おとぎばなし 17    






 あなたは気を許した相手には気持ちをさらけだしすぎるわ。



 小さく笑ってそんなふうに俺のことを評したのは誰だっただろう。

 顔は思い出せないのに、寂しそうに笑った口元にほくろがあったことは覚えている。
 不意に覚醒する。どうやらうとうとしていたようだ。カカシは苦笑する。だが今カカシの意識は脳だけの存在の場所にある。その状態で皮肉めいた笑みを浮かべるとは一体どういうことだろう。
 ああ、ややこしい。いや、ややこしくしているのはあくまでも自分の意識か。
 最近、ここで休むことが多くなった。木の葉の里は危急の時を向かえているため任務も過酷なものが多く、いくつか立て続けにこなした後は深い休息を必要とした。
 自宅で休んでもいいのだが、写輪眼の力を使うような任務の後はカカシ担当の医療忍に問診を受け、そこで本体で休んだほうがいいとすす薦められた。
 長い長い生の間に何人もの医療忍がカカシを担当したが、今ほどカカシのことを真剣に思いやってくれる医療忍はいなかったように思う。イルカとの関わりも喜んでくれた。何かが変わるのではと期待すると言う。と同時に、彼女は美しい眉をひそめて、カカシとイルカ二人のことを案じていた。
 昔の属性であった術を使うことができたと報告すれば、きちんと検査したいと言ってきた。
 ああそうか、彼女の口元にはほくろがある。それで、昔の記憶を喚起されたのだろう。
 気を許した相手だからといって思うがままのことを話すなと、過去に存在したあの女はカカシのことを非難したのだ。
 気を許した、心から愛した人間にはすべてをさらけだしたい。嘘はつきたくないとカカシは告げたのだが、あの女はそれは違うと言った。真っ向から否定した。
 必要な嘘だとてある。秘密だってあったっていい。所詮ふたつの体と心なのだから逆にそのほうが健全ではないか。心を許しているからこそ、真実を見せない方がいいこともある、と。

 わたしはあなたに全てを求めない。

 単純な見解の相違。そういってしまえばそれで全てかたがつくことだが、それでも今ふいに思い出したのはイルカのことがあるからだ。
 イルカを泣かせてしまったのは十日ほど前のことだ。
 翌日すぐに謝罪に出向いたが、アカデミーの廊下、少し遠い場所からだが目が合った途端に逸らされて、少し時間をおいたほうがいいと判断した。
 イルカを抱いて、その結果イルカへの気持ちが嘘になるかもしれないことが怖い。もっと簡単に言えば、イルカに指摘されたように、イルカに操られるような事態になる可能性が怖いのだ。
 おのれの心を顧みるにそれはきっと長きにわたって忍として生きすぎたことに起因するのだろう。体は好きなように操られ、長きにわたる生を強要されることになった。だからせめて心だけは、間違いなくおのれのものだと思いたい。それさえ誰かに渡してしまうなんて、と恐怖を覚えた。
 だがそう思うそばから、カカシ自身の意志などとうにないのではと思う。
 里からの提案をあくまでも受け入れてきたのは自分だが、本当にそうだろうか? いつからかいいように里の意志に添うように操られていたとは言えないだろうか。
 以前イルカに告げたように、カカシは里の優秀な『駒』だ。それ以上でもそれ以下でもない。自由なんてものはとうにないではないか。
 最初はただ生きたかった。忍としてのおのれを過剰なくらいに誇りに思い、それゆえ、どうしても生きたかった。だが生きる期間があまりに長くなりすぎると、命の価値を見いだせないこともあった。誰かからもらった命を所詮は器だからと粗雑に扱ったこともあった。命のスペアはいくらでもあった。里が醜悪なら、カカシとて同じように醜悪だ。
 はたけ・カカシの肉体を手に入れて歓喜したことに嘘はない。このままで生をまっとうしたいと思う。思うそばから、最後の最後でまた里の思惑通りに、違う体−はたけ・カカシの息子の体−をまた手に入れてしまうかもしれないのだ。受け入れる自分が見えるようだ。
 これからのこと。この先の自分。体と心の乖離が長すぎて混乱するばかりだった。



「綱手さまが、五日ほどで帰還されます」
 担当の医療忍にそう告げられた。
 精密検査を終え、カカシはその時意識を体につないだところで、少しぼうっとしたままゆっくりと起きあがり、傍らに立つ彼女を見た。
 彼女はあきらかに沈んでいた。
「そう。ナルトと自来也さま、見つけたんだ。さすがだね」
 笑いかけるカカシのことをじっと見つめ、彼女は嘆息する。
「はたけ上忍は、どうされるのです?」
「どうするもこうするも。今の段階ではね」
「そうではなくて、はたけ上忍の意志のことを伺っているんです」
「俺の意志?」
 彼女は生真面目に頷いた。
「綱手さまが治療を施すなら、それを受け入れるんですか? 子をなして、また繰り返すんですか?」
「そうだねえ。どうしようか」
 軽く受け流したつもりだが、彼女の強ばった顔はそのままだった。何か、言いたそうな顔をしている。じっと見つめて待てば、しばしためらった後、彼女は重い口を開いた。
「最初に、はたけ上忍の脳を移植した医術者は、わたしの一族の何代か前の人間です」
 カカシは目を見張った。
「ああ、そうなんだ。似たところはひとつもないねえ。いろいろと忘れていることが多かったけど、最近よく思い出すんだよね。あの医者はもっと能面のような感じで感情が読み取れなかったけど、あんたは表情豊かだ。腕は確かだけど、医者というか忍者に向いてないかな。そうか、だから暗部なのか。面で隠せる。俺に同情的なのは、つぐないの気持ち?」
 カカシのことを彼女はぴたりと見据えた。
「つぐないなんておこがましいことを言うつもりはありません。過去の記録を読んだ時、ただ、間違っていると思ったんです。その時のはたけ上忍は生きたかったかもしれない。でも、本来ならそこで終わるべき命だったんです。自分が生きたいために、他者の命を使っていいわけがありません」
「へえ。ずいぶんと道徳的というか、倫理観が強いんだねえ。じゃあ俺は死ぬべき? あんたならすぐにでも俺の脳を破壊できるんじゃないの?」
 カカシの茶化す声に、彼女はゆるゆると首を振った。
「わたしは、はたけ・カカシとしてのあなたに出会いました。あなたの担当医になってからずっとあなたの命を見てきました。今更、死んで欲しいなんて思うわけがないでしょう。死ぬべき過去の時点はもう過ぎてしまった時なんです。時を戻すことはできません。わたしができるのはこれからのはたけ上忍の生を考えることなんです」
 きっぱりと言い切って、彼女はカカシの二の腕をぐっと掴んだ。美しい顔が至近にある。鳶色の目の中にはカカシが映る。
「お願いです。はたけ・カカシとして、命をまっとうしてください。わたしは、他人の器に入るはたけ・カカシは見たくありません」
 脳の奥底まで届きそうな強い意志を感じさせる声だった。その声に、イルカに告白した自分の声が重なる。
 はたけ・カカシとして愛された命を全うしたい。
 迷っている。決断できずにいる。迷って当然ではないか。長く長く生きてきたのだから。
 だが、はたけ・カカシのままでいたいという気持ちは間違いなく、心の中にある。その気持ちが体の中に染み渡っていく。カカシはうすく笑んだまま彼女の心をほぐすようにそっと左の二の腕にかかる手に手を重ねた。
「そうだね。俺も、俺のままでいたいよ。はたけ・カカシじゃなくなる俺は見たくない」
 カカシの言葉の真実を見極めるようにまばたきも忘れて彼女はカカシを見つめた。カカシが揺るぎなく見つめ返せば、緊張していた彼女の体が弛緩する。カカシから距離をとって、かるく頭を下げた。
 過ぎるほどに真面目な彼女にふと尋ねてみたくなった。
「好きな人は、いる?」
「唐突ですね」
 驚きながらも苦笑した。
「いませんよ。もっと言えば、今まで誰かと付き合ったこともないし、付き合いたい人間に出会ったこともありません」
「そうなの? 美人なのにもったいない」
「ありがとうございます。美人だからじゃないかと幼なじみに言われたことはありますよ」
 さばさばと口にする。本当に美人だから、言っていることに嫌みはなかった。確かに美人だから、すでに特定の誰かがいるのではないかと思われるかもしれないし、思い切って告白しても期待する結果はでないと気後れしてしまうかもしれない。
「海野中忍と喧嘩でもされたんですか」
 彼女は察しよくカカシの問いかけの奥にあることに先回りした。
「喧嘩というか、俺が悪くてね。悲しませたのかな」
 カカシの自嘲に、彼女は控えめに白い歯をみせた。
「優しい言い方ですね。悲しませた、か」
 正直なところ、イルカに泣かれるとは思わなかった。クールに現状をこなしていると思っていたイルカだが、その実、深い部分ではやはり望まずに与えられた力を嫌悪していたということだ。
 カカシはイルカほどおのれの現状を嫌悪してはいない。
「海野中忍は見た目と違って繊細なところがある方だと思うので、早く謝って仲直りされたほうがいいですよ。考えすぎて自爆してしまうかもしれませんし」
 彼女の声には励ますような軽妙感があり、カカシも笑顔で礼を返した。
 そろそろいいだろう。イルカに会いに行ってみようと思った。拒まれてもとにかく会いたいと思う。
 綱手の帰還までにこの先のことをイルカと話したいと思うから。




 そのまま昼間のアカデミーに顔を出せば、イルカは任務からちょうどさきほど帰還して、報告の後は休みが与えられていると聞いた。アカデミーは再開したばかりで、普段教職の忍者たちも任務にもかり出されることがあった。
 だがイルカの場合は、少し違う。カカシはなんとなく嫌な予感を抱えて、通常の受付所ではなく、特殊な任務を請け負う際に使う部屋へと足を向けた。火影がいた頃は火影の執務室で受けた任務だが、今はご意見番の管轄となっていた。
 部屋の中には、案の定というべきかイルカ一人がいて、ぐったりとソファに身を沈めていた。
「イルカ先生」
 声をかければ、青白い顔のイルカが気怠げに目を開けた。カカシの顔をみとめると、顔を背けてしまう。意外と細い首筋に、赤い印を見つけ、カカシは愕然となる。
 それだけで、イルカがどんな任務に赴いたのかがわかった。
 その瞬間、何かに焼き切れた。考える間もなく、イルカにのし掛かるようにして、両肩をぎりぎりと掴んでいた。
「っ……どうして! どうして任務に出たんだ!」
 激高するカカシと対照的に、イルカはあくまでも落ち着いた冷めた目をしてカカシを見返した。
「俺も木の葉の忍だからですよ。俺に出来ることをするべきだと思ったから、任務に出ました」
「だからって、寄りによって……!」
 言葉をつまらせるカカシのことをイルカは鼻で笑う。
「俺に出来ることで一番役立つことと言ったら色を使った任務しかないでしょう。一応言っておきますが最後まではやってません。少し触れさせて、俺から触ってやったらそれだけでなんでも話ましたよ。少し面白かったかな。始める前は散々強気でいた敵が、あっという間に陥落です。馬鹿みたいですよねえ。たかが体なのに」
 カカシの手をどかしたイルカは体を起こす。吐き出す吐息さえ大儀そうだが、カカシを見上げる目にははっきりとした意志があった。
「ご意見番に、伝えました。カカシさんとのことはなかったことにしてほしいと。カカシさんは綱手さまの処置を受けるつもりでいるので俺は必要ないと言っておきました。綱手さまはもうすぐ帰還されるそうですね。ご意見番は了承しましたよ。ついでに俺用の任務を与えて欲しいとお願いしたらあっさりと許可がでました。だから任務に出たんです。それだけです」
 イルカの心は、以前のように固く閉ざされてしまっている。そうしたのは、ほかでもない、カカシだ。カカシの心ない言葉が、イルカの傷つけた。カカシとの未来を砕いた。
 どうして、と思う。
 どうしてわかってくれないのだと。
 気持ちが揺れるのは仕方ないではないか。執着せざるを得ないくらいの長い年月生きること、ただ生きることに縛られてきたのだから。
 呆然となるカカシにイルカは少しばかり同情めいた視線を向けてきた。
「カカシさんに言われて目が覚めた気がしました。確かに俺はカカシさんに自分を重ねていたんでしょうね。カカシさんは現状から抜けだせる可能性がある。俺にはありません。せめてカカシさんはって。でもカカシさんは結局今のままでいることを望んでいる。俺も、この力をどうすることもできない。それなら、この力で生きていこうと思います。こうなったら少しでも里の役に立ちたいから」
「……もう、俺のことはいりませんか」
 思った以上に頼りない声だった。イルカは驚いたようにかすかに口を開ける。
 そしてはっきりと頷いた。
「ええ。いりません。俺の人生には必要ありません。俺は、自分が弱いから、どちらかといえば後ろ向きな人間だから、弱い人は嫌いです。前に進もうとしない人は、嫌なんです」
「俺のことはもう好きじゃない?」
 イルカは首を振る。
「好きじゃないと言いたいところですが、そう簡単にはいきません。多分、まだ好きですよ」
「好きなら、どうして! どうして任務に出るんですか! 任務だからって好きでもない相手に、抱かれるっていうんですか」
「だからカカシさん。俺は忍なんです。こんな俺でもできることをするんです」
「イルカ先生!」
 聞き分けのない子供のように言い募ろうとしたカカシをイルカはぴしゃりと制した。
「俺に命令しないでください。俺の意志は、俺だけのものです」
 その言葉が、カカシのなかを貫いた。
 そうだ。自分の意志は自分だけのものだ。誰にも命令されない。されたくない。おのれがおのれであることの最後の砦だ。
 だからカカシとて、イルカを抱くことを躊躇した。イルカに気持ちを操られてしまうのではないかと。
 けれどそんな理屈よりも、好きな相手を従わせたい、従ってくれたら嬉しいなんて、誰でもが考える、単純だけれどどうしようもない欲求だ。
 自分だけを見て欲しい。自分のことだけ考えて欲しい。相手に意志があることがわかっていても心のどこかで望んでしまうことだ。
 そんな当たり前のことを、カカシは馬鹿みたいに恐れていた。
 本当に馬鹿みたいだ。
 イルカへの気持ちが嘘になるかもしれないなんてきれい事だ。イルカの意志にねじ伏せられて足下に跪くことになるかもしれないと、ちゃちなプライドで恐れていた。カカシのほうこそ、たった今イルカを従わせようとしたではないか。
 好きな相手にねじ伏せられるなんて、望むところだ。互いが互いを思って、従わせたくて、それでも相手を思いやって。それでいいではないのか。
「イルカ先生」
 カカシは、笑顔をみせた。極上の笑顔はイルカの目にどこか吹っ切れたもののように映っただろうか。
 不思議そうに見上げてくるイルカの頬を両手で挟んで、唇を寄せた。
 ついばむように口づけて、イルカを抱き上げる。思った以上に軽い体だ。きっといろいろと無理をしている。
「カカシさん!?」
 驚いて体をねじらせるイルカを離すわけがない。とまどうイルカをじっと見つめて告げた。
「愛し合おうかイルカ先生」
 イルカの返事を待たずに術を発動させ部屋を後にした。





18