瑕瑾−きず−





 一瞬のためらいがあった。
 その隙をついてのびてきた手が約束された動作のように杯をつかんで一気に飲み干してしまった。
 見開いた視界の中、ゆるく微笑んだ男はゆっくりとくずおれていった。





   ※※※





 山は絶妙に塗り分けられた絵画のように色とりどりに華やいでいた。秋は深まり空気は清く健やかな気で満ちているかのようだ。
 さく、さく、さく、と山道に落ちた葉を踏みしめて歩く長身のかげ。白銀の髪が光を弾き、頭に王冠のような輪をかたち作っていた。
 つと立ち止まり空を見上げる。木々の合間から遠く高い秋の陽が目に染みこむ。群青の目を細めて、しばしの間。
 そして、目をつむった。



「よくいらしてくださいました」
 突然の訪問に、男は一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに懐かしい笑顔を見せてくれた。
 目的の家に着いたのは夕刻、陽はとうに沈み、残照が山のいろを燃え立たせていた。ほっと肩の力が抜けたのを目の前の男は気づいたのかくすりと笑う。
「お疲れのようですね。ちょうど風呂がわいてますから、まずはくつろいでください」
 穏やかに、男は口の端を優しくゆるめる。
「イルカ、お客様だよ。おいで」
 呼ばれて庭のほうから駆けてきたのは、父親そっくりの黒い目と髪を持った子供だった。父親の隣に並ぶと礼儀正しくぺこりと頭を下げる。
「はじめまして。うみのイルカといいます」
 小さな、まだ年端のいかない子供は躾が行き届いているのか大人びた挨拶をする。跪いて、子供の頭を撫でた。柔らかな髪の感触がしばらく会っていない息子のことを思い出させた。
「はじめまして。俺は」
「知ってます」
 子供は無邪気に頷いた。
「はたけサクモ上忍ですよね。木の葉の白い牙。ぼくも父さんも、そんけいしてます」
 宣言するように告げられて、こわばったのは手のひら。かろうじて笑顔を保ったまま、苦く笑った。





 ごり、ごり、と石のすり鉢とすりこぎのたてる音が闇にのる。
 子供はとうに寝付いた。障子は開け放たれ、外からの月明かりと、橙色の四角いあんどんの灯が小さな部屋の光源。
 サクモは縁側の障子の端に背を預けて片膝たて、猪口を片手に満月を振り仰いでいた。銀色の月は猪口の中にも浮かぶ。ゆらゆらと揺れる月をくっと飲み干して、部屋の中にいる男に視線を転じた。
「うみの中忍。目は、まだ、見えるのか? 体の調子は?」
「昼間はぼんやりとですが人の姿は判別できます。知った人間なら誰かはわかりますよ。夜はちょっと難しいですね。ほとんど見えません。体はまあ、時間が解決してくれます。あと半年くらいこの空気のいいところで休めば治りますよ。イルカもよく働いてくれますし、不自由はありません」
 ご心配なく、とは言わなかった。心配しないわけがないことはわかっているからだろう。
 己のかわりに毒杯をあおった人間を心配しない者がいたらそれは人としておかしいから。
「はたけ上忍はどうですか? あまり食も進まないようでしたし、お体の調子は大丈夫ですか。無理しないでくださいね。こんなところで暢気に休んでいる俺が言っても説得力がないですが、あなたは里にとってとても大切な人なんですから」
「無理は、しているかな。性分だから仕方ない」
「はたけ上忍……」
 あきれたような声。この声でサクモはよくいさめられたものだ。戦場で、いつも傍らにいた声。この声がサクモのことをいつも励ました。
 影のようにそばにいて、控えめに、確実にサポート役に徹して戦場を駆けていた男は、今は着流しの上に半纏をはおり、山から採ってきた草をつぶして薬草作りに精を出していた。
 ほとんど見えない目で草を集めて、煎じ薬やら塗り薬を作る。すこぶる効能があるのは研ぎ澄まされた残された感覚で、精魂込めて作るからなのだろう。
 サクモに与えられた休日はわずか一日。明日の昼には里に戻って、次の戦場に行かねばならない。国同士の争いは忍界大戦からこっちなかなか終わらない。戦場はいつだって過酷で、そして長くなる。旅立つ前にどうしてもここに来たかった。
 来なければ、ならなかった。
 意を決して立ち上がったサクモは、ずっと長い間ともにいた男のそばに腰を下ろした。
「うみの。どうしてあの時、杯を手に取ったんだ」
 ごり、ごり、と一定のリズムを刻んでいた音が、やむ。りり、りり、と秋の虫の音が急に世界に戻ってくる。
 うつむいていた男は顔を上げる。瞬きを数回。男にしては長めのまつげが印象深い優しい目元だった。黒い目の中に映っていないことが、きり、と胸を刺す。
「どうしてもなにも、俺が飲むべきだったからです」
「だがあれを差し出されたのは俺だ。俺たちの隊が疑いをかけられていたのだから、隊長である俺が飲むべきものだった」
「あなたが飲んでたらどうなったと思うんですか。疑いは晴れてもあなたが動けなかったら隊も、城のひとたちも全滅でしたよ」
 茶化すように、男は肩をすくめる。そしてまた、ごり、ごり、とすりこぎを動かす。
「とにかく、もう済んだことです。悔いても仕方ないことを考えるのは心に悪いですよ」
 サクモの反論を封じるかのようにぴしゃりと口にする。昔から手強い男だった。従順そうでいてしなやかで、意に添わぬことには簡単になびかない。
 けれど。
 そんなわかりきったことを聞くためにわざわざこんな山の中にまで来たわけではない。
 助成に向かった先の大名の城で敵の工作によりあらぬ疑いをかけられた。真偽をはっきりさせる為に差し出された杯。毒が入っているのかいないのか。その疑わしきものを飲むことにサクモは一瞬、本当に、刹那と呼ぶにもためらいがある間を、躊躇した。
 それを手にとったのはサクモの副官だった中忍の男だった。三日三晩生死の境をさまよい、男は視力のほとんどと前線で働けるだけの健康を失ったのだ。疑いは晴れ、敵を倒すことはできたが、サクモにとっては負け戦だった。
 じっと男を凝視しても、男には見えない。サクモの訴えかけるような目が、見えないのだ。
 すりこぎを動かす手を止めた男は傍らに用意した葉を千切ってすり鉢の中に入れ、特別な薬液を数滴垂らして、また単調な作業を繰り返す。まるでずっと長い間、何十年もこの作業を続けているかのようによどみなかった。
 こんな静謐、くそくらえだ。男に隠棲は似合わない。部下だった男のことはサクモにはよくわかっている。
 ぎり、と唇を噛むしかないサクモの歯がゆさが伝わったのか、男はうつむいたままでぽつりとこぼした。
「ねえサクモさん。あなたは、生きなければならない人なんです。あなたがいることで、どれだけ心強くなれるかわかりますか? それはあなたが“白い牙”と言われるほどの忍であるからではなくて、あなたという存在そのものが俺たちにとって希望になるんです。だから俺は自分の行動を誇りこそすれ、後悔なんてかけらもないんです」
 静かに紡がれた言葉に嘘偽りはなく、だからサクモはますます嫌になるのだ。
「俺は、後悔している。どうしてあの時ためらったのか、死ぬほど、後悔している」
 サクモのうめくような低い声にかぶせるようにして男はひそかに笑った。
「ためらわなかったなら俺はサクモさんのこと軽蔑しましたよ。あなたは一軍の将なんですから、命を惜しんでください。あなたが命をかけるのは最後の最後です。まずは俺たちに守らせてくださらないと」
 男は今一度顔を上げた。見えてないはずの目で、まっすぐ、サクモに視線を据えて、濡れたような瞳にあんどんの灯をまたたかせた。
「俺はねサクモさん。人の命は平等じゃないと思ってます。
 戦場ではサクモさんの命と、部下である俺たちの命が同じ重みのわけないんです。仲間が大切じゃないってことじゃないですよ。でもその時々に応じて優先しなければならないこととか選ばなければならないことってあるじゃないですか。だから俺は、サクモさんの命を選んだんです。あの瞬間はサクモさんの命が何よりも大切なものだったんです。だからサクモさん」
 男は照れた仕草で頬をかいた。
「堂々と、していてください。あなたをかばったことを誇りに思えるように、していてくださいよ」
 男はサクモを安心させるように大きく頷くと、またあらたな葉をとって、千切ろうとした。
「って……」
 男の指先に小さなとげがぷつりと刺さっていた。サクモはぎこちない指先でとげを抜こうとする男の手を取った。
 口元にもってきてしみじみと見た男の指先は存外に繊細だった。歯にはさんでとげを抜くと赤い血の点が皮膚に浮かぶ。舌をのばして嘗め取る血は甘く、苦くて、サクモは酩酊感にくらりとなる。
 指を口に含んだサクモに男は何も言わない。

 ただ虫の音が、空間を満たしていた。





 朝が明けきらない時間。もやに煙る家の前でサクモと男は向き合っていた。
 子供は半分眠っているのかゆらゆらと揺れながらも、それでもしっかりと父親の手を握っていた。
「イルカ、はたけ上忍にきちんと挨拶をしないと」
 男が促すと、子供は揺れながらも頭を下げて、舌足らずの声で何事かささやいていた。男は子供を抱き上げてすみませんと、頭を下げた。子供はすぐに寝息をたてていた。
「自分で見送りたいと言ったのにこれですよ。仕方ない奴です」
 言いながら子供の頬を優しく撫でてやっている。
「はたけ上忍のお子さんは、今は戦場ですか?」
「ああ。なんの因果か中忍になってしまったから、かりだされている」
「そうですか。ご心配ですね」
「うみの中忍の奥方も長い間留守だろう?」
「はい。イルカには寂しい思いをさせますが、こればっかりは仕方ないですからね」
 男は申し訳なさそうに目を伏せる。
 サクモには堂々としていろと言うくせに、男自身は戦場から離脱せざるを得なくなった身を情けなく思い、身を潜めて生きていくのだろう。
 分かたれてしまった互いの身の上を考えていると、言葉が消えていく。なぜと問いかけても始まらない。答えはどこにもない。最初からない。サクモがここにどうしても来たかったのは簡単なことだ。
 なぜ、と問いを発して答えが欲しかったわけではない。
 ただ、この男に会いたかった。戦場で当たり前のように自分に仕えてくれていた男の、顔が見たかった。そうしたら、また闘うことができるから。
「世話になった。どうか息災でいてくれ」
 思いをこめて告げる。男の姿を焼き付けるようにしばしじっと見つめる。網膜に、刻みつける。言葉もなくたたずんでいると、そこにもやをやぶって陽の光が届いた。
 男は子供のように歓声をあげて、まぶしそうにサクモのことを見つめた。
「サクモさんの髪なら、とてもよく見るんです。ほとんど役立たずの俺の目でも、あなたの白銀の髪は、輝いて見えます」
 蒸気した頬で、男はあどけなく笑う。柔らかな笑い声に一時の錯覚。時が戻る。
 男の無垢の目が、耐えるように細められ、そして不意に盛り上がった涙がするりと頬を伝うのと、男が頭を下げるのが同時だった。
「すみません。もう、おそばにいることができずに、本当に、すみません」
 深く頭を下げた男の腕の中の子供を抱く手はぶるぶると震えていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい! あなたとずっといきたかったのに、誓いを破ってしまって、ごめんなさいっ。どうか、どうか、あなたは、どうか……!」
「うみの」
 凛とした声で呼んだ。男はびくりと震える。顔を上げて背筋を伸ばした。涙で濡れた顔で、唇は引き結ぶ。
「許さない。俺はうみののこと、許さないから」
 サクモは笑った。我ながら、ひどく優しく笑うことができた。
「だからうみのは、許さないでいることを、俺に、許してくれ」
 そうだ。
 それだけで、いい。





 いきたかった。

 行きたかった。

 生きたかった。





 逝きたかった。




 男の真意はどこにあったのだろう。

 サクモは戦場を、一人、駆ける。





FIN