おとぎばなし 12    







 落ち着け、と己を叱咤する。
 震える手を強く握りしめて、目を閉じる。何回か深呼吸を繰り返してから改めてカカシの体を検分すれば、チャクラの微量な流れが感じられる。カカシは生態機能を極限まで落としている状態だとみてとれた。
 イルカは体の中から絞り出すような息をついた。
 死んでしまったわけではないことに安堵すれば、いきなりこんな状況に置き去りにしたカカシに腹立たしい気持ちが沸いてくる。
 腹立ち紛れに一度その頭を叩こうとしたが、結局その手は柔らかな髪に差し入れられ、イルカは己の胸の中にカカシを抱きとめた。
 この男を失いたくない。
 どんな秘密があってもかまわない。ただ、もう一度目を開けて見つめて欲しいと、そう強く願った。



 カカシを背負っての里までの帰還はそれなりに骨の折れることだった。
 それでも急く気持ちに押されて足を早め、里に帰り着いた時には汗だくになっていた。
 明け方近く、空は淡い色に染まり始めていた。
 真っ直ぐにご意見番の元に向かおうと足を向けた先を面をかぶった暗部が行く手を塞いだ。
「はたけ・カカシをお引き渡し願います」
 くぐもった丁寧な口調は頼んでいるがその実、命令にすぎない。有無を言わさぬものがこめられている。
 口論してもはじまらないと思い、無言で脇を過ぎようとしたイルカだが、もちろんそれが許されるわけもなく、あっさりとカカシのことを奪われていた。すぐに応戦しようと印を結ぼうとしたが、制せられる。
 イルカは力無く肩を落とした。
 わかっている。かなうわけがない。だがそれでも何もせずにカカシを連れて行かれたくなかった。
「……カカシ先生を、頼みます」
 背を向けたイルカに声が届く。
「夜になったら、ご意見番の屯所に来てください」
 そう簡潔に伝えて、風のように暗部は去っていった。



 夜までの時間をじりじりしてイルカは待った。もういいだろうという頃合いにご意見番の元におとないを告げれば、すぐに通された。
 三代目火影とスリーマンセルを組んでいたという水戸門ホムラとうたたねコハル二人の老人は、人間味が溢れていた三代目とは違い、里のことを第一義に考えてはいてもどこか冷たいものを腹の底に抱えた食えない存在だった。
 目の前に立ったイルカのことを検分するように不躾なくらいの視線で見ていた。
「あの、カカシ先生は、大丈夫でしょうか」
 まずはカカシのことを確認したがそれでも二人は何も言わずにイルカを見ていた。さすがに居心地が悪くなり視線を逸らせば、ため息が聞こえた。
「おぬし、カカシの子作りに協力できるそうじゃな」
 思いがけない言葉にイルカは弾かれたように顔を上げた。
「それは、どういうことでしょうか」
「カカシが言うておった。おぬしの手管なら種がでると」
 もの言いに不快な気持ちが募る。種、だなどと、事実ではあるだろうがそんなふうに言われるのは不快だ。
 だいたい初めて聞く話だ。意味がわからないし、協力するだなどと一言も言っていない、とそこまで考えて、だからなのか、と合点がいく。
 カカシはきっとイルカに協力させるという条件付きで、代わりにイルカの任務のほうを免除させたのだろう。
 一体カカシは何を考えているのか。元気な姿を目にしたら問いつめてやると心に決めた。
「カカシ先生の元に、案内してください」
 決然としたイルカの声に視線を交わした老人たちだが、意を決するように水戸門ホムラのほうが口火を切った。
「カカシから話は聞いた。本来おぬしのような一介の忍に伝えるような話ではないが」
「カカシ先生、大丈夫だったんですね」
 思わず話を遮っていた。
 身を乗り出したイルカに二人は嘆息する。
「もうよい。直接カカシに全て聞く方が話が早かろう」
 コハルが顎をしゃくると、一瞬で暗部が現れた。
「イルカをカカシの元に連れて行け」
 頷いた暗部がイルカに近づく。薬草のような匂いがして、きっとカカシの蘇生を担当した暗部なのだろうと予測する。
「イルカよ。カカシのことを知るからには、今後おぬしにも協力してもらう。無論おぬしに拒む権利はない。心しておくがいい」
 脅すようなことを言って、老人たちは去った。
 二人だけ残されて、落ちる静寂が気まずい。そんなイルカに、暗部は声をかけてきた。澄んだ女性の声だった。
「カカシ上忍は、無事です。ただこんなことは初めてなので、念入りに検査をおこないました」
 こんなこと、と言われてもイルカにはわからない。だから黙って聞いていれば、暗部はさらに言葉を重ねた。
「わたしは、暗部という以前に一人の医術者として思います。こんなことはやめるべきだと。だから海野中忍の存在に救われた気がします。わたしは、ただ言われるままのことしかできない者なので」
 自嘲する響きの声だった。何を返せばいいかわからず黙ったままでいるイルカに向き合うと、暗部は、ここから先の案内は五感を閉ざすことを丁重に説明して、印を結んだ。

 不意に閉ざされた世界に連れて行かれる。
 自分の存在が危うくなるような不思議な感覚の中でどことも知れぬ場所に連れて行かれる。この先にはカカシがいる。怖くないと言えば嘘になる。誰かのことを深く知ることなんて今までになかった。カカシの全てを知ってしまったら、きっともう、逃れられない。
 逃げたいのだろうか?
 逃げたいのかもしれない。
 とても、怖い。
 けれど逃げない覚悟を刻みつけて、イルカはその時をむかえた。
 かちりと解けた印。
 目を開ければ、そこは暗がりだった。暗部はすでにいない。
 突然あわい間接灯がともり、部屋の中央のベッドにはカカシが横たわっていた。
「カカシ先生」
 入院患者が身に着けるような白い布をまとったカカシ。駆け寄って顔をのぞきこめば、顔色は赤みを取り戻し、安らかに眠っていることが見て取れた。
 緊張していた体が弛緩して、床に膝をつく。
 確かめるためにそっと首筋に手を当てれば刻まれる鼓動に安堵する。じわりと目が熱くなり、どうやら自分で意識する以上にカカシのことを心配していたのだと気づいた。
(心配かけてゴメンねイルカ先生)
 唐突に届いた声に、慌てて涙を拭って眠っているカカシに視線を向けた。
「カカシ先生?」
 目覚めてはいない。じっと見つめていれば、再び声が届く。どこか軽妙な響きを帯びた声が降ってくるように、届く。
(扉があるでしょう。そこから、入ってきて)
 アカデミーの校内放送を聞いているようでいながら脳裏に直接反響でもしているような状態に首をかしげつつも、イルカは立ちあがった。
 ここにカカシはいるのに、カカシの声に導かれてカカシの元に向かう。
 不可解な状況だが、扉を開ければ白いリノリウムの廊下が続いていた。
 医薬品の匂いが充満する廊下をイルカは進む。
 真っ直ぐ進んで右に曲がって左、また真っ直ぐ、左、右……階段を登ったり降りたり、いくつかの部屋を過ぎて、とカカシからの指示に従順に進んだ先に、なんのへんてつもない扉が現れた。
 言われるがままに進んだが、幻術で作られていた道筋なのだと、それくらいはわかる。だがイルカの力ではこの場所に一人でたどり着くことなどできないのだろう。
(この扉の向こうに、本当の俺がいます)
 頭上からの声に顔を上げたイルカは、思い切って問いかけていた。
「カカシ先生、俺が知ってしまって、いいんですか? 本当にいいですか?」
 カカシには尋常でないことが隠されていると、想像できる。知りたいと思う気持ちと、躊躇する気持ちがある。カカシの決心にも迷いがあるのなら、イルカは去るつもりで聞いた。
(イルカ先生は、どうなの? 知りたい? 知りたくない?)
 揶揄するような声にイルカはためらうことなく答えた。
「知るのが怖い気持ちはあります。でも、カカシ先生のことを知りたいと思います。カカシ先生のことが、好きですから」
 そこにカカシがいるわけではないのに、笑顔をむけた。カカシの気配も笑ったように思えたのは、気のせいだろうか。
(来て、イルカ先生。俺の全部を、受け止めてください)
 カカシの指示で結んだ印で、施錠されていた扉が開く。
 緊張に高鳴る鼓動、眩暈をおぼえそうな緊張の中、イルカは扉を押した。






 まるで別世界のような部屋だった。
 まぶしいくらいに真っ白な部屋に咄嗟に目を細める。低い機械音がして、何かが稼働していることはわかる。けれど見えない。部屋中にびりびりとするような強力な結界が張られている。
 細めていた目を扉から真っ正面、少し顔を上向けた位置に向けた。
 そこに浮いている透明の球体。ぴたりとその中に鎮座するもの―。
 イルカは目を見開いて唾を飲み込んでいた。
 球体の中には、見まごうことなく、人間の脳が入っていた。
 心臓が徐々に激しく脈打っていく。
 頭の血管が破裂しそうなほどに乱暴なリズムを刻む。
 ああ、と呻いてイルカはよろめいた。
 片手で顔を覆い、ゆるゆると首を振った。
(さあイルカ先生。驚いていないで、こっちを見て)
 カカシの声に促され、顔をあげる。真っ正面から、カカシと向き合った。
(はじめましてイルカ先生。これが、本当の俺です)
 カカシの声に応じて部屋のチャクラが揺れる。知っているカカシの気配が部屋中に満ちる。
 イルカは呆然と部屋を見渡した。白いだけの、一個の球体しか浮いていない部屋を。
 カカシの脳を中心にして施されている何かがあることはわかる。カカシの体はここにない。けれど不思議なくらいにこの部屋全体でカカシを感じる。ついさっき、眠るカカシを目にした時よりよほど、確かにカカシはここにいるのだとわかる。
「カカシ先生。これは……」
 喉が渇く。言葉が続かない。
(そりゃあ驚くよねえ。ごめんね、ホントに)
 カカシは常と変わらない調子で謝罪する。
「……正直言って、俺、混乱してます。何をどう考えればいいのかわかりません。カカシ先生は、一体」
 動揺して呻くイルカにカカシは笑う。
(そんなに、悲壮な感じにならないでくださいよ)
「でもっ」
(落ち着いてイルカ先生。まあ、混乱するのはわかりますよ。ちゃんと、話しますから)
 ふっと部屋の白さが柔らかくなった気がした。
(長い話をします。最後まで聞いてくださいね)
 
 カカシの紡ぐ物語が始まった。




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