を聞かされて、似たもの同士の境遇だったと知った。
 そうだ。俺たちは似ている、とカカシは頷く。
 似た二人の運命の羅針盤はどこへ向かおうとしているのだろう。
 部屋に戻ればイルカは横向きでカカシに背を向ける姿勢でソファにいた。か細い姿が保護欲をかき立てる。
「カカシさん、任務にでたこと、謝ります。やっぱりひとこと言うべきでしたね」
 隣に腰を下ろすと同時にイルカが謝罪した。
「謝らないでください。俺が、イルカ先生にそうさせたようなものなんですから。それより体のほうは大丈夫ですか? 辛くないですか?」
 イルカが首を振ると、肩にかかる髪がさらさらと揺れる。カカシは手を伸ばして、イルカを背中から抱きしめた。
「好きです。好きなんです」
 イルカを身のうちに取り込むくらいに腕に力をこめる。イルカはこんなにも小さかったのだろうかと愛しさが募る。イルカは身じろぎひとつせずにカカシのしたいようにさせてくれていた。
「でも、カカシさんは、俺をおいていくんでしょう」
 ぽつりと呟かれたイルカの小さな声にカカシは痛みに耐えるように顔を歪めた。
「カカシさんは長い間生きてきました。きっとたくさん愛した人たちがいたんですよね。その人たちのことを今までずっと置いてきた。俺もその中の一人になるんですね」
 一人でおいていったりしない。そう叫べばすむのだろうか。いや、そんな上っ面な言葉をイルカは望んでいるわけではない。そもそも忍としての生を選んだ時点で永遠を誓うことは馬鹿げている。そんな夢のような話はあり得ない。
 けれどカカシは永遠を生きていける可能性を持っている。だがなんのための永遠だろう。愛する人たちを置き去りにしてただ時を渡る。何度も何度も生を繰り返す。いや、置き去りにされるのはカカシのほうだ。
 みんな、いなくなってしまう……。
 ぞっとして、カカシはイルカを抱きしめる手に更なる力をこめた。
 どうして今まで耐えられたのだろう。いや、喪失の痛みを感じないようにといつしか心を麻痺させるすべを覚え、そして本気で心を傾ける相手を作らないようにと生きてきたのだろうか。
 イルカの手が動いたのはそのタイミングだった。
 腕ごとイルカのことを拘束している手に、イルカの手が重なる。
 温かな手のぬくもりに力が抜ける。イルカはカカシの右の手をとると、指先を口に含むではないか。
「イルカ先生……」
 かすれた声があがる。
 イルカはカカシの人差し指と中指にちゅうと吸い付いて、やわやわと甘く噛み、舌を指に絡めて、まるで性器をなぶるような動きをする。
 唾液が、指を伝い、手首に流れていく。その感覚にぞくぞくとしてカカシは吐息をついていた。
 カカシの腕の中で体のむきを変えたイルカは、カカシに見せつけるように、カカシの右手に歯をたてて、濡れたままの手を、そっと、頬に当てた。
「カカシさん。俺はあなたに、はたけ・カカシとして長かった人生を終わらせて欲しいと思っています。あなたは、迷っている。俺と寝たら、俺はあなたのことを操ることができるかもしれない。そうしたらあなたに命じることができるかもしれない」
 イルカは一度口を結んでから、今度は伸ばした両手でカカシの頬を包み込んだ。
「ねえ、俺のものになってみませんか?」
 イルカはすがすがしく笑う。
「正直、どう転ぶかわかりませんよ。俺はあなたのことが好きだから、あなたのことを操りたいけど操りたくもない。だって操ったらあなたの本当の気持ちがどこのあるのかわからなくなるでしょう。だからあなたの意志を尊重したいと思っています」
 何も言えずにひたすらイルカのことを見つめていると、イルカはカカシに抱きついてきた。耳元に吐息を送り込まれて背筋が粟立つ。官能の波を起こす。
「愛し合おうって言ってくれましたよね? 俺も、カカシさんと、愛し合いたいです」
 耳のふちをなぞるように舐められて、カカシはきつく目をつむる。下肢の熱さを自覚すると甘い感覚が体中を駆けめぐる。
 イルカのことを一度抱き返してからそのままかかえてベッドに向かい、そっとイルカを横たえた。
 顔の横に両手をついて見下ろすと、イルカは小さく笑んだ。どこか哀しげな笑みでもあった。
「俺も、好きですよ。いろいろごちゃごちゃ考えたけど、本当は、ただ、それだけです。それだけなんです」
 もう言葉はいらない。そう思えた。





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