センセーの暴走 







「だめだ」
 口にした途端一気に気持ちが萎えて、イルカは畳に仰向けに倒れた。
 中忍試験まで日がないというのに、火影からの課題がまだ半分しか終わっていなかった。
 自宅の居間、縁側の障子は大きく開け放たれて、時たま頬をくすぐるように風がながれてくるが、夏独特の湿った暑い空気は涼を誘うものではなく、汗が引くこともない。こもって勉強に没頭しているこの三日。顔を洗う程度で風呂にも入っていない。
 ごろりと横向きになって、雑草が生い茂った庭に目を向ける。草むしりをしないといけないと思いつつそのままになっていた。試験が終わってから、きれいにして、花でも植えてみるのもいいかもしれない。いや、だが中忍になってしまえば、そうそう庭いじりに精を出すことはできない。植えても枯らしてしまうことが目に見えている。
 そこでイルカは思考を停止した。
 逃避していることが自分でもわかっている。試験のことを考えなければならないのに。
 火影宅での勉強を打ち切って自宅に戻ってきた。火影には最後まで引き留められたが、けじめをつけるために家に戻ってきた。



 □□□



 いい年をして情けないと思うが、最近のカカシは夜ごと想像上のイルカを相手に己を慰めている始末だった。
「イルカ、あ……」
 カカシにとって都合のいいイルカはいつも優しくて、カカシの思うままだ。カカシのどんな無茶な要求にも応えてくれ、全身でカカシのことを愛してくれていた。
(センセー。好き。大好き。もっと…ね……)
 幻のイルカは甘い声で囁いてくれる。
「俺も、好き、イルカ……」
 そして今夜もイルカのことを思うさま揺さぶって、果てた。
 部屋には荒い息づかい。ティッシュをとるもの億劫で、少しの間ベッドの上で余韻に浸る。粘つく液に濡れた手を握って囁いた。
「イルカ…」



 中忍試験を数日後に控えた日。
 カカシはイルカの家の前でうろうろとしていた。通りかかる人間にあやしまれつつ、それでも家の中に入ることができずにいた。
 一言、激励したいのだ。陳腐な言葉だががんばれと言ってやりたい。明日からあいにく任務が入ってしまっている。今日言わないとチャンスはなかった。
 イルカが在宅していることはわかっている。だが、入りづらい。敷居が高い。かれこれ2時間ちかくカカシはためらっていた。
 ためらう理由はわかっている。
 イルカの顔をまっすぐに見れる自身がない。毎晩と言っていいほどにイルカで己を慰めている自分だ。後ろめたい気持ちが一歩踏み出す勇気をはばんでいた。
 いつの間にか日は傾きかけていた。
 イルカの家は住宅街の一角にある。塀に背をあずけたまま、立ち並ぶ家々のすき間から差し込んだ日差しに目を細めた。
 まぶしい。まぶしさにふと思い出す。
 スリーマンセルとイルカと共に、出かけた時だ。名目は演習だったがナルトの発案で嫌がるサスケも説き伏せ、近くの山にピクニックに行った。
 忍術を駆使しての缶蹴りをした。カカシはもちろん加わらずに木陰で読書にいそしんでいたが、ちらちらとイルカのことは伺っていた。
 三人と必死になって遊びに興じるイルカは無邪気で、汗を無造作に拭う姿がカカシにはまぶしく映った。
 あの笑顔をずっと傍らで見ていたい。
 そしてできることならイルカの一番の笑顔をいつだって誰よりカカシに対して見せて欲しいと思った。
 あの頃に戻れるとは思ってはいない。だがあの頃にように、どうしようもなくイルカと共にありたいと思うのだったら……。
 カカシは決意して顔を上げた。
 こんなところでためらっていても何も変わらない。意を決してイルカの家の戸を叩いた。



 □□□



 カカシとはスリーマンセル込みのお別れを兼ねた一楽以来会っていない。
 カカシがずっとイルカに何か言いたそうだったことはわかっていた。だがイルカは敢えて視線を合わせずにそのまま、逃げるように、その場を去った。
 カカシの影を振り切るように勉強に励み、あっと言う間に日は過ぎていった。
 試験に受かるためにスリーマンセルを卒業したというのに、こんなだれてる場合ではない。
 最後に頭に知識を詰めなければと思うのだが、だが……。
 起きあがったイルカは再びぱたりと倒れてしまった。こんな気持ちのまま勉強してもきっと何も頭に入らない。
 むしゃくしゃするような、もやもやするような、何ともすっきりとしない気持ちに覆われている。
 なんとなく、なんとなくだがイルカの手は下肢に伸ばされた。多分淡泊なほうだと自覚のあるイルカは自慰をすることなど稀なことだった。仲のいい友人たちはしっかり女性との経験もあるのだが、イルカはそれもない。好きな相手ができて付き合うことになればいつかその機会に恵まれるのだろうからそれでいいと思っていた。
 萎えたままの己を掴む。
 最近何かと忙しくて、こんなことをするのはどれくらいぶりだろう。友人に言えば呆れかえられるくらいの期間が開いている。
「ん……」
 久しぶりの感覚に、ぶるりと体が震える。
 やわやわと揉み込みながら、徐々に強く、早く追い立てる。
 感覚を追っていくとしびれるような甘さがのぼってくる。だがそれは緩やかに広がるだけで、弾けるような徹底的なものをもたらしてくれない。
 こんな時、どうすればいいのか。ぼんやり考える。そうだ、確か、刺激のあるものを想像すればいい。仲間と見た、雑誌。でも記憶が遠くてあまり思い出せない。
 ふ、と鼻から息が漏れて、口からは吐息が熱い。だがこれでは終わりが見えない。
 もっと、もっと、何か。
 薄く開いていた目をぎゅっと閉じれば、光が明滅する闇の中に、浮かぶ影。
 イルカ、と呼ばれる。低い、声。熱く、甘く、愛おしそうにイルカを呼ぶ。イルカの体をすっぽりと包み込む腕。たくましい、体。
 これは。
「あ……っ」
 ぐんと育った手の中のもの。同時にかたりと聞こえた音。咄嗟に顔を向ければ、部屋の入り口に立つ、カカシがいた。



 □□□



 イルカと控えめに呼びかけた。部屋は静かだ。充分聞こえると思ったが返事が返らない。気配はある。もしかして寝ているのかもしれないと思った。
 イルカと顔を合わせずにすんだことが残念なような、しかしどこかでほっとする気持ちもあった。休んでいるのなら起こすのはかわいそうだ。そう思ってきびすを返そうとしたが、息づかいが、した。
 苦しそうな、熱のこもったような、息。
 迷いは一瞬だった。無理をして体をこじらせているのかもしれない。だからカカシは何も考えずに部屋の中にあがりこんだのだ。
 イルカの気配がする部屋に飛び込んだ。忍の習性として、足音を立てずに、気配も絶ってしまっていた。
 その、光景。目の中に焼き付いた。
 畳に仰向けに寝ころんだイルカはその手を下肢に忍ばせ、隠しようもなく、己を慰めていた。
 音をたてたカカシを振り向く一瞬前に聞こえたイルカの少し高めの甘い声。
 潤んだ目に赤い顔。
 カカシのことを、焼いた。



 何が起こったのか、イルカにはわからなかった。
 部屋に入り口にカカシが立っていて、イルカは、自慰をしていた。
「! ちょっ! 何!?」
 イルカは咄嗟にカカシに背を向けて体を丸める。
「で、出てけっ。出てけよっ!」
 心臓が、ばくばくと口から飛び出そうなくらいに激しく暴れる。
 最悪だ。こんな時によりによってカカシがいきなり部屋に現れるなど。イルカはこの状況を拒否したくて、ぎゅっと目をつむる。
 そうしてもなかったことにできるわけではないのだが、そうせずにはいられなかった。
 とにかく早く出て行ってくれと祈るようにイルカは目をつむっていた。
 だが現実は甘くなかった。
 ばさりと音がして、何事かと顔を向ければ、すぐ後ろに、カカシが、いた。



 出て行けと言われて、カカシは金縛りがとけた。
「あ、ごめっ。ごめん、イルカ」
 口元を押さえて、後じさりする。そのまま一刻も早くここから去らなければ、と思う。思ったのに、体は動かない。引き寄せられるように、イルカから目が離せない。
 いつもはきちっと結ばれている髪が乱れて、首筋にほつれ毛が落ちている。シャツがめくれて背が見える。下肢の短パンが少しさがっているせいで臀部のきわどい境が、見える。そして、イルカの匂い。
 くらくらと目眩がする。だめだ、とどこかで静止する声がするのに、カカシの体は理性の制御を離れて、イルカに近づいていく。自然な動きでベストを落とすと、イルカの背後に膝をつく。
 気配に振り返ったイルカ。愕きに見開かれた目。
 イルカを、抱きしめていた。



 □□□



 強い力だった。
 痛いくらいの力がイルカのことを縛る。
「イルカ……」
 かすれたカカシの声が耳元に注がれて、ぞっと肌が泡立つ。
「やめ、ろ。はな、せよ……」
 身をよじるが、カカシの腕はゆるむどころか更に力を増す。
「イルカ。イルカ」
 すがるような泣いているようなか細い声。
 突き飛ばしたくても、力が入らない。背中から、カカシの鼓動が届く。痛いくらいの鼓動がイルカを打つ。
「センセー……。離せよ。頼むから……」
 イルカは震えそうな声を必死に堪えて伝えた。
 落ちる沈黙。
 外から家の前を通り過ぎるはしゃぐ声が聞こえてくる。それがとても遠い場所の出来事のように感じられた。
 息をひそめてカカシが落ち着いてくれるのを待っていたイルカは己が何をしていたのかを失念していた。
 すがりつくようにイルカを抱きしめていたカカシの手が、動き出す。イルカの下肢にそれは辿り着いた。
「センセー!?」
 イルカの声は思わず裏返った。カカシがためらうことなくイルカの下肢に手をつっこんできたからだ。イルカのそこは中途半端に立ち上がったままだった。
「俺が、してあげる」
 囁いて、カカシはイルカの頬に口づけた。
「やめろっ。離せっ。はな、せ……!」
 熱がくすぶっていたイルカの下肢。そこをカカシは的確に責めてきた。イルカの稚拙な動きなど比べようもないみだらな動き。手甲をはめたままの手の感触がイルカを翻弄する。そこから熱が沸き上がる。
 闇の中の記憶が、少しずつ、イルカの中を浸食してくる。あの夜もカカシの手で執拗に嬲られて、嫌悪を催す心とは裏腹に、快楽を得てしまった。そのことが嫌で嫌で仕方なかったのに。この体はイルカの思うようになってくれない。
「やだ、やだ、よ……。やめて、センセー――」
 すんと鼻をすすって涙声になるイルカの頬をカカシは嘗め取る。
「大丈夫。俺に、まかせて」
「ヤダ、よ。お、れ、きた、ない」
「汚くない。イルカの、いい匂い」
 陶然としたカカシの声が耳からダイレクトに脳に届く。
 背筋をはい上がってくるような感覚にイルカは力が抜けていく。前のめりになってぼやけた視界にはしっかりと立ち上がってカカシの手の中で打ち震える己の姿。まるでそれだけ別の生き物のように震え、先端からは快楽の証を零す。
 ぐっと口を噛んだが、カカシの手からもたらせられる快楽にたまらず息があがる。
「もっ、ホントに……!」
「大丈夫。大丈夫だから」
 涙混じりのイルカの声にカカシの熱のこもった声が促してくる。音をたてるほどにそこは喜びに泣いているが、イルカはわけがわからず首を振る。
 こんなのは、本当に嫌なのに。こんな、己の意志に反して体を好きにされるのは耐えられないのに。
「やだ。俺、も…――ああっ」
 イルカの拒絶の声を無視して、カカシは手の動きを早めた。堪えきれず、イルカはカカシの手に溢れさせていた。



 くたり、と力の抜けた体。
 そのままイルカの体をカカシはそっと畳に横たえる。
 胸を上下させて大きく息をつくイルカは片手で顔を覆って、カカシから顔を隠してしまう。イルカの匂いを全身で吸って、カカシは夢心地となる。
 イルカの欲を受け止めた手を口元に持ってきて、匂いを嗅ぐ。当然のようにそれを嘗め取ろうとした時だ。
「やめろ」
 鋭い声にびくりとカカシは体を震わす。
 イルカが、赤い顔のまま、きついまなざしでカカシのことを見ていた。
 憎しみさえこもっていそうなその視線にカカシは今の状況を一瞬にして思い出す。なぜ己がここにいるのか。そしてイルカに何をしたのか。
「! ごめっ。イルカ、俺」
 イルカの精で濡れた手を服に拭う。
 イルカの匂いと知った感触に我を忘れた。イルカの意志を無視して、己の欲に突き動かされた。
 イルカは黙ったままカカシのことを見ている。その目は燃え立つようでいて、それでいてどこか憂いを含んだ悲しい色合いだった。
 カカシは、イルカからのどんな罵倒だって受け止める気持ちで、視線をそらさずに覚悟した。
 互いが逸らすことができない視線を絡めて、静けさに取り込まれる。
 時間にすればきっと数分。けれど心臓は壊れそうなくらいにカカシの胸をゆらした。
 ふと、イルカの口元がわななき、痛そうに、目を細めた。カカシから体を隠すようにして背を向けた。己を守るように体を丸める。
 出てけ、と聞こえた小さな声。
 夢中になってイルカをむさぼっていた時には遠のいていた現実が、戻ってくる。冷えた汗が背を伝い、こめかみががんがんと脈打つ。
 取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
 ベストを手にするとカカシはおぼつかない足取りで立ち上がる。謝罪の言葉さえイルカを傷つけそうで、そのまま、部屋を後にした。



 □□□



 からりと戸を開け閉めする音がした。
 現実から目を背けたくて、イルカは体を丸めたままでいた。
 何より嫌だったのは。
 カカシが入ってくる前。自慰の途中、一瞬の想像でカカシのことを思い出した自分。
 強姦、されたのに。けれどイルカの意識の底にはカカシがいる。
 あさましくカカシを求めているのかと自己嫌悪に歯がみした。