17.




 海中に沈む前に目をつむった。
 息を吸い込んで口も閉じた。
 やはりどう考えてもこの脱出方法しかないよなあと内心で暢気に思えた自分が意外だ。
 十二月の海の中だが不思議と寒さを感じない。きっとそれは、カカシのことを絶対に離すものかという力で抱きしめてくれているイル村さんのおかげなのだろう。
 イル村さんのことはとっくに信じているから心配はない。
 飛び込む瞬間、銃声のような乾いた音がいくつか聞こえた気がするが、イル村さんは大丈夫だろうか。
 イル村さんだけであれば、銃が届かない場所へと深く深く潜って、どこにでも自由に泳いでいける。イル村さんは、海豚は、本来海で生きるものなのだから。
 だがカカシは違う。人間は海では生きて行けない。
 泳ぎには自信があるし、標準的な人間より長い時間潜っていられるとは思うが、おのずと限界がやってくる。しかも今はへろへろだ。
 そろそろ、やばいかもなあと思ったところで、水の圧迫がなくなる。海上へと顔をだしていた。激しく飢えた者のように急いで空気を取り入れる。
「ぼっちゃま辛抱してくださいね。イル村、死ぬ気で泳ぎますから!」
 カカシを胸に抱えて水に対して斜めという不自然な体勢ながらもイル村さんはざざざざざっと海を真っ二つに割りそうな勢いで、尾びれをフルスイング、結構なスピードで泳いでいる。自慢げに語っていた過去の武勇伝にどうやら嘘はないということか。
 正直見直した。
 たのもしいなあと思って見れば、かつてないほどに真剣なイル村さんの頭部から、血が滴っていた。
「イル村さん、怪我、してるよ。撃たれたの?」
「怪我してませんっ撃たれてませんっ」
「でも、血が……」
「してないっていったらしてないっ」
 きゅわっと威嚇された。目が血走っている。
「今アドレナリンでまくっているんで問題ないですから!」
 きゅわーと鼻息も荒く、イル村さんは泳ぎ続ける。
 確かに泳ぎにスピード感はあるのだが、だらだらと落ちる血の量が増すのに比例して、明らかにスピードが落ちてくる。
 突然止まった。
「イル村さん!」
「……やばい、貧血です」
「だろうねえ」
 イル村さんはぶくりと沈む。やばい、とカカシは思ったが、ぷかあと腹を向けて浮かび上がった。器用にカカシを乗せてぷかりぷかりと浮いている。
 どうやら弾がかすっただけなのだろう。とりあえずたいしたことはなさそうでよかった。
「はあ、夕ご飯食べてないからなあ。食べてたら平気だったのに」
 イル村さんはあくまでも暢気なままで、カカシもつられて緊迫感なんてものをまとう間もない。
「俺も、そう言えばおなかすいたよ。イル村さんのせいで昼飯食いっぱぐれたから。あー意識したらおなかすいてきた」
 考えてみたらかなりの時間何も食べていない。
「そうでしたあ〜。申し訳なかったですぅ。つい、アスマ先生と話し込んでわいろのチーズケーキを一緒に食べてました」
「はあ? なにそれ。信じらんない。アスマの奴も校長にちくってやる」
「許してあげてくださいよー。アスマ先生いい人じゃないですか」
「……いい奴だよ。わかってる」
 ふっと会話が途切れる。静かな波の音、月明かりに照らされる穏やかな夜の海。まだピンチは続いているというのに不思議と心は凪いでいる。
「結構泳ぎましたよね。船見えますかあ? 追いかけてくるようなボートの音は聞こえないですけど」
「う〜ん、暗いからよくわからないけど、ぼんやり小さく見える程度かなあ。あ、なんか爆発したかも」
「ふふふ、このイル村の作戦通り!」
「作戦てなにが?」
「爆発作戦ですよ!」
「作戦なんてあったの?」
「あったんですう。ぼっちゃま救出大作戦!」
「なんのひねりもないところに逆に好感を持つよ」
 丸いイル村さんの腹に乗っかってぷかりぷかり。思わず欠伸がでる。心地よくてこのまま眠ってしまいそうなくらいだ。この場に大蛇丸とカブトが現れたらあっという間に捕まってしまうに違いない。
「ねえぼっちゃまー」
「ん〜?」
「以前、お父上のこと悪く言って、本当にすみませんでした」
「なにいきなり」
「きっと変態おじさんが関わっていたんですよね。ぼっちゃま残して自殺したのはいけないという気持ちは変わらないですけど、でも、お父上にもお父上なりの理由はあっただろうし、きっと、辛かったんだろうなあって思います」
 きゅううと心から反省しているイル村さんにカカシも素直な気持ちを語っていた。
「いや、俺こそ、悪かったよ。イル村さんの言う通り父上のこと心のどっかで恨んでいたんだよ。その気持ちを見透かされたような気がして、むかついたんだと、思う」
「それは恨んで当然ですよー。だってぼっちゃまはまだまだ子供なんですから、もっと我がままでもいいし、甘えたっていいんですよ。わたしめの丸いボディでよければいつでもお貸ししますから、どーんと飛び込んできてください」
 きゅっと胸びれで抱き寄せられて、照れくさいながらも安堵する。
 中学三年ともなれば結構な大人な気がしていたが、そうか、まだまだ甘えていいのか。
「さあて、ひと休みしたし、また泳ぎますよお」
 きゅわっと一声、イル村さんが元気な雄叫びを上げるのと、遠くの客船らしき影から大きな火花と爆発音が上がるのが同時だった。夜空に綺麗な火柱が上がる。
 呆然と目を奪われる二人の後方からは聞きなれた声がした。
「カカシー! イル村さんー! 無事かあー!?」
 激しいエンジン音にかき消されることのない野太い男の声、そして犬の鳴き声。
「パックン! アスマ!」
 小さな高速のボートの前方に乗っているのはアスマとパックン。かなりの後ろには更なる高速艇がいくつか見える。制服を着た人たちがいる。海上保安庁の職員かはたまた海上自衛隊の職員か。よくはわからないが、助かったということは理解できた。
「……よかった」
 呟いてイル村さんを見れば、血に濡れた顔でへにゃあと笑った。
 ぶさいくなことこの上ない笑顔だというのに、カカシの目にはとてもきれいものに映った。
「おいカカシ! 無事のようだな。今海保の連中が……、おまえ、なんだその恰好は」
 カカシに手を差し伸べようとしたアスマはしかし固まった。カカシの姿をじっくり見てから、吹き出した。
「なんだあその姿は! おまえ、そういう趣味があったのかよっ。てか、似合わねえ。キモイ。キモすぎる!」
「この状態で、そこに突っ込むかなあ」
「いやいや、これは突っ込まねばならんじゃろ」
 パックンもにまにまと口元をむずむずさせている。
「あのねえ……」
 ひとこと言ってやらねばと開いた口だが、がくんと体が沈む。
「イル村さん!」
 緊張の糸が切れたのか、イル村さんが気絶して、カカシの支えがなくなったのだった。





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