今日のイル村さん 第二部




1.




「わ〜たしは〜いーるむら〜ちょーっぴり〜ぽっちゃりけい〜だ〜けど〜いけてる〜かせいふ〜イールカー〜オーイェー」
 ふんふんと調子っぱずれの自作の歌を口ずさみながらイル村さんはお屋敷の庭先を掃いていた。
 カカシぼっちゃまに家政夫として認められてはやひとつきほど。
 最初の失敗を取り戻そうと遮二無二働く姿を認めてくれたようで、家政夫としての仕事に満足してくれているようだ。先日、家政夫協会の定期報告に出向いた際に火影さまにも褒められた。カカシのほうからのアンケート調査でも満足いく結果が確認できたとのこと。
 聞けば、イル村さんの前に何人かの家政夫たちを派遣してはみたがカカシに採用してもらえずに追い返されることが続いたという。
「さすがイル村さんじゃ。わしの目に狂いはなかったのお。あんたならやれると思っておったぞ」
 相好を崩す火影さまには採用されるまでの顛末は語らずにおこうと決めた。
「とりあえずはたけ様の家とは年内いっぱいの契約じゃ。それまで立派に勤め上げるように」
「年内!? たったそれだけですか?」
 ぎゅわわっと思わずイル村さんは飛び上がったものだ。火影さまは皺の多い顔をかしげた。
「まあ、状況によっては延びる可能性もあるが、今のところは年内じゃな。先方からそう言ってきておる」
「そんな〜あとたった三ヶ月ですかあ〜?」
 ついつい恨みがましい声を上げてしまったのには理由がある。
 採用されてカカシの世話をするようになったが、仲良くなれる気配が一向にないのだ。
 雇い主に対して仲良くもないのかもしれないが、ナルト坊ちゃんの家では家族と同じような扱いを受け、ナルト坊ちゃんとは大の仲良しだったのだ。カカシぼっちゃまはナルト坊ちゃんとそう年が変わらない。だからナルト坊ちゃんと同じように気持ちを通わせて、できることなら父親というか母親というか、そんなふうに接することができたらと、もじもじと前ビレをくねくねしつつ切に願っていたのだ。
 もちろんナルト坊ちゃんのときも、そう簡単に仲良くなれたわけではない。だがひとつき経つ頃には、少しずつ心が近づいてきたと思える気配があった。
 それが、カカシぼっちゃまとは未だに、これっっっぽっちも感じられないのだ。
 朝起きてまず、おはようございます、朝食をいただきます、ごちそうさま、学校へいってきます。いってらっしゃいませ、帰宅して、ただいま、お帰りなさいませ、夕食は朝食のリピート、就寝前におやすみなさいませ。
 それくらいしかカカシぼっちゃまと日々話していないのだ。
 採用してもらえたことが奇跡的にありがたいことなのだから、最低限のことは律儀に口にしてくれることに感謝しなければならないのかもしれないが、それだけではイル村さんは嫌なのだ。おしゃべりなイル村さんとしてはつまらないのだ。
 会話らしい会話なんて、イル村さんがしかけない限り成り立たない。それも日常のなんてことのない話題は右から左に聞き流し、イル村さんのおしゃべりがとまらなくなるとうるさいうざいとけんもほろろ。
 唯一ナルト坊ちゃんの話題だけは和んだ表情で聞いてくれる。
 ナルト坊ちゃんのことならいくらでも話せる。だが、男イル村、いつまでもナルト坊ちゃんに頼っていてはいかんと、活路を見いだす方法を考えていた。長期戦も覚悟のうえだったというのに、年内とは……。
 庭を掃く前ビレをぴたりと止めて、箒の先端に顎を載せたイル村さんは、きゅわわわあと深いため息を落とした。
「あ〜あ。カカシぼっちゃまとどうやったら仲良くなれるのかなあ」
 パックンたちにもリサーチは試みた。カカシぼっちゃまの好むもの、興味のあるもの。愛読書を手にして会話のネタにと思って読んでみれば、鼻血を吹きだしてあわや流血の惨事になるところだった。
 中学生が読んでいい書物とは思えないが、パックンたちが父を亡くしたカカシを慰めてくれた本だ、とりあげるのはかわいそうだと口をそろえて主張した。
 仕方なくそれには目をつむった。続きはこっそり借りて読もうとひそかに思った。
 とにかくカカシぼっちゃまは手強いのだ。
 時間がないのだから早いところ対策をたてなければならない。明日あたりパックンたちと改めて作戦会議を開くべきかと考える。
 頭の中でぼっちゃまとの友好を深める方法を考えつつ買い物にでかけたイル村さんは、とりあえず今日は身の厚い脂の乗ったサンマを手に入れたから、それをもってぼっちゃまを懐柔しようときゅきゅきゅぅとほくそ笑んで考えた。
 そんな調子いいことを考えつつ帰宅したイル村さんは、お屋敷の玄関前に佇む人影を発見した。
 ぼっちゃまと同じ学校の制服姿だ。呼び鈴を押そうか押すまいかとためらっているのか、のばした指先が躊躇している。
 そっと近づいたイル村さんは、ぽんと不審者の肩に前ビレを置いた。
「少年、押すなら押したまえ」
「ぅわあ!」
 大袈裟に飛び退いたのは、短く刈り込んだ黒髪に黒目がちの目をした若干縦に長い四角い顔の少年だった。
「い、海豚?」
「いかにも。海豚のイル村。この家の家政夫です。以後お見知りおきを〜」
 くるりと回ったイル村さんは前掛けの端をちょんとつまんで膝をかるく折って行儀良く挨拶した。不審がられないように精一杯の愛想良い笑顔こみで。
「ぼっちゃまのお友達ですか? ぼっちゃまはまだ帰られてませんかねえ」
 イル村さんは鍵を取り出してドアを開けた。
「どうぞ。ぼっちゃまもじきに帰られるでしょうから、中でお待ちください」
「いえ、あの、先輩帰られてないなら、いいんです。帰ります」
 少年は遠慮がちに身を引くが、先輩の言葉にイル村さんは反応した。
「先輩ってことは、君はカカシぼっちゃまの後輩ということだね」
 言わずもがなのことを確認すれば、少年はアップで迫るイル村さんに怯えつつこくりと頷く。
 にっこり笑ったイル村さんは少年の手をとると屋敷の中に放り込んだ。ドアを閉めて、きらりと光る目で少年に詰め寄る。
「ちょっと、カカシぼっちゃまのこと、聞かせてもらえるかな〜?」



2.



「さあさあ、イル村特製ぶどうのタルトです。どんと召し上がれ〜」
 イル村さんはざっくりとカットした大きめのタルトとダージリンティーを少年の前に差しだした。
 ちぢこまっている少年は控えめな声でヤマトと名乗った。警戒というか怯えているようなヤマト少年を怖がらせないようにイル村さんは愛想よく話しはじめた。
「料理はなんでも得意なんですけどね、実は普通の料理よりスイーツ作る方が好きだったりするんです。ほらぁ、スイーツって繊細だし創意工夫を実際に作ったものにダイレクトに表現できると思うんですよ。そういうとこがわたしにぴったりなんです。あ、言っておきますけど、甘いものの食べ過ぎてちょっぴりぽっちゃりしているわけではないですよ。海豚というものは元々こういうかわいらしい丸っこい体型のやつもいるんです。こう見えてわたくし大ジャンプが得意技なんです。是非機会があったらお見せしたいなあ〜イル村の華麗なるジャンプ! もうヤマトさん感動でお口があんぐりあいちゃって一気にわたしのファンになっちゃうこと請け合い!」
「…あの」
「ジャンプ以外にもいろいろできるんですよ〜。家政夫になる前に水族館で働いていたこともあるんです。わたし一等人気でした。いや〜懐かしいなあ。子供たちだけじゃなくて大人たちにも大人気。アイドルでしたね〜」
「あの〜……」
 調子ずいてきたイル村さんは遠い日のことを思い出してうっとりしているから、ヤマト少年の声など聞こえない。
「水族館をやめる時は引き止められましたよ〜。それに泣かれましたね。引退セレモニーにはたくさんの人が集まってくれて……」
 くっとイル村さんは目頭を押さえる。
「いや〜思い出すな〜。嬉しかったけど悲しくて寂しかったなあ〜」
「あのー!」
 ヤマト少年の思い切った声が響くと同時にイル村さんはシンクに寄りかかっていた体勢からヤマト少年の向かい側に座る。黒縁の伊達メガネをとりだしてすちゃっと装着。ノートを広げて鉛筆舐め舐め事情聴取の姿勢になった。
「え〜ヤマト君だったね」
 にこやかに顔を近づけるがヤマト少年の口元はひきつっていた。怯えに拍車をかけたかと、イル村さんは内心焦りながらもずずいと更に顔を近づけた。物事には勢いというものがある。突っ走るしかないとイル村さんは判断した。
「ヤマト君はカカシぼっちゃまの後輩と言ったけど、ただ学年が下ってだけの後輩ではなよねぇ。部活動とみたけど、そのあたりどうなのよ」
 イル村さんの問いかけにヤマト少年はもじもじとしたまま答えようとしない。
 はっきりしない態度があまり好きではないため、ちゃっちゃと答えんかい! と内心でイル村さんは喚くが、そこは大人の理性で笑顔をふかくする。
 そしておもむろに前ビレをあげると、ヤマト少年の頭を撫でた。
「なにもとって食おうってわけじゃあないだから、そんな緊張しないでよ〜。怖くないでちゅよー。イル村は優しい家政夫海豚なんでちゅよー」
 ヤマト少年は瞬間固まったが、次には脱力して、乾いた笑いを漏らした。
「そう、ですよね。ちょっと、びっくりしたけど。俺なんで海豚相手に緊張してるんだろ……」
 ヤマト少年のつぶやきはイル村さんのセンサーに反応した。
「ごらぁぁぁぁぁ! 今の発言は海豚を馬鹿にするものではないですかっ。海豚相手にって! 海豚なめんじゃねえよっ」
 ふんっふんっとイル村さんの鼻息は荒くなる。ヤマト少年はイル村さんの剣幕に慌てて顔の前で手を振った。
「ち、違います! 馬鹿になんてしてません! まさか海豚の家政夫さんがでてくるとは思わなかったから……。俺、海豚の家政夫初めて見たから」
 イル村さんは鼻先が触れるくらいヤマト少年に顔を近づけて発言に嘘はないか吟味する。イル村さんの座った視線に射抜かれて、ヤマト少年はごくりと喉を鳴らした。
 ヤマト少年の黒々とした目をのぞきこむこと数分。椅子に座りなおしたイル村さんはにっこりと笑顔だった。
「あなたに差別意識がないことはわかりました〜。すみません、大人気なく大きな声だしたりして」
 イル村さんはぺこりと頭を下げる。つられてヤマト少年も頭を下げていた。
「いや、俺こそ、失礼なこといってすみませんでした!」
「いえいえ。わたしこそほんと、お恥ずかしい」
「そんな、謝らないでくださいよ」
 互いに謝りあうこと数分。二人でテーブルに突っ伏してもぐもぐ言いながらの謝罪の不毛さに思い至って顔を上げたのが同時。
「……」
 イル村さんはなにごともなかったかのように再びノートと鉛筆を手にとり、ヤマト少年はすっかり冷めた紅茶を飲んでタルトを口に運ぶ。
「あ、これすごくおいしいですね」
 素直な賛辞にイル村さんの顔にぱあっと笑顔が広がった。
「ですよね!? 自分で言っちゃいますけどそこらの店のよりぜんぜんおいしいですよね!?」
「おいしいです。通販とかで販売できそうですよ」
「もう! ヤマト君は若いのに褒め上手ですねえ。このこのぉ〜」
 うりうりとヤマト少年を前ビレでつつく。
「帰りにお土産でどうぞ! カカシぼっちゃまにはまた後で作りますから!」
「ええ〜いいんですかあ? じゃあ是非お願いします」
 カカシぼっちゃまの名をだしたことでイル村さんは当初の目的を思い出した。
「それで改めまして、カカシぼっちゃまはどのような部活動をしているのでしょうか?」
「あ、部活じゃなくて、飼育委員会で一緒なんです」
「ほおほお。飼育委員とな。確かにぼっちゃまは動物に好かれてますからねえ」
「そうなんですよ。馴らすのもうまくて、動物にももてもてです」
「動物にもということはもちろん人にも?」
「そりゃあそうですよー。先輩かっこいいじゃないですか。男女問わず人気です。先生たちにも一目置かれていますよー。でも先輩美形すぎるからみんな遠くで見てるだけですけどね」
「あーわかりますよ。かっこよすぎる人には近よりがたいってのありますよねえ。わたしもねえ、初恋の人はとってもかわいい人で、でも遠くで見てるだけでしたねえ。甘酸っぱい思い出ってこういうことをいうんでしょうねえ。どうしているかなあ。今頃どこかの海を泳いでいるかなあサトミちゃん」
 再びイル村さんは遠くをみてほわあと笑う。タルトを食べつつヤマト少年の話も止まらない。
「夏休み終わってから何回か委員会があったんだけど、先輩一度も出席してくれないんです。先輩んちいろいろあったから落ち込んでるとは思うんですけど、でもそろそろ顔出して欲しいなあって。だから図々しいとは思ったけど、今日来てみたわけです。学校だとなかなかつかまえられなくて」
 はあとこぼれたため息はヤマト少年イル村さんと重なった。
「サトミちゃん……」
「先輩……」
 トリップしている二人の空気を壊したのは冷え切ったカカシの声だった。
「別に落ち込んじゃいないよ俺は」
 キッチンの入り口に顔を向ければ、カカシが不機嫌そうな顔をして立っていた。
「ぼっちゃま、お帰りなさいませ! 後輩のヤマト君が待ってたんですよ」
 イル村さんは立ち上がってにこやかにカカシに近づいこうとしたが、冷たい視線をよこされて、笑顔のまま動きが止まる。
 嫌な予感にイル村さんの背びれはぷりぷりと震えた。
「イル村さん、なにひとのことさぐろうとしてるわけ? プライバシーって言葉知ってる?」
 イル村さんはその瞬間、一度だけ訪れたことがある北太平洋の冷たい海の水を思い出した。
 それはそれは冷たいぼっちゃまの声だったのだ。



3.



 イル村さんが冷気にやられてかっちこちになっている間にカカシはヤマト少年に体を向けた。
「ヤマト、おまえなに勝手にひとんちあがりこんでべらべら喋ってるんだよ」
「あ〜、それは〜ですね〜」
 しどろもどろになるヤマト少年にため息をついたカカシは次の瞬間、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「俺んちに来る暇があるならさ、飼育小屋の掃除ちゃんとやれよテンゾウ」
「カカシ先輩!」
 ヤマト少年はいきなり声を裏返らせた。凍っていたイル村さんの体はぴきりとひびがはいり、目をぱちぱちさせた後でぼっちゃまとヤマト少年を見比べた。
「テンゾウ……?」
 真っ赤になったヤマト少年をにやにやと見たままカカシは続けた。
「委員会にはでてないけどちゃんと動物たちのことはみてる。最近小屋汚いよ。掃除は1,2年生が中心になってやるのが慣例でしょ。テンゾウは二学期から委員長なんだからちゃんとやらないと。な、テンゾウ」
「あの〜テンゾウって、どなたのことでしょうか?」
 イル村さんの疑問にぼっちゃまは満面の笑みで答えた。
「ヤマトの名前ね、テンゾウっていうの。年とったらいいかもしれないけどさすがに中学生だとださくない?」
「先輩!」
 叫んだヤマト少年は真っ赤な顔をさらに沸騰させて黒目がちな目が少しばかり潤んでいた。なにやらヤマト少年は焦っているようだが、動揺がよくわからずにイル村さんはつい追い打ちをかけるような一言を漏らしてしまった。しかもにっこり笑って。
「確かに年寄りくさいですね〜。でも……」
「先輩のばかあああああぁぁぁ!」
「え? は? ヤマトさん!? ちょっと! タルト! タルトはっ……」
 ヤマト少年は涙を盛大に流して脱兎のごとく去っていった。
 呆然となったイル村さんのお口の中では「でも愛嬌がある名前じゃないですか!」という言葉が虚しく取り残された。なにがなんだかわからずにぼっちゃまを振りかえれば、ぼっちゃまは腹を抱えて笑っていた。
「いいね〜イル村さん。ナイスだよ。これでヤマトも懲りただろ」
「あの、ぼっちゃま、よくわからないんですけど、なんか、ヤマトさん、泣いてましたよね?」
「ああ、あいつ自分の名前がコンプレックスなんだよ。じいさんみたいだってもっとガキの頃からさんざんからかわらたらしくてさ」
「えええええ!」
 びょいんとイル村さんは飛び上がった。
「じゃあ、じゃあじゃあ俺、悪いこと言っちゃったわけですよね? そんなつもりなかったのに。かわいい名前じゃないですか! テントウムシみたいで!」
 おろおろしながらキッチンの中を動くイル村さんに対して、笑いを収めたぼっちゃまは座るように指示してきた。
「え、でも俺、ヤマトさんに謝らないと」
「いいから、座って。話があります」
 まるで大人のような声でいわれて、イル村さんはしおしおと大人しく席につく。
 すっかり真顔に戻ったカカシぼっちゃまからはあからさまな不機嫌オーラが立ち上っていた。
「ヤマトのことはいいよ。それよりイル村さん、どういうこと? あなたはうちの家政夫。ただの家政夫。それがなんで主人である俺のことを探るような真似をするの。木の葉家政夫協会の方針?」
「そんなっ。違います。ただ、俺、ぼっちゃまのこと知りたくて」
「知ってどうするの。あなたはた・だ・の! 家政夫なの」
 ただの家政夫と何回も強調されてイル村さんはむぅと口を尖らせた。
「そうですよわたしはただの家政夫です。でもぼっちゃまと仲良くなりたいんです。そのためにぼっちゃまのこと知りたいと思うのは悪いことですか? そりゃあ探るような真似はよくなかったと思いますけど、でもぼっちゃま俺とまともに話してくれないじゃないですか。俺が聞いたらこたえてくれたんですか?」
 なにやら逆ギレのようなつっけんどんなもの言いになってしまったが、イル村さんはこの際だとばかりに不満をぶちまけた。イル村さんの言い分をじっと聞いていたぼっちゃまは、ふっと片方の口の端をあげた。
「あのさあイル村さん。ひとのことを知りたいっていうなら、まずは自分のことを先に話すべきじゃないの? 自分のことは喋らないでひとのことをまず探ろうなんてそれはないでしょ」
「いっくらでも聞いてくださいよ!」
 思いがけないぼっちゃまの言い分にイル村さんはびょいんと飛び上がっていた。思わず天上にめりこみそうになるくらいに。
 きゅわっきゅわっと高らかに笑ったイル村さんはきらきら輝く目でぼっちゃまに詰め寄った。
「いいですよ。なんだって聞いてください。なんんんんでもお応えしますとも! 嬉しいなあ。ぼっちゃまがわたしに興味を持ってくれてたなんて〜。あ、でも、スリーサイズは内緒ですよ。えへへ」
 びょいんぴょいん飛び上がるイル村さんに何故かカカシぼっちゃまをため息をついてがりがりと頭をかく。
「じゃあ、聞くけど……」
「はいっ。喜んでっ」
「イル村さんはさあ、そもそも」
「はいはい! もそもそそもそもなんですか!?」
「オスとメスどっちなの?」
 べしゃりとその瞬間イル村さんは床に倒れ伏していた。尾びれと背びれがひくひくと痙攣する。
 ゆらりと顔をあげて椅子を支えにしてよろよろと起きあがった時には、イル村さんの目は見開かれ血走っていた。
「ぼっちゃ、ま。今、なんと……」
「だから、イル村さんがオスかメスかわからないから聞いてんの」
 しらあと言われて、イル村さんは空耳でなかったことを知る。思わず前ビレを握りしめてテーブルをだんだんと叩いていた。
「改めて聞きたいことが今更それですか! しかも、オスかメスかなんて! せめて男か女か聞いてくださいよ! 俺は確かに海豚だけど、立派なほ乳類です! ぼっちゃまたち人間と一緒です!」
「いちいち細かいなあ。それで結局のところどっちなの? 男性ですか女性ですかあ?」
「俺は立派な男です! 見りゃあわかりますでしょうが!」
「わっかんなかったから聞いてるんでしょうが〜」
「俺とか言う女の人はいないでしょう。それくらい認識してくださいよ!」
「そんなこと言ったって見た目ですぐ判別できないでしょ海豚の場合。それにさあ、男みたいな女とか女みたいな男とか最近はいるでしょ」
 ぼっちゃまに冷静に反論されて、イル村さんは詰まってしまう。確かに海豚同士ならわかってもぱっと見で他の種族にはわからない。
「それは、まあ、そうですけど」
 しぼんだイル村さんにぼっちゃまは呆れかえった目を向けてくる。
「あと今まで黙っていたけどイル村さん裸だよね」
「ぎゅわわわわわー!!!!」
 イル村さんはもんどり打っていた。床でびっちびちと暴れた。
 ひとしきり暴れて起きあがった時には一気に憔悴して目の下にくまができていた。
「……俺、俺、海豚なんすよ。裸が標準装備ですけど、ネイキッドが普通なんですけど、まずいっすか!?」
 カカシぼっちゃまは呆れかえったように肩を竦めた。
「そりゃあまずいでしょう。それに裸ならまだしも裸エプロンだよね。超エロくない? 青少年のいる家にその格好なはいでしょう」
 にまりと小馬鹿にするように言われて、イル村さんはとうとう爆発した。
「なにが青少年じゃー! 青少年があんな本読みますかーーー! 裸エプロンなんぼのもんじゃい! 中途半端が悪いってことっすね! じゃあ脱ぎますよ脱ぎますとも!」
 そう言ってイル村さんはエプロンを威勢よくとってしまう。
「あ、エッチ」
「きゅわーーーーー!!!」
 イル村さんはエプロンをぺしりとぼっちゃまに投げつけてから興奮にまかせてキッチンを飛び出した。



4.



 イル村さんに投げつけられたエプロンはカカシの顔にぶつかった。そのまま頭に載せて置くこと数秒。のろのろとエプロンをとってカカシは首をかしげた。
 イル村さんをからかった自覚はあるが、どうしてあそこまで興奮して怒ってしまったのかがよくわからない。イル村さんにとって宝物であるナルトの刺繍つきエプロンを投げつけてしまうなんて、よほど怒ったということか。
 ヤマトを家にいれてなにやらカカシのことを聞き出そうとしていたことに少しばかり気分を損ねたのは確かだが、そんなことよりも、イル村さんを見てるとからかいの虫が疼くのだ。
 それでついつい余計なことまで指摘してしまった。
 だが、オス……ではなくて男性か女性か本当のところを聞きたかった気持ちは嘘ではない。
 最初に提出された履歴書はさっと目を通して捨ててしまったから。まあ男だろうなあとは思ってはいたが。
 でももし万が一にも女性であったなら、少し態度を改めたほうがいいのだろうと考えたりもしたのだ。病弱だった母の記憶は幼い心に深く刻まれて、女性には優しくしなければと思っている。
 エプロンをテーブルに広げてみた。
 『イル村先生』とのびのびと縫いつけられた刺繍がナルトの人となりを現しているようだ。
 海外で元気に暮らしているといいけど、とナルトを思って口元が緩む。
 ナルトにとって大切なイル村さんをあんまり怒らせたら、なんとなくナルトに悪いかと思う。エプロンをきれいにたたんだカカシは、そういえばどうして『イル村先生』なのだろうとふと思う。今度はそのことでからかってみようかと自然と笑ってしまったのだった。



 すでにとっぷりと日は暮れて、時間は翌日になろうかという頃。
 イル村さんはお屋敷の塀の脇をとぼとぼと歩いていた。
 背は丸まって酒臭いため息をはきつつ力無く歩いていた。
 アロハな感じの派手な原色花模様のシャツをはおって歩いていた。
 どうしてそんな格好になっているのかというと、カカシぼっちゃまの元を飛び出してずどんと乗り込んだ先が海だったからだ。
「チクショー!!!」
 と大きく叫んでイル村さんはざんぶと海に飛び込んだ。
「馬鹿ヤローこんちくしょうめぇぇぇぇ!」
 カカシぼっちゃまのすました顔が浮かぶ。想像の中で前ビレで往復ビンタでもかましたい衝動にかられるがしかし、ぼっちゃまは別に間違ったことは言っちゃあいない。そのくらいの理性は残っているし雇い主はなんといっても立場が上の方だ。想像の中ででも往復ビンタなど不遜きわまりない。ぶち切れてエプロン投げつけたことなどすっかり忘れてイル村さんは俺って素敵な家政夫、と内心で自画自賛。
 だが体のなかを巡るもやもやはおさまらず、それを解消しようとイル村さんは泳ぎに泳いだ。沖のほうまでばびゅーんと高速移動したかと思うと深く潜って高くジャーンプ。大きな波と一緒になって浜のほうに戻ると砂浜でびちびちと暴れる。はあはあと荒々しく息を吐いて波乗り。そんなイル村さんの姿に季節を選ばないサーファーたちが拍手喝采。お調子者のイル村さんは気をよくして思う存分技を披露した。
 その後、気のいいおっちゃんおばちゃんサーファーたちは年がら年中焼けているであろう顔でにかりと白い歯を光らせて笑い、イル村さんを飲み屋に連れて行った。
 ビールをジョッキで立て続けに飲み干してイル村さんは本日のぼっちゃまとの経緯を語ったのだ。
 年の功でおっちゃんおばちゃんたちはうんうんと上手に話を聞いてくれ、最後にはイル村さんを励ましてくれた。
 憤るのはよくわかる。でも、ぼっちゃまは決して悪気はない。大人なのだからぼっちゃまを包み込んであげなければと諭された。イル村さんがぼっちゃまを思う気持ちはきっと伝わっていると。
 ぎゅわわわーと感涙にむせぶイル村さんに帰り間際にプレゼントだと言って派手なシャツをくれたのだ。
「あ、ありがとうございます! 俺、俺、ガンバリマス! 絶対にぼっちゃまと仲良くなります!」
 誓ったイル村さんはシャツをびしっとはおって帰宅の途についたのだが、最初は暢気にスキップして、たまにくるりとターンしてついでに調子ずいてくるくるターンして気持ち悪くなって壁にぼいーんと頭をぶつけて我に返った。
 家政夫のくせに、夕食の準備も放って飲んだくれてしまったことに気づいてしまった。
 その途端ざんと青ざめたイル村さんは、そのまま気持ちを地の底にめりこませたまま歩いていたのだ。
「あ〜ぼっちゃま怒ってるだろうなあああ。とうとう首かなあ〜……」
 ぐすんと鼻を鳴らすが後の祭り。
 さすがのイル村さんも自分が悪かったと反省せざるを得ない。
 主人の言葉に逆ギレで飛び出し仕事をさぼって飲んだくれていたのだから。
 もしカカシぼっちゃまに首を言い渡されたら神妙に従おう。そしてしばらく家政夫の職から離れて海を放浪しておのれの根性をたたき直してこよう。
 そこまで考えつくと、イル村さんは顔を上げた。
 そうだ。してしまったことは取り返しがつかない。こうなったら前向きに行こう。
 きっとまなじりをつり上げて、イル村さんは胸を張る。シャツの裾をぴっと伸ばして、ずんずんとお屋敷に向かう。
 ほどなくして前方、門のところに、カカシぼっちゃまと、知らない人間の姿が見えた。
 うつむいているぼっちゃまと、ぼっちゃまの前にはメガネをかけた若い男。なにやらぼっちゃまに話しかけ、うつむいたままのぼっちゃまの肩に手を置いた。
 その瞬間、ぼっちゃまの顔が歪む。辛そうに、歪んだのだ。
 イル村さんは駆けだしていた。
「ぼっちゃま〜! ただいま戻りました〜!」
 ばいーんと男を押しのける勢いでぼっちゃまの前に立つ。そして深々と頭を下げた。
「夕飯も作らず申し訳ありませんでしたあ! あと、夕方は失礼しました。俺が悪かったです」
 驚き顔のぼっちゃまに謝るだけ謝ると、くるりと男を振りかえる。ぼっちゃまをかばうように前に立った。
「わたくし、はたけ家の家政夫のイル村と申します。どちらさまでいらっしゃいますか?」
 男は、イル村さんのことをまじまじと見つめた。
 悪い人間には見えないが、だが、メガネの奥の目に心許せないようなものを感じた。
 イル村さんは家政夫として培った外むけの友好的な笑顔で男に笑いかけた。
「どちらの方かは存じませんが、ひとの家を訪問するのに適した時間とは思えません。お話があるなら後日ということで、お引き取り願えませんか?」
 慇懃でいて強引に伝えた。
 男はふっと笑うと、くるりと踵を返す。門のところで姿が見えなくなる前に、ぼっちゃまを振り返った。
「じゃあカカシくん、また後日。色よい返事を期待していますよ」
 そう言って男は去っていった。
 イル村さんの後ろにいるカカシぼっちゃまがほっと息をつく。ぼっちゃまは何かに耐えるような厳しい顔をしていた。常とは違うようなぼっちゃまが、イル村さんは心配になった。
「あの、ぼっちゃま、今の方は……」
 控えめに問いかけたが、顔を上げたぼっちゃまはきつい眼差しでイル村さんを見た。
「イル村さん酒臭い」
「ぎゅわっ!」
 早速指摘されて思わず口元を隠すが溢れる酒臭さは隠しようがない。固まったままぼっちゃまを凝視していると、シャツの裾をつままれた。
「なにこのシャツ。イル村さんは海豚なんだからこんなのいらないでしょ。着るならエプロンだけにしといてね」
 夕方とはうってかわった言葉だが、イル村さんの顔は明るさを取り戻した。おっちゃんおばちゃんたちには申し訳ないが実は着心地が悪くて仕方なかったのだ。
「じゃあ、裸エプロンのままで、いいってことですか?」
「……その発言はどうかと思うけど、い〜んじゃないの〜」
「ぼっちゃまー!」
 思わず抱きしめようとぼっちゃまに回した前ビレだがあっさりかわされた。つんのめったイル村さんが振りかえると、眼前にはエプロンが差し出された。カカシぼっちゃまに投げつけたナルト坊ちゃん特製のエプロンが。
「これ、大事なナルトのエプロンなんでしょ。安易に投げつけたりしないように」
 押しつけられて受け取る。きれいにたたまれているエプロンにじんとなる。
「カカシぼっちゃま……」
 イル村さんがうるりぼっちゃまを見たが、ぼっちゃまは背を向けてしまった。
「あ〜腹減った。今からでいいからさくっとなんか作ってよ」
「あの、わたしは、このままこちらでお世話になってもよろしいのでしょうか……?」
「は? なに言ってるの? 今更違う家政夫とか面倒だし」
「ぼっちゃま」
 いつものそっけないカカシぼっちゃまの後ろ姿。
 だが、もしかしたら。
 さっき触れかけたぼっちゃまの体は冷えていた。
 もしかしてもしかしたら、外で待っていてくれたのかもしれない。
 そうかもしれない。
 そうじゃないかもしれない。
 けれどそう思うだけでも心が温かくなる。
「イル村特製のおじやでも作りますね〜」
 びょいんびょいんと飛び跳ねたイル村さんはカカシぼっちゃまの後に続いた。



5.



 はらはらと散りゆく色とりどりの葉。そんな落ち葉たちに風情を感じる今日この頃。
 お屋敷の庭で竹箒を持ったイル村さんはほうとため息を落とす。
「秋だなあ……」
 しんみりと呟いてみた。
 はたけ邸の庭を彩っていた木々は十分に目を楽しませてくれたが、少しずつ少しずつその色と落とし始めていた。
 秋も深まり行く霜月も半ば。木枯らし一号もとうに吹き、風はときたま刺すように冷たい。
 イル村さんはマフラーを巻いて庭の掃除にいそしんでいたが、ふと手を休めてため息を落としたのには訳がある。
 カカシぼっちゃまがここ最近うち沈んでいるように見えて仕方ないのだ。
 もともとぼっちゃまは積極的に話すほうではないが、たまにではあるが自分から話しかけてくれるようになっていた。それが最近はぷっつりと押し黙ることが多くなり、何か粗相をしたかとずばり訊いてみたが、イル村さんには関係ないよとそっけない。粗相をしていないことは喜ばしいことだが、では一体なぜぼっちゃまは沈んでいるのか、それが気になって仕方ない。
 少し前に後輩のヤマト君にぼっちゃまのことをこっそり訊こうとしてあっさり見つかって叱られてからは、こそこそするのはよくないとさすがに反省した。
 だからイル村さんは直球勝負で、悩み事があるならどんとこい、とばかりに前ビレでおなかをばいーんと叩いてみせたのだが……鼻で嗤われた。
「パックンは何か聞いてますか?」
 枯れ葉をこんもりと集めて中にさつまいもを突っ込む。しゅっとマッチを擦って火をつけながらぼっちゃまの忠実なペットに聞いてみた。
 パックンは首を振る。
「カカシは寡黙な奴じゃからなあ」
「そうそう。年の割に落ち着いていて大人し過ぎるんですよ」
 ぼうっと火がついて、めらめらと燃え始める。
「あのあんにゅいな感じの横顔はね、秋にふさわしいし、いいかなあと思うんですよ。やっぱり美少年はなにやっても様になりますよねえ。あの整った顔でため息なんかつかれた日にゃあ、みんなぼっちゃまにイチコロですよ」
「イチコロ……」
「でもねえ、もっと子供らしい顔が見たいんですよわたしとしては。悩み事があるならなんでも言って欲しいのに。そんなに頼りないですかねえ」
「頼りないじゃろ」
 ずばりと言われてイル村さんのこめかみはぴくりとなる。
「言っておきますけど、家政夫の腕前は一流ですよ俺は」
「家政夫としては一流かもしれんが、大人の海豚としてはどうかのお。最初の頃の失態はカカシの中に深く刻み込まれたのではないか?」
 意地悪なことを言うパックンには焼き芋はやらんとイル村さんはひそかに決意する。
「じゃあ。じゃあじゃあ、頼りになるパックンがぼっちゃまに訊いてくださいよ。もう俺心配で、食欲が落ちちゃいましたよ」
「昼も三杯飯を食べていたが」
「食欲の秋ですよ。いつもなら五杯はいけるんです!」
 燃える炎が風にあおられイル村さんはあちっとわめく。パックンはため息をつくとすとんと座り込み、重ねた前足に顎を載せた。
「イル村さんに言われんでもとうに訊いてみたわい。なんでもないと言われただけじゃがな」
「なんでもなくないですよ。限にぼっちゃまも最近食欲ないんですよ」
 イル村さんは銀紙に包んだ芋をえいえいとつつきながら口を尖らす。
「そうじゃなあ、カカシの食欲がないのは本当じゃ。ほっとくわけにもいかんな」
 そうなのだ。ほっとくわけにはいかないと、イル村さんはぼっちゃまの食欲向上作戦を実行済みだ。
 ぼっちゃまの好物のさんまを七輪に載せて香ばしい匂いを風に乗せて“好物の匂いを嗅いでおなかすきすき作戦”をたてた。
 朝もはよからそろりそろりと近づいたのはぼっちゃまの部屋の前。
 屋敷の要所要所にも七輪をセットしてパックンたちに待機してもらった。
 ぼっちゃまは最近ぼんやりしているのか部屋に鍵をかけずに寝ることが多い。その朝も鍵がかかっていないことを確認して少しばかりドアを開けて、いざ、とさんまをあぶりだした。
 パタパタパタパタといい感じで扇げば、さんまはじゅうじゅうと音をたてすぐにいい匂いがしてくる。ふがふがとイル村さんは鼻をうごめかしてうっとりとなる。よだれが垂れそうだ。
 好物でもありしかも秋真っ盛りの脂ののったさんま。さすがのクールなぼっちゃまもこれに勝てるわけがない。
 裏返せばこげつき具合も絶妙でイル村さんはほくそ笑む。一口食べてみようかとごくりと喉が鳴った時だ。
「!」
 ばんとドアが開いた。開いた途端にぼっちゃまは咳き込んだ。
「ちょっ、なにこれ。煙い! 火事?」
「ぼっちゃま〜おはようございます〜。いい匂いでしょう〜。好物のさんまですよ〜」
 イル村さんは暢気に声をかけた。
 しばし咳き込んだあと、きょろきょろと辺りを見回し現状を把握したぼっちゃまは、イル村さんににこりを笑いかけた。
「イル村さん」
「はい!」
 ぼっちゃまの笑顔にイル村さんのテンションはあがる。作戦成功だ、と内心でガッツポーズを作る。
 しかし次の瞬間にはぼっちゃまの容赦ない手で頬をむにゅりとつままれていた。
 ますます深くなるぼっちゃまの笑顔だったが目の奥はツンドラ気候だ。
 ごくりとイル村さんの喉は鳴った。
「次こんなことしたら、今度こそクビにするからね〜」
 最終通告にイル村さんの喉はこくりと鳴って、大きく頷いたのだった……。
 そんな顛末から十日ほど。あいかわらずぼっちゃまの食欲はない。部屋にもまた鍵をかけてしまうようになった。
「なにか心当たりないんですか? もしかしてイジメ? いやいやぼっちゃまはそんなタマではないな。どちらかといえば影でいじめるほうですよね」
「お前さんなにげに失礼なことを言ってるな」
 そろそろいいかと待ちきれないイル村さんは小さめの芋をとりだし、味見とばかりにはふはふとくわえた。
「おーいしー」
 甘くてほこほこして、イル村さんはご満悦だ。
 秋は食材が豊富で本当に素敵だ。イル村さんは毎年秋に蓄えてしまう。ごはんがおいしくて仕方ないのだ。そんなわけで料理も常よりも気合いが入るというものだが、カカシぼっちゃまがたいして食べてくれないから作り甲斐がいがない。ナルト坊ちゃんはおいしいおいしいと目をきらきらさせて食べてくれたものだ。
「このお芋、ぼっちゃまもに食べて欲しいけど……」
 イル村さんは屋敷のほうを振りかえる。
 今日は土曜日。ぼっちゃまは食事の時間だけ顔をだすがそれ以外は部屋にこもったままだ。もしかしたらぼっちゃまの気に留まるかとたき火に焼き芋と始めてみたのだが、部屋の窓が開かれることはない。
 はふーとイル村さんは重く息をつく。
「イル村さん、実は心当たりがまったくないわけではない」
「ふぇ?」
 パックンの神妙な声にイル村さんはぱちぱちと瞬きをした。




6.



「イル村さんが逆ギレして家を飛び出したあの日のことじゃ」
 逆ギレ、あの日というのがどの日のことかイル村さんの中ですぐにはピンとこなくて芋を頬張ったまま首をかしげる。なぜならイル村さんはよく逆ギレするし、心の中ではつれないカカシぼっちゃまに悪態をつき屋敷の門あたりまでダッシュすることは数限りないからだ。まあ自覚があるだけいいではないかと思うし、門のところで引き返すからよしとしている。
「あの日ってどの日のことですか」
 素直に聞き返せば、パックンは器用に片方の耳をぴくりと動かした。イル村さんを見上げるまなこは冷たい。
「……後輩のヤマトからカカシのことを探ろうとしてこっぴどく叱られた日じゃ」
「あ〜あの日かあってそれってもうひと月以上前じゃないですか! え? それからずーっとぼっちゃまはお悩み中なんですか?」
「まあ、そういうことになるわな」
 パックンはあっさりと肯いたが、イル村さんはごっくんと芋を飲み込んでからよろめいた。
「どうしたイル村さん」
「だって、どうしたら、ひと月以上も悩んでいられるんですか!? わたしなんてどんなに悩んだっておなかはすくしおいしいごはん食べたらにっこりしちゃうしそのうちに忘れちゃうことも多いってのに!」
 そうなのだ。どんなに悲しいことがあったっておなかはすく。それが生きているということだ。ナルト坊ちゃんがいなくなっての傷心の日々も海でのびのびと泳いで癒されたし、そんな時でもごはんはおいしいなあと思えた。
 イル村さんの驚きにパックンは苦笑した。
「カカシもおまえさんほど生きることに前向きであればいいのじゃが、カカシの気持ちも少しは推し量ってやってくれ。カカシは幼い頃から辛い目に合いすぎた。あれでもずいぶん口数は増えたし笑うようになったのじゃぞ」
「そうなんですかあ……」
 きゅわああとイル村さんは嘆息する。
 確かに、少し聞いただけでもカカシはまだ子供なのに、ずいぶん辛いことが多い人生だとは思う。もしかしたらもっともっと辛い経験をしているのかもしれない。
 でもだからこそとイル村さんは思うのだ。自分が選んだわけではない環境なんかに押しつぶされずに笑ってすごせる人生を自分で作っていって欲しいと。
 イル村さんの腹の底からごごごごとなにかが煮えたぎってきた。
「わかりましたパックン。俺、やります! めちゃくちゃ頑張りますよ!」
「いや、まあ頑張ってくれるのはいいが、まずはだな」
 ぐぐぅと握り拳を固めるイル村さんをなだめるようにパックンが声をかけるが、イル村さんの両のまなこには炎が灯っていた。
「俺、ぼっちゃまに体当たりします! あ、本当の意味で体当たりじゃありませんよ。俺がそんなことしたら細身のぼっちゃまなんて門の外まで飛んでっちゃいますからね」
「イル村さん、あんたはもう少しひとの話を」
「やっぱり熱血家政夫としてぼっちゃまの寂しさ辛さを受け止めないといけません! 俺はまだまだ甘かった。昔の熱血教師ものなんかだと必ず教師が手のつけられない不良生徒を公正させるじゃないですか。あれって生徒に体当たりしていった結果なんですよ。みんな最後は教師の真心に触れて大泣きになるじゃないですか! 俺もぼっちゃまと真剣勝負でぶつかり合って更正させます! ぼっちゃまと抱き合って泣きます!」
「いや、カカシは手のつけられん不良ではないぞ。その前にだからわしの話をだな」
「ぼっちゃま、ただいまイル村が参ります〜〜〜!」
 焼き芋片手に、イル村さんはカカシぼっちゃまの部屋に向かってダッシュした。




7.



「突撃〜!」
 どっどっどっと足音を響かせイル村さんはカカシぼっちゃまの部屋を目指す。
 部屋のドアの前で深呼吸。本当はいきなり蹴破りたいところだが、さすがにそれはいかんとさすがのイル村さんも学習済みだ。代わりにドアを丸めたこぶしで乱打する。
「ぼっちゃまー! イル村でーす! 開けてくださーい! お話がありまーす!」
 ドアを壊しそうな勢いでどんどんどんと叩く。
「カカシぼっっちゃまー!!!」
 叩き続けること数分。はあはあと一息ついたところでいきなりドアが開いた。もちろんドアに肉迫していたイル村さんは「キュワッ」と鼻先を打ってすっころんだ。
「イテテテ……」
 顔を上げれば、パジャマ姿のカカシぼっちゃまが、無表情にイル村さんを見下ろしている。緊張しきった空気をほぐすためにイル村さんはにまっと笑いかける。ぼっちゃまは耳に手をもっていくとすぽんとなにやら取りだした。
「すごいねイル村さん。この耳栓かなり高機能なのに音聞こえてきたよ」
 カカシは呆れかえったため息を落とす。あんなにがんがんと叩いたのに音が聞こえてきた程度なら確かにその耳栓は優れものだろうとイル村さんは感心した。
「で、なんの用? 俺読書中なんだけど」
 腕を組んで部屋にはいれてくれなさそうなカカシを押しのけてイル村さんはさっさと部屋に入ってしまう。
「ちょっと」
 左手に握りしめていた銀紙に包まれたままの芋をずいと差し出す。そして鼻白むぼっちゃまに笑いかけた。
「おやつ、持ってきました。とってもおいしいお芋ですよ」
 叩きだされるかもと内心ではひやひやしていたイル村さんだが、ぼっちゃまはもう一度ため息をつくとのそのそとベッドに戻った。そして芋を受け取ってくれた。じぃっと見つめていればぼっちゃまは銀紙をはがし皮を剥いて、ぱくりと口にした。もそもそと咀嚼してごくり。ちらりとイル村さんを見てから肯いてくれた。
「……まあ、おいしいんじゃない」
「ですよねー! 木の葉家政夫協会の火影さまから頂いたんですよ〜。火影さまの畠で丹誠込めて育てられたお芋ですから」
 カカシぼっちゃまは無言のまま半分くらい食べると、ベッドサイドのテーブルに残りの芋を置き、ベッドの上でごろりと腹這いになる。そしてそばの文庫本を手にした。もちろんそのさまは「早く出て行け」と言っているのだろう。だがイル村さんはもちろん怯まない。勝手に話しかけるのだ。
「もしかしてまーたイチャパラ読んでるんですかぁ?」
「そ。最新刊。エッチ満載」
 さらりと返されたがイル村さんはきゅわわっと飛び上がった。
「ぼっちゃま! ですからそんな破廉恥文庫を読んではいけません! エッチ満載なんて言語道断です! 貸してください。不肖イル村が検閲してからです」
 ぱたんと本を閉じたぼっちゃまは体を横向きにして片手でけだるげに頭を支えてイル村さんにじっと視線を注いできた。
 じっと見られてイル村さんも唐突にぼっちゃまをじっと観察することになる。
 改めて思うがカカシぼっちゃまはとても綺麗だ。色違いの目は希有な宝石のよう。パジャマの奥にのぞくきめ細かな白い肌はなめらかそうで、とても中学生とは思えない色気をかもしだしている。すすすと引き寄せられるように近づいたイル村さんは指先でカカシぼっちゃまの頬をつんとつついた。弾力のあるぴちぴちの肌だった。
「なに? なんなの」
 眉間に皺を寄せるぼっちゃまに対してイル村さんは感嘆の声を漏らす。
「いや〜ぼっちゃまって、本当に美少年ですよねえ。学校でももてまくりなんですよね。あ、でも美形すぎて近寄りがたいってヤマト君が言ってたっけ」
 のほほんと発言すれば、急にぼっちゃまの表情がふっと曇る。
「……だからあんまり学校行きたくないんだよね」
「え? どういうことですか?」
 カカシぼっちゃまはますます暗い顔になる。
「高等部の男の先輩に言い寄られてるんだ。付き合って欲しいって。なんかしつこくてさ、付き合ってくれないなら何するかわらからないって言いだしてきて」
「なんとっ! それは脅しじゃないですか! なんたるワルなんですかそいつは!」
 イル村さんの頭部からどかんと煙が噴き上がる。
「でも、生徒会長なんだ。文武両道でかっこいい人だから取り巻きも多くてね。会長のなにが不満なんだって責められてる。俺、このまま付き合わされちゃうのかな。そしたらイチャパラに載ってるようなこと、させられちゃうのかな」
 伏せられたぼっちゃまの長い睫毛が震えている。イル村さんは両のこぶしを振り上げた。
「ぼっちゃまをそのようなワル共の毒牙には触れさせませーん! イル村がぼっちゃまを守ります! 今から学校行ってきます! 生徒会長とやらの名前教えてください! 断固やめさせますよ掛け合ってきます!」
 鼻息も荒く詰め寄れば、ぼっちゃまは目をぱちくりさせてそのままベッドに顔を伏せてしまった。
「ぼっちゃま?」
 もしかして不肖イル村の愛に感動のあまり泣いているのかとちょっぴりわくわく感を持ってぼっちゃまの肩に手を置こうとした途端、ぼっちゃまは顔を上げた。そこにはいつも通りの無表情なぼっちゃまがいた。
「うそにきまってるでしょそんなの。ばっかじゃないの」
 冷たい声で吐き捨てられてイル村さんのこめかみはひくりと震えたが、落ち着け俺、と心で素早く五十回くらい唱えてから一度背を向けて深呼吸を十回くらいしてそれから笑顔でもう一度カカシぼっちゃまに向き直った。
 するとぼっちゃまは再び本を開いていた。
「あの〜ぼっちゃま。少しわたしと話を」
「イル村さんて童貞?」
「どーてー!? どーてーって!!」
 イル村さんは器用にもつるりとその場ですっころんだ。カカシぼっちゃまはちらりと横目で視線を向けてきた。
「だってさあ、イチャパラ程度の内容で鼻血吹いたり過敏に反応するからさ」
 ぼっちゃまは小馬鹿にするように口元を歪めたが、イル村さんは姿勢を正すと腹を張った。
「そんなの童貞に決まってるじゃないですか。だってわたしは今まで誰ともお付き合いしたことないですもん。初めてで最後の相手にわたしの童貞は捧げさせてもらう予定です」
 なぜか威張って告げてしまった。ぼっちゃまは軽く目を見張ったがすぐに本に視線を戻してしまう。その横顔は固い。
「捧げるなんて、イル村さんはセックスなんかに意味を見いだしてるってことなんだね」
「せせせせっくす! そんな露骨にまあ恥ずかしげもなく……」
 小学生レベルで反応して頬を染めるイル村さんをおいてぼっちゃまは続ける。
「セックスなんて一時の快楽を得るだけのことになにか意味があるの?」
「意味?」
 イル村さんは首をひねる。うーんとしばし黙考したが諦めてへらりと笑った。
「わかりませーん。だってわたし童貞ですし」
 きゅわわと頭をかく。カカシぼっちゃまははあああと腹の底からの息を漏らすとそのまま突っ伏してしまった。
「ぼっちゃまあ?」
 つんつんと背中をつつけば、カカシぼっちゃまはいきなり起きあがった。座った目でイル村さんを見てから口元を緩めた。
「イル村さんって、ほんと、頭悪い感じだよねえ」
「はっ!? なんですと?」
 聞き捨てならないことを言われてイル村さんは口を尖らせる。
「確かにわたしは中卒ですが」
「え? 海豚なのに中卒なの? 海豚の学校があるの?」
 カカシぼっちゃまが少し身を乗り出してきた。
「ありますよー。中学を出て、家政夫の専門学校に入ったんです。やっぱり手に職かなあと思いまして。ま、正直勉強はあまり得意ではなかったってのもあります」
「へぇ〜。海豚の世界もいろいろあるんだねぇ」
 カカシぼっちゃまが話に興味を示し始めたことにイル村さんのテンションも上がり始めてきた。




8.



「わたし、生まれは北の海なんですよ」
 いきなりおのれの来し方を語り始めたイル村さんにカカシはちらりと視線を向けてくる。
「父ちゃん、じゃなくて父が旅が好きでして、親子三人いろんな海を巡りました」
 荒れ狂う海。穏やかな海。温かな海。しんしんと冷たい海。海はそれぞれの表情を持っていて、たとえどんな厳しい環境の海にも感動があったものだ。
 もちろん楽しいことばかりではなかったが、いつも笑いがあって温かな記憶だ。
 思い出に心を飛ばしているイル村さんにベッドの上であぐらをかいて頬杖ついたカカシが声をかけてきた。
「……それがどうして家政夫になってるわけ」
 カカシが反応してくれたことが嬉しくてイル村さんはきゅわわっと無意識に喜びの声をあげていた。
「両親が、シャチに食べられちゃったんですよねえ。わたしを守るために闘ってくれて、でも力およばず。それが十歳くらいの頃でした」
 ぴく、とカカシが反応したような気がしたがイル村さんは気にせず続けた。
「一人になって命からがれ逃げました。ふらふらになって行き倒れそうになったところで、世界を旅する雑伎団に拾われたんです。いやあわたしってばラッキーですよねえ。ほんと腹減って腹減って、ぷかりと浮いて漂っているところを拾ってもらったんですから」
 不意にその場面が思い浮かび、イル村さんはきゅわあと微笑む。
「ぼっちゃま知ってます? 腹すきすぎるとほんと、幻覚が見えるんですよ〜。俺、近づいてきた雑伎団のリーダーが丸々太ったお魚に見えて、がぶりとかみついちゃったんです。なかなか離さなかった俺の歯形がリーダーのメタボなおなかにくっきり残っちゃったんですよ〜」
 リーダーにはことあるごとにそのことで小言を言われたが、いかつい顔はいつも笑っていた。
「ああ〜懐かしいなあ。みんな元気かなあ」
 今もきっと世界中の海を回って人々を楽しませていることだろう。
 再びほんわかと思い出に浸ってしまったが、カカシは無言だ。合いの手がなにもはいらない。ここで会話を途切れさせてはいかんいかんとイル村さんは続けた。
「技も教えてもらって、そのまま雑伎団で生きていこうと考えてたんですけどね、これがまた運命というやつなんですか、雑伎団に拾われて三年くらいたった嵐の夜に俺だけ雑伎団からはぐれてしまったんです。仲間を死にものぐるいで探す旅、これがまた波瀾万丈でしてね。スペシャルミラクルな冒険譚で分厚い本が書けそうなくらいですよ〜」
 まあ実際はさまざまな魔の手から命からがら逃げ回ることがほとんどで漁師のハンマー攻撃を受けて死にそうな目にあったのもこの旅の時だ。でも十三才だったのだ。頑張った自分に拍手を送りたいくらいだ。
「これまた命からがら旅をして浜辺に流れ着いた俺を拾ってくださったのが、木の葉家政夫協会の火影さまだったんです!」
 夜の浜辺にざんぶと打ち上げられ、前ビレ背ビレぴくりとも動かせないくらい疲弊しきっていた。なんとかごろんとひっくり返って空を見上げればやけに月がきれいだった。まあこのまま眠ってしまって次の日にはこの世からさようならでもそう悪くないかもしれないとうっすらと思ったものだ。しかしまだまだ生きる運命だったようだ。
「火影さまったら、俺のことびっしびっしと杖で叩くんですよ。死ぬなー死んではいかんーって。つうか火影さまの杖で殺されそうになりましたよ」
 きゅきゅっとイル村さんは笑う。あの朦朧とした意識の中でも必死な形相だった火影さまは覚えている。あれくらいのショック療法は必要だったのかもしれない。
「火影さまの家で療養させてもらった後、中学校に入学させてもらったんですよ〜。世間の荒波超えてきてましたから、こんな俺でもちょっぴり心が斜めになっちゃいまして、中学では実は結構暴れん坊で火影さまを困らせたこともありました」
 ちらあとここいらでカカシを伺ったが、頬杖ついたまま横顔を向けて、イル村さんの話を聞いているのかいないのかもよくわからない。だがイチャパラを手にしていないから聞いてくれているだろうと決めてイル村さんはなんとか気持ちを鼓舞して続けた。
「荒れたこともあった俺を火影さまは辛抱強く導いてくださったんです。火影さまの家政夫協会にはさまざまな種族がいるんですよ。火影さまはすべての種族に分け隔てなく接してくださる素晴らしい方です。だから俺は火影さまに迷惑かけずに少しでも早く自立して生きていこうって思ったんですよね。木の葉家政夫協会に登録しているみんながそりゃあもう生き生きと楽しく働いている姿みて、もう家政夫になるしかないって思いました。家政夫になってからたあくさんのお宅にいきました。みんな思い出深いなあ……」
 そこでナルト坊ちゃんの顔が浮かんでしまい、目が潤みそうになる。坊ちゃん元気にしてるかなあと遠くの空に思いをはせる。
「それだけ?」
「はい?」
 なにやら固く冷たい声がして顔を向ければカカシがイル村さんのほうを見ていた。なにやら小馬鹿にしているような表情な気がした。
「話がそれだけならもうでてっくれるかな。俺、寝たいんだよね」
 しらけきったカカシの顔にイル村さんはつい口が尖ってしまう。
「ぼっちゃま、最近休みの日は部屋にこもりっきりで寝てばっかりじゃないですか。少しは外に出ましょうよ」
「あのさあイル村さん。アナタはただの家政夫だよね。どうして家のことだけやっててくれないの。いちいち俺の生活に口だすの」
「それはだってぼっちゃまはわたしの雇い主ですから心配なんですよ」
「ちゃんと契約した分の給料は家政夫協会に払ってあるからいいでしょ」
「そういうことではなくてですね、ただぼっちゃまが心配なんです」
「心配?」
「そうです。ぼっちゃまが辛い気持ちを抱えているのはわかりますよ。でもそろそろ元気だしていかないと……」
「俺の気持ちのなにがわかるっていうの」
 部屋の空気が冷えそうなカカシぼっちゃまの声に、イル村さんは口をつぐむ。ぼっちゃまはキツイ眼差しでイル村さんを射抜いた。
「簡単に他人の気持ちがわかるとか言わないほうがいいよ。そんなのは本人にしかわからないんだから。それとも自分も両親が殺されて死ぬような目にたくさんあったからわかるっていうの? 自分のほうが辛い経験してるとでも言いたいの? そういうことも相対的なことだから人と比べられないってわかってる? ああ、海豚には人間の気持ちがあまりわからないかな」
 鼻で嗤われた。
 差別的な言い方をぼっちゃまがあえてしていることくらいわかる。ぼっちゃまの中ではなにやら収集のつかないどろどろしたものが渦巻いているのだろう。ぼっちゃまはまだ中学生だ。多感な頃だ。イル村さんだって荒れていた時期があるとさっき言ったばかりだ。
 だが。
 でも!
 イル村さんはぐっと前ビレを握りしめた。
「ぼっちゃまは、根性がねじまがってます」
 イル村さんの発言にさすがにカカシぼっちゃまは不快げな顔をした。
「なにその暴言。ねじまがってる自覚くらいあるけど家政夫にそんなこと言われたくない」
「いーえ言わせて頂きます」
 イル村さんの心の片隅で、ちょっとまて我慢だ、と制止する声がかすかに聞こえたが、イル村さんはずずいとぼっちゃまに身を乗り出していた。
「ぼっちゃまの言うとおり、どれくらい辛くとか悲しいなんてそりゃあ人でも海豚でもそれぞれですよ。他と比べられませんよそんなこたあわかってます。こちとらだてに年くってるわけじゃあないんだ。でもねえ、それでもねえ、言わせて貰いますよ。ぼっちゃま恵まれてます。断言できます。ぼっちゃまにはぼっちゃまのことを心配してくれる存在が周りにいるじゃないですか。それに両親がいなくたって暮らしていけるだけのものを残してもらっている。なのにそれに甘えてちゃんと生きていこうとしないで、ふざけるなっつうの!」
 ぜえぜえと息が切れる。カカシぼっちゃまはじっとイル村さんを見ている。非常に醒めきった目で。まるで大人のような視線にイル村さんはかあっとなった。もともと単細胞でもあったためあっさりと何かがぶち切れた。
 ぐぐぐぅっとこぶしに力がこもる。
 だがそれでも堪えていたイル村さんをあっさりと突き落とすような言葉がぼっちゃまの口から漏れた。
「で、一人で海をさまよったり死にそうな目に何回もあった俺のほうがよっぽどかわいそうで辛かったって言いたいんだ。それでも元気に生きている俺は偉いでしょって? 見習えって? ばっかじゃないの。単純なだけでしょ」
 きゅわわー! とイル村さんは奇声を発していた。
 ぐっと握ったこぶしを渾身の力で突き上げた。
 雇い主であるカカシぼっちゃまの顎に、アッパーをきめていた……。

「こんの馬鹿たれがー!!!」




9.



 カカシぼっちゃまはきらりと星に……はならずにベッドの上でどさりと倒れ込む。頭のねじがどこか切れてしまったイル村さんはそのままぼっちゃまの両肩をがっしと掴むとがくがくと揺すった。
「甘ったれるんじゃねえよ。卑屈になるにもほどがあるってんだ。父上が死んだことが悲しいのはわかる。わかるけどなあ、それはもうどうしようもねえ取り返すことが出来ねえ事実なんだよ。過去なんだよ。受け入れるしかないだろ。それをいつまでもねちねちねちねちと……っ。この根暗!」
 ぼっちゃまは反応しない。目を伏せたままイル村さんに揺すぶられるままだ。イル村さんはたまらない気持ちになる。
「っもう! もうなんだってお父上はぼっちゃまをおいて自殺なんかしちゃったんですか! どんなに辛くたって親が子供おいて自殺なんかしちゃ駄目でしょう! 子供のために耐えろってんだ! 親としてサイテーだよ!」
 イル村さんの揺さぶりはかなりの高速に達していた。ぼっちゃまの首ががくがく揺れているのにやっと気づいたイル村さんは急に動きを止める。
「……ぼっちゃま?」
 おそるおそるうかがえば、カカシぼっちゃまはぐったりとしていた。一気にイル村さんの血の気が下がる。そおっとぼっちゃまをベッドに横たえて、口元に前ビレをもっていってみれば、呼吸が感じられないではないか。
「!!!」
 イル村さんは声にならない叫びをあげて天井に激突するほど飛び上がった。
「ぼっちゃまが、死んでしまったあああああああぁぁぁぁ」
 叫んで右往左往。部屋の中をどたどたと走り回る。
「どうしようどうしようどうしよう! ぼっちゃまが!」
 しばし暴れたイル村さんだが、そんな場合ではないとさすがに気づく。
「そうだ! 蘇生法! 人工呼吸!」
 イル村さんはぼっちゃまの首の後に前ビレをくいっと当てて、よしと肯く。専門学校で習ったが、一度も実戦したことはない。うすれた知識を最近読んだ人気漫画から思い返す。
「気道確保!」
 とりあえず台詞だけは言ってみて気合いを入れていざぼっちゃまの口に、と顔を近づけたが、海豚の体の構造では口が届かないではないか。
「どーしよー!!!」
「どうしたんじゃイル村さん!」
 泣きが入ったところでパックンがやって来た。そして眠そうな目をかっと見開いたパックンからいきなり頭部に蹴りをくらった。
「カカシになにをしとるかー! この破廉恥海豚がー!」
 吹っ飛んだイル村さんは壁にあたってぼよんと跳ね返った。なにやらパックンは勘違いしたようだ。イル村さんは慌てて首をふる。
「違います違いますよ! ぼっちゃまが息してないから人工呼吸しようとしてたんです!」
「息をしてないだと!?」
 パックンも慌ててカカシぼっちゃまの口元に鼻先を近づける。そのま数秒。その数秒がイル村さんにはとても長く感じられていてもたってもいられない。早く蘇生させないと、間に合わないではないか。人工呼吸が無理ならラマーズ法だ! 確かひっひっはっはっとやらを繰り返すはずだ。ドラマで見たことがあるから間違いない。
「パックンどいてください! ラマーズ法です! ひっひっはっはっです!」
 勢いよく言い切ったイル村さんに対して、パックンはとても冷たい視線を向けてきた。
「勝手に殺すでないわ。バカタレが」
「へ?」
 イル村さんはぱちぱちと瞬きを繰り返す。パックンは追い打ちをかけるようにさらに冷え切った視線でイル村さんを見つめた。
「それにラマーズ法じゃと? カカシは妊婦か?」
「はひ?」
 パックンの言っていることがわからずにひたすら頭部にクエスチョンを浮かべるイル村さんだったが、パックンのそれはそれは深いため息でなにやら大きな失敗をしでかしたとさとる。
「あの……ぼっちゃまは……」
「気を失っているだけじゃ。でイル村さんはカカシが気を失うようなことをしでかしたということか」
「は、や、あの、その……」
 なんとなく言い逃れちゃおっかなあと姑息に思ってしまったお調子者イル村さんだが、パックンの老練な視線に射抜かれて観念した。
 照れ隠しにえへへとかわいらしさを装い小首をかしげてみせた。
「いや〜カカシぼっちゃまがあまりにあまりなんで、ついつい愛の鉄拳をくらわしてしまいましたって感じぃ。ごめんなちゃい」
 お行儀よく前ビレをそろえてぺこりとお辞儀したが、パックンの口元がひくひくとひきつる。
「いい年した海豚がなにをかわいこぶっておるか」
 かあつ! と気合いを入れられる。しゅんとなったイル村さんはその場に正座した。
「カカシにも悪いところがあったのであろうが、かりにも雇い主を殴って気絶させるとは。正気かイル村さん」
「は。面目ないです……」
 うなだれるイル村さんにパックンは呆れかえったため息をついた。
「とにかく、カカシが起きたらまずは謝ることじゃ」
「はい! それはもう!」
「謝らなくていいよ」
 海豚と犬の間に割り込んできた人間の声。
 顔を向ければカカシぼっちゃまは頭部に手をあてて顔をしかめているがぱっちりと目は開いていた。
「ぼっちゃまあ……!」
 安堵にイル村さんの目には思わず涙がにじむ。
 にじり寄ろうとしたところ、すっと視線を向けられてその場でイル村さんは硬直する。特に厳しい視線ではない。だが、場の空気を完全に止めてしまうような威力がその視線にはあった。パックンでさえ動けずにいる。
 イル村さんはごくりと喉を鳴らした。
「出てってよイル村さん」
 身も心も凍るような冷たい声だった。



10.



 まん丸と太ったお月さまがとてもきれいだ。きれいだけれど見ていると少しせつない気持ちになるのは、両親との別れとなったあの夜にも空に月が輝いていたからだ。
 ぷかりと浮いたイル村さんは、はあとため息を落とす。
 カカシぼっちゃまに出て行けと言われすごすごと部屋からのいた後、ふらふらと向かったのはお屋敷のプール。枯れ葉が浮いたもの悲しい風情のプールにざんぶと飛び込んでそのまま死体のように浮いていたのだ。
 周囲が暗くなってきて風が吹いてきたなあと思い体を返せば、視界に月が飛び込んできたというわけだ。いつの間にか夜になっていた。
 いくら鈍いイル村さんでも、ぼっちゃまのことをかなり怒らせてしまった自覚はある。間違ったことを言ったとは思わないが雇い主に対して暴言だったことはこれまた間違いない。諭すにしてももう少し言いようがあっただろう、と、今更思う。子供相手になにをムキになってしまったんだと後悔しても遅い。
 ぼっちゃまに対して過ぎたことにねちねちこだわりやがってと説教たれたがイル村さんは猛烈に過ぎたことを悔やんでいた。
 ひたすら後悔の念に襲われているそんなイル村さんのところにパックンがやってきた。
「反省したか、暴力家政夫」
「失礼な……」
 パックンはプールサイドで座り込んだ。イル村さんを見て苦笑している。イル村さんはすいすい泳いでパックンに近づいた。
「あのぉ、ぼっちゃまは……」
「少し顎が痛いといっておったが元気じゃ。といってもわしもすぐに追い出されたのじゃがな」
「そうですか」
 安堵したが言葉が続かない。パックンさえ追い出したということは、恐ろしく怒っているということは想像に難くない。もうイル村さんはため息しかでてこなかった。
「まぁ一晩たてばカカシの怒りも少しは引いておるじゃろ。明日カカシの好物尽くしの朝食でも作って謝ればよかろ」
 パックンは暢気に優しく言ってくれるが、イル村さんの気持ちはやはりなかなか浮上しない。
「どうしたイル村さん。らしくないではないか」
「俺ぇ、家政夫失格ですかね……」
「失格じゃなあ」
「ですよねえ」
 はふーとイル村さんは嘆息する。
 長年家政夫として生きてきたがこんなにも失敗したと思ったことはない。ぼっちゃまのことを思って言ったことに嘘はないが、傷つきやすい子供相手に思いやりが足りなかったかもしれない。
 ずずんと落ち込んで沈んでいきそうになるイル村さんの頭をパックンが前足でぽかりと叩いた。
「イテ。なんですかあ、もう」
「やりすぎたと反省しておるのじゃろ?」
「もちろん、反省してます」
「ならば反省したことを先に生かせばよかろ。イル村さんはカカシのことを心配してくれてる。だから少しばかりやりすぎてしまっただけじゃ。わしはイル村さんのことを信じとるぞ」
 パックンはさらりと口にしたが、その言葉にイル村さんは目が醒める。
 信じてる。
 それはなんて素敵な言葉だろう。
 その一言だけで力が沸く。頑張ろうという気にさせられる。
 ざばーんと水しぶきも高々と大きくジャンプをして、イル村さんはプールサイドに降り立った。おかげでパックンはずぶぬれとなりイル村さんの尾ビレを踏んづけてやったが、立ち直ったイル村さんはそんな攻撃どこ吹く風。きらきらした目でパックンを見た。
「そうですよね。言ってしまったことも殴ってしまったことも取り返しがつきませんがこれからの働きで取り戻せばいいんですもんね! 俺めちゃくちゃ頑張りますよ。今からぼっちゃまに謝ってきます。土下座だってしちゃいますよ」
「いや、頭を冷やす意味で一晩くらいは待ったほうがよかろう。それよりイル村さん、わしとの話が途中だったことを忘れていないか。カカシのここ最近の元気のなさについてじゃが……」
「いってきまーす」
 元気いっぱい取り戻したイル村さんはカカシぼっちゃまの元へと駆けだした。



「ぼっちゃまー!」
 ばたんと玄関のドアを開けたイル村さんは、階段を上る前に急ブレーキをかけた。
 視界の隅によぎった銀色の髪。顔をむければカカシぼっちゃまが玄関ホールの壁に腕を組んで寄りかかっていた。
「ぼっちゃま……」
 ぴんと背筋を伸ばして近づいたが、足下につっかかったものに目を向ける。そこにはちんまりとした風呂敷包みが置いてあった。海豚模様の入った、イル村さん愛用の丈夫な風呂敷包みが。
「あの、ぼっちゃま」
「クビ」
「へ?」
 問い返せば、カカシぼっちゃまは口の端をつり上げて、うるわしい笑顔を作り、もう一度よく通る声で告げた。
「イル村さん、あなたはクビ。今すぐこの家から出ていってよ」




11.



「ク、クビ……?」
 告げられた言葉の衝撃にイル村さんはよろめく。
 長年家政夫として働いてきたが、クビを言い渡されたことなど一度もない。
 クビ……。
 クビって、どんな意味だっけ?
 クビ、じゃなくて首のことだ! そうかぼっちゃまはわたしの首がないと言いたいのかもしれない。確かに海豚の首と胴体の境目ってよくわからないよなあ。だからちゃんと首の部分がわかるようにしろってことなのかもしれない。
「イル村さん、呆けてないでさっさとでてってよ」
 現実逃避していたイル村さんにカカシぼっちゃまは冷たい言葉を浴びせてきた。
 顔をむければ氷のような視線にぶちあたって一瞬かちこーんと固まるイル村さんだがぶるぶると顔を振って氷結を解き、深く頭を下げた。
「さきほどは申し訳ありませんでした! 反省しております! なので、どうか、どうかクビにはしないでください!」
「謝らなくてもいいって言ったでしょ。クビは撤回しないから」
 イル村さんはたまらず、床に土下座しようとしたが、ぼっちゃまに遮られた。
「鬱陶しいから土下座なんてやめてよ。とにかく、早く、出・て・け」
 容赦のない声。こりゃあ本当にもう駄目かもしれない。さすがのイル村さんにもそう思わせるだけの気迫がその声にはこもっていた。
 イル村さんは力なく風呂敷包みを手に取った。怒っているぼっちゃまが荷物をまとめてくれた。ほらやっぱりぼっちゃまの心根は決して悪くない。それなのに怒りにまかせて根性がねじ曲がっているなんて言ってしまった。ばかばかイル村の馬鹿!
 でも、悔やんでも遅い。
 イル村さんは腹をくくって顔を上げた。
「あの、ぼっちゃま……」
「クビ」
 クビの言葉がイル村さんの腹にぷっすりと刺さる。再びよろけながらもイル村さんは笑顔を作る。何か、何か一言でもいいからぼっちゃまに伝えたい。
「あ、はい。それは、わかりました」
「じゃあ早く……」
「ちょっと待つのじゃカカシ」
 ひややかな空気に満たされた玄関にパックンが入ってきた。
 ぼっちゃまとイル村さんを交互に見てからため息を落とす。
「カカシよ、イル村さんは家政夫として失格かもしれんが、クビにするのはちと待ってやってくれんか。イル村さんに悪気はないんじゃ。ただ馬鹿みたいに真っ直ぐなだけなんじゃよ。カカシに対する数々の暴言はわしからも謝る。この通り」
 そう言ってパックンは頭を垂れる。
「パックン……」
 イル村さんは感動で滂沱となった。がしっとパックンに抱きついて涙で滲んで見えない視界にカカシぼっちゃまをとらえた。
「ぼっちゃま〜。俺、俺、やめたくないですぅ。お願いします。もう一度、もう一度チャンスをくださいっ! お願いします!」
 ぺこぺこと頭を下げる。ぼっちゃまは黙ったまま。イル村さんが頭を高速で動かしすぎてくらくらし始めた頃にふっとぼっちゃまは吐息を漏らした。
「イル村さんみたいな単純馬鹿海豚に悪気がないことくらいわかるよ」
 抑揚のない声だがさっきまでの尖った感じはしなかった。イル村さんはごしごしと目元を拭ってじっとぼっちゃまの言葉を待つ。
 もしかして、もしかしたらクビを撤回してくださるかもしれない。
 淡い期待と、いやいや調子いいぞイル村、と戒める声にも耳を傾けつつ、ごくりと喉を鳴らす。
「イル村さんはお節介でウザイけど、俺のことを心配してくれてることも、わかる」
「そう! そうなんですぼっちゃま! ただウザイだけなんです俺!」
 思わず合いの手を入れてしまえば、再び場の空気が凍る。パックンに「バカタレが!」と言われてビンタをくらった。
「ももも、申し訳ありません!」
「でもイル村さんは父上のことを悪く言った」
「え? お父上のことを?」
 きっぱりと言い切られたが、イル村さんは混乱する。いつ悪口など言っただろう? というか知らない人のことをどうやって悪く言えばいいのだろう。
「あの、ぼっちゃま」
「“親として最低”って言ったよね。ちゃんと聞こえてたよ」
「え? そんなこと言いましたっけ?」
 ついつい考えなしに言ってしまった、途端、カカシぼっちゃまからなにか真っ暗な気配がどよ〜んと立ち上る。
 口を滑らせてしまった後でイル村さんははっと思い出して青ざめる。
 そうだ。確かに言った。ぼっちゃまを殴った後がくがく揺さぶりながら、子供をおいて自殺するなんてサイテーだと言った。
「思い出した? 忘れっぽいイル村さん」
「思い出しました。でもぼっちゃま」
「だからクビは撤回しない。父上のことを悪く言うやつを俺は絶対に許さないから」
 それは最終通告だった。



 風呂敷包みをちんまりと背負った海豚が月明かりのなか、とぼとぼと大きな屋敷の塀沿いを歩いている。
 ぼっちゃまは最終通告のあと背を向けて二階にいってしまった。パックンはゆるゆると首を振ってもう諦めろと言った。ぼっちゃまにとってお父上のことは禁句。まさに地雷を踏んでしまったのだと小さな犬は疲れたように告げた。
「元気でなイル村さん。いつかまた、会えるといいが」
 パックンをはじめ他の犬たちもイル村さんを見送ってくれた。イル村さんは犬たちすべてと熱く抱擁を交わして、最後にパックンに頭を下げた。
「短い間でしたが、お世話になりました。パックンたちの優しさは忘れません。わたしが言うことではありませんがぼっちゃまのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「もちろんじゃ。カカシのことはちゃんと守る」
 力強い言葉を得て、イル村さんは歩き出した。
 しかしどうにも歩みに力がこもらない。それはそうだ。イル村さんはやめたくないのだから。ぼっちゃまが心配なのだから。
 まさかまさかの展開。昼間暢気においしいお芋を頬張っている時は、夜にこんなことになっているとは思いもしなかった。
 はふーと何回目かになるかわからないため息をこぼしつつゆっくりと歩いていたが、ゆるやかな坂道をのぼってくる人影に目を留めた。
「あれ?」
 ふたつの人影。そのうちのひとつは見たことがある。じいっと視線を定めつつ歩くイル村さんに二人も目を留めた。見覚えのあるほう、メガネをかけた若い男がすれ違うときに立ち止まって口を開いた。
「君は、カカシくんの家政夫じゃないか」
「きゅわっ」
 その男はイル村さんが逆ギレして飛び出した日、帰宅したときにカカシぼっちゃまと庭にいた人間だ。
「お、おばんでございます」
 とりあえずぺこりと頭を下げた。
「なあに、この丸々とした海豚は」
 若い男の隣にいたもうひとりの人間は男なのか女なのかよくわからなかったが、黒目の真ん中に人とは思えない縦の線が入っている。そして口から先端が二つに割れた長い舌が時折ちろちろと見え隠れする。
 生理的嫌悪感とでもいうべきものを覚えてイル村さんはぶるりと震えた。背ビレのあたりに鳥肌がたったのがわかった。
「ああ、大蛇丸様、こちら、ええと」
「イ、イル村と申します」
「イル村さん、カカシくんの家政夫ですよ。イル村さん、こちらはカカシくんの叔父の大蛇丸様。僕は秘書のカブトです。以後お見知りおきを」
「叔父上!? うそっ。まったく似てませんね〜」
 怖い目にぎろりと睨まれてイル村さんは冷や汗かきつつ口にした。
「は、初めまして。ですがわたくし、さきほどクビになりました」
 正直に告げれば、カブトと名乗った青年の目が少しばかり見開く。カカシぼっちゃまの不気味な叔父は口元を歪めた。
「そう、クビになったの。よかったわ。あなたわたしの美意識に反するんだもの。カカシくんがクビにしてくれて幸い」
 地を這うような声でうふふと笑った不気味な叔父はもうイル村さんに用はないとばかりに背を向けた。カブト青年は肩を竦めて、元気でね、ととりあえずねぎらってくれた。
 去っていく背をぼうっと見つめる。
 なんとなく胸の中がもやもやとする。なんだろう。なんなんだろう。あの二人は今からぼっちゃまの元をたずねるのだろうか。そんなに遅い時間ではないがわざわざ夜に来ることはないではないか。それともこの辺りを散歩しているだけなのだろうか。それはそれで変ではないか。親戚なのだからたずねればいいと思う。あれ、でも待てよ。パックンが言っていた。親戚連中はカカシぼっちゃまのことをよく思っていないと。この屋敷も持っていかれるのではないか、と。
「ぼっちゃま……」
 カカシぼっちゃまの儚げな顔が浮かぶ。どうしてか胸騒ぎがする。
 戻りたい。ぼっちゃまの元に馳せ参じたい。けれどさっきクビになったばかり。絶対に許さないと言われたのだ。ただの許さないではなくて、絶対なのだ。
 胸のつっかかりの正体がわからぬまま、それでも未練を断ち切るようにイル村さんも歩き出す。しかし数歩進んだところで、イル村さんの耳にひそやかな会話が飛び込んできた。

「このお屋敷ももうすぐわたしのものね」
「はい。万事滞りなくすすめております。カカシくんは腑抜けですから」
「あのこ、ファザコンだもの。ほんと、サクモが死んでくれて助かったわ」
「死んでくれて、ねえ……。大蛇丸様もお人が悪い」
「そんなことより、カカシを引き取りたいってのが何人かいるのよ。結構いい趣味の金持ちがね。あのこきれいだからペットにしたいみたい」
「わかりました。ではその中で一番高値をつけた者にカカシくんは受け渡しましょう」
「手配、頼んだわよ」

 イル村さんは、その場で硬直した。
 今ほど海豚の耳の良さに感謝したことはない。最近みたバラエティ情報番組で思い出したが、海豚は耳がいいのだ。十メートル先のひそひそ話でも余裕で聞けるのだ。
 あの二人、恐ろしいことを言ってなかったか?
 お屋敷はカカシぼっちゃまのものだ。それが、わたしのもの?
 死んでくれて助かった? お人が悪い?
 カカシぼっちゃまを受け渡す? ぼっちゃまは物じゃない。ペット? ペットはパックンたちだ。カカシぼっちゃまは人間だ!
 くわっとイル村さんの目が見開かれる。風呂敷包みを掴む手にぎゅっと力をこめる。ぶるぶると武者震いする。
 これは……これは!

 事件の予感。




第二部完!







第三部予告!
とうとうクビになってしまった(自称)優秀なベテラン家政夫海豚のイル村さん。イル村さんのいなくなった屋敷。そこに迫るぼっちゃまの叔父の大蛇丸の魔の手!(やっとかよ!)
イル村さんはカカシぼっちゃまを守ることができるのか!? かみんぐすーん☆