□ カカシの日記 中編−ただいま−
◇月◆日
「イルカに会いに行かぬのか?」
ナルトの自宅アパートから出ると火影はなにげなく声をかけてきた。振り向いたカカシはうすく笑んで首を振った。
「いえ。まだ、会えません」
火影はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「なんじゃ。すっかり落ち着きおって。昔のおぬしはもっと弾けておったぞ」
「そんな、無茶言わないでくださいよ。また俺がニャーニャー言い出してもいいんですか?」
カカシが苦笑すれば火影はふんと横を向いた。
「むしろその方が面白かったな」
すねたような火影にカカシは笑うしかなかった。
「ああそうだ火影様。俺猫耳だった頃にナルトと親交を深めてしまったんですよね。どうしますか〜?」
ついでに、成長してからも会ってしまい、ナルトには猫耳カカシは任務で遠くに行っており、カカシは猫耳カカシの親戚だと話したことも伝えた。
火影はカカシに任せるとそっけなく言っただけだった。
◇月□日
緑深く美しい木の葉の里は花の季節になっていた。
ナルトとよく遊んだ河原の土手に寝ころんで大きく息を吸う。
子供の頃に見ていた景色と目線の高さが違う里はどことなく新鮮だった。長いようであっと言う間だった暗部での一年半ほどの日々は意識的に里のことは思い出さないようにしていた。里を思えば必然的にイルカを思い出すから。
隊長の許可がでて里に戻れることを仲間に伝えると、皆が困惑したようなとまどいを見せたのが面白かった。きっとカカシも隊長に言われた時は同じ顔をしただろうから。
「俺たち、たった一年半だぜ。いいのか?」
タスクが代表しておそるおそる聞いてきた。
「いいってさー。別に決まった期間があるわけじゃないんだって。俺たちはもう大丈夫だって。だから戻っていいらしい」
カカシが軽く返せば、タスクもシイナも、負傷して伏せたままのランも、顔を見合わせる。天幕の中、微妙な沈黙が場に降りてくる。カカシはあくびをして後ろ頭をがりがりとかく。
「ほんとうに……?」
ランの小さな声。カカシのことを食い入るように見つめていた。ランのそばに膝をついたカカシはランの柔らかな頬を撫でてやった。
「本当だ〜よ。里に帰っていいってさ」
ランはしばしカカシのことを大きな目を見開いて見つめ、そして、輝くような笑顔を見せた。
「僕、こんな体になっちゃったけど、母さん、だいじょうぶって言ってくれるかな?」
「大丈夫」
カカシはランの頭をそっと撫でてやる。カカシの背にいきなりぶつかってくる体。振り向くとシイナがカカシの背にしがみついていた。
「ど〜したのよ」
「あた、あたし、うれ、しくて。だって、あの子、すっごい、泣き虫のくせに、気ばっかり強くて、あたしが、いてあげないと駄目なんだもん。帰れるのが、すごく、すっごく、嬉しい」
わーんとシイナは大声をあげて泣き出してしまう。ちらりとタスクを見やれば、タスクは若干目を潤ませつつも、カカシに見られたくないのか、ふいと顔をそらせてしまう。
「タスクも嬉しい?」
「べっつに! 帰っても任務の傍らばばあの店でこき使われるだけだからな!」
「定食屋だっけ? 教えてよ。イルカと食べにいく」
「あたしも、行くー」
「僕もー」
「ざけんなっ! ばばあに会わせられるか。教えねえ」
それからは天幕の中は三人がめいめいに喋る声で破裂しそうな声に満たされた。
戻っても定期的に連絡をとろうとかしのび卵生まれの同盟を作って会合を開こうだの、誰もがはしゃいで、ずっとずっと体と心にまとっていたはりつめた緊張感を解き放った。
「あいつら、どうしてるかな」
と言っても別れてからたいして時間は経っていない。カカシが仲間と共に里に帰還したのは五日前。それからこの先受け持つことになるスリーマンセルの情報を聞いたりとそれなりに忙しく過ごしていたが、イルカに会いにいけないほど忙しいわけではなかった。
火影にはまだ会えないなどと言ったが、実は、イルカには会っている。
一方的にだが。
帰還した日。
火影への挨拶をすませると、そのまま手洗いに行くフリでアカデミーに向かった。職員室に明かりがついていたのは知っている。もしかしたらイルカが残っているかもしれないと思って。
早鐘のように鳴る心臓をもてあましながら一直線に向かったが、ふと、ひっかかりを覚えて、方向転換をした。外に出て、気配を殺して職員室をのぞくにちょうどいい大木の影からそっと中をうかがった。
イルカが、いた。
生真面目な顔をして、机に向かっていた。イルカ以外にも何人かの職員が残っていた。
たった一年半だ。特に変わっていない。ひっつめた黒髪も、骨張った男くさい顔も。何も変わっていないのに、久しぶりで食い入るように見てしまう。そんなカカシの気持ちが届いてしまったのか、イルカが顔を上げた。
「!」
まっすぐに射抜かれて、カカシは心臓が止まるかと思った。変わらぬ黒い瞳がカカシを見つめる。動揺する心のまま、カカシは術でその場から消えた。
いや。逃げた……。
ふわりと風が吹いて、なにやらかぐわしい花の香が届きカカシは薄目を開ける。少しうとうとしてたようだ。平和過ぎる里にちゃんととけ込めるかと心配されたがしっかりこの空気になじんでいる。
あの時、別に目があったわけではない。イルカは偶然こちらを向いただけだった。なのになぜ咄嗟にイルカの元から逃げたのか。
理由はわかっている。
成長した途端、堪えきれずにイルカのことを無理矢理抱いて、そのまま別れたことが引っかかっている。もしかしたらイルカはカカシのことを怒っているかもしれないと、今更ながら気づいたのだ。
「俺って小心者ー……」
あんなに焦がれたイルカが手の届く距離にいるのに、なにもできないなんて。
カカシは体を起こしてうーんと考え込む。
遅かれ早かれイルカとは会うことになる。なんといってもイルカは受け持つ子供たちの元担任だ。
くさくさした気持ちをはらうために大きく伸びをした。
とにかく、戻ってきたのだ。
今。今しかイルカに求められないことがあるはずだ。
そう。戻ってきた、今だけ。
◇月☆日
「ナルト! お前ら、無事合格したって?」
「そうだってばよー! 一楽のラーメン合格祝いだかんな」
「そうか。よかった。よかったなあ」
息せき切って走ってきたイルカは安堵の顔でナルト、サスケ、サクラの頭を無造作に撫でる。ナルト以外の二人もまんざらでもない顔をしている。イルカはどうやら生徒に信頼の厚い教師なのだろう。
「それで、指導教官の、はたけ上忍は」
「カカシ先生? なんか用事あるからってどっか行った」
「そうか……」
イルカの顔が心なし沈む。
結局カカシはナルトに対してはちょっとした暗示をかけた。この先成長して忍として一人前になれば自然と猫耳カカシと今のカカシが同一人物だとわかるように。へたに混乱させるより、という気遣いよりも、面倒だからそうしただけだが。
イルカに一楽の約束を取り付けたナルトはサスケ、サクラと行ってしまった。
ぽつんと見送るイルカのまっすぐな背中。あの背を見上げて、追いかけていたと、感慨深く思い返す。
ぎりぎりに神経を張りつめて、目を閉じる。
白い、真っ白の世界が、最初にあった。
たまごの中にはたくさんの“思い”が溢れていた。カカシはそのひとつだった。それが混ざり合い、時には反発して、分裂しそうになりながらも、優しい思いに応えてひとつになった。
生まれ出たのはカカシ。カカシたちをひとつにして生み出してくれたのはイルカという忍者だった。
最初はイルカのことが嫌いだった。カカシたちしのび卵生まれは成長するためには生み出してくれた存在を頼るしかないのに、慕わざるを得ないのに、イルカはカカシのことをはっきり嫌がって邪険にあつかった。
だから悔しくて、悲しくて、嫌いになってやると思っていたのだ。
そんな複雑な気持ちもあってカカシの成長は遅く、寄り道したりと一筋縄ではいかなかったのだろう。
カカシの成長についていけなかったのかイルカは何度もカカシのことを見捨てようとした。だが、それでも最後には見捨てたりしなかった。
今ならわかるが、いきなり正体不明のたまごから子供が生まれたら、イルカの反応は妥当なものだろう。
イルカにはいつも怒られていた気がする。だがイルカの根っこの部分は、不器用で、優しかった。
「カカシ」
目を開ければ、こちらを見上げているるイルカがいた。気配を殺し、生い茂った葉の中に隠れていたのに、イルカは、カカシを見ていてた。
「のぞきなんて悪趣味だぞ。俺はお前ぇをそんな風に育てた覚えはねえ」
じっと、イルカが見ている。ごくりと喉を鳴らしたカカシは数回深呼吸を繰り返してそっと話しかけた。
「……気づいてた?」
「当たり前だ。俺をなめんなよ」
普通に声を出せた。
ためらわずに、身を躍らせる。
ざっと葉を揺らして地上に降り立つ。
イメージの中ではできていたのだ。
だがカカシは再び逃走した。
「カカシ!」
後ろから、イルカの呼ぶ声。それに逆らって、カカシは飛ぶようにその場を後にした。
◇月○日
適当なところを逃げ続け、気づけば、またあの河原に来ていた。すでに夜中だ。
月も星もない真っ暗な夜。風が草を揺らし川の水をさざなみだてる。額宛をむしりとったカカシはその場で膝を抱えて座り込んだ。
イルカの声が耳に残っている。ちゃんと、カカシのことを見て、呼んでくれた。なのにカカシは逃げた。怖いのだ。イルカは、以前いきなり成長したカカシに対してとまどいを見せ、嫌がっているふうだった。それはいきなりの成長を遂げたカカシに対するとまどいだったとイルカは言っていたしその言葉を信じることができたのに、でも、あんな別れ方をしたから、やはり怖い。イルカに嫌われたらと思うと、怖くて、震える。
ぎゅうと体を縮めて、鼻の奥がつんとなるのを我慢する。
不安で、悲しくて、まるでまた小さな子供に戻ってしまったような心細さをおぼえる。
「イルカー……」
そっと呟いたら、いきなり呼ばれた。
「カカシ! いい加減にしろ! いつまで鬼ごっこ続ける気だ!」
イルカの怒声が風に乗って届く。びっくりしたカカシは思わず飛び上がってしまった。
「そこか! 動くなよ〜」
土手のほうから、イルカが走ってくる。闇などものともしない忍の視力でイルカが怒っているのがよくわかる。三度の逃亡をはかりたかったが、そこにぬいつけられたように動けずにカカシは硬直していた。
あっと言う間に距離を詰めたイルカ。 同じ視線の先に、イルカがいた。
怒ったような張りつめた顔。息を切らして、髪は乱れて、睨むようにカカシのことを見ている。
「っかヤロー……。なんで、逃げるんだよ。びっくりするだろ」
イルカの手があがる。思わずカカシは目を閉じる。だが。
イルカの手はカカシの頭を撫でてくれていた。カカシはぱっちりと目を開けて瞬きを繰り返す。
「俺のこと、怒ってない……?」
小さな声で聞いてみれば、今度は拳骨が降ってきた。
いてっと思わず声をあげた。なつかしい、イルカの拳骨。よろりと体を離せば、イルカは口をへの字に曲げていた。
「怒ってるに決まってるだろう。どんだけ探し回ったと思ってるんだ。いつまでも子供気分で鬼ごっこする馬鹿上忍がどこにいる」
頭をさすりながら、カカシは口を尖らす。
「鬼ごっこじゃなくて、そうじゃなくてさ、俺、俺イルカに」
「ああ怒ってるさ。いきなり、あんな……」
やっぱり、と予感が的中して、カカシはしゅんとうなだれる。こんなことなら帰ってこなければよかった。遠くでイルカを思っていればよかった。
思考は加速して後ろ向きになる。
「カカシ」
呼ばれても俯いたままでいれば、また名を呼ばれた。
「カカシ。顔、あげろ」
「……」
「カカシ。頼むから」
おそるおそる、顔を上げれば、息が止まるかと思った。
イルカはカカシのことを見つめ、おひさまのような笑顔を見せてくれていた。
「おかえり」
イルカの笑顔に呆然とみとれているカカシに、イルカのほうが近寄って、抱きしてめくれた。
「おかえり、カカシ」
じわじわと満ちてくるものにおされて、カカシもイルカの背中に手を伸ばす。
イルカの背に回した手に力をこめる。
「ただいま」
万感の思いを込めて、告げた。
おかえり。
これこそが欲しかった言葉。
思い出す、ひだまりの記憶。ここが、帰ってくる場所。
ヲハリ。