キミノドレイ









 先生は笑って去ってしまった。恐ろしい環境にカカシ一人を置いて。



 カカシは絶対絶命のピンチだった。
 目の前にいる子供は、前髪で顔の半分くらいを覆い、薄汚れた服を着て、何日か風呂にはいっていなうような汗のようなすっぱいような匂いまでする。
 じり、じり、とカカシとの距離を詰めて、握った拳を差しだしてくる。
「あ、あのさ、イルカちゃん、それ、何?」
「やる」
「いや、だからさ、それ、何…?」
 小さなイルカのこぶしの指の隙間から、細くて黒い触覚が右に左に揺れている。とてもとても嫌な予感がするのだ。
 イルカは自らのこぶしを顔の前に持ってきて、中を確認している。
 今だ! 逃げてしまえ! と思うのだが、壁にへばりついたままカカシは動けずに、ごくりと喉を鳴らしてイルカに目を奪われていた。
 イルカは髪が邪魔で見づらいのかずいぶんと手を近づけている。カカシは気が気でない。手の中にいるモノがもしも飛びでたら、と考えた矢先、その通りのことがおこった  飛び出た物体はイルカの前髪にぴょんとひっついた。
 ぎゃあと声をあげたのはカカシ。思わず目をつむってしまった。
 そりゃあ確かにもう中忍だが、7才なのだ。怖いモノなんていっぱいある。あの黒い虫は大嫌いなのだ。
「カカシ」
「わ〜! 近寄るな!」
 顔の前で両手を交差させてカカシはしゃがみこんでしまった。
 もしもあの虫をイルカにさしだされたら、咄嗟にクナイでも刺してしまうかもしれない。だからイルカには離れて欲しいのに。だがイルカは一向に離れる気配がない。こうなったらカカシが逃げるしかないと、意を決して立ち上がろうとしたのだが、その前に脇の下に手を入れられてこちょばされていた。
 キャッ、キャッとうっかり笑ってしまい、顔をあげれば目の前には手のひら。思わずより目になる近さにイルカの手のひら。その上にはいささか力の尽きたコオロギと鈴虫が羽を震わせていた。
「おかえり。これ、やる。ぶじにもどったおいわい。あとたんじょうびプレゼント」
 口だけしか見えない薄汚れた顔で、少し大きめの口をにちゃあと広げる。
 そんな小汚い身なりをしているのに、間近でかぐイルカの口臭はなぜか甘い。それは出会った頃から不思議に思っていたことだった。



 イルカと出会ったのは数ヶ月前。初めてアカデミーの保育ルームを訪れた時だった。幼くして中忍になってしまったカカシは年の近い子たちと触れあったことがなかった。だから先生の後ろでもじもじと照れて隠れていた。
 仲良くしてやってねえ、と上機嫌な声で先生が告げると、これまた元気いっぱいに、は〜い! とそろった大きな声が返る。歓迎されたことに安堵したカカシが思い切って先生の後ろから顔を出すと、真ん前には黒い物体が立っていた。
 声もなく後ろに飛び退き、とっさにクナイまで構えてしまった。
 薄汚れたシャツと、顔半分を覆う前髪で顔は口しか見えない。
 とことことカカシに近づいてきた子供は丸めた手を差しだした。
 やる、と言われて、訳がわからないながらもカカシが手を出すと、ばらばらばら、と細かい小さな黒いものが落ちてきた。
 動き出して下に落ちていく。
 無数の蟻がそこにはいた。
 虫が全般あまり好きではないカカシは、手をぶんぶん振って蟻を払い落とした。それを見た目の前の子供はいきなりしゃがみこんだ。
「おやつ……」
 おやつ!? 間違いなくそう聞こえた。カカシが目を見開く前で子供は蟻を口に含んだ。そして頬を両手で包んでうっとりと呟く。
 おいしい、と。
 カカシはその瞬間気が遠くなりかけた。ひしっと先生の服を握りしめようとしたが、先生はしゃがんでしまった。
 大きな手のひらで蟻食いの子供の頭を撫でた。
「そうかあおいしいかあ。そうだな、いくさ場では食料に困ることもあるから今から色んなもの食べられるようでないとな。カカシはこう見えて繊細でねえ、君みたいにたくましくなって欲しいよ」
 先生、それはちょっと違うと思います。ぼくは普通になんでも食べます。わがまま言ってません。蟻を食べるのは少しおかしいことだと思います。
 と言いたかったが内気なものでぱくぱくと口を開閉するくらいしかできなかった。
 くるりと振り向いた先生はカカシを蟻食いの前に押し出すと、恐ろしいことを言った。
「これからカカシのこと面倒見てやってくれ」
 その一言でカカシは蟻食いにつきまとわれることになった。



 以来、イルカは汚い体でカカシに寄ってくる。先生に頼まれたからではないだろうが、いつもカカシの傍らをうろちょろする。かと言って何か話しかけてくるわけでもない。どうやらイルカは少し言葉が遅いのか、ひとことひとことを区切るように伝えてくる。そんなイルカのことを、施設の子供達は少し、馬鹿にしているようだった。
 カカシはイルカのことが好きかどうかと聞かれるとそれは答えに迷うところだ。任務が終わると訪れるこの施設でイルカはいつ同じ服を着て汚いなりをして虫をいじったりしている。あからさまにいじめのようなことがあるわけではないが、子供たちはあまりイルカに近寄らない。まずはイルカは格好が汚いし、匂う。話しかけてもとろいし受け答えがうまくない。
 カカシは幼くして中忍になり先生は次の火影になると評判の人。いずれは忍を目指すアカデミーの子供達にとってあこがれの存在になりつつあった。
 だから虫食いイルカなんてほうっておけばいいのだ。
 鈴虫とコオロギを押しつけられたが夜には死んでいた。人にこんなもの渡してプレゼントなんて言っておきながら、夜、食堂で開かれたカカシの誕生日会(と言っても食後にケーキがでただけだが)にはいなかった。なんとなくカカシはむかついて、ぽろりと取り巻き連中にこぼしてしまったのだ。
 イルカちゃん、嫌い、と。





 ぱたりとイルカがうろつかなくなった。
 任務もたてこんでおり、施設に寄る時間もあまりなかったカカシだがそれでも時間があれば自主的に施設に顔を出した。今までなら顔を出せば必ずどこかからイルカが寄ってきた。イルカが近づけば匂いですぐにわかるから、カカシはイルカを巻こうと施設をうろうろしたりした。けれどイルカは必ずカカシを見つけて寄ってくるのだ。そして、にちゃあと笑って、虫やら花やら、飴やらを差しだしてきた。いつも、カカシにお帰りと言ってくれた。
 いつの間にやらイルカに慣らされていたということだ。
 イルカが姿を見せなくなった訳は検討がつくから、とり巻きを少し締めた。子供たちは中忍の気迫にすぐに吐いた。
 カカシがイルカのことを嫌いだと言ったから、それをそのまま伝えた。するとイルカの姿をカカシのそばで見なくなった、と。別の施設に移ったかと考えたりしたが、それはないと言う。それならなぜイルカの姿を見ないのか? 考えていても進歩がないから施設の教師に聞いた。
 なんてことはない。
 イルカの両親が久しぶりに里に帰っていて、今は自宅に戻っているとのことだった。
 イルカがいつ戻ってくるかはわからない。カカシは居ても経っていられず、イルカの家に急いだ。





 夜になってしまった。
 イルカの自宅は里の中心からえらく離れた、里の郊外も郊外、小さな森をひとつ越えたところだった。さすがにカカシも疲れて、“うみの”の表札を見つけた時にはへたりと座り込んでしまった。息を整えながらも家の中の気配を探る。だが何も気配がしない。カカシは慌てて戸を叩く。
「イルカちゃん! ぼく、カカシだよ。イルカちゃん、開けて!」
 がたがたと立て付けの悪い戸が揺れる。
「イルカちゃん!」
 思い切り叫べば、家の中からぱたぱたと走ってくる気配。
 鍵がはずされ、カラカラ、と戸が開いて、顔を出したのは、イルカだった。イルカ、だったのだが……。
「イルカちゃん!?」
 指さすカカシの前で、子供はこくりと頷いた。
 石鹸の匂いも清々しく清潔なTシャツ。顔を覆っていた前髪は眉毛のあたりで切りそろえられ、後ろはてっぺんで結わえられている。頬はふっくらつやつや。鼻の上にある横に走る傷も愛嬌を添える。初めて見たイルカの目は大きくてきらきらとして夜空を切り取ったように黒かった。
「ええええ? ホントにホントにイルカちゃん?」
 イルカは大きく何度も頷いた。





 イルカの家は無駄に広かった。平屋だが、十畳ほどの部屋がふたつ。台所は5,6人の大人が余裕で立てる。風呂場も施設の子供たちなら一度に入れるくらいの大きさはある。
 そんな家の中の真ん中には小さなイルカ模様の風呂敷包みが一つ。他には全くと言っていいほどものがなかった。ただ、部屋に面した庭には、さまざまな色合いの花が咲いていた。月明かりに花弁を開き、生き生きとしていた。
 縁側に座ったイルカの隣でカカシもぶらぶらと足を動かしていた。
 ちらちらとイルカの横顔を見る。イルカがこんなにもかわいらしい子供だったとは知らなかった。施設にいる女の子たちよりカワイイと思う。柔らかそうな頬に触れたくて、さっきから手を開いたり閉じたりを繰り返していた。
「とうちゃん、かあちゃん、リコン、だって」
 イルカがぽつりと呟いた。
「離婚?」
 イルカが頷く。
「だから、もう、きれいにして、いいんだ」
 ぽつりぽつりとイルカは語った。
 数ヶ月前、任務に赴く前から両親の仲は険悪だった。昔、イルカがもっと小さい頃に家族が一体だった頃は三人でよく一緒にお風呂に入った。だからイルカはまた一緒に家族で仲良く風呂に入ることができるようにと、両親が帰ってくるまでの間、風呂には入らなかったという。もちろん体を拭いてはいたが。
 結局今回の話合いで、離婚が成立して、イルカはどちら側にもつかずに施設を生活の場として選んだ。
 淡々とイルカは語ったが、横顔の伏せられた目がなんとなく悲しげで、カカシのほうが目の奥がじんわりしてきた。
「イルカちゃん!」
 カカシが悲しい時先生がしてくれるように抱きつこうとしたが、はずした。イルカはサンダルをはいて庭に降りたつ。花の中にすたすたと入る。
「これ、里の花じゃない。むかし、かあちゃんが、もってきた。おなかすいたら、たべろって」
 イルカは花弁をむしると本当にむしゃむしゃ食べはじめてしまった。赤、黄、白、桃、橙、鮮やかな花弁がちぎられてはイルカの小さな口の中に吸い込まれていく。引き寄せられるようにカカシもイルカの隣に立つ。
「ぼくも、食べていいかな?」
 イルカは咀嚼しながら頷く。
 おそるおそるカカシも千切る。赤い花弁に苺を思いだし、ぱくりと食べてみた。
「!」
 口の中に広がる甘い香。ほおが落ちそうなとろけそうな甘み。けれど甘ったるいわけではない。カカシは他の色も食べてみた。それぞれがやはり甘いが、微妙なさじ加減とでもいうのか、甘酸っぱいようなものもありすっと鼻が通るようなものもあり、しばしの間カカシは夢中で食べ続けた。そのうちに思い至る。これは、この味は、イルカの口から匂っていたものだ。イルカはいつも家に戻ってここで花を食べていたということか。
 そういえば、イルカはカカシがいる時はまとわりついてくるが、あまり施設にいることはないと誰だったかが言っていた。きっと空いた時間はここで花を食べるために戻ってきていたのだろう。
 イルカが何を思ってこんな遠い自宅まで通っていたのかわからない。両親との思い出に浸るためかもしれないし、ただたんにこのおいしいものを食べたかっただけだったのかもしれない。
 イルカは無表情のままうなずきながら食べている。
 無心に食べる姿にカカシは思わず口にしていた。
「イルカちゃん、ぼくがいるよ。ぼくがイルカちゃんのそばにいるよ」
 カカシは思いをこめて伝えたが、イルカはふるふると首を振った。
「いらない。おれ、ひとりでいい」
 あっさりと拒否される。
 カカシは食い下がった。
「で、でも! 一人は寂しいよ?」
「ちがう。とうちゃんかあちゃんが、はじめから、いなかったら、よかったんだ」
 むうぅと頬を膨らませてイルカは言い募る。
 拙いながらも、イルカの言いたいことはわかる。きっと、最初から親なんていなければ、今のような事態に陥ることもなく、悲しい思いをすることもなかったと言いたいのだろう。 けれど、その両親がいなければ、イルカは生まれなかったのだ。
 カカシは物心ついた時に親はいなかった。だから本当にはイルカの気持ちはわからない。誰にも、イルカの気持ちはわからない。けれど親が最初からいなかったカカシの気持ちも、誰にもわからない。
 カカシは思う。一人は寂しい。それは絶対だ。
「じゃあ、勝手にそばにいる! ぼく、今からイルカちゃんのドレイになる」
 小さな握り拳で叫べば、イルカはちらりと視線を流してきた。
「ドレイって、なに?」
「え?」
 勢いで言ってしまったカカシだが、それが何なのか、よくはわかっていない。ただ、いつだったかの任務の帰りに寄った国で目にした光景。
 馬に乗った偉そうな男の後ろを鎖で手を拘束されて徒歩で歩いていた数名の人たち。その時先生が溜息とともに言ったのだ。“まだこの国には奴隷制が残っているんだな”と。ドレイって? と問いかければ、寂しく笑んだ先生は、言ったのだ。
“ずっと、あの馬に乗っている人間に、仕える――そばにいなければならないんだよ”と。
「えと、それは、ずっと、イルカちゃんのそばにいなければならないってシゴト!」
 イルカの視線が冷たくなった気がしたが、カカシは両手の指をもじもじさせながらちらちらとイルカを見つつ適当なことを続ける。
「それは、中忍以上にしかできない任務なの。だから、だから、ぼくが」
 なんとなく続けることが苦しくなってきたカカシは黙り込んでしまう。沈黙が重い。さわさわと花は風に揺れる。
 半べそになりかけたカカシに、イルカがいきなり丸いこぶしをにゅ、と差しだしてきた。
「やる」
「え? 何? 何、くれるの……?」
 イルカのこぶしにはあまりいい思い出がない。だいたいが遠慮したいものしかその中には入っていないのだ。けれどここでイルカからの好意を突っぱねたら、ドレイになることができない気がして、カカシは勇気を出して両の手のひらを広げた。
 イルカの手が開かれるのをごくりと喉を鳴らして見ていると、ぱらぱらとカカシの手の中に落ちたのは細かな種だった。
「イルカちゃん、何の花の種なの?」
 イルカはくるりと囲まれた二人の背丈ほどはある花たちを見回す。
「カカシも、うえろ。任務の、ほうしゅう」
 にちゃあ、と、イルカは笑顔を見せてくれた。
 ドキドキとカカシの胸は高鳴る。
「え、じゃあ、ぼく、イルカちゃんのドレイでいいの? いいってことだよね?」
 こくんとイルカは頷く。
 そこでようやくカカシはイルカに抱きついた。
「ぼくがそばにいるから。ずっといるから大丈夫だからね!」
 イルカの頬は思った通り柔らかくてすべすべだった。








 きっと先生には最初からわかっていたのだろう。
 後日イルカのドレイになったことを報告したら、目を丸くしてひとしきり笑ったあと、カカシが大好きな大きな温かな手で優しく優しく頭を撫でてくれた。
 イルカとずっといっしょにいられるように、と囁かれた言葉が今も耳の奥にきちんと残っている。
 先生はもういない。けれでもちろんイルカはそばにいる。さまざまな意味を含めて、唯一の存在として、そばにいてくれる。
 幼いあの日、意味もわからずにドレイだなどと言ってしまったが、それは未来を予言したような言葉だったのだ。