センセーがキライ 後編







 聞いてるか、と言われてはっとなり瞬きを繰り返す。いきなり戻ってくる喧噪。
 目にはいった湯飲みはさっきまでは湯気を立てていたのにすでに冷えているようだ。
 顔を上げれば、カズナは呆れたような顔をしていた。
「悪ぃ。なんの話してたっけ」
 正直に謝ればカズナは苦笑した。
「なんだよ、心ここにあらずってとこだな。俺もべらべら喋りすぎたか」
 カカシとのいきさつの発端となった友人のカズナ。共に旅をした日々も今は懐かしい。
 カズナは別れた時よりも穏やかな顔になり、ずいぶんとたのもしい感じにもなっていた。
 一年の旅を終えイルカと共に里に戻り、父親との関係を修復したあとで、カズナは再び旅にでたのだ。
 旅先でいくつかの国の文化に接し、料理人を目指すと決めていた。将来は木の葉で多国籍な料理を扱う店を開くべく、夢の実現に向けて多くの国に出向き体当たり的な修行をしていた。ようやくこれはという師匠を見つけることができ、この先は何年も木の葉に戻ることはないからと、一旦里に戻ってきた。
 飯でもという約束で、アカデミーにいた頃もよく利用した、安くてボリュームがあってうまいものを出す定食屋をおとずれた。顔なじみの店主は混む店だというのに隅の席で長居をすることを許してくれた。本日のおすすめの煮魚定食と店自慢の野菜炒めを平らげて、話に興じた。
 里で忍者としての修行の日々を重ねているイルカと違って、カズナは他国で目にするもの耳に聞くもの全てが新鮮で珍しく話が尽きない。最初はきちんと相づちを打ち熱心に耳を傾けていたイルカだったが、いつの間にか己の中に深く沈み込んでいった。
 数日前のカカシとの出来事が頭の中で反芻される。
 嫌いだと告げて、息を飲むカカシを置いてその場を後にした。
 カカシと会話を続ければますます傷つける言葉を重ねてしまうことがわかっていたから、逃げた。
 カカシのことを思うと、ごちゃごちゃとしたまとまりようのない感情が沸いてくる。自分で自分をもてあます。
「なあんか悩み事でもありそうだけど、お前は自分で解決するタイプだからな〜」
 不満げに口を尖らせるカズナだが、次には笑っていた。
「まあ気が向いたら話せよ。で、俺の話の続き。今回やっとさ、カカシ先生に謝ったよ。今謝っとかないとかなり先になっちまうからな」
 いきなり飛び出たカカシの名に、イルカは無意識に肩を揺らしてしまった。ポーカーフェイスを保つのも精一杯で、ぎこちなく笑った。
「そっか。センセーは、許してくれただろ?」
 声を低めて口にすれば、カズナは頷いた。
「ああ。ただし条件付きでだ。俺が将来店を開いた時にはいつでも半額で喰わせろって言われた」
「なんだよそれ。稼ぎいいくせにセコイのな。しかも半額ってとこが微妙」
 笑顔になるイルカだったが、カズナは真面目な顔でイルカのことを見つめてきた。
「イルカと会うって言ったらカカシ先生が伝えてくれって」
 意外な言葉にイルカの表情が強ばる。心臓がいきなり存在を主張するように脈打つ。
「なんて、なんて言ってたんだ」
「『ごめん、悪かった』って言ってた」
 その言葉は、イルカのなかをすうっと通り過ぎていった。なにを謝るのだろう。謝らなければならないのはイルカのほうだ。なのにカカシが謝るなんて。
「なあイルカ、カカシ先生となにかあったのか?」
「うん……。訓練でちょっと。俺がヘマしたんだけどさ、センセーも厳しかったっていうか」
 歯切れの悪いイルカの言葉をカズナは追求はしなかった。
「いろいろ、あるよな。やっぱ忍者って大変だよ。命のやりとりする仕事だし。今思えばさ、なんで俺はいつまでも忍者になることにこだわっていたのかって不思議なくらいだよ。イルカと、カカシ先生と、あとまあ親父のおかげで視界が開けたって感じだな、うん」
 カズナの謝辞にイルカはゆるゆると首を振った。
「俺は、カズナに忍者になって欲しかったから、もしかしたら俺がカズナに無理させたのかもって思うよ。俺が、俺の方こそ忍者にこだわっていたんだよな」
 忍者であることにこだわりすぎていることに自覚はある。こだわらざるを、得ない。何故なら先生を死なせてしまったから。諦めざるを得なかった仲間のためにも踏ん張らなければと思うから。
「忍者以外の道の可能性もあるって言えてたらさ、カズナも親父さんと喧嘩することなかったよな」
「おーいイルカ。お前って相変わらずくそ真面目だな。真面目なのはいいけどさ、くそ真面目はよくないと俺は思う」
 カズナは重々しく頷いた。
「いいんだよ親父と大喧嘩したことなんか。それで正しかったんだよ。全部ぶちまけたからな。すっとしたぜ」
 冷めたお茶をごくりと飲んだカズナは腕を組んで真っ直ぐにイルカを見据えてきた。
「俺たちまだまだ若いからさ、いっくらでも可能性があるじゃん。周り道とかしたって全然無駄なこととかないし。実際忍者の修行に取り組んで無駄になったことなんてないからな。一般の人たちより体力あるし体術もいろいろできるから結構自慢できるしかっこいいだろ」
 笑顔のカズナは無理をすることなく今の自分を受け入れていることがよくわかった。引き比べてイルカは、今の自分はどうだろう。
 念願の中忍になれた。嬉しい。夢がひとつ叶った。なのに。そのはずなのに。
 どうして、こんなに心が晴れないのだろう。
「いいかイルカ。人間はな、いくつになろうがやり直そうと思えばいくらでもやり直せる。別の道だってひらける。若けりゃなおいい! って受け売りなんだけどさ、俺が修行で世話になることになった先生のところに五十過ぎてから修行始めたおっさんだっているんだよ。そのおっさんが、人間いくらでも別の道がひらける、自分次第だって言うわけだ。おっさんは料理人を目指す前の仕事でそれなりに成功してたみたいで、踏み出すまでずいぶん悩んだって。でも人生一回きりだし、このままじゃ死ぬときに後悔するって思って料理の世界に飛び込んだってわけだ。勇気あるよな。そんなおっさんが言うことは説得力あるだろ。人生の重みがあるっていうかさ」
「そうだな。年の功ってやつだよな」
「おっさんもヘマして自分の子供くらいの年の奴から叱られる時とかはすっげえ落ちて前の仕事やめたこと後悔する時もあるんだけど、でもそれでも今のほうが充実してるって」
 たたみかけるように言葉を重ねるカズナの必死さにイルカは心の中が軽やかに温かくなっていくのを感じていた。
「イルカは固いんだよ。固すぎる。こうじゃなきゃって気持ちが強すぎるんだよ。もっと柔軟になれよ。中忍になったばっかなんだし失敗はいくらでもするだろ。実際のいくさ場でのヘマじゃなかったんだし、訓練中でラッキーってくらいに考えろよ」
 イルカの気を引き立てようと懸命なカズナに、友達はいいものだと改めて思う。イルカがあくまでも訓練のことで落ち込んでいると思っているようだが、カズナの言葉はイルカの中に深く染みこんでいった。





 朝早く出立するというカズナに明日見送ると約束して店の前で別れた。
 カズナは確実に新しい一歩を踏み出している。イルカとて中忍になって、本格的な忍者の道へ踏み出したはずだった。まずは中忍になって、先生の意志を継げるような忍者になろうと覚悟を決めた。
 けれどきっとその覚悟が重すぎたのだろう。
 さきほどのカズナとの会話で自覚したことがある。
 今の自分は、無理をしていないか、と。進むべき、ではなく、進みたい道を歩いているのかと。
 自分の意志をおきざりにして、誰か−先生や仲間−のために脇目もふらずこうあるべき忍者の道に邁進しようとしていたのではないかと。
 先生の墓前で胸を張れない。先生に恥ずかしい真似はできない。先生を死なせたから、忍であらねばならない。忍者をやめた仲間のためにも立派な忍にならなければならない。
 呪文のように無意識に意識の中にすりこんでいた。
 けれど、先生の意志ってなんだ?
 生前の先生の気持ちがわからなかった。今だってわからない。想像するしかない。だから先生はきっとイルカが忍として生きていくこと、頑張っていくことを望んでいると、イルカ自身が思いこんでいた。
 それが、先生の意志だろうか?
 不意に立ち止まったイルカは、後ろから酔客にぶつかられてよろめく。道の端によって、そこで呆然と立ちすくむ。
 忘れることのない先生のおおらかな笑顔。それがいきなり脳裏に浮かんだ。
 違う。
 先生が望むことはひとつしかない。
 生き残ったイルカたちが、幸せであることだ。
 忍者として生きていくことはこれは間違いなく望んだことだ。なのに、中忍というひとつの夢を叶えた今の自分は、幸せだろうか。
 己の馬鹿さ加減にイルカは嗤ってしまう。
 そんなことを問いかけている時点で現状がわかるようなものだ。
 カカシと出会わなければ、と今更ながらのことを考えてみる。けれどそんな問いかけに意味がないことはわかっている。
 カカシとは、出会ってしまったのだから。
「やっぱ、センセーのことは嫌いだな……」
 思わず呟いたが、自分の声がさばさばとしたものであったことに苦笑する。
 感情を、揺り動かされたくなかった。揺り動かされることが怖い。これから先もずっと怖いだろう。
 でも、それでも。進むしかない。そう言ったのは、言ってくれたのは、カカシだ。
 見上げた空に向かって目を閉じて深呼吸をする。いつからかはまりこんだ迷路でろくな呼吸をしていなかった。開けた視界には、遠く限りない未来が見えるだろうか。暗闇のその先には光が見えるだろうか。
 センセーに会いに行こう。
 心に渦巻くものにまだ整理はつかないけれどとにかく会わなければならない。
 いや。会わなければ、ではなくて、会いたい。ただ、会いたい。
 押し出すなにかにせかされる。顔を上げたイルカは真っ直ぐに歩き出した。