センセーがキライ 前編







 里に戻ったイルカは火影から型どおりの叱責を受けただけで、特にとがめはなかった。
 その後罰則を兼ねた机上研修を受けたイルカだが、ぼうっとして心ここにあらずの状態だった。
 どこか具合が悪いのなら医者に行けと火影にしつこく言われたが、その必要がないことはイルカ自身が誰よりもわかっていた。
 気が乗らない。何をするにもやる気が起きない。かろうじて食欲はあるが、率先して何かをしようという意志が欠如してしまっていることがわかる。
 軽い鬱のようなものだと思うのだ。
 事情を知っている友人たちはそっとしておいてくれたが、火影の進めもあり、体調不良ということで少し休みをとることにした。その間イルカは日がな家の中で過ごしていた。何もする気が起きなくて、家の中は散らかり放題。やっと外出する気になったのは三日目。食べるものが完全になくなってしまったからだ。保存食も全て食べ尽くして、それでも水を飲むくらいでごろごろしていたが、体に力が入らないことに気づき、最低限持ち合わせている忍者としての自覚がこれでは駄目だと気持ちを持ち直させた。
 中忍としての研修から戻ってから、二週間ほど経っただろうか。月日の感覚までが曖昧だ。
 雨戸が閉まったままの窓際に寄って戸を開け放てば、差し込んだ光に目を細める。
 外は、鮮やかな陽射しでイルカを迎えた。
 目が慣れて、庭を見渡せば、いくつかの木は葉を落とし、秋が深まっていることを知る。
 陽射しは秋のわりには力があるが、吹き抜けた風は冷たくて、ぶるりと身を震わせた拍子にくしゃみをした。
 立て続けに何回かくしゃみをすると、それがそのまま笑いの発作にとって変わった。
 腹も空腹を覚えてぐうと鳴る。
 軒先にごろりと横になって、秋の高くて薄い空を見上げた。
 イルカが落ち込んでいても、悩んでいても、季節は巡るし、時は流れていく。
「ちぃせえなあ、俺」
 呟けば、久しぶりに自分の声を聞いた気がした。
 ずっと、とっくに、カカシのことが好きだった。そして今回のことで、自分の心を偽ることがムツカシイくらいにカカシのことが好きだと自覚した。だから、落ち込んだ。カカシは上忍で、センセーで、上司だから、今回のイルカに対する態度はなにもとがめられるようなことはないのだとわかってはいる。だが気持ちがついていかなくて、落ち込んだのだ。
 カカシはずっとイルカに優しかった。特別な目をして見ていた。なのに手のひらを返したような態度。
 この先カカシとどうなりたいのだろう。カカシに気持ちを伝える? そうすれば目出度く両思いだ。なんだかんだいってもカカシは苦しいくらいにイルカのことを思っているではないか。
 けれど、それでいいのかと心のどこかで思う自分がいる。
 今回、カカシに殴られたことがものすごくショックだったのは、カカシがイルカのことを好きだと言いながら容赦なく殴りつけてきたからだ。
 イルカが全面的に悪かったのなら、それも仕方ないと思えたかもしれない。だが、あの状況なら、イルカのことは軽い叱責程度でよかったはずだと思う。そしてそう思うのは甘えなのではないかと思う自分もいる。
 感情のループにはまりこんで、落ち着く場所を見つけられずにいる。
 体を起こしたイルカは、両手で頬を叩いた。
 家の中でうじうじしている限りどこにも進めない。気持ちも暗くなるばかりだ。
 人より遅くなったが、中忍になった。こんな状態では胸を張って先生の墓前に立てない。
 立ちあがったイルカはまずは風呂場に向かった。さっぱりとして、外に出よう。そして進むために考えようと。



 大きく伸びをして辺りを見渡せば、なじんだ住宅街のそこここに、実った果実が塀から顔を出している。ここ最近ずっと俯いて歩いていたなと今更ながらの発見に思う。
 子供の頃は実をもぎ取って駆けだした。近所のおじさんおばさんたちと暗黙の了解でそれは許されるいたずらだった。懐かしさに頬が緩んだイルカだったが、通りの向こうから歩いてくる猫背の人影に、顔が強ばってしまった。
 カカシはイルカをみとめると、慌てて駆けてくるではないか。イルカはその場に立ち止まったまま、カカシを待つしかなかった。
「イルカ……」
 イルカの前に立ったカカシははにかむような笑みをみせた。
「イルカ、あの、体調不良だって火影さまに聞いたんだけど、平気なのか?」
 そこには、いつもの知っているカカシがいた。
 イルカのことを伺うような、それでいて熱い視線を向けてくる。
 じっと、無言のまま見つめれば、カカシは照れたように後ろ頭をかいた。
「俺、あの合宿の後から任務が立て込んでて、イルカが体調悪いなんて、さっき聞いて、それで」
「もう、治りました」
 いいわけめいたことを言い続けるカカシを遮った。そしてにこりと笑う。カカシといきなり会うことになるなんて考えてもいなかった。構えなかったことが良かったのか、不思議と落ち着いている自分がいて、イルカは内心では驚いていた。
「俺、出かけるところなんで、失礼します」
 一礼してすり抜けようとしたが、咄嗟に手首をつかまれた。
「イルカ。ちょっと待ってくれ」
 仕方なく振り返って、これみよがしなため息を落とす。どうしてか、腹の底からどす黒いものが沸いてくる。
 なんだろこれは。カカシのことを、傷つけたい……?
「手、離してください。俺急いでるんで手短にお願いします」
 表情は笑顔にしたが、カカシを見つめる目が笑っていないことはわかっていた。
 カカシはゆっくりと手を離すと、さきほどのイルカのようにじっと見つめてきた。
 とまどっているような気配がおかしくて、イルカは自分から話し出した。
「センセーに殴られたところ、しばらく腫れました。容赦なかったですよね」
 カカシは機先を制せられたのか息を詰める。くっと喉の奥で笑ったイルカは歩き出す。カカシの足音が着いてきたから、前を向いたままで話を続けた。
「センセーは正しいですよ。わかってます。俺の感情がついていかないだけなんで。すみませんね、俺、まだガキなんで。センセーみたいに割り切るってことがうまくできないみたいです」
 言葉を続けるほどに、カカシに対しての黒い気持ちが沸き上がってくる。抑えきれずにイルカの中を染め上げる。
 カカシはイルカのことを好きだと言うが、考えてみればイルカばかりがカカシに振り回されて、傷つけられている気がする。カカシとて同じように傷ついてもいいではないか。
「イルカ、あの時のことは……」
「だからわかってますって。俺が失敗しただけです。ごめーわくおかけしました」
 軽薄に言い切れば、再びカカシに腕をつかまれた。
 無理矢理体をカカシのほうに向けられる。俯くのもしゃくでぐっと顔を上げれば、カカシは困ったような、それでいてどこかに厳しさを滲ませた表情をしていた。
「イルカ、確かに俺はおまえのことが好きだ。けど、任務では」
「カカシセンセーの言うことはきれい事じゃないですか」
「きれい事?」
「そうですよ。だって、俺のこと伽に呼ぼうとして暴力ふるった上忍しめたんでしょ? それってただの私情じゃないですか」
 カカシは息を詰めた。咄嗟にでもいいわけをしてくれればカカシじゃないと思えたのに、隠すこともできずにあらわれた動揺がカカシがやったことが事実なのだと如実に物語っていた。
 イルカはせせら笑ってカカシから乱暴に手を奪い返した。
「センセーこそ私情で動いているくせに。この間は反省して、かっこつけたってことですか?」
 カカシは何も言わずに口を引き結ぶ。その様子に苛立ったイルカは声を荒げていた。
「それとも俺のことが憎かった? カカシセンセーの思い通りにならないからこのヤローって思った?」
「そんなことはっ……!」
「そうじゃないって、言い切れないだろ!」
 断言すれば、カカシは目を見張る。イルカは鋭くカカシを睨み上げた。
 カカシに言いたいことが、ぶつけたいことが渦まいている。愛なのだろうか。憎しみなのだろうか。けれどそれが明確な形にならずに、ただ心の中で渦巻くのだ。
 言い返してこないカカシはイルカの言ったことを認めたのかもしれない。
「センセーが、センセーのことが、嫌いです」
 いたぶるような、残酷な気持ちをこめて告げてやろうと思ったのに、耳に届いた声は驚くほどに弱々しかった。




後編