だけどセンセー 







 真っ青な空が頭上にある。
 暑さを確約した太陽は早朝でもまぶしくて、イルカは額に手をかざして目を細めた。息をついて、前を向く。
「先生」
 慰霊碑の前にしゃがんだ。手を合わせる。しばし祈りをささげ、立ち上がった。
「今日から、試験始まるんだ。多分、筆記とか巻物は問題ないと思うよ。問題傾向そんな変わんねえし。俺普通よりずいぶん年いってるしさ」
 イルカは己のことを小さく笑う。
「やっぱ自信ないのは、最後のトーナメントなんだよなあ。勝てばいいってもんじゃねえじゃん。いい加減俺くらいになるとさ、中忍としての即戦力みたいなとこも見られると思うんだよな」
 それはちょっと微妙、と肩をすくめる。
「まあでも、受かってみせるから」
 最後には笑顔。先生もあの時死んだ仲間も、何も返してはくれない。けれどイルカの胸の中に、きちんと在る。先生はでっぷりした体をゆらして、笑う。イルカの頭を撫でて、がんばれと言ってくれる。
 慰霊碑に向かって深々と頭を下げて、きびすを返す。
 視線の先に、カカシがいた。カカシは気配を殺していなかった。きっとカカシも慰霊碑に用があって来たのだろう。
 真っ直ぐに前を見て、イルカは歩く。
 カカシはイルカのことを見て、何か言いたそうに口を開けて、でも何も言えずに口を閉じて、俯く。
 あの日以来だ。
 イルカは前だけを見て、カカシとすれ違う瞬間も、ただ前を見て、かわした。
「イルカ!」
 呼び止められ、思わず足が止まる。振り向くことはできない。ぎゅっと拳をかためて、内心の動揺を悟られないようにと願いながら、カカシの言葉を待つ。
「……試験、がんばれ。受かるよ。イルカなら、受かるから」
 静かで優しいカカシの声がイルカの中にするりと入ってくる。せめて礼くらい言わないと、と思うのに、結局イルカはカカシに何も応えることなく、その場を後にした。



□□□



 夏が、ゆるやかに過ぎようとしている。
 世界中を覆うように鳴いていた蝉たちは徐々に力を落とし、地面にはそここに死骸が落ちている。蝉の姿そのままだったり、千切れて欠片のようなものだったりと様々だ。もの悲しい姿にイルカはふと足を止めて、道の端にしゃがんだ。
 無事、中忍になれた。順当とも言える結果なのだろうが、一人の力でできたことではない。イルカのことを支えて、励まして、指導してくれた様々な人たちに感謝している。直接に言葉を使えることができる人にはすべてお礼を言った。
 カカシを、のぞいて。
 ふっと息をついて、指先で蝉の死骸をつつく。
 カカシのことを思うとどうしても気持ちが沈む。試験の始まる日に会って以来、会っていない。
 一言。たったひとことでいいのだ。ありがとうございましたと言えばいいだけだ。それはわかっている。わかっていながら会いにいけないのは、それだけで済ませることができるのだろうかと、心のどこかが引っかかる。
 カカシは、イルカのことが好きなのだ。男女がかわすような愛で、好きだという。
 好かれて、嬉しくないわけがない。だがそれを手放しで喜べない気持ちがある。
 どうしてだろう、と何度も何度も自問した。
 強姦された過去があるから?
 カカシが先生で、イルカが生徒だから?
 カカシが大人だから?
「……」
 口を引き結んで、立ち上がる。ぼんやりと歩き出す。
 どれも違う気がする。
 カカシに自慰を見られたとき、イルカの脳裏にはカカシがいた。思いがけず浮かんだ姿に動揺した。イルカの意志を無視してカカシに慰められ、けれどその行為自体は不快ではなかった。嫌だったのは、イルカ自身の気持ちだ。
 拒否したくせにカカシを求める、弱い自分――。
 くらりと視界が一瞬だけ、歪む。額を抑えて、立ち止まった。
 簡単なことだった。
 どうしようもなくカカシに傾く己の気持ちが嫌なだけだ。
 不意に、口元がゆるむ。ゆるんで、わななく。
 そのまま何かを振り切るように歩みを早めた。



「なにやら元気がないようだが」
 向かい側に座った火影は、手ずから冷茶と茶菓子を勧めてくれた。
「最近食欲ないから、そのせいだと思います」
 ご心配おかけして、とかるく頭を下げれば、火影は納得していないのか、しみじみとイルカのことを見た。
「中忍になって、ふむ、以前より顔つきは精悍になりおったな。だが心ここにあらずだ。これでは任務には出せぬな」
「火影さま」
「任務に出てもすぐに死んでしまうわい」
 火影は編み笠の下から少し意地悪な視線を投げてくる。育ての親のような火影に隠し事をすることはなかなか難しい。こうなればカカシとの関わりを知っている火影に話せば少しは物思いも軽くなるかも知れない。
「カカシ先生の、ことなんです」
 言った途端に火影はぎらりと目を光らせた。
「なんじゃ。あやつ、またおぬしに悪さしおったか」
 はい。自慰しているところをのぞかれて、無理矢理イカされました。
 なんて言ったらきっと火影は一瞬で戦闘装束に身を包みカカシを成敗に言ってしまうことだろう。
「火影さま。怒らないでっていうか、興奮しないで聞いてくださいね」
 そう前置きして、イルカは観念して話し出す。
「俺、多分、きっと、カカシセンセーのことが好きです」
「なんじゃとー!!!」
 イルカの前置きなどなんの意味もなかった。火影の口は「なんじゃとー!」と言ったまま固まる。いちいちかまってられないとイルカはシビアに話を進める。
「カカシセンセーも、俺のこと好きみたいなんですよ」
「そーれは百も承知じゃ。あやつがかわいいイルカにめろめろなのは見てればわかるわいっ」
 そうかそんなにあからさまかと、なぜかイルカが恥ずかしい気持ちになる。
「でも、火影さま」
「待てイルカよ」
 勢いを殺さないうちに話を続けようとしたイルカだが、火影に待ったをかけられる。
 火影はじっとりとしたまなざしを向けてきた。
「もしおぬしがカカシと付き合うと言い出したら、わしはこのままショック死するかもしれん。その前に遺言をしたためていいかのう?」
 火影はわざとらしくごほごほと咳き込む。いきなり背も丸めて、いじけた表情を作る。火影のふかーい愛情にイルカはおもーいため息をつく。
 まあそれでも、火影はイルカとの会話を楽しんでいる余裕がある。里の長として全体を見渡す視野を持っている。引き比べることではないのかもしれないが、カカシの真っ直ぐな視線にはそんな余裕がなくて、イルカには。
 怖いのだ。
 カカシを受け入れたら、きっとイルカは飲み込まれてしまう。
「カカシセンセーとどうこうなるなんて、ありませんよ」
 イルカが落ち着いた声を出せば、火影はいきなりしゃっきりしてぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「本当じゃな?」
「俺は、恋愛なんてしている場合じゃないです。忍者としてずいぶん出遅れてしまいましたから、それを取り戻して、一人前の忍になります。先生に、安心してもらえるような」
 イルカは、己が寂しがり屋で、甘えた心を持っていることを知っている。本当はいつだって、誰かに甘えたい、優しくされたいと思っている。そんなこと、誰だって思うことなのかもしれないが、カカシの激しい感情に溺れたら、きっとイルカはそれに甘えてしまう。
「カカシセンセーが俺に向けてくれる気持ちは、嬉しいんです。でもそれと同じくらい怖いんです」
 カカシほどの激しい気持ちをイルカは知らない。だから、怖い。
 イルカが静かに語った心情。火影は急に真面目な顔になる。
「イルカよ。そんなに自分を追いつめるものではない。一人前の忍者になることは無論大事じゃ。それと同じくらいに人としての心をきちんと養うことも大切じゃ」
 火影の親心が嬉しくて、イルカはそっと笑った。
「火影さまは本当は俺とカカシセンセーを付き合わせたいんですか?」
「なにを言っておる! それはあくまでも反対じゃ!」
 ふんと鼻息荒く火影は言い切った。
「大丈夫ですよ火影さま。俺は別に恋愛をしないとか言っているわけじゃありません。好きな子ができたらばっちり告白しますよ。ただ、カカシセンセーとは、あり得ないってだけで……」
 イルカが安心させるように頷けば、火影はそれならよいのじゃ、と納得したようだ。
 そうだ。カカシと恋をするなんて、それはない。カカシとでは共にはぐくんで育てていける優しい愛にはならないのではないか。そんな気がするのだ。
 あんな、激しい気持ち、イルカには受け入れる余裕はない。
 きっとカカシとて時が経てば、イルカとのことなど過去のひとつのシーンになるに違いない。
 そう言い聞かせて、イルカは決意した。



□□□



「あー。イルカ兄ちゃんだってばよー」
 久しぶりのナルトは元気いっぱいにイルカに飛びついてきた。
「兄ちゃんさ、中忍になったんだよな? やったじゃん! 今度お祝いしよー。な、カカシ先生!」
 ナルトが振り向くと、カカシはかすかに体を震わせた。
 ナルトより聡いサスケとサクラは、カカシの動揺に気づいたようだ。イルカが頼む前に、二人きりにしてくれた。
 薬草採りやトラを探したり、任務帰りに、よく歩いた道だ。緑が繁るゆるやかな下り坂を、ナルトはサスケと言い合いながら、そこにサクラが加わっていつもにぎやかで、イルカは少し後ろからカカシと歩いた。穏やかな、時間。何かしたわけでも言ったわけでもないのに、温かなものが、灯っていた。
 あれは春だった。今はもう、夏も終わろうとしている。
 夏の暑さにきらめいた葉の緑の光は、秋の気配の吹き抜けていく風に、かさりと寂しく揺れる。
「風が気持ちいいですね」
 空を見上げて、なにげなく話かける。カカシは何も言わない。沈黙が、落ちる。
 予感がある。次に顔を見合わせたら、始めてしまわなければならない。終わりを。
「無事、中忍に受かりました」
「うん。おめでとう」
「カカシセンセーもそうですけど、たくさんの人にお世話になりました」
「イルカが頑張ったんだよ」
 優しいカカシの声。終わりにしたくなかった。ずっとずっと屈託なく、笑っていたかった。
 イルカは空を見ていた視線を、一度地面に落として、心の中でカウントをとる。
 いち…にい…さん…し…ご……――。ずっとずっと数えていたい。終わらせたくない。終わらせたくないけれど。
 せめぎあう気持ちを抑えて、顔を上げる。真っ直ぐに、カカシを、見つめた。
 イルカと視線が絡んだことで、カカシはいつもは眠たげな目を見開く。
 青い目がとてもきれいだ。その目が、イルカを見つめる時に優しく、時にさざなみのように波打ったことを知っている。
 知っているから、いい。それでいい。
「ご指導頂き、ありがとうございました」
「……俺は何もしてないけど、イルカが受かって、本当によかった」
 カカシがひっそりと微笑むから、イルカもはにかみながらも笑顔をみせる。その笑顔のまま、口にした。
「カカシ先生に、応えることはできません」
 声は震えなかった。きっぱりと口にできた。カカシの表情が強ばるさまを見ていたくなくて、イルカは急いで言葉を重ねる。
「カカシ先生のこと、嫌いじゃありません。でも、カカシセンセーと同じような気持ちで思うことはできません」
 カカシのことを傷つけたいわけではない。だがどんなに言葉を選んだとしてもカカシに応えることができないイルカは、どうしたってカカシを傷つけるしかない。
 そんな簡単な事実に思い至って、イルカは己の馬鹿さ加減に悲しくなる。
 だから言葉が続けられない。黙り込む。押しつぶされそうなくらいに重い沈黙に、イルカはうなだれる。
「イルカ」
 呼ぶ声に、それでも顔を上げられずにいれば、ふっと近づく気配。顔に影が落ちるくらいの近さにやっと顔をあげると、カカシは目を細めて優しい顔をしていた。
「ごめんな。嫌な思いさせて」
 じっと見つめられ、目をそらせない。
「俺イルカのこと困らせてばかりだったな」
 ふっと力を抜くカカシの顔はどうしたって寂しげで、イルカは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「カカシセンセー……」
「でも俺のこと嫌いじゃないって?」
「嫌いじゃ、ないです……」
「でも好きになれない」
 カカシは明るい口調でイルカの口にしたことを繰り返す。そしていきなり吹きだした。
「イルカは、優しいね。強姦されて、この間もあんなことされたのに、それでも俺のこと嫌いにはなれないんだ」
 イルカを、というよりカカシ自身を痛めつけるような自虐的な声に、イルカは口を閉ざす。
 力をなくしているはずの日の光にじりじりと焼かれるようだ。
 息苦しい。けれどその場に縫い止められたまま、イルカは動けない。
「センセー、俺は」
「いいよ別に。イルカの気持ちなんかもうどうでもいい」
 晴れやかに言い切ったカカシは、手を伸ばしてくる。やけにゆっくりに感じる動きで、イルカの両肩をぐっと掴んだ。
「俺はもう、イルカしかいらないから」
 怖いくらいの笑顔。笑っているのに、カカシの右の青い色は揺れて、目尻からひとつぶ落ちる涙。
 とん、と押されて、イルカはよろめく。
 カカシは、そのまま行ってしまった。
 取り残されたイルカは、そっと顔を上げる。音が戻ってきた。カカシと相対している時は無音だった世界が、風の音、木々のざわめき、葉のかそけき音。まるで初めて知った音のように、イルカを包む。
 その音に圧倒されたイルカは傍らの木に手をおいて、強ばっていた体の力を抜く。
 たった今、カカシとの別れがあった。あれが別れだ。
「だけど、センセー……」



 あなたのことが、好きだよ。