7.




 イル村さんは朝もはよから玄関フロアの大鏡の前できゅわあきゅわあと唸っていた。そろそろ朝食の準備にキッチンに向かわなければならないのだが、ついつい鏡の前で悩んでしまう。
「うーん。左右対称か? いやでも、上下も斬新で捨てがたい。うーんどうしたものか。あ、前後ろもいいかなあ」
 今日はカカシぼっちゃまの終業式で二者面談の日。イル村さんは本日の恰好を悩んでいた。
 用意した父仕様母仕様の服は、左右、上下、前後のバージョンで作成されていた。上がシャツにネクタイで下はスカート。右が男性ものスーツで左が女性ものワンピースのスーツ。前が男性ものスーツで後ろがスカート。意味不明のコーディネートでイル村さんはああでもないこうでもないと体に合わせて悩んでいるのだった。
「……ねえイル村さん、さっきから気持ち悪いんだけど」
 鏡に映りこんだカカシ坊ちゃまの目はすわっていた。
「きゅわっ。ぼっちゃま! 見てらしたんですか? エッチ!」
 きゅわーんとイル村さんは前ビレで体の前を隠してみるが、そもそも元々が裸体なわけで全く意味がない。
「さっきからなんなの? 何の仮装なの?」
「仮装だなんてとーんでもない! 今日の恰好ですよお! ぼっちゃまの保護者として恥ずかしくない恰好をと、不肖イル村……」
「却下」
 みなまで言わせてもらえずにイル村さんはぼっちゃまの凍る視線にさらされた。
「あの……」
「却下。大却下」
 たたみかけられてイル村さんはきゅわーと跳ねた。
「ちょっと、ぼっちゃま! 却下はないでしょう却下は。どっちがいいか、意見を言ってくださいよ意見を!」
「だから却下だって言ってるの。普通の、日常の恰好で来てよ」
「そんな馬鹿な! どんな保護者の方だって、先生さまと会う日はめかしこんでいくでしょうが」
「イル村さん、俺の保護者じゃないでしょうが」
「いいえ保護者です。即席の保護者です」
 イル村さんは胸を張って言いきったが、カカシぼっちゃまは胡散臭そうな目を向けてきた。
「とにかく、そんなふざけた格好をしてきたら、今度こそ絶対にクビにするから。ぜっ・た・い・に」
 わざわざ区切って大きな声で言われて、さすがのイル村さんもぼっちゃまの本気を感じ取り萎む。
「わかりましたよーだ。裸エプロンで行きますよーだ」
「そうそう、いつも通りのやらしい裸エプロンでお願いしますねー。うちの担任が女の先生だったらよかったのになあ、男の裸エプロンなんてめったに見れるものじゃないからね」
「きゅわっ。やらしくないっ」
 背を向けたカカシぼっちゃまを恨めしそうに見て、イル村さんは頬を膨らましつつもいつものエプロンをきゅっと結び直した。

「ぼっちゃま、今日は二者面談の後、一緒に買い物して帰りませんか」
「は?」
 味噌汁を飲もうとしていたぼっちゃまは怪訝な顔になる。
「なんで?」
「なんでって、明日クリスマスだからですよお。ぼっちゃまの食べたいものたーくさん作ります。朝から準備ですから買い物は今日のうちにしませんとね。動物たちの小屋を年末大掃除して待っていてください。実はヤマト君のことも誘おうと思っております。一緒にクリスマス会しましょうって。もちろん、二つ返事でオッケエですよ決まってます」
 イル村さんがきゅふふと笑うと、カカシぼっちゃまは何か言おうとして口を開きかけて、結局味噌汁を飲み干すと立ち上がった。
「……面談、すぐに終わらせてよ。あんまり待ちたくないから。掃除なんて下級生が終わらせているから、図書館にいるよ」
「はいいいいい! ちょっぱやでえええええ!」
 おたまを持ったままびしっと敬礼したイル村さんだった。
 ぼっちゃまを送りだし、ご機嫌で自分の食事をとっていると、パックンがのそりとキッチンに姿を現した。
「イル村さん、今日は少し遅くなる」
「おでかけですか?」
「ああ、年に一度の集会があってな。他の犬たちも全員でかける」
「は〜。犬たちの世界もたいへんですねえ」
「大変なんじゃよ。イル村さんは今日はしっかりと二者面談をこなしてくるのじゃぞ」
「あいあいさー。その後ぼっちゃまと買い物して帰ります。明日はごちそうですからね。バックンたちもおなかがはちきれるほど食べてくださいね」
 イル村さんの言葉にパックンはいつも眠そうな目を見開いた。
「カカシが、一緒に買いものに行くと言ったのか?」
「はい。待っててくれるって言ってましたよ」
「そうか」
 パックンはじっとイル村さんを見る。なんとなく居心地が悪くてそわそわとするイル村さんにパックンはにっと笑った。
「本当に、あんたが来てくれてよかったとわしは思う。これからもよろしく頼む」
「もちろんですよ! これからも、家政夫と、して……」
 何故かイル村さんの言葉は途中で尻すぼみになった。
「なんじゃ?」
「いえ、あの、重大なことに気付きました」
「重大なこと?」
「はいー」
 しょぼんとイル村さんの顔が沈む。
「あの〜、わたくしめの契約なんですが、今月いっぱいでした」
 イル村さんとパックンは、無言のまま、見つめあうこと数分。
 ふっとため息を落としたのはパックンで、建設的な意見を述べた。
「カカシに契約期間の延長を交渉じゃな」
「きゅわああ……」
 とりあえずはあとで、クリスマスの後にでも盛り上がっている時に、どさくさまぎれで契約書にハンコをつかせるのもありかもしれないとブラックなイル村さんは思った。
 終業式の朝はそんなふうにスタートした。


 あとから思えば、ということなのだが。
 これが、長い一日の始まりだった。




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