8.




 カカシぼっちゃまの順番はちょうど午前の最後だった。イル村さんはエプロン装着してマフラーしてと、軽装でいそいそと学校へと向かった。
 買い物用の籠の中にはぼっちゃまのためのエコバッグも入っている。学校のそばにある大きなショッピングモールで昼を一緒に食べてから買い物の予定だ。
 遠く都会からも入学してくる者が後を絶たない名門私立の木の葉学園は立派過ぎる鉄の門に囲まれていた。
 イル村さんはきゅわーと口を開けてしばし見入ってしまう。そんなイル村さんの横を居残っていた生徒たちがちらりちらりと視線を寄越しながら通り過ぎていく。ぼーっとしている場合ではなくいざ教室に行かねばと、イル村さんはぱんぱんと気合の張り手を自らの頬にいれた。
 ちょうど横を過ぎようとしていた女生徒がびくんと跳ねた。へらりと愛想笑いを残して、イル村さんはざっかざっかと足音荒く正面玄関に向かった。

 カカシぼっちゃまの担任は、もさっとした髭を生やした体格のいい若い男だった。
 しつれいしまーすとイル村さんが元気いっぱいに教室に入れば、ぱちぱちと瞬きをした。
「家政夫って、海豚なのか」
「はいっ。木の葉家政夫協会所属のイル村と申します。以後お見知りおきを! ええと、アスマ先生!」
「ああ、まー、よろしく頼むわ」
 だるそうというか面倒くさそうにアスマ先生は手を上げた。その手でそのままどうぞーと椅子に座るようにと促した。
 ぺこりと頭を下げてイル村さんは椅子に座った。イル村さんには小さすぎてお尻の半分以上ははみでたがとりあえず座った。
 イル村さんはらしくもなく緊張していた。
 学園の立派さもさることながら、なんといっても今日はカカシぼっちゃまの親代わりだと思うと、粗相はならじと気合が入って気持ちが高揚していた。
「あ〜、イル村さん」
「申し訳ありません!」
 イル村さんはがばあと頭を下げた。
「三学期からは心を入れ替えさせますから、平にご容赦を! カカシぼっちゃまはちょーっととっつきにくいように見えて本当にとっつきにくいんですけど、根は動物好きのコンチクショーな子供なんです。なんといっても御父上を亡くされてまだまだ不安定なお年頃。授業中の居眠り三昧、なにとぞ大目に見て頂きたく、ひらに、ひらに、ご容赦を〜」
 一気に言いきったイル村さんだったが、アスマ先生からの反応が返らないことをいぶかしんで、おそるおそる顔をあげれば、途端、たばこの煙を吹きかけられた。
「きゃふっ。ちょっ、いつの間に。禁煙ですよ教室は!」
 前ビレでぱたぱたと煙を拡散させたイル村さんは目を吊り上げた。
「神聖なる教室で、不届き千万。成敗ですよ成敗!」
「わかったわかった。ちーっと落ち着けや」
 ふうとうまそうに一服してから、アスマ先生は携帯灰皿に吸い殻を片して、立ち上がると窓を開けた。
 十二月のわりには温かい日で、外からの冷気は部屋をかるく交ぜただけだった。
「なあイル村さん、あんた、いつからカカシの家にいる?」
「きゅわ?」
 首をかしげたイル村さんの元に戻ってきたアスマ先生は席に落ち着くと、腕を組んでなぜかふんぞり返る。
「カカシの親父さんが死んじまったことは知ってるってことだよな。俺はカカシなら立ち直れると踏んでいた。それは間違いなかったがよ、思ったよりも早く立ち直ってくれた。最近は笑うようにもなった。あんた、カカシになにかしてやったのか?」
「なにかって、わたしはただの家政夫でありますので、ごはんを作って掃除をしてと、ハウスキーピングにいそしんでおりましただけですが」
 なんとなく縮こまったイル村さんが答えると、アスマ先生は視線を鋭くする。
 その視線がそれだけかと真実を追求しているようで、内心でだらだらと汗をかいたイル村さんは、聞かれてもいないことをぺらぺらと喋っていた。
「家政夫業以外ではですねえ、プールでイルカショーをお見せしたり、ぬるいこと言うんで引っぱたいてしまったら一回クビになって、不法侵入して再雇用してもらって、今にいたっております」
「なんだそら」
「わたくし〜炎の熱血家政夫でして〜」
 きゅわっと愛想笑いをしてみれば、何故かアスマ先生は吹き出した。
「カカシのやつが二者面談に家政夫を寄越すって聞いて俺は驚いたんだよな。本来親権のある者が来なけりゃあならねえんだが、あいつの家は特殊だから了承した。あんたに興味もあったしな」
「きゅわー。そうでしたかあ」
 アスマ先生の言っていることがいまいちピンとこないが、興味を持ってもらえるのは喜ばしいことだ。
 にこにこしているイル村さんをアスマ先生はにやにやと見て、大きく頷いた。
「どうやらあんたのおかげってのもあるんだろうな」
「なにがですか?」
「まあこれからもカカシのことをよろしく頼むわ」
 これから、と言われた途端イル村さんは頭を押さえてきゅわーと苦悩した。
「どうしたイル村さん」
「それなんですよそれっ」
「それってどれだ?」
「カカシぼっちゃまのお世話をしたいのは山々たにたになんですが、雇用期間が今月いっぱいだったことに今朝気付いたんですよ! 不覚! なんたる不覚! 深く反省です!」
 ぎゅわきゅわ喚けば、アスマ先生は幾分ひきつったような顔をした。
「そらあ、まあ、カカシと交渉するしかねえな。雇用期間の延長をよ」
「そうなんですそれしかないんですっ。やりますよー。絶対にぼっちゃまから契約の更新をもぎとってみせますとも」
 ふんふんと鼻息荒くイル村さんは宣言した。
「そうだその意気だ。期待してるぜ」
 にやっとにひるな感じで笑うアスマ先生はかっこよく頼り甲斐がありそうに見えた。
「アスマ先生も、なにとぞぼっちゃまのことよろしくお願いしますです」
「ああ。たいしたことはしてやれねえけど担任としてできる限り目はかけるからよ」
「ありがとうございますぅ」
 ぺこっと頭を下げたイル村さんはおもむろにリボンにくるまれたかわいらしい箱を差し出した。
「あの、これをお納めいただきたく……」
 イル村さんがきらりとまなこを光らせれば、アスマ先生は目を据わらせた。
「なんだ? ワイロか? 悪ぃがそれは受け取れねえな」
「なにをおっしゃいますアスマ屋さん、これはそのようなものではござんせんですきゅわっ」
 リボンをさっととって開けた箱の中には黄金色の甘く香ばしいチーズケーキが入っていた。おお、とアスマ先生の声があがる。
「わたくしめの力作、近いうちに通信販売でもしようかと思っている最高級イル村特製のチーズケーキですっ。彼女さんとでも食べてくださいませ〜」
「うまそうだな」
 アスマ先生の喉がごくりと鳴る。
「おいしいんですよ! 最高級ですからっ」
 ずいずいっと箱ごとアスマ先生の眼前に差し出せば、ぐうとアスマ先生の腹の音が聞こえた。時刻は昼近く。腹も減るというものだ。
「ホールってのは大きすぎるから、半分くらい一緒に食わねえか? 残りの半分は持ち帰って彼女と家で食うからよ」
「いいですね〜。是非是非、お茶しましょう」
 きゅわっと一声、イル村さんは達成感に満たされた。カカシぼっちゃまのためにできる限りのことはしたのだ。
 お茶を淹れてくれたアスマ先生と、カカシの話題で花が咲き時刻は昼をさくっと通り過ぎ、一時近くまで話し込んでしまっていた。
 暢気に話していたイル村さんは、カカシぼっちゃまを待たせていることをまるっと忘れていたのだった。




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