今日のイル村さん 第一部




 海豚のイル村さんは木の葉家政夫協会のドアを叩いた。
「俺に新しい赴任先を紹介してください」
 身を乗り出して鼻息も荒く告げるイル村さんを家政夫協会の会長火影さまは大きく開いたまなこで見つめた。
「どうしたのだイル村さん。あんたはうずまきさんとこでばりばり働いていたはずじゃが・・・」
 するといきなりイル村さんはしゅんとなって背びれを震わせた。
「これを、見てください」
 イル村さんは胸びれに抱えていた紙袋から前掛けをとりだした。
 火影さまの前で広げられた前掛け。そこには大きな刺繍で『イル村先生』と縫われていた。雑だが一生懸命縫ったことがわかる健気な縫いつけだ。
「この前掛けは、ナルト坊ちゃんが俺のために縫って置いていってくれたものなんです」
 イル村さんはきゅうと背を丸めて、そのまま床に体を伏せて背びれをびちびちいわせてうわーんと泣き出した。
 いきなり泣き出したイル村さんに火影さまも大慌て。立ちあがってふと目にとまったのはイル村さんの背びれ。そこには本来あるべきものがなかった。
「イル村さん、あんた、木の葉家政夫協会の木の葉マークのついた背びれあてがないじゃないか」
 イル村さんは、びくりと体を震わせた。火影さまもこれはただごとではないと悟る。イル村さんは木の葉マークの背びれあてをそれはそれは大切にしていたから。家政夫としての誇りだと常々言っていたから。
「いったいなにがあったというのじゃイル村さん」
 火影さまは優しくイル村さんの背をさすった。
「火影さま〜」
 顔を上げたイル村さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「ナルト坊ちゃんが、海外に行ってしまったんですぅぅぅぅぅぅ!」
 そう言うやいなや、イル村さんはごろごろと部屋の中を所狭しと身もだえて転がり回る。
 狭い執務室を右に左にときゅうきゅう泣きながら転がるから火影さまは嘆息ひとつで立ちあがる。
 壁のスイッチを押すとごごごごと壁が開き、そこから大きな水槽が運ばれてきた。
「イル村さん!」
 鋭く名を呼べばイル村さんは顔を上げる。そこにある水槽に目を留めると体をバウンドさせ、ザンブと水槽に体をダイブさせた。
 すいーすいーと気持ちよさそうに泳いでいたイル村さんだが、いきなりジャンプして華麗な水芸を披露する。すごいのおと火影さまが褒めれば調子に乗って水上歩行できゅきゅきゅきゅと進む。
 ひとしきり水芸を披露したイル村さんはその後は水槽の中を気持ちよさそうに泳ぎ、火影さまはその間事務仕事をこなしていた。
「いや〜やっぱり水の中は落ち着きます」
 と言ってイル村さんは水槽からあがると、かばんの中から火影さまにお土産を手渡した。
「小笠原のほうまで行ってきたんで、これ、お土産のイルカクッキーです」
「それでイル村さん、そろそろなにがあったのか話してくれるかの」
 ずずっとお茶をすすって火影さまが問いかければ、イル村さんはひと泳ぎして落ち着いたのか、俯いたまま椅子に座って話し出した。
「実は、ナルト坊ちゃんのお父上が、亡くなられてしまったんです」
 イル村さんの言葉に火影さまは湯飲みを置くと、痛ましそうに眉ねを寄せた。
「それはまた、一体なにが…」
「坊ちゃんの隣の家が火事になりまして、取り残されたその家の子供を助けるために火の中に戻られて子供たちを救うことはできたのですが、そのままお父上は・・・」
 ううう、とイル村さんは声を詰まらせる。
「ナルト坊ちゃんも、お父上を追いかけて火の中に飛び込もうとしたんです。でも俺、お父上からナルトを頼むって言われたから、必死で坊ちゃんを押さえつけたんです」
「そうか。それは、辛かったなあ、イル村さんよ」
 火影さまのいたわりの言葉にイル村さんはふるふると首と振る。
「俺よりナルト坊ちゃんがそれ以来口をきかなくなってしまったんです。俺は無力です。俺の水芸なんかじゃ坊ちゃんを励ますこともできずにいました」
 しんみりと語るイル村さんはさきほどの前掛けで目尻を拭う。
「そんな時に行方不明だったはずの坊ちゃんのおじいさまが訃報を聞きつけてやって来たんです」
「それはそれは。よかったではないかイル村さん」
 火影さまは喜ぶが、イル村さんは、きゅうううと力なく鳴いた。
「確かに坊ちゃんに身内の方がいたことはよかったです。でも、でもでもでも、おじいさまは、ナルト坊ちゃんを海外に連れて行ってしまったんですぅぅぅぅ」
 きゅわわーんと再びイル村さんは泣き出した。
「坊ちゃんは嫌だって言ったんです。でもジライヤさまが、海外で修行して強い男になれって言って、連れて行ってしまったんです。クソジジィー!」
 錯乱してイル村さんは少し乱暴な言葉遣いになってしまった。
 息を乱してひとしきりジライヤとやらを罵倒したイル村さんだったが、呆れ顔の火影さまに気づき慌てて口をつぐむ。
「も、申し訳ありません。家政夫のくせに、雇い主の悪口を言うなんて・・・」
「よいよい。それだけイル村さんがうずまきさんとこによくしてもらったということなのじゃろうからな」
 火影さまが好々爺然とした笑みでいなすと、イル村さんは再びしゅんと沈んで尾びれをぴたぴたと床に打ち付ける。
「そうなんです。俺はずっとずーっとうずまきさんとこにお世話になって、死に水をナルト坊ちゃんにとってもらおうと思っていたんです」
「死に水とは。それはまた気の早い話じゃのお」
 火影さまは暢気に笑うがイル村さんはそんな場合ではない。
「ある日俺が買い物から帰ったら、家の中はもぬけの殻でした」
「キッチンのテーブルに、ナルト坊ちゃんから俺あてのエプロンと手紙が置いてあったんです。本当は行きたくないけど、強くなって戻ってくるって。帰ってきたらイル村先生に会いに行くって・・・だから、それまで背びれあてはあずかってるって・・・」
 ずびびとイル村さんは鼻をすする。火影さまが黙ってティッシュを差しだしてくれたから、前ビレで鼻をかんで、ぱんぱんと頬を叩いて顔を上げた。
「すみません。泣いてちゃダメですよね。俺も坊ちゃんに負けないように立派に家政夫の仕事を勤めてまた坊ちゃんに雇ってもらいます。だから火影さま」
 ごくりと喉を鳴らしたイル村さんは、きっ、とまなじりをあげて火影さまを真っ直ぐに見つめた。
「俺を特別厳しい環境に置いてください。どんなお宅でも、俺、勤め上げてみせます」
 火影さまはしばしイル村さんを値踏みするように見て、ふっと力を抜くような息をついた。
「それならば、イル村さんに是非にお願いしたいお宅があるのじゃがな」
「はい!どこへでも、なんなりと!」
 イル村さんが鼻息をぶふーと吹き出すと、火影さまは引き出しのファイルから資料を取り出し、イル村さんの前に置いた。
「こちらのお宅に行ってほしいのじゃ」
 資料の表紙には『はたけ様』と書かれていた。



2.



 風呂敷包みを背に負って、地図を片手にイル村さんはぽてぽてと歩いていた。
 火影さまから依頼された次の勤務先『はたけ』様のお屋敷を目指して。
 すでに近辺についているはずなのだが、歩いても歩いても高い塀が続くのみで、いつまでたっても玄関先に辿り着かない。
 火影さまがうっかりして間違った地図でも渡したのではと疑いを持ち始めた頃、やっと、塀が途切れた。ほっとしてのぞいたそこからの景色に、イル村さんはぱかりと口を開けて、きゅきゅきゅきゅーと愕きの鳴き声をあげていた。
 3階建ての大きなお屋敷がそびえていた。見る者を威圧するような重厚な構えの洋風のお屋敷は壁は真っ白に塗り込まれ、お屋敷を囲む木々や花々もきちんとしすぎて少しでも乱れがあることが許されないふうに見えた。
 はたけ様の豪邸のまぶしさにイル村さんはしばし呆然となった。
 しかし突っ立ていても仕方がないと、ぽかりとあきっぱなしだった口をきゅっと閉めて、一歩を踏み出した。
「ねえそこの海豚さん」
 真横から聞こえた声にイル村さんは大袈裟に飛び上がった。きゅー!と鳴いて、心臓のあたりを押さえつつ顔を向ければ、そこには一人の少年が佇んでいた。
 イル村さんはそのたたずまいに目を奪われる。
 なぜなら少年はとても美しいなりをしていたから。
 銀色の髪がさらりと風に揺れる。赤と青の色違いの目元は涼しげで、白い肌は透き通るようだ。
 生きている者の息吹が感じられないほどに作りものめいているが、イル村さんに声をかけたのは間違いなくこの少年だった。
 きゅわわーとイル村さんはなぜか奇声を発していた。
「さっきからぼーっとつったっていたけど、何か用かな?」
「あ? え? は? ええええええと、わ、わたくし、木の葉家政夫協会から派遣されました、イル村と申しますが、あの、あの、あなたは、こちらのはたけ様のおぼっちゃまでいらっしゃいますか?」
 緊張ゆえ裏返った声で早口に告げてしまった。きれいな少年はじっとイル村さんを見ている。
「あの……」
 いたたまれなくてもじもじと前ひれをつんつんさせれば、少年は小首をかしげて、かすかに笑った。
「おぼっちゃまではないよ。はたけカカシだ〜よ」
 柔らかな声にイル村さんの緊張は緩和される。
「ではでは、やはりはたけ様のおぼっちゃまですね! どうぞ、よろしくお願い致します」
 イル村さんはぺこりと頭を下げた。見たこともないきれいな少年、はたけカカシに柄にもなく頬がぽうっと染まる。
 カカシ少年はちいさく笑って、イル村さんの前に立って歩き出した。
「まさか今度の家政夫が海豚だとは思わなかったなあ。そんなに人手が足りてないの?」
「イルカを馬鹿にしないでくださいっ」
 思わずイル村さんは飛び上がる。キューキューいいながら主張した。
「自分で言っちゃいますけど、俺はこう見えて、家政夫協会で一、二を争う働き者です。どんなお宅のかたにもご満足いただいてきました」
 イル村さんは風呂敷包みをその場で広げて、木の葉の形をした銀のブローチを取り出した。
「これが、ユーザー満足度ナンバー1に贈られる証です!」
 ばばんとカカシ少年の前に掲げたが、少年は小馬鹿にするように小さく笑っただけだ。
 そして特にコメントもなく歩みを再開する。イル村さんはふっと寂しさを覚えた。
 こんな時ナルト坊ちゃんなら、きらきら輝く目をして、ブローチを手にとってくれた。すっげえってばよイル村さん、と無邪気な声が耳によみがえる。
「イル村さん、どうしたの。そのまま帰るの? それならそれでいいけど」
 カカシが立ち止まったままのイル村さんに声をかける。このままイル村さんが踵を返せばそれですぐにでもイル村さんの存在などなかったことにされそうな、そんな冷たい空気が伝わってきた。だからイル村さんはきゅっとまなじりをつり上げて風呂敷を包み直すとカカシの後についていった。
 ナルト坊ちゃんと再会してもう一度雇ってもらうまでは身を粉にして働いて頑張ると決めたのだから!
 玄関の重厚な扉を開けると、そこはまるでホテルのロビーのような広々とした空間が広がっていた。ぽかんと口を開けてイル村さんはしばしその広さに見入る。正面に幅広の階段があり、踊り場で左右に分かれて二階に続くようだ。天井には大きなシャンデリアがつけられていた。
「なにバカみたいに口開けてるの」
 カカシの辛辣なものいいにイル村さんははっと我に返る。今までさまざまなお宅に勤めたがはたけ家は桁違いの立派なお屋敷だった。
「あの〜、旦那さま奥様にご挨拶したいのですが、案内していただけますか」
 気後れしつつも尋ねれば、カカシはイル村さんのことをじっと見てきた。美少年からの直視なんてなれない事態にイル村さんはもじもじと前ビレをこすりあわせる。
 カカシはふっと息をつく。それはやけに大人びた吐息だった。
「ねえイル村さん。アナタ本当にできる家政夫なの? それにしちゃあ勤める家のこと全然勉強してないんだね」
「どういうことでしょうか?」
 火影さまからもらった資料。確か、めちゃくちゃ分厚かった。イル村さんらしからぬことだが、ナルト坊ちゃんとの別れでまだ気持ちが落ち着いていなかったから、ついつい流し読みしてしまったのだ。ただのいいわけでしかないが。
「あの、申し訳ありません。確かに俺、はたけ様のお宅の資料、すみからすみまで目を通しはしませんでした」
 しょぼんと正直に答えれば、カカシは仕方ないなあというふうに少し笑顔を見せてくれた。
「この家には旦那さまも奥様もいないよ」



3.



 旦那さまも奥様もいないというのはどういうことだろうか? イル村さんは素直に問いかけた。
「お仕事の都合で、別なところにでも住んでいらっしゃるのですか?」
「違うよ。言葉通り。はたけの家は俺だけ。奥様はとっくに死んでいるし、旦那さまはちょっと前に自殺した」
 カカシはさらりと告げてくれたが、その瞬間イル村さんはハンマーであたまをかちわられるような衝撃を覚え た。
 昔海にいた頃、餌でおびきだされて人間に捕まりそうになっことがある。海面から頭を出したところを、ゴイン! と容赦ないハンマーの一撃を食らうのだ。さいわいにもイル村さんは石頭だったから助かったが、もう少しで夜の食卓にのぼるところだったのだ。
「もうしわけありません、ぼっちゃま!」
 イル村さんはがばあと床に平伏した。
「俺、俺、ほんとにこれじゃあ家政夫失格です。このブローチは火影さまに返します。俺にはこれを持つ資格な んてありませんんん!」
 うわわわわんとイル村さんは滂沱となる。己のいたらなさにびちびちと床を転がる。
「ちょっと……。イル村さん?」
 ひきつったようなカカシの声など届きやしない。イル村さんはひたすら己の中の深い反省の淵に沈みこんでいた。
 どれくらいたったのだろう。暴れるだけ暴れたイル村さんがふと我に返って辺りを見回すと、大小さまざまな 犬たちに囲まれていた。
「な、なんですかあなたたちはあ!」
 尾びれをぷるぷると震えさせながら己を叱咤して声をだす。大きさもさまざまだが一様に犬相が悪い。このまま 飛びかかられたらどうしたらいいのかと内心冷や汗をかきながらイル村さんはなんとか虚勢をはってきっと目をつりあげていた。
「カカシから伝言じゃ」
 胸を張るイル村さんに、犬たちのなかで一番小柄な犬が、声をかけてきた。
 どきどきしながらイル村さんは犬からの言葉を待つ。ごほんとわざとらしい咳をした犬は思いがけないことを告げた。
「おまえさんの家政夫としての資質が疑わしいとのことでな。テストをするそうじゃ」
「テスト!?」
 イル村さんは飛び上がった。そしてそのままの勢いで犬に詰め寄った。
「俺のなにが家政夫としてまずいっていうんですか!」
「カカシの事情なーんにも予習してこなかったとか」
 ずばり言われてうっとイル村さんは胸をおさえる。そのままごろりと床に横になると仰向けになってびちびち前ビレを動かした。
「だってだって、俺だって、俺だって動転することだってありますっ。大切なナルト坊ちゃんがいきなり外国に行ってしまったんですよ? ちょっと小笠原に行ったくらいじゃあこの心の痛みは治まりません!」
 はっきり言って逆ギレだが開き直ってイル村さんはぎゃんぎゃん喚いた。
「だから、テストに合格すればいいだけのことじゃろうが」
 犬は簡単に言ってくれた。イル村さんはむくりと起きあがると、そうかと前ビレをぱいんと合わせた。
「そうですよねー。俺の水芸でカカシ坊ちゃまをぎゃふんと言わせればいいわけですよねー」
立ち直りの早いイル村さんはうきゅきゅきゅきゅーとテンションがあがる。しかしそこに水をさすような冷たい声が降ってきた。
「俺は簡単にぎゃふんなんていわないよ」
 振り返れば、カカシが階段の踊り場のところで冷たい目をしてイル村さんを見下ろしていた。
「俺を納得させなければ、出て行ってもらうよ。いいね」
 宣言されて、イル村さんは尾びれをぷるりと震わせた。



4.



 うろうろうろうろとイル村さんはあてがわれた部屋の中で歩き回っていた。
「落ちつきのない奴じゃなあ」
 ため息とともに呆れたような声で言われて、イル村さんはびちびちと前ビレを振り回した。
「仕方ないじゃないですかあっ! だってだって、ぼっちゃま、チョー冷たい目をしてましたよっ。俺のこと落とす気まんまんですよ! 明日早速テストなんてひどいじゃないですかあああああ!」
「カカシを水芸でぎゃふんと言わせるのじゃろうが」
「そうだけど、でも! でもでもでも!」
 うううと言葉に詰まるイル村さんを、パックンと名乗った犬が呆れた目で見つめ返してきた。
「ようするに自信がないということか」
「……ハイ」
 イル村さんははふーと息をついてその場に丸くなって座り込んだ。
「だって、俺最初から失敗しまくりじゃないですかあ。水芸には自信がありますよ。でもそれ以前の問題でだめだめっていうかぁ」
 落ち込むイル村さんの横にパックンがやってきた。
「イル村さんよ、カカシのことを話してやろうか」
「ぼっちゃまのことですか?」
「お前さん資料を読んでこなかったのじゃろ」
「はあ。面目次第もありません」
 前ビレでイル村さんは頭をかいた。我ながらなんたる失態だと思うが後の祭りだ。だから素直にパックンに頭を下げた。
「是非、教えてください」
 と言った途端にイル村さんはぴんと閃いて前ビレをばいんと打ち鳴らした。
「そうですよね。ぼっちゃまのことを知ればどんな水芸が好きか傾向と対策を練ることができますもんね! わ〜い俺って冴えてるぅー」
 イル村さんは胸を張って得意げだが、パックンは首をかしげた。
「カカシが海豚の水芸が好きだという前提はどうかとおもうがな」
「な〜に言ってるんですかぁ! 海の癒し系ナンバーワンの海豚ですよ! 海豚の水芸が嫌いな人なんていませんって!」
「その自信はどこから……」
「それより早くぼっちゃまのこと話してくださいよ」
 行儀良く座り直したイル村さんはパックンに催促した。まだ何か言いたげだったパックンだがため息をひとつ落としてぺたりと伏せると話し始めた。
「この『はたけ』家は100年ほど続いている名家なのじゃよ。じゃが呪われた家でもある。子供は必ず一人しか生まれず、身体的に問題を抱えていることが多い。そして早死にの家系じゃ。今までよくもったというほうが正しいかもしれぬな」
「身体的問題ってなんですか? ぼっちゃままっちろですけど健康そうですよ」
「両の目の色が違うじゃろ。あれは邪眼というてな、災いをもたらす眼だと言われている」
「ええ!? あんなにきれいなのに? いったいどんな災いがっ? ビ、ビビビ、ビームでも出るんですか!?」
「いや。ビーム出ないな」
 パックンはあっさりばっさりと返してくれた。
 イル村さんはぶるりと背びれを震わせたが、だがそれでもカカシの眼が、いや、カカシ自身がとてもきれいな人間だと思うのだ。
 イル村さんは家政夫だが海豚でもある。だから理屈でなく、人の善し悪しが本能的な感覚でわかる。
 カカシは間違いなく、いい人間だ。
「うーん。邪眼だがなんだか知りませんけど、きれいならいいじゃないですかねえ。それとも実際悪いことがあったんですかあ?」
 よくわからずに訊けば、パックンは苦笑した。
「カカシの祖父母が事故にあって亡くなったことも、母親が病で早くに亡くなったことも、親戚連中はカカシの邪眼のせいだと言っておったな」
「なんですかそれ。意味がわかりません」
 イル村さんが口を尖らせれば、パックンは穏やかな顔で笑った。
「全くじゃな。意味がわからない。おまけに父親が心を病んで自殺してしまって、とうとうカカシは孤立無援じゃ。『はたけ』の本家はカカシには継がせられんということになって、親戚連中にこの家屋敷以外すべてもってかれた。そのうちここも手に入れようとするじゃろうがな」
 カカシのおかれている境遇の理不尽さにイル村さんは憤ってきゅるきゅると喉を鳴らした。
「俺、基本的に人間のことは好きです。大好きです。でもたまに、まったく理解できない人たちもいるんですよね! なんですかぼっちゃまの親戚の人たちって。ひどい! ひどすぎる! 今度屋敷に来た時には俺が前ビレで往復ビンタくらわしてやりますよっ」
 ふんふんと鼻息も荒くイル村さんは前ビレでこぶしを作った。それだけではおさまらずにきりきりと歯も鳴らす。
 パックンはそんなイル村さんを見て楽しそうだ。
「イル村さんは熱血じゃな」
「そうですよ! 俺は熱い海豚なんです! 俺に触れると火傷しますよ!」
 調子にのってイル村さんはシュッシュッとシャドーボクシングをした。
「イル村さんにはカカシのテストに是が非でも合格してもらわなければな。合格しなければカカシの親戚共に活も入れられんじゃろ」
 そうパックンが言った途端にイル村さんは頭を抱えて身悶えた。
「そうでしたそうでしたああああ。まずはぼっちゃまのテストに合格しないとっ。もうずばりぼっちゃまの好きな水芸教えてくださいよパックンさん!」
 泣きつけば、パックンは再びあきれ顔となる。
「さっきも言ったがカカシが水芸を好むとは」
「好むんです! みんな大好きなんです! 俺たち海豚は人間の心の治療にも役立ってるキュートな癒し系なんですから!」
 叫ぶイル村さんに張り合うようにパックンは仏頂面で言い出した。
「海豚が海の癒し系なら犬は陸の癒し系。負けはせん」
「ええ!? どっちかというと猫なんじゃないですか〜?」
「いいや。犬じゃ」
「そうかなあ?」
 首をひねるイル村さんの前ビレにパックンは噛みついた。
「痛いっ!」
「とにかく! 特訓じゃ! プールに行くぞ!」
「はいいいいい!」
 飛び上がったイル村さんはパックンの後に続き、そのまま朝までプールの中で泳ぎ続けた。



5.



 目を閉じて大きく息を吸い込んだイル村さんはそのまま数秒呼吸を落ち着かせて、くわっとまなこを見開いた時には両の前ビレに掲げたものを思い切り打ち鳴らしていた。
「朝です! ぼっちゃま! いい加減起きてください! お日様に笑われますよーーーーーーーー!!」
 イル村さんはフライパンとお玉をがんがん打ち鳴らした。

 イル村さんは昨夜から今朝にかけてのプールでの猛特訓のあと仮眠をとった。まだ家政夫として認められてはいないが朝食は作ろうとキッチンに立った。そしてそのまま固まった。
 キッチンテーブルの上には山と積まれたカップメン。大きな冷蔵庫には犬用と思われる餌しか入っていない。
 大きなシンクにはこれまたきれいに積まれたカップメンのからの山。キッチン全体が薄汚れて、天上には蜘蛛の巣も張っている。
 そもそもはたけ邸は一見こぎれいな雰囲気はあるが、よくよく見ればそこいら中にうっすらと埃が積もり、家中の隅には自然とたまるごみが丸まっている。イル村さん用にとあてがわれた部屋もベッドの布団は埃っぽくて、書き物机の上にも盛大な埃が積もっていた。
 イル村さんは掃除したくてしたくて仕方ないのだが、まだ認められていない状況であまり勝手なことはできない。
 だからキッチンだけをまずはきれいに磨き上げて、24時間開いているスーパーに大急ぎで出かけて朝食の支度をしたのだ。
 そろそろぼっちゃまは起きてくるかとあっちにこっちにと歩き回っていたが、カカシぼっちゃまは一向に起きてくる気配がない。ごはんは炊飯器に入っているしみそ汁も温め直せばいいが、てらっと色つやのいいシャケが冷めてしまった。
 時計の針が9時を打ち鳴らしたところでイル村さんの堪忍袋の緒は切れた。
 頑丈そうなフライパンとお玉を手に、のっしのっしとぼっちゃまの部屋に向かったのだ。
 本当は部屋の扉を開けてしまいたいが、そんなことをしたら即刻首になりそうな気がすると、さすがのイル村さんも思うのだ。こんな時ナルト坊ちゃん相手なら有無を言わさず部屋に飛び込んでばいーんとジャンプしてナルト坊ちゃんを窒息させるくらいの起こし方ができるのに。
 くうと無念な気持ちを噛みしめて、部屋の外での強硬手段にでたのだった。
「ぼっちゃま! カカシぼっちゃま! 朝です朝です朝です! そんなに寝たら脳みそ溶けちゃいますったら! 起きろー!」
 がんがんがんがん遠慮なく打ち鳴らせばカカシより先にパックンたちが集まってきた。みなあきれ顔でイル村さんを遠目に見ている。
「ぼっちゃまーーーー!」
 声を振り絞って叫んだ。すでに10分くらいは経っていた。いきなりドアが開いた。
「きゅわっ」
 ドアはもろにイル村さんの頭に当たった。
「うるさい……っ」
 顔を上げれば、そこには不機嫌丸出しのカカシがいた。
「ぼっちゃまあ。おはようございますぅ。っていうよりおそようございますですね」
 頭を赤くしたままイル村さんはぺこりと頭を下げた。カカシはそんなイル村さんを冷たい目で見返してきた。
「イル村さん。あなたはまだうちの家政夫じゃないでしょ。なんの権利があって」
 とカカシが暗い声でそこまで言ったところでいきなりイル村さんがきゅわきゅわっと吹きだした。
「ぼっちゃま。髪がすんごいことになってますよ。普通にしてるとすっごい美少年ですけど、今は年相応な感じでおかわいらしいんですね。俺はどっちのぼっちゃまもいいと思いますけど」
 マイペースなイル村さんを見つめること数秒、カカシは口を尖らせたまま背を向けた。
「ぼっちゃま!? あの……」
「着替えたら下に行くから」
「わ、わっかりましたあ。あっためておきますね!」
 諦めたようなカカシの声だったが、イル村さんは満足してガッツポーズを作る。足下に寄ってきたパックンに気づいてしゃがんだイル村さんに、パックンは大きく頷いた。
「イル村さん、なかなかやるな。カカシが誰かに起こされるなんてことは父上がいた頃以来じゃ」
「そうなんですかあ? 寝ぼすけさんは根気強く起こしてあげるに限るんですよ」
「のわりには力業だったような気がするが」
「おっとっと。早く準備しないと。みなさんのごはんも用意してありますからね!」
 ばびゅんとイル村さんは高速でキッチンに向かった。




6.



「たーんと召し上がってくださーい」
 ぴかぴかのごはんてんこ盛りの茶碗を差し出せば、受け取りつつもカカシの口元は引きつった。
「イル村さん、俺、小食なんだけど」
「何をおっしゃいます! ぼっちゃまくらいのお若い方ならどんぶり飯三杯は余裕でしょう」
「いや。個人差があると思うけど」
「まあまあ。とにかく、食べれるだけ食べてください」
 イル村さんはあくまでも強引にカカシに勧めた。
 鮭の切り身ときんぴらごぼうに豆腐サラダにキュウリの糠漬け。わかめとじゃがいものおみそ汁は赤だしで。
 カカシぼっちゃまは痩せすぎだと思うのだ。お父上が亡くなられてからカップメンとの日々では痩せて当然だ。
「ぼっちゃまのカップメンは夜食としてわたしが頂いておきましたのであしからずご了承ください」
 ぺこりと頭を下げたが、カカシはむっとなる。
「ちょっと。勝手なことしないでよ」
「お言葉ですがぼっちゃま。わたしのように育ちきった大人ならまだしも、育ち盛りの子供があんなものばかりを食べていてはいけません。好き嫌いは仕方ない部分もあるのである程度は認めますが、ちゃんとした食材を食べずに最初からカップメンばかりなんて、誰が許してもこのイル村は許しませんよ」
 ふん、と鼻息荒くイル村さんは胸を張る。何か言い返そうとしたカカシだが、イル村さんの腹に装着されているエプロンにふと目を留めた。
「それ、まさか自分で刺繍したわけじゃないよね。その程度の繕い物しかできずにまさか家政夫なんていえないよねえ」
 嫌みっぽい言い方をされたが、イル村さんはにっこり笑ってこたえた。
「違います。違いますけど、このエプロンはわたしにとって世界一たいせつな方からいただいたものです。その方がわたしの名前をひと針ひと針心を込めて縫ってくださったんです。わたしの宝物のエプロンです」
 脳裏に巡るのはナルト坊ちゃんのはね回る姿。急に寂しくなったイル村さんは尾びれをびちびちと床に打ち付けた。
「宝物ねえ。俺にはそんなものないな」
 淡々とした声に、父親を亡くしたばかりのカカシに失言だったかとイル村さんは慌てた。だがカカシは特に気にしたふうもないようだ。とりあえず箸はすすんでいる。黙ってこの状況を見守っているパックンたちにイル村さんはウインクをきめた。
 うつむきがちに無言で食事をするカカシの銀色の髪は寝起きのままで自由にはねて、窓から差し込む光にきらきらと輝いている。黙っていれば異国の王子さまのような風情だなあとイル村さんは感心した。そして成長期の少年にあるような、どこにいってしまうかわからないような危うさも感じられる。
 なにがあったのかは知らないが、カカシの父上はこんな子供をおいて自殺してしまうなど罪深いことだとイル村さんはしみじみとなる。
 カカシぼっちゃまがとんがっているのも仕方ないことかと思いもするのだ。
「ところでイル村さん。テストの件だけど」
 いきなりな話題にイル村さんはきゅわわっと飛び上がる。これが本題なのだが、イル村さんはあっという間にきれにさっぱり忘れていた。小心者だから心臓がどっくどくと激しく脈打ちだす。くわっと目を見開いたイル村さんがカカシを凝視すれば、カカシはにんまりと人が悪い感じで笑った。
「ご飯食べたら始めるから」
「はいぃぃぃぃ!」
 返事をするやいなやイル村さんはエプロンをはずして緊張のあまりなぜかカカシに向かってビチっと前ビレで敬礼した。
「ではぼっちゃま。食べ終わりましたらそのままで結構です。でも流しにだしてくださったらちょっと嬉しいです。わたくしイル村、準備がありますので先に失礼させていただきます」
「え、ちょっと、イル村さん、準備って」
「30分くらいたちましたら開始の合図の花火を鳴らしますので、そしたらプールにいらしてください!」
「は? 花火って?」
「はいっ! こういうイベントごとは盛り上がりが大事なので、用意いたしました。もちろん、自腹をきって!」
 きゅわっと目をつり上げる。
 イル村さんはお祭り男なのだ。ナルト坊ちゃんを連れてよくお祭りに繰り出した。坊ちゃんの制止も聞かずに射的に夢中になって散財したことも今となってはいい思い出だ。
 うるりとなりそうになる目元を乱暴に拭って、イル村さんはキッチンから走り去る。
 もしかしたら二日目で解雇という不名誉なことになるのかもしれないが、精一杯やるだけだ。朝までばっちり特訓した。
「ナルト坊ちゃーん! 見ててくださいねー!」
 一声叫んでイル村さんはプールに向かった。




7.



 晴れ渡った青空に、ぽんぽんと景気よく花火が上がる。
 呆然と空を見上げたままパックンに案内されてプールサイドにやって来たカカシは、その場を目にした途端、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
 はたけ邸の広大な敷地内にある50メートルプールは飛び込み用のものだ。ハイカラだったじいさまの趣味で作られた。カカシも物心つくかつかない頃に父と一緒にじいさまに特訓を受けたおかげで水泳は得意だが、父が病み始めてからここ何年も泳ぐことなどなかった。大勢の使用人がいた頃は定期的に掃除されていたプールもいつしか放っておかれ、たまに目にするプールサイドは雑草が茂り、プールの水はどろどろに緑色に濁っていたものだ。
 それが、すっかり元通り。いや、それ以上にぴかぴかに磨かれている。
 プールサイドに雑草はひとつもなく、湛えられた水は透明だ。そして余計というかなんというか、プールを囲むフェンスには万国旗が飾られ、楽しげな音楽がかけられ、まるで学校の騒がしい競技会のような騒々しさだ。
 カカシのために用意されたらしいパラソルがたてられた場所の反対側には本部と書かれたテントが設置されている。そこでイル村さんが忙しそうに立ち働いていた。
「テステス。マイクのテスト中〜」
 傍らにいるカカシの飼い犬たちに何事か指示を与えているイル村さんを伺いつつ、カカシは首を自然とかしげていた。
「ねえパックン。いったいあの海豚さんは何をやっているわけ」
 カカシがもっともな疑問を口にすればパックンはカカシを一度見上げて、ひきつりつつも笑った。
「いや、あやつお祭り海豚と自分で言っていたのじゃが、やるからには徹底的に盛り上げて全力でやりたいと言いだしおってな。昨日というか今日だったが夜中にあっという間に掃除をしてしまってすぐに水をためて練習じゃ。ちょっとずれておるが働き者であることに間違いはない」
「ちょっとお? すごくの間違いじゃないの〜?」
 不審げなカカシからパックンは目を逸らす。ノーコメントだ。そこにマイクの大音量の声がふってきた。
「ああー! ぼっちゃまー! よくいらっしゃいましたー! お飲み物はなにがいいですかあ!? イル村特製の冷製レモンパイも用意してありますよー」
 それでなくても地声が大きいイル村さんのマイクを通しての声はわれて響いてひどかった。
 イル村さん以外のすべての生き物が耳を塞ぐ。イル村さんはマイクを置くとダッシュでカカシの元にやってきた。極上の笑顔でぺこりと頭を下げる。
「カカシぼっちゃま、お飲み物、なにがいいですか?」
「なんでもいいよ。パイはいらない。さっきごはん食べたばかりじゃない」
 カカシは嫌そうな顔をして不機嫌だと意思表示したつもりだが、イル村さんには通じない。笑顔のままグラスの縁にフルーツを飾ったトロピカルなアイスティーとレモンパイもワンカット用意した。
「今は満腹かもしれませんが、途中で小腹がすくかもしれません。その時にでも召し上がってください。お飲み物は後ろのちっこい冷蔵庫に何種類か用意してありますのでいくらでもお代わりしてくださいね」
「イル村さん……」
「はい!」
 イル村さんは元気よく返事をしたが、カカシはイル村さんをまじまじと見た。
「あのさ、途中で小腹がすいてくるほどの時間、何をするつもりなの?」
「何って、ぼっちゃまが言われたテストじゃないですかあ」
「いや、あのね、イル村さん。そもそも」
「本当は、半日くらいやらないと俺の技のレパートリーはこなせないし、すごさもわからないと思うんですよぅ。でもさすがにそんなに時間はかけられないので、さくっと2時間程度でまとめてみせますので」
 えへへと笑ったイル村さんは自分の言いたいことだけ言うと、失礼します! と勢いよく頭を下げてまた駆けていってしまった。
 向かい側のテントではイル村さんが再びせかせかと動き回っている。
 実況と書かれた席には飼い犬2頭がちゃっかりと座っている。ついさっきまで隣にいたはずのパックンまでが、審査員長の席にいる。カカシは己の丸テーブルの前のほうをのぞき込んでみたが、そこには『VIPはたけカカシぼっちゃま』と墨で書かれた紙が貼られていた。
 カカシを置いて、なぜか皆が一丸となってテストに向けて動いている。すっかりイル村さんのペースに巻き込まれているではないか。
 カカシは脱力してチェアに腰を落とす。アイスティーをすすれば喉に心地いいミントティーだった。ついでにレモンパイもかじれば、甘さ控えめのさわやかな酸味で好みの味だった。
 バックミュージックの音量が徐々に控えめになる。イル村さんが飛び込み台にびちびちと登っている。やっと始まりそうだ。
 9月に入ったがまだまだ季節は夏だ。空気は湿って陽射しはまぶしい。
 台の上に立ったイル村さんを手のひらをかざして見上げたカカシはぽつりとこぼしていた。
「そもそもさあ、俺、テストのお題、言ってないよねぇ」
 なのになぜかテストはイル村さんの海豚ショーになっているのであった。




8.



「うわあ」
 とイル村さんは感嘆の声を上げる。
 10メートルは思っている以上に高いものだ。
 飛び込み台のてっぺんに立てば、遠くまで景色を見渡せた。
 はたけ邸は市街地から少しはずれた緑多い敷地を有した場所にあり、街を見下ろすようなかたちになる。ここからは海をふところに囲うように広がるこの街を一望することができた。
 ナルト坊ちゃんの家は海からとても近く、よく泳ぎに行ったものだ。
 海は陽の光を反射してきらきらとまぶしい。イル村さんの故郷につながる海をぼうっと見ていたい誘惑にかられるが、今はそれどこれではないとイル村さんは己の頬をぱんぱんと叩いて気合いをいれなおす。
 飛び込み台の端に進んでプールサイドを見下ろしてみる。
 パックンたちは真剣な眼差しでイル村さんを見上げている。カカシぼっちゃまに目を移せば、カカシはちょうど大あくびをしたところだった。そしてそのままテーブルにずるずると体をのばしてしまう。イル村さんのことなど見ちゃいない…。
 やる気のないカカシにイル村さんの目はくわっと見開く。
 なめんなよ! 海豚の本気をみせてやる! と鼻息も荒くなるというものだ。
 飛び込み台の上でぼいんぼいんと何回か跳ねて調子を整えたイル村さんは右の前ビレを上げて宣誓した。
「一番海豚のイル村! いきま〜す!!!」
 その瞬間、きゅわっとまなこを見開いたイル村さんは飛び込み台の先端で逆立ちの姿勢をとった。いや、とろうとしたがイル村さんの体型ではそもそも無理があった。あわあわしながらイル村さんは頭をコンクリートにがつんとぶつけて、逆立ちもできずに背中から水面へむかってダイブした。


『イル村選手、派手な水しぶきとともに飛び込みましたあ』
 放送席はなにくわぬ顔で実況を始めた。
「ていうより落下だよね」
 迷惑なことに水しぶきはカカシにも降りかかる。派手に背中を打ち付けたイル村さんはぷかあと浮き上がるが、派手でポップな音楽に励まされたのか次の瞬間にはしゃきんと復活した。
『さあイル村さん高くジャーンプ! きれいなトリプルアクセル! 真央ちゃんもびっくりだ!』
 くるくると回転しながら宙に躍り出る。そして頭からきれいに水に戻る。用意されていた輪っかをぽーんとくぐり抜ける。放送席のほうから投げられたフラフープを口の先で器用にくるくると回す。次にはボールを口先で弾いて、ジャンプすると尾びれで蹴ってみせる。それをパックンがキャッチしてイル村さんに投げて、とキャッチボールを披露する。どれくらい練習したのか、息がぴったりだ。
『いやあ〜即席のコンビとは思えないですねえ』
『犬と海豚、種族は違えど分かり合えるんですねえ。感動的だなあ』
 カカシは犬たちの饒舌に呆れかえる思いがした。
 パックンは勢いづいたのか、プールサイドからイル村さんに向けてジャンプする。イル村さんはパックンの小さな体を口先に載せてプールの端から端までぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅーっと猛スピードで泳いでみせた。
 わうわうわうと放送席からはどよめきの声と拍手。
 だがカカシは簡易冷蔵庫から飲み物のお代わりを出してずずずとすする。犬たちには新鮮かもしれないが、まあよくある海豚ショーだ。特に感動的なことはない。
 イル村さんは体半分ほど水中から浮き上がらせてカカシのほうを向くと、カカシにアピールするようにきゅきゅきゅきゅーと鳴きながら音楽に合わせて前ビレをリズミカルに動かす。頭をヘッドバンキングのように振って、のりのりだ。
 ぼおっと見ていたカカシがこれみよがしなため息を落とすと、イル村さんはボールを今度はカカシに投げてきた。咄嗟にキャッチしたカカシだが、返す義理はない。
 そのままテーブルに転がすと、イル村さんはわかりやすくまなじりをつり上げた。
 そしてなにやら叫びながらカカシのほうに寄ってきた。
「きゅわっ! きゅわわあわああぁぁぁ! キュキュキューキュキューゥ!!!」
 興奮したイル村さんはすっかり海豚言葉になっている。前ビレをびちびち言わせて叫んでいるがカカシには意味がわからない。
 呆れて鼻先で嗤ってやれば、イル村さんは前ビレをびたんびたんと水面に打ち付ける。
 逆ギレ気味に興奮しているイル村さんがおかしくて、カカシはにんまり嗤った。
「イル村さ〜ん。これだけ? もうテスト終わりでいいかなー?」
 イル村さんは飛び上がった。ぶんぶんと頭をふると、放送席に向かう。なにやら指示を出している。何が始まるのかとカカシが見つめる先で、パックンとイル村さんがもめている。仲間われかと思って見ていたが、とうとうパックンが頷くのが見えた。イル村さんはプールの真ん中に戻ってくると、輪っかが再び登場した。
 だが先ほどとは違う。パックンの指示で他の犬たちがプールサイドから長い棒を持ち出してきた。棒の先端には炎。その炎が、輪っかに点火されると、輪は燃え上がった。
「マジで〜?」
 カカシは椅子の上でのけぞり返る。あおってしまったのはカカシだが、負けず嫌いということか。
 そしてただの火の輪くぐりではないようだ。
 なんと輪っかは縮まって、開いてを繰り返す。その中をタイミングをはかってイル村さんが通り抜ける。そういった趣向のようだ。
 イル村さんはいつの間にか『必勝』と書かれたはちまきを巻いて、血走った目で輪っかを睨み付けていた。
 熱い冷や汗を垂らしながら、カカシは引きつった笑いを浮かべた。
「今夜のおかずは海豚の丸焼きかもねぇ」
 でもおいしくなさそうだし、誰がさばけばいいのだろうと暢気に思ったりもした。

 音楽は止み、イル村さんはタイミングを見計らっている。




9.



 はあはあはあとイル村さんの息は上がる。
 目の前には炎をまといつかせた開閉する輪っか。勢いよく燃えさかる火は水の中にいるイル村さんにまで熱気を伝えてくる。
 これはぶっつけ本番の大技だ。かつてイル村さんの師匠が挑戦して、焼き印のようなやけどをおったことを覚えている。師匠は勝利の証だと笑っていたが。
 要は失敗したのだ。
 イル村さんは両のまなこをかっと見開いて輪っかを凝視していた。
 失敗は許されない(オリンピックは4年後までない。真央ちゃん頑張れ!)
 はっきり言って、カカシぼっちゃまにむかついた。逆ギレだと自覚はあるがむかつくものは仕方ない。
 イル村さん的に華麗な完璧な芸を見せたというのにあのすました顔!
 これがもしナルトぼっちゃんだったらと思うときゅううんと胸が引き絞られるような痛みを訴える。イル村さんの水芸にいつだって拍手喝采。そのうちに俺にも教えてくれときらきらした目をしてイル村さんを喜ばせた。
 大好きだったナルトぼっちゃんは今は遠く異国の空の下……。
「イル村さ〜ん」
 ぐずずと鼻をすすったイル村さんは後方から届いた声に顔を振り向ける。
 カカシがにこやかに手を振っているではないか。
 もしやいきなり心を入れ替えて応援の言葉でもあるかとイル村さんはきゅわっとひとこえ鳴いた。
 が。
「イル村さんに何かあったら家政夫協会の人は迎えに来てくれるのかなあ? 俺イル村さん運べないよ〜」
「何もありませんからっ!!!」
 イル村さんはカカシの声を遮って叫んだ。ついでに尾びれをびちびちいわせてカカシのほうに盛大に水をかけてやった。カカシは濡れたことなど一向に気にしたふうもなく肩を竦めている。
 おのれ、とイル村さんの背びれは逆立った。
「輪っか! 開閉のスピードあげて!」
 きゅわっと命令した。パックンを含め犬たちは顔を見合わせて首を振るが、イル村さんが睨みをきかせるとしぶしぶとスイッチを押した。
 途端、輪っかの開閉速度が増した。さっきまではタイミングをはかることも用意なリズムをもった開閉だったが、いきなりランダムは開閉となる。もどかしいくらいに開いて閉じてを繰り返したのに次には目にも留まらぬ速度の動きになる。びよーんと大きく広がったかと思うとばちーんと閉じる。
 あれ? とイル村さんは目が点になった。
 練習では一度もやってないが、しかけは確認した。その時はスピードを上げても純粋に動きが早まるだけだった。ランダム操作なんて盛り込まれてなかった。
 もしかしなくても……故障かもしれない。
 そう考えた途端、たらららんとイル村さんの顔面に冷や汗がしたたる。
 パックンたちを伺えば固唾をのんでイル村さんを見守っている。しかけの故障に気づいていない。ちらりとカカシを振り返れば、ひらひらと手を振ってくる。
「イル村さーん。実はびびってるでしょう」
「っ、び、びびってません!」
 なんて! なんて嫌みなんだっ。イル村さんは今度は前ビレであからさまにカカシに水をかけたがカカシはビーチパラソルを使って器用によけた。
「早く見せてよ〜。とっておきのやつ」
 カカシはにまにまと笑ったままイル村さんをあおる。
 そうまで言われて勝負に挑めなければイル村さんは男じゃない。
 一か八か、イル村さんははちまきをきゅっと締め直して火の輪に向かい合う。
 ごくりと喉が鳴る。
 どくんどくんとおのれの心臓の音がうるさいくらいだ。
 ナルトぼっちゃんが学校でやっていた長縄の要領だ。タイミングを見計らって、開いた時に飛び込む。いちにいさんと数えてタイミングをはかればいい。
 でも。
 開閉がランダムなのだ。タイミングなんてはかりようがない。
 イル村さんはきゅわわわと笑った。
 こうなったらもう、目をつむっていこう!
 と決めた途端にぎゅっと目をつむる。そしてそのまま考える間をおかずに輪っかに突っ込んだ。




10.



 ランダムな開閉を目にしたカカシはさすがに目を見張った。
 イル村さんの後ろ姿からも動揺が伺える。明らかに故障ではないか。しかし犬たちは気づかずにはらはらとイル村さんを見守っている。
 様子をうかがうように振り返ったイル村さんについつい暢気に手を振ってあおってしまったが、しかし内心どうしたものかとカカシは濡れた髪をかきあげた。
 はちまきを締め直したイル村さんはやる気だ。一発決めてやると覚悟が燃え立っている。
 その姿に呆れるやら感心するやら口元はゆるんでしまう。そう。イル村さんがムキになるからついついからかってしまうのだ。
 そういえば、とカカシは思い至る。こんなふうに自然に笑ったのは久しぶりだ。自分では気丈なほうだと思うがさすがに父に死なれてからこっち滅入ることが多くて心が楽しむことを忘れていた。
 なのにイル村さんときたら、ナチュラルに笑わせてくれる。
 変な海豚の家政夫だ。雇い主を雇い主と思っているのかいないのか、かなり傍若無人で、でも、面白くて、憎めない。まあ料理はうまいし、掃除も行き届くし、なんといってもカカシを飽きさせないキャラクター。
 と、そこまで考えて、やはりこのまま死なせるのは惜しいような気がしてきたのが正直な気持ちだ。
 やれやれと思いながらもカカシは立ちあがる。雇い主権限でやめさせようとした、その途端。
 高らかに響いた笑い声。
 そして止める間もなくイル村さんは火の輪に飛び込んだ。


 その瞬間あたまの中は真っ白だった。
 そして次の瞬間には、見事輪っかをくぐり抜けていた。
 ざぶーんと水の中に見事着水。振り返れば輪っかは変わらずランダムな開閉を繰り返している。その向こうに、立ちあがっているカカシが目に映った。
 口をぽかんと開けて、イル村さんの快挙に目を奪われているではないか!
 奇跡。奇跡到来!
 イル村さんは天に向かってガッツポーズをきめた。
 きゅわっきゅわわ〜と鼻歌がでる。調子にのってその場でジャンプを高々と決める。
 俺って天才かもしれない、と鼻先が伸びていくような錯覚を味わう。
 パックンたちも喝采を送って、イル村さんもそれに応えて前ビレを打ち鳴らす。
 本番に強い男イル村。自画自賛しているうちにこれはいけるとテンションが上がる。
 イル村さんはもう一度輪っかに向かった。なにも考えない方がいいととにかく飛び込めば、見事二回目も華麗にくぐり抜けたではないか。
「ぎゅわわわわわわー!!!」
 ばいんばいんと前ビレが音をたてる。ものすごく気分がよくてイル村さんの脳裏にはきれいな満開の花が咲き乱れる。
 海豚雑伎団にスカウトされそうな勢いの自分に酔いしれて、いざ三回目、と輪っかに飛び込んで。
 挟まれた。

「ぎゃわっ!!!」
 くぐり抜ける直前、尾びれのあたりを挟まれた。
「熱いーーーーーー!!!」
 じゅうと音がした。そして肉が焦げる匂い。ぎゃあぎゃあと叫んで暴れるイル村さんだった。
「た、たあすけて〜〜〜〜〜……!」
 情けない声をあげた途端に輪っかが開く。イル村さんはどぼんと水に落ちて、ぷかあと仰向けに浮かんだ。
「イル村さん!」
 パックンをはじめ犬たちがプールサイドに群がる。熱くて痛くて尾びれがひりひりする。犬たちの後ろに、カカシが佇んでいた。
「ぼっちゃま……」
 かすれた声で呼びかければ、カカシが前にでてきて膝をついた。
「……ぼっちゃま、不肖イル村の勇姿、見ていただけたでしょうか」
 カカシは何も言わずにじっと見つめてくる。
 げふんげふんと咳き込んだイル村さんはカカシを見返した。
「家政夫としてこの命まっとうするつもりでしたが、どうやらこれで終わりのようです。わたしの遺体は海に流してください。短いお付き合いでしたがイル村の最後の願い、聞き届けてくださいぃぃぃ」
 感極まってイル村さんの目からは大粒の涙がこぼれた。
「イル村さん」
 カカシの静かな声は最後に優しい言葉でもかけてくれるのかとイル村さんは歯を食いしばってカカシの言葉を待った。
「俺……」
「はいっ」
「俺、テストの課題だしてないよね」
「は?」
 カカシはぼりぼりとあたまをかいて首をかしげた。
「なんか知らないうちに海豚ショーがテスト課題になってたけど、家政夫の仕事って、水芸? 違うよね、料理したり掃除したりだよねえ」
 カカシはべらべらと喋りだした。イル村さんも瀕死の重傷から急に立ち直って体を起こす。
「それは、そう、ですねえ。水芸ではありませんねえ」
「でしょ。なのにどうしてイル村さんのテストが海豚ショーになったのかなあって不思議なんだよねえ」
 カカシが考え込むからイル村さんも考え込む。犬たちも考え込む。
「そうですねえ。あれ〜。どうして海豚ショーになったんでしたかねえ。うううんん」
 首をかしげてもひねっても答えはでない。答えがでないことで答えがでた。きゅわわあとひとこえ鳴いたイル村さんは前ビレをばいんと打ち鳴らした。
「わかりました! どうしてもこうしてもありませんよ! だって、ノリですから!」
「そっかあ。ノリかあ」
 カカシがにこやかに笑うからイル村さんも笑い返したが、次の瞬間にはとてもとても冷たい目でカカシに見つめられていた。
 びびったイル村さんの背筋は伸びる。
「水芸でイル村さんの家政夫としての力をテストできる?」
「きゅわ!?」
「できないよねえ」
「きゅわわわわ……」
 縮こまるイル村さんにカカシは不敵に笑いかけた。
「イル村さん。そもそもこの海豚ショーに意味はないってわかってる?」
 決定的なことを言われて、イル村さんはまたもや脳天にハンマーアタックをくらったような衝撃を受けた。
 なんたる失態!
 青ざめたイル村さんの視界はくらくらと揺れる。
 家政夫歴10年はある自分は慢心していた。家政夫のなんたるかを忘れてしまっていた。
「俺、俺……」
 顔を歪ませたイル村さんは、きゅわーと一声叫んで泣いた。
「ナルト坊ちゃんに会わせる顔がありませんんんん! さよーならー!」
 ショックに打ちのめされたまま、イル村さんはどぼんと水に沈んだ。




11.



 水の中から見上げる空はきらきらと限りなく青く透明に輝いている。
 イル村さんの脳裏にはナルト坊ちゃんとの楽しい日々が浮かんでは消えを繰り返していた。
 意外と人見知りだった坊ちゃんは最初はなかなかうち解けてくれなかった。イル村さんが根気強く、母親のような気持ちで接しているうちに坊ちゃんは徐々に懐いてくれ、心を許してくれた後はイル村さんにべったりとなった。
 坊ちゃんとは海によく行ったっけ。
 坊ちゃんを背に乗せて悠々と泳ぐ海はとても気持ちが良かった。体を包む海水、降り注ぐ柔らかな陽射し、そしてきらきらと光るナルト坊ちゃんの金の髪、弾ける笑顔。
 坊ちゃんにもう一度会いたかったなあとしんみりしたイル村さんの視界に、きらきらと輝くものが映る。
 ナルト坊ちゃん? と思ってぱちぱちと瞬きを繰り返してみれば、近づいてくる人はカカシぼっちゃまだ。
 輝く銀色の髪と、色違いの瞳。整ったきれいな顔だなあとこんな時だが感嘆する。カカシは真剣な表情でイル村さんに近づいてくる。差しのばされてきた手にがっちりと抱きとめられたところで、イル村さんは目を閉じた。
 必死な顔をして、助けにきてくれたのかなあと思いながらイル村さんの意識は遠くなった。


 ぷひゅるるるるーぷひゅるるるるーと奇妙な音がする。
 なんだかまぬけな音だと思ってイル村さんの口元は緩む。途端に鼻先をぎゅっとつままれた。ぱちりと目をあければ、青空が映る。にょき、とカカシぼっちゃまの顔が視界に入る。イル村さんの鼻を握っているのはぼっちゃまだった。状況がわからないながらも、カカシに乗られていることはわかった。
「……目ぇ、覚ました」
 手を離したカカシが抑揚のない声で告げてくる。イル村さんは、俺、と言おうとしたが腹のあたりをぐうと押されて、口からはぷひゅるるるーと水が噴き出した。
 まぬけな音はイル村さんの口から水が立ち上る音だったようだ。じわじわと記憶が戻ってくれば、水の中にどぼんして、カカシが助けにきてくれたことまでを思い出した。
「まったくねえ、溺れた海豚なんて初めて見たよ」
 ぶつぶつ言いながらもカカシはリズミカルにイル村さんの腹を押してくれる。
「沈んだ時はどうなることかと思ってさすがに慌てたけどさあ、考えてみたらこのプールの水深って海豚が溺れるレベルじゃないんだよねえ。あー慌てて損した。あとイル村さん重い。ダイエットしたほうがいいと思うよ」
 淡々とむかつくことを告げてくれるが、助けられた身の上としは文句を言えるわけもなく、イル村さんは大人しく拝聴した。視線をぐるりと回せば、パックンたちが心配そうな顔で囲んでいる。みなが肩を落としてしょぼくれているのは気のせいか。
「すまぬな、イル村さん。わしとしたことが故障に気づかなんだ」
「そうだよ、パックンがイル村さん止めていればこんなことにはならなかったんだよ」
 カカシの声にパックンは更にしょげる。きっとイル村さんが気絶している間にカカシにこってり叱られたのだろう。
「面倒かけないでよね〜」
 カカシの嫌みな口調に、イル村さんはむくりと起きあがった。
「ぅわあ」
 カカシがイル村さんの腹から弾かれてコンクリートに尻餅をついた。
 残りの水をぴゅるりらーと横っちょに吐き出してから、イル村さんはカカシに向き合った。カカシはむうと口を尖らせて見返してくる。
「なに? 文句でもあるの? 俺、イル村さんのこと助けたんだけど」
 イル村さんは土下座した。
「ありがとうございました! 助けて頂いたことは恩にきます。でもっ」
 そこできっと顔を上げて、カカシを見据える。
「パックンたちはわたしに協力してくれただけです。責任はすべてわたしにあります。ねちねちとパックンたちを責めないでくださいっ」
「ねちねち……」
 イル村さんのいいざまにカカシは幾分ひきつったような顔になったが、臆することなくイル村さんの鼻息は荒い。
「俺、家政夫にあるまじき大失態を犯しました。今更雇ってもらおうなんて図々しいことは考えてません。でもですね、ぼっちゃまより年数多く生きている大人として言わせてください」
 イル村さんはふうふうと息を整えた。
「ぼっちゃまはもっときちんと生きる努力をしないといけません。落ち込むなとかめそめそするなとか弱音吐くなとかはいいません。そりゃあ時には真っ黒な気持ち抱えちゃうこともありますよ。海豚だっててやんでぇってふて腐れることがあるんですから人間だって同じでしょうよ。でも、底まで行ったら浮上するしかないでしょう。俺だってさっき溺れましたけどちゃんと下まで言ったら浮き上がったんですよ」
「底なし沼だったらどーするの? 底があったとしても辿り着く前に死んでたら?」
「きゅわわわー!」
 カカシのへりくつにイル村さんは飛び上がって身悶えた。
「“底なし沼”とか“底がない”なんて言葉は俺の辞書にはありませんっ」
「うっわ〜へりくつ」
 イル村さんはブチ切れて思わずカカシを前ビレでぶったたきそうになるが犬たちに制止された。
「ど、どっちが! どっちがへりくつじゃいっ」
「イル村さん! 落ち着け! 落ち着くのじゃ!」
「きゅわ! きゅわ! きゅいきゅいきゅきゅきゅきゅきゅー……!!!」
 血管がブチ切れそうなイル村さんをまじまじと見たカカシは、堪えきれなくなったのかいきなり吹きだした。
 カカシぼっちゃまが、声をたてておかしそうに笑うではないか。
「俺、海豚語わかんないって」
 イル村さんと犬たちはぽかんとなってその姿に目を奪われる。
 イル村さんにとっては初めて見るカカシの屈託のない笑顔は新鮮で、そしてとても好ましいものに映った。年に見合った少年らしい真っ直ぐな笑顔はとてもとてもカカシぼっちゃまに似合っている。
 なんだ、とイル村さんの力は抜ける。
 カカシぼっちゃまはちゃんと真っ直ぐな心根を持っている。
 どんな悲しみも辛さもしなやかに乗り越えていける強さを持っている。
 それがわかるとイル村さんは激高した自分が恥ずかしくなった。しおしおとしぼむ。これ以上の恥をさらさないうちに退場しようかともじもじしたところで、笑いを収めたカカシが目元を拭いながら思いがけないことを言い出した。
「イル村さんさあ、溺れる前に“ナルト坊ちゃん”って言ってたよねえ」
「え? は? ああ、はい。言いましたねえ確かに」
「それって“うずまきナルト”のことでいいのかな?」
「ご存じなんですか!?」
 イル村さんはカカシに詰め寄っていた。カカシはこくりと頷いた。
「うん。ナルトのお父さんのミナトさんが、俺の父さんの後輩でね、俺、小さい頃にナルトと遊んだことあるよ」
「ええええー!」
 イル村さんはびょんと飛び上がった。なんという偶然。It’s a small world!
「じゃあ、じゃあじゃあじゃあ、ナルト坊ちゃんの家にいらしたこともあるんですか!?」
「昔ね。でも俺の父さんもミナトさんも忙しい人で、互いに行き来する時間もあまりとれなかったみたいだから、ここ数年は会っていないなあ。会わないうちにこんなことになっちゃったし」
 カカシは困ったような大人びた笑みをみせる。だが次には気を取り直すように笑いかけてきた。
「もしかしてイル村さんのたいせつな方ってナルトのこと? ナルトの家で働いていたってことだよね。あいつ元気? ミナトさんも懐かしいなあ。あーなんかすっごく会いたくなった」
 カカシは、知らないようだ。
 ナルト坊ちゃんの家に起こった悲劇を。
 口にすることにためらいがある。だが、いつか知ることならと、イル村さんは意を決した。
「あの、わたしがナルト坊ちゃんの家をやめることになった理由なんですけど」
「なあに? 突っ走りすぎちゃったんじゃないの?」
 楽しそうなカカシに水をさしたくはなかったが、イル村さんは静かに告げた。
「隣のおたくが火事になりました。旦那さまは取り残された子供を助けに入って、亡くなられました。ナルトぼっちゃんは、おじいさまと海外に行かれてしまったんです」
「え……」
 カカシの笑顔はそのまま強ばった。そして徐々に表情が消えて、俯いてしまった。
「そう……。知らなかった。俺んちもごたごたしてた時かな。ニュースになっただろうに、なんにも、知らなかった」
 知らなかった自分を責めているようなカカシにイル村さんはきゅんとなる。思わずカカシぼっちゃまを丸い胸に抱きしめていた。
「泣かれるのなら、わたしの胸をお貸しします!」
「泣かないよ」
 するりとかわされた。
 カカシはイル村さんを押しのけるとため息ひとつで立ちあがった。
 その顔は硬質なものに戻っていた。
「イル村さんを雇うかどうかの件だけど」
 一旦言葉をきると、カカシはじいっと見つめてきた。イル村さんはカカシがなにを言い出すのかわからずにぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「はっきり言って家政夫として微妙なところもあるけど、ナルトに免じて雇ってあげる。しっかり働いてね」
「え”!?」
 イル村さんの声は裏返った。
 伸び上がって前ビレでカカシの胸元をつかんでいた。
「ほほほ、本当ですか? 合格ですか?」
「合格っていうか」
「俺の命はった水芸ばっちりでしたか?」
「いや、だからそれは」
 目を血走らせてせまれば、カカシは顔を背けて仕方なさそうに頷いた。
「はぁ、まぁ、水芸はそれなりによかったんじゃないの?」
「っしゃああああああ!」
 イル村さんは握った前ビレを突き上げた。
「ビクトリーーーーー!」
「よかったなあイル村さん!」
 びょんびょん跳ねるイル村さんを犬たちが祝福してくれる。
 イル村さんはざんぶとプールに飛び込んで景気いいジャンプを何回も決めた。
「やりましたーナルト坊ちゃん! カカシぼっちゃまーよろしくお願いしますぅ!」
 はしゃぎまくるイル村さんに肩を竦めたカカシだが、その表情は穏やかなものだった。

 晴れ渡った空の下、イル村さんの喜びの舞は夕方になるまで続いた。




一部完!









第二部予告!
カカシぼっちゃまに家政夫として雇って貰えたイル村さん。
心を閉ざしたままのぼっちゃまとの日々。そんな中、ぼっちゃまの家をねらう親戚、叔父の大蛇丸の魔の手が伸びてくる。
イル村さんはカカシぼっちゃまを守ることができるのか!?
乞うご期待!!!(なんちゃって☆)