4.




 なんとなくただいまといって屋敷の扉を開ければ、お帰りなさいませ〜と、向かえられた。
 顔を上げたカカシは目の前に立つ海豚にかすかに目を見張った。
「おかえりなさいませカカシぼっちゃま」
 満面の笑顔で、ばちんとウィンク、のつもりなのだろうが両目をつむった海豚。おさげ髪のかつらとふりふりのエプロン。唇は赤く塗られている。気持ち悪い。
 だがどう見ても、いや、どこをどう見なくても、先日クビにした海豚だ。
 じろじろと剣呑な視線で見続ければ、海豚の頬に玉のような汗が伝う。
「あの、本日より、こちらのお屋敷に雇われました、家政夫のイル子と申します。以後お見知りおきを」
「不法侵入?」
「きゃわわわ!」
 飛び上がり、どすんと着地する。
 逃げ腰なところに容赦なく詰め寄ってやる。
「イル子って、なにそれ。ばっかじゃないの?」
 馬鹿すぎて笑えない。
 海豚はだらだらと汗をかきっぱなしで、視線をあっちにふらふらこっちにふらふらとさまよわせた後で、はふーと大袈裟なため息をついた。顔を上げれば、カカシのことをきっと見返してきた。
「ば、ばれてしまったら仕方ないですね。そうですよ、イル子なんかじゃありませんよーだ」
 開き直った海豚は何故かいばる。おさげのかつらをぽいっと放りすて、前ビレで口紅を適当に拭い、妖怪のような山姥のような風情になって胸を張った。
「わたしは、先日クビになったイル村の、双子の弟です!」
 呆れ返った気持ちがカカシの右手に乗り移り、咄嗟に海豚の頭部にチョップをくらわせていた。
「ぎゃわ! 痛いっ! ひどいじゃないですか! 海豚の頭は繊細なのに! ぼーりょく反対!」
 わめく海豚を冷たく見返してやる。
「親子三人で暮らしていたけど両親がシャチに殺されて雑伎団に拾われたんじゃないの? 天涯孤独になったんじゃないの? 今更弟と生き別れてましたってくだらない設定は受け付けないよ?」
「ぼっちゃま〜」
 剣呑な視線と声でたたみかけたというのに、海豚は嬉しそうな声を上げるではないか。
 きらきらと目を輝かせてカカシの手をぎゅむっと握りしめた。
「わたしの人生を覚えていてくださったんですね。イル村感激っす」
「……」
 カカシが思わず絶句したのも仕方ないだろう。
 丸っこい体でつぶらな目をして、嘘偽りなく、感激だと伝えてくる。
 馬鹿だなこの海豚は、と改めて思う。
 でも、馬鹿は最強だ。
 カカシはイル村さんから離れると、無言で階段を登る。
「ぼっちゃま?」
「……にごう」
「きゅわ?」
 振り向いて、意地悪く嗤ってやった。
「双子の弟なら、二号でいい?」
 なんのことだと数秒考えて、ぴんときたのか、イル村さんは前ビレを振り上げた。
「やですよー! イル村って呼んでくださいよー!」
「だって、俺にとってのイル村さんはこの間クビにした兄のほうだから」
「じゃあ問題ないですよ。わたしがイル村ですから」
 安心、とばかりににっこり笑ったイル村さんは本当に馬鹿だなあと思いつつ、カカシは部屋に向かった。
 かすかに頬がゆるんでいたことに気付いたカカシは意識して表情を引き締めるのだった。



 カカシの部屋のドアが閉まった音が聞こえると、キッチンからパックンがでてきた。
「うまくいったようじゃな」
「ほーら言った通りでしょうが」
 口のあたりを赤く染めて、ふりふりエプロンでイル村さんはご満悦だ。きゅきゅきゅーとほくそ笑む。
「正攻法ですよ正攻法。それが結局ひとの心を動かすんですよ。めでたく家政夫復帰できてよかったー」
 イル村さんは散々アホな作戦で侵入しようと試みたことと、たった今イル子だの双子の弟だのと策を弄したことはきれいさっぱり忘却の彼方へ蹴り飛ばしたようだ。
「さーて、今夜からまたきりきり料理しますよー。イル村の料理の腕でカカシぼっちゃまを虜にしてやるぞってんだ」
「イル村さん、家事全般は当然じゃが、それよりも」
「わかってますよ!」
 そこでイル村さんは声をひそめた。
「変態おじさんの手からぼっちゃまを守ります。イル村の全身全霊をかけて」
 どんと丸い胸をたたくイル村さんはなんとなくだが頼りになりそうな気がするパックンだった。
 あくまでも、なんとなくだが。




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