おとぎばなし 16    






 もう何度目になるかわからない呼び出しで、イルカはご意見番の前に立っていた。
 二人のご意見番はしわに埋もれた顔で無表情を保っているが、イルカはあからさまに仏頂面をしていた。取り繕う気も起きない。早くこの不毛な場から去りたいとだけ思っていた。
「なにか進展はないのか」
「ありません」
 簡潔に事実だけ告げたが、ご意見番の顔がかすかに剣呑なものになる。
「海野イルカ。これは命令だ。おぬしわかっておるのか」
「わかってますよ。俺だって何もしてないわけじゃないですからね。ちゃんと自分からカカシ先生を誘ってます。でもカカシ先生のほうが全くその気にならないんです。俺の力じゃたちうちできないような強い意志で拒むんですよ」
 実際イルカは昨日もカカシにせまったばかりだ。今の状況を少しでも打開できないかと、カカシを自宅に招いて意向を伝えたがカカシはうすく笑うばかりで答えをくれなかった。イルカが思い切って下肢に身を沈めて高ぶらせようとしても、カカシはやんわりと拒むばかりだった。
 あの屋上であったことが本当だったのかと疑わしく思うほどにカカシは頑なだ。
「ご意見番、俺思うんですけど、なにもカカシ先生の子供にカカシ先生を移すなんて悪趣味なことする必要はないんじゃないですか? まあ他人の体を使っても充分悪趣味ではありますけどね。手っ取り早く敵対する他の里の優秀な忍でも連れてきたらいいじゃないですか」
 むしゃくしゃする気分と相まって、嫌いな人間の前でおのれをよくみせることも馬鹿らしく、イルカは思うままを並べ立てた。
 だが次の瞬間には後ろ手に両手をひねり上げられていた。
 呻く余裕もなくどっと汗が噴き出す。ご意見番の横に立っていたはずの仮面をつけた忍が気配もなくイルカの後ろにいた。
 ご意見番は細めた目で酷薄にイルカを見ていた。水戸門ホムラが口を開く。
「海野、おぬしに意見など求めておらん。里の忍なら上の命令には従え。そもそもおぬしの立場でそのようなものいい。不遜じゃな」
 イルカに罰を与えるように一度きつく締め上げた後で開放される。背を押されよろめいたが、すぐに振り返って背後の忍に視線を投げた。
 おそらくイルカのことなどたかが中忍とあなどっていたのだろう。そこに一瞬の隙が生まれた。
 その眼差しひとつで城さえ傾ける者。
 傾城。
 イルカはその力をみせつける。

 面の向こうの男の視線をとらえたことがわかった。
 硬直する男にするりと近づくと、面をはずした。現れたのは頑強な、幾多の修羅場を生き抜いてきたと思われる忍。イルカなど普通にはたちうちできない強さがその姿からうかがえる。酷薄そうな顔が、きつい眼差しが、必死でイルカにあらがおうとするが、イルカの視線に縫い止められて目を逸らせずにいる。顔ににじむ冷たい汗をそっとぬぐってやる。イルカの指先が触れた瞬間にびくりと震えた体。次には力が抜ける。
 何回か瞬きを繰り返した後で、その目はすでにイルカに魅入られていた。
 イルカはただ、見つめる。艶っぽくしようと意識しなくても、力を使うという意識ひとつを目にこめて相手を落とすのだ。
 体を重ねるのではなく、どちらかといえばこうやって使う方が効率的だ。
 馬鹿なことを、と自嘲する気持ちが心の隅にあるが、イルカのなかにおさまりのつかない黒いかたまりがあった。
 普段なら嫌悪をもよおすこの力だが、凝り固まった思考の老人たちに少しでも意趣返しをしてやりたいとムキになる気持ちがあった。
 男の頬に触れたままそっと顔を近づける。かすかな口づけをしただけで、男からは甘いため息がこぼれた。イルカの背を抱こうとする手からそっと逃れる。
 跪けと命じればその場で男は面白いくらいに素直に膝を折った。イルカから視線を逸らさずに、請うように見上げている。
 その目は陶然としてイルカを求めていた。
 なんて簡単なことだろう。
 自分の力にまるでひとごとのように感動している自分をイルカは意識した。
 だがこんなに簡単なことが、カカシには通じない。
 カカシを好きになる前、絶対に好きにならないと宣言したことを思い出す。
 結局好きになってしまって、確かに恥ずかしいな、と暗い自嘲とともに思う。そんな自嘲から凶暴な気持ちが心に溢れてきて、イルカは男の顎を片手で掴むと、ぎりぎりと締め付けた。それでも男は痛みにかすかに顔を歪めるだけでイルカに対する熱い眼差しはなにも変わらない。
 イルカは乱暴に手を離すと、片足を男の顔先につきだした。
「舐めろ」
 そう告げた声は限りなく冷えていた。
 男にためらいはなかった。逆に命じられたことに喜びさえ感じているような表情で、すぐにイルカの足の指先に顔を伏せる。
 指先にぬるりとしたものが触れた途端に生じた嫌悪感に、イルカは男の顔面を蹴っていた。
 咄嗟の行動だった。思いがけない力が入ってしまったようで、男は壁に背中を打ち付ける。鼻の骨折れてしまったかもしれない。鼻血をぼたぼたと垂らした顔のまま、それでも男はイルカを見つめ、その場で固まったままのイルカの元にはいつくばったまま近寄ってきた。
「ぅ、あ……」
 イルカを見つめる眼差しには狂気があった。男が足に触れた時には耐えられずイルカは叫んでいた。
「やめろ! 俺に触るな!」
 男は従順に動きを止める。イルカはご意見番を振り向くと、唖然としたままの老人たちに荒げた息で言い放った。
「これが、俺の力です。見ましたよね、間違いなく力はあります。ただそれがカカシ先生には通じない。それだけのことですよ」
 老人たちはごくりと喉を鳴らす。
 イルカは呼吸を何回か繰り返して気を落ち着かせると、部屋を後にした。



 玄関の呼び鈴が鳴る。カカシだ。鍵はかけていない。迎えにでるのも面倒で、どうぞと声をかける。
 お邪魔しますといって入ってきたカカシは、布団に寝ているイルカを見て目を見張った。
「具合、悪いんですか?」
「少し。頭痛がおさまらない程度ですけど」
 あの後職員室に戻ったが頭痛が襲ってきた。たいしたことはしていないのだからすぐに治まると思っていたが、どうにも耐え難い痛みになった頃、イルカは迷惑をかける前に早退を願い出た。
「そう」
 枕元に座ったカカシはイルカの髪を優しい手つきで撫でる。そんなカカシをしばし見つめ、イルカは自分から言い出した。
「ご意見番から聞きましたよね」
「聞きました」
「ちょっと力を使ってしまっただけなんですけど、あの忍の方は、大丈夫でしたか?」
「催眠療法が得意な忍医が治療したので大丈夫です。それよりイルカ先生に蹴られた鼻のほうをいたがってたみたいですよ」
 小さく笑うカカシはなんでもない話にしようとしてくれている。
 だがイルカは。
「カカシ先生、あなたは本当に、どうしたいんですか?」
 小さく真剣に問いかければ、触れていたカカシの手が離れていく。かたい表情のままイルカの視線を受け止める。
「どうしたらいいかわからないってカカシ先生は言いましたね。でもわからないですませていい問題じゃないです。わからないならきちんと考えてください。どうしたいのか」
「だから、俺の意志なんてないんです」
 イルカは半身を起こした。カカシにぐっと詰め寄る。
「俺に言わせれば里の意志はどうでもいい。カカシ先生がどうしたいのか、何を望むのか、そのほうが重要です。カカシ先生がカカシ先生のままでいたいなら、俺は協力します」
 イルカの気に押されるように、カカシは少し身を引く。
 煮え切らないカカシにイルカはかっとなる。
「カカシ先生!」
「イルカ先生、落ち着いて」
「俺は落ち着いてます。冷静です。カカシ先生こそ、どうしてそんな、ひとごとみたいなんですか。あなたが当事者なんですよ」
 声を荒げると頭痛が増す。だがいい加減イルカも煮詰まっていた。どうしたいのか、どうしたらいいのか、教えて欲しい。
「ねえイルカ先生。そんなにムキになるのは、俺に自分を重ねているから?」
 思いがけないことを言われて、イルカは瞬きを繰り返す。カカシは笑う。
「イルカ先生も逃れられない自分の運命にあがいて、でもどうにもできなくて、諦めて、本当は諦めたくなくて、その気持ちを俺で解消しようとしてるんじゃないかな」
 さらりと言われたことに、イルカの力は抜ける。
「イルカ先生ならわかるでしょ。どうしようもないことがあるって」
「それは……」
 わかる。わかるが、なんでもないことのように言わないでほしい。
「俺とカカシ先生は違う。カカシ先生は、まだ間に合うでしょう。どうにかできるかもしれない」
「そうかな? そうだといいけど」
 苦笑するカカシはどこか悟ったような顔をしていた。
 イルカは唐突に自分は無力なのだと理解した。
 イルカよりもずっと長い間生きてきたカカシには、カカシ自身で解決するしかない深い葛藤があるのだろう。いや、カカシに限らず、誰もが自分の力で乗り越えるしかない。決着をつけるしかないものがある。
 わかっているが、でもカカシには自分がいるのだと、そのことは忘れないで欲しかった。
「カカシ先生。わかりました。もうなにもいいません」
 カカシにもたれかかれば、顎に指が添えられて顔が上向く。
 そっと口づけられる。驚いて瞬きをすればカカシは少し口を尖らせた。
「操ったんだから、キスくらいしたでしょ。だから消毒」
 子供のようなものいいにイルカの口元は緩む。今度は自分から口を寄せた。唇の柔らかさを味わって、舌をしのび入れる。熱い口内が生々しくてそれだけで背筋がぞくぞくと震える。舌をからませあって、唾液を貪るようなキスを交わせば、いつの間にか体を布団に横たえられていた。
「ん……ぁ」
 キスだけで、体の中心が熱くなっている。カカシを見上げれば、カカシも濡れた目をしてじっとイルカを見ていた。その眼差しだけで、また体が火照る。力なんて関係ない。好きな相手なら、求める相手なら、それだけで。
「カカシせんせぇ、俺……」
 舌足らずに名を呼ぶ声も、吐息さえ、熱くて甘い。カカシと結ばれたいと、心の底から希求する。
「お願いです、俺のこと」
 顔の横にあるカカシの腕にそっと触れると、どうしてかカカシは身を引いてしまった。
「カカシ先生?」
 カカシは困ったような顔をして、イルカの目から下肢を隠すように片膝を立てた。
「ごめんねイルカ先生。俺……俺はきっと、力のないイルカ先生を抱きたいんですよ。イルカ先生のこと好きです。好きだから、抱いてしまったらその気持ちも嘘になるかもしれないって思って、怖いんです。臆病ですね」
 カカシは柔らかな笑みをみせるが、イルカは瞬時に青ざめる。火照った体と心が一気に現実に戻される。
「……それは、俺に操られることになるかもしれないって、心配しているんですか?」
 カカシは、笑みを深くするだけだった。
 イルカはカカシに背を向けた。
 カカシのことが好きだから、抱かれれば心は歓喜するだろう。力を制御しようとしても意識しないうちに枷をはずしてしまうかもしれない。その結果、カカシがイルカのいいなりになって、恋こがれることになるのかもしれない。けれど、好き合っているのなら、問題はないではないか。
 力があってもなくても、結ばれることによって互いを更に深く知るなんて、よくあることではないのだろうか。
「ねえイルカ先生。俺も、俺のこれからを真剣に考えます。だからイルカ先生もその力をどうにかできないか」
「カカシ先生」
 カカシを固い声で遮って、顔を上げた。
 視界がかすかにぼやけるのは、涙が滲んでいるからだ。それでもカカシを見る目に力をこめた。
「俺は、ずっと思ってますよ。この力がなくなればって。子供の頃からずっと、どうにかできないかって、思うだけじゃなくて、ずっと、ずっと……」
 涙が目尻を伝ったところで顔を背けた。
「イルカ先生」
「帰ってください」
 動揺したようなカカシの手が肩に触れる前に言った。
「ごめんイルカ先生。俺は」
 体を丸めて両手で耳を塞いだ。カカシを、拒絶した。
 外の音を遮断してぎゅっと目をつむる。そのうちに去っていくカカシの気配に、やっとイルカは体の力を抜くことができた。

 カカシとは駄目なのかもしれない。
 そう、思った。





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