センセーは上忍 後編







 あのままカカシと向き合っていたら心臓が爆発してしまったかもしれない。

 すぐに自分たちの部屋に戻る気にもなれずに、寺のお堂の池のそばにある木のベンチに腰掛けた。
 深く呼吸して、空を見上げる。
 月がまん丸で少しだけ空に滲んでいた。
 風がふっと吹けばぶるりと体が震える。そういえば、もう11月だ。温暖な木の葉ではあるがさすがに薄着のまま外にいれば寒さを感じるはずだ。
 熱い目をして囁いてきたカカシ。布越しだったのに唇に触れた指先が熱を持つ。そこにもうひとつの心臓がある。どくんどくんと鼓動を刻む。堪らず、左の手で右の指先を握った。
 カカシは、至って冷静だった。イルカ一人が動揺して、飛び出してしまったのだ。
 なぜ苦しいばかりになってしまうのだろう。人を好きになればもっと気持ちが華やいで、毎日が楽しくて楽しくて仕方がないものだと思っていたのに。その人のことを考えるだけで満たされて、幸せになれると。
 そんな恋に憧れていた。そういうものだと信じていた。
 ふっと自嘲気味に口が歪む。
 それがどうだろう。
 カカシのことを考えると気持ちは重くなる。重く、そして確かにせつなくなる。胸がしめつけられるような感覚を初めて知った。
 これが、誰かを恋しく思うということなのだろうか。理屈なく、否応なく、心惹かれるということなのだろうか。
 理屈で考えたなら、カカシのことなんて好きになりたくなかった。男同士で、年の差があって、いざこざがあって。やっかいなものになるのは目に見えている。それはカカシだとて同じはずなのに。
 なのに、どうして、忘れることができないのだろう。
 まだ楽しいだけの頃にカカシと過ごした時間が輝いているからだろうか。ずっと、あのままでいられたならよかったのに。
 意識せずに頬を伝ったひとすじに、イルカは慌てて頬をこする。
 こんな深い場所にたどり着きたくなかった。
 カカシのことなんて、できることなら忘れてしまいたかった。



 どのくらいそうしていたのだろう。強い風が吹き、池の水が波立つ音に伏せていた顔をはっと上げる。明日の最終日に体調を崩すわけにはいかない。数回深呼吸を繰り返し、イルカは立ちあがった。
 その時。
 ふと気づいた。寺の敷地を囲む木立の奥から気配がした。けもののたぐいかと思ったが、すぐにそうではないと否定する。人の気配だ。
 胸に騒ぐものを覚えて、イルカは足を踏み入れた。
 そこを抜けると、寺の西側を流れている川にでる。そこには、カカシに注意するようにと言われた二人の幼い中忍がいた。
 声をかけようとして、なんとも言えない感覚に導かれてイルカは咄嗟に気配を絶っていた。
 身を同化させるように木陰で息を潜める。
 川が月明かりを反射して、二人の姿がよく見えた。まだまだ幼さの残る二人は楽しそうに笑っていた。互いの耳になにごとか囁き、そのたびにくすくすと笑う。こんな時間に外にいることは感心しないが、ただ話をしているだけなら何も目くじらたてることではない。カカシに言われてそれとなく気を配ってきたが、ひとを小馬鹿にしたような生意気な態度が鼻につくことはあっても大きな問題を起こすことはなかった。
 少しの間見守り踵をかえそうとしたイルカだが、視界の端に映ったものに目を疑う。
 二人が取り出したのは起爆札。印を結んで術をかけて、それを川に沈める。川には結界を張る。張りつめる空気にそこに仕掛けられた何かが見える。
「今なにをしたんだ」
 考える前に体が動いていた。誰何の声に二人は咄嗟に身構えたがイルカだと確認するとあからさまに表情を歪めた。バカにするような、軽薄な笑い顔になる。
「驚かすさないでよ、落ちこぼれの先輩」
 若干体格のいいほうが前にでる。もう一人は後ろで笑っている。
 正直かちんときたがまともに相手にするのも馬鹿らしく、イルカは話を進めた。
「なにをしていたか言いたくないなら言わなくていい。けど、今見たことは上忍の方々に報告する」
 踵をかえそうとしたイルカを引き留めるように声がかかる。
「それってはたけ上忍に報告するの?」
 あえてカカシの名をだしてきたことに含むものを感じてイルカは足を止めた。
「上忍の方々と言っただろう。もちろん、はたけ上忍も含めてだ」
「あんたって、一時期はたけ上忍の元にいたんだよね。だからかな、贔屓されてるよね」
 話にもならないことをいいだされてイルカは一気に脱力した。
「なにが贔屓だ。上忍のかたたちは平等に俺達のことみているだろう」
「違うね。はたけ上忍、あんたのことばかり見てたよ。視線、感じなかった?」
 断言されてうろたえたのは、さっきのことがあったからだ。
 カカシがイルカのことを見ていたとして、それは熱いものではなかったはずだ。もしそうならイルカが気づく。出来の悪い元の教え子だから見ていただけのはずだ。
 そう思いたいそばから、きっとカカシはさりげない眼差しでイルカのことを見ていたのだろう。そんな確信が、ある。
 言葉を続けられなかったイルカに二人はたたみかけてきた。
「はたけ上忍とは上忍師と生徒ってだけの関係? 違うんじゃないの?」
「あんたみたいにぱっとしない落ちこぼれが贔屓されるのおかしいよね。なにかあるのかなあって思って当然だよ」
 二人の罵る言葉にさすがにイルカはぐっと拳に力をこめた。相手にするほどに不快になるのがわかる。もう一度踵を返すとイルカは歩き出した。
「待ちなよ」
 声と同時に後方からの殺気。
 体をひねってかわせば、たたんと小気味よい音がして大木にクナイが刺さる。それは過たずイルカの心臓の位置を狙っていたことがうかがえた。さすがにイルカは怒気をはらんだ目で二人をねめつけた。
「私闘は、禁じられているってことも忘れたのか」
「ごめんなさーい。先輩が話も聞かずに行こうとするから手が滑ったみたい」
 二人はこづきあって笑っている。かあっと脳が焼ける感覚を味わったイルカは二人に向かって進む。二人はイルカの行動を待っていたとばかりにすかさず互いの間に距離をとると視線を交わして印を組む。二人の背後から立ち上る水柱。それは鋭い渦を巻いて天に昇り、二人に従うようにふたつに割れる。すさまじい音を立ててもおかしくない術の発動だというのに、二人は全く音をたてずにそれを行った。
 いけ、と片方が命じた。よけることは容易だが、そうすると背後の木立に被害が及ぶ。寺を囲む緑は寺の敷地になる。住職たちが丁寧に世話をしていることも知っているからなおさら心ないことは出来ない。
 考えたのは一瞬だ。力で消し去ることはイルカにはできない。イルカは風遁の応用で水の勢いを殺しそこに道をつけて川に戻すことをこころみた。
 二人対一人だ。勢いを殺すことは簡単なことではない。それでもイルカは体の前で構えた両手の中でチャクラを最大限まで高めた。体が数メートル押されて木にぶつかるが、そこで踏ん張り、叫びながら押し返せば、水しぶきの向こうで、愕きに目を大きく見開く二人が見えた。
 イルカの戻した水柱に二人は同時に後方を見る。しまった、とイルカも同時に思った。
 さきほど仕掛けられた起爆札。二人がなんのためにトラップを仕掛けたのかはわからないが、イルカの戻した力は発動したほうの力をそこに載せて、いわばカウンターの力を持っている。術の発動が、と思い至り二人は慌てている。
 イルカは地面を蹴った。どれくらいの規模の爆破になるかわからないが被害は最小限におさえなければならない。
「おまえらもっ……!」
 次に起こることを予測して青ざめる二人に叫ぶ。三人でならおさえられるかもしれないのだから。
 動かない、動けない二人。イルカだけがしびれる手を組もうと歯をくいしばった横をすり抜けた影。
 あ、と思った瞬間には、川底からの爆破で轟音とともに鋭く立ち上った水柱がそのかたちのまま、凍らされていた。月明かりに銀の髪を弾かせるカカシが目にも止まらぬ早さで続いて印を結べば、氷の柱は幻のように蒸発し、後には光りをとどめる夜の空気があるだけだった。





 川縁には上忍をはじめ中忍たちも全てが集まった。
 当然といえば当然だが、不穏な気配を忍である者が気づかないはずがなく、カカシをはじめかけつけた上忍たちによって周囲はなにごともなかったような静寂を取り戻していた。
 そんな中、最年少の二人とイルカが、上忍の前に立たされていた。
 なにがあったのかと問われ、顔色をなくして涙目になっている二人に代わって、見たままのことをイルカは話した。
「じゃあうみのは、二人を止めようとしたってわけなんだ」
 顎に手をあてたカカシは茫洋とした視線のままで確認してきた。
「止めようとしましたが、結局は、このような事態になりました。申し訳ありませんでした」
「そうだねえ。俺達がかけつけなければお寺さんに迷惑かけることになってたねえ」
 カカシの口調はとがめ立てるようなものではないのだが、イルカの心には突き刺さる。
「申し訳、ありません……」
 深く頭を下げるイルカではなく小さな二人のほうにカカシは体を向けた。
「うみのの言ったことに間違いはない? なにか言うことある?」
 まるでイルカのことを疑うような言い方にイルカは腹が焼ける。思わず唇を噛む。
 これで二人があることないこと言い出したならカカシはそちらの言い分を信じるのだろうか。
 ふとそんなことを思ってイルカはぎゅっと目を瞑った。
 しかし二人は互いに顔を見合わせてなにかを言おうとして言葉にできずにためらっているうちに、ぼろぼろと泣き出した。
「だって、だってぇ……」
 えづきながらたどたどしく語るところによれば、明日の実戦もどきの試験で少しでもいいところを見せたくて、起爆札を仕掛けた。それをきれいに処理できれば褒めて貰えると思ったと。
 イルカは目を見張る。あきれてものが言えない。そんなことをしたら、それを仕掛けたのは誰なのかと糾弾されることに頭はいかないのだろうか。
「わか〜ったよ。じゃあ、うみのの話したことに間違いはないんだ〜ね?」
 カカシが改めて問えば、二人はこくんと頷いた。
 イルカに全てをかぶせるほど性根は腐っていなかったようだ。
 ほっとイルカから肩の力が抜けた時、にっこりと笑ったまま、カカシは泣いている二人に容赦ない平手打ちを喰らわせていた。
 当然だろうとぼんやり思ったイルカだったが、カカシは今度は拳をイルカの頬にぶつけてきた。
「!」
 くわあんと脳みそが揺れるような衝撃の中で、突然のことにイルカは足をよろめかせる。口の中に広がる血の味。
 殴られた、とわかったのはその味によってだった。
「喧嘩両成敗。三人とも明日は謹慎。もちろん火影さまにすべて報告するから」
 言われたことに納得がいかずに顔をあげたイルカは、カカシと真っ直ぐに目があって、出かかっていた言葉をそのまま飲み込んだ。
 カカシの見えている目は、とても、とても冷たかったから。厳しい上忍の目をしていたから。
「なに? 言いたいことあるなら言えば?」
 嘲るような言い方にイルカは首を振る。
 そんなイルカを見かねたのか、友人が声を上げた。
「はたけ上忍、イルカまで処分するのは、おかしいと思います。イルカは二人を止めようとしたって言ったじゃないですか」
「止めてたならよかったんだけどねえ。結局は中途半端に騒ぎを起こしただけでしょ」
「それは結果であって」
「もしここがいくさ場だったらどうするの。守ろうとしたけど死なせてしまいましたで通じる? うみのは状況判断を誤った。この馬鹿なちびちゃん達の挑発に乗っちゃったわけでしょ」
「ですがここは……っ」
「もういいんだ」
 憤る友人をイルカは制す。
 安心させるように笑いかけて、きゅっと表情を引き締めると真っ直ぐにカカシを見て、もう一度頭を下げた。
「はたけ上忍のおしゃる通りです。俺が甘かったです。本当に、申し訳ありませんでした」
「もう行っていいよ。後始末は俺達がやるから」
 うつむいたままで、イルカは歩き出す。その横にすかさず友人が寄り添う。カカシにとがめられてもイルカについているつもりなのか、しきりにこんなのおかしいと怒っていた。
「はたけ上忍見損なった。なんでイルカまで殴る必要あるんだよ。イルカなんも悪くねえじゃん」
 まるで己のことのように憤る姿にイルカはほっと心の緊張が溶ける。その途端、意識せずにぽろりと涙がこぼれた。
「イ、イルカ? なんだよ、そんなに痛かったのかよ!?」
 慌てる友人にそうじゃないと首を振る。
「わっかんねえ。やっぱ、悔しいからかな」
 力なく笑えば、イルカを支えるように二の腕を掴んでいた手にぐっと力を込める。無言のなぐさめにイルカはますます涙がこぼれるのを止められなくなる。
 本当は、わかっている。
 頬は確かにじんじんとしびれているが、そんなものはどうってことない。
 そうじゃなくて、ついさっきまであんなに優しい熱い目をしてイルカに愛を請うてきたカカシが、上官の顔をして、見知らぬ者のように相対したことが、悲しかった。正直、傷ついたのだ。
 とっくに、カカシのことを愛している。引き返すことができない場所に連れてきたのはカカシなのに、そんな場所でいきなり手を離されて放り出されたような気がして、悔しくて、怖くて、泣けるのだ。
 暗闇の中、道しるべのない知らない場所に、イルカは一人おののくしかなった。