16. 大蛇丸が甲板に立っていた。 傾いた船、船尾のほうからは煙が上がっている。間欠泉のように湧き上がる轟音。限られた数の船員たちが上着も身に着けずに怒号とともに動き回っている。寒いはずの十二月の夜だが、騒動で寒さなど感じる余裕もなさそうだ。 間違いなく船は沈もうとしていた。 ピンチだ。大ピンチだ。なのに、カカシはふと頭上の月明かりに目をとめる。こんな時だが、丸い月がとても明るくて綺麗で、生きていてよかったと思ったりした。 「まさか家政夫ごときが、船を沈めるなんてねえ。これは誤算だったわ」 大蛇丸は冷静に口にしたが、なんとなく顔が引きつっていた。 「てやんでえ! こここ、こちとら、ただの家政夫じゃねえや!」 イル村さんはどもりつつも啖呵を切ったが、さすがにこれはピンチだと認識しただろう。 何故なら、大蛇丸の手には間違いようがなく銃が握られ、イル村さんとカカシに向けられていたから。 「本当にやってくれたわねえ。なんか、あなたの丸いフォルムを見ていると苛立ちが倍増するわ」 それはなんかわかる気がするとカカシも頷いた。 「カカシくんを渡しなさい。手荒な真似をしたくないの」 充分手荒な真似をして拉致したくせに、いけしゃあしゃあと言うなあと内心で大蛇丸に呆れたカカシだが、イル村さんの煮えくり返っているであろう腹は更に沸騰したようだ。 「ふざけるなっ。渡すわけないだろう。この、変態!」 「あら、じゃあここで死ぬ?」 「死にません!」 大蛇丸は舌なめずりする。長い舌がまるでそれだけが単独の生き物のようにぬめぬめと動いている。 ぞぞぞっと生理的な嫌悪感に襲われたのはカカシとイル村さん同時だった。 イル村さんはカカシを抱える胸びれに力をこめ、眦を釣り上げて立ち向かった。 「ぼっちゃまのことは、俺が、命に代えても守る!」 芝居がかった恥ずかしい台詞を堂々と言いきったイル村さんに感動するよりもカカシは小さく笑ってしまった。ふっと自然とこぼれ出る笑み。 その小さな笑みは心の中に温かな火をともすような気がした。 「勇ましいわねえ」 イル村さんを馬鹿にするように呟く大蛇丸は全く慌てていなかった。 船は沈みかけているが、カブトが傍らにいないということは、救命ボートでも用意させているのだろうか。他にも手段があるのかもしれない。すぐにでもカカシを奪取できると思っているのだろう。余裕の態で、なぶるようなまなざしでこちらを見ていた。 イル村さんの思いつく脱出方法としては、当然、海に飛び込むことだろう。海の中で海洋生物のイル村さんが後れを取ることはない。だが、それはもちろんイル村さんだけの場合だ。今はカカシがいる。体が動くならなんとかなるかもしれないが、思うようにならない今、海に飛びこんだ後どうやって逃げればいい? イル村さん、と声をかけようとして、口の中にはエプロンが入りっぱなしなことに今更ながら気付く。 うーうーと唸ってみれば、イル村さんがこちらを向いた。 エプロンとってと口をもぐもぐさせればイル村さんはとんちんかんなことを言った。 「ぼっちゃま、おなかでも減ったんですか?」 この、馬鹿海豚! 体の自由がきいていたら引っぱたいていたかもしれない。 どんなピンチでも腹は減るとでもイル村さんは言いたいのかもしれないが、時と場合によりけりだ。もがもがしつつ更にきつい目で睨めば、やっとイル村さんは悟ったようだ。 エプロンをとれと言いたいのだと。 たはーっと照れた顔になりつつすぽんとエプロンをとってくれた。 カカシは深く呼吸をしておもむろに大蛇丸に視線を向けた。 「あのさ、大蛇丸」 落ち着いた声がでたことに安堵する。 「あんたの言う通り、父上は弱かったんだよね。それは認めざるを得ないと思う」 「なによいきなり」 怪訝な顔になる大蛇丸にカカシは笑いかけた。 「弱いけど、優しい人だった。あんたは笑うかもしれないけど他人を傷つけるくらいなら自分が傷つく方がいいって、心の底から思っている人だったよ」 「そうね。サクモは馬鹿がつくくらいのお人よしだったわね」 大蛇丸の声は、平坦だった。馬鹿にしている感じはしない。ただ、事実を述べるだけの声だ。 「俺のこと残して死んだのは、心のどこかで許せないって思うんだけどさ、でも、それでも俺は父上が好きなんだ。だから、父上の思い出がたくさんつまったあの屋敷をあんたには渡せないよ。あんたに渡したらろくなことにならないと思うし」 カカシは微苦笑で静かに言いきった。 周りではそこいら中から爆音が響き、船は揺れて、傾くことをやめはしない。だが、カカシは落ち着いていた。 そんなカカシの頭に雨が降り注いできた。 目を向ければ、イル村さんがかなりのぶさいくな顔で泣いていた。 涙は滂沱、鼻水は洪水。 「ぼ、ぼったまああ〜。イル村、感動しましたあああー」 ひっくひいいっくとイル村さんは泣いている。どうしたら今の発言でそこまで泣けるのかとカカシとしては意味が分からない。 「イル村さん、泣いている場合じゃないと思うけど」 「泣いてる場合ですよおおおお」 イル村さんはおいおいとエプロンが絞れそうなほどに泣いている。暢気なやりとりをする二人を大蛇丸が鼻で嗤った。 「それで、どうしようっていうのカカシ君。あなたの決意表明なんてわたしにとって意味ないわよ。どうでもいいわ。あの土地と屋敷はわたしのもの。それはもう変わらないもの」 カカシという正当な相続人があの場所からいなくなれば、大蛇丸はどうとでもできるのだろう。すでに手続きは整っているのかもしれない。 だがそれは、あくまでもカカシがいないうえでのことだ。カカシが存在していれば、あの土地はカカシのものだ。強欲な親戚たちも手を出しあぐねてとりあえずは残していったのだから。 となれば、どんなことをしてでも生きて帰らなければならない。大蛇丸の悪事を露見させて、思い出の場所を取り戻さなければならない。 「イル村さん」 「あいいい、なんですかぼっちゃまあ」 「俺、絶対に逃げたいんだよね」 「わたしもですよおお」 「珍しく気が合うね」 「逃がすわけないでしょ」 大蛇丸が銃を構え直したところにカブトがやってきた。 「大蛇丸様、救命艇の準備は整いました。参りましょう」 「そうね。あの丸い家政夫からカカシ君を取り返してくれる?」 カブトはイル村さんに視線を据えると心の読めない表面上の笑顔を見せた。 「こんばんはイル村さん。ここまで泳いできたんですか。すごいなあ。さすが海豚だ」 一見人当たりの良いカブトだが、胡散臭さは大蛇丸以上かもしれない。イル村さんも野生の勘でわかるのか、胸びれに力をこめてじりじりと後ずさる。 「い、海豚ですからね。当然です! どこまでだって泳ぎますからね!」 「そうですか。でも、頑張ったけど、無駄な努力だったね」 カブトはにっこりと微笑んだ。 「無駄?」 「無駄ですよ」 カブトは一転して、酷薄に口の端をつり上げた。眼鏡の奥の目も怪しく光る。 「カカシ君はこちらで頂きますから。結構な額で売れたんですよ。美少年ってのはいいものですね」 「ふざっ……」 ふざけるな、とイル村さんは叫びたかったのだろうが、甲板を打ち抜いた乾いた銃声に声は奪われた。ぱかりと口が開いたままでぱちぱちと瞬きを繰り返す。 威嚇なのだろうが、大蛇丸はイル村さんの足元を撃ったのだ。 「さあカブト。急ぎなさい」 「はい。ただいま」 イル村さんは固まった、わけではなかった。カカシを抱きしめる胸びれにぎゅぎゅっと力がこもる。 「ぼっちゃま、イル村のこと、信じてくださいね! 信じないって言っても勝手しますけどね!」 きゅわあと雄叫びを上げたイル村さんに目を見張った悪人二人。タイミングよくぐらりと大きく傾いだ船体。 その瞬間、イル村さんはカカシを抱えたまま海へとダイブした。
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