センセーの視線 続







 イルカ、と呼び止められた。残照の中、振り向けばカカシが笑っていた。



「カカシセンセーも買い出しですか?」
 勉強していた図書館からの帰り道、イルカは今夜のおかずは、と商店街を物色していた。イルカはカカシ班に特別に組み込まれたがあくまで臨時の居候の身。そろそろ中忍試験も近づきつつあったため任務に混ざるのは三日に一度くらいの割合になっていた。
 カカシと任務で会ったのはちょうど三日前だ。
「どっかで喰おうかと思ってさ。一人で喰うのもなんだし、イルカが付き合ってくれるとありがたい」
 さりげない声で、だが断れないような響きを込めてカカシは口にする。イルカの返事を待たずに歩き出してしまったからイルカも勢い一緒に歩きだす。
「今日はどんな任務だったんですか」
「届け物。思ったより早く終わったから、その後あいつらに修行つけてやってた」
「修行か。それは俺も加わりたかったなあ」
「それを先に言ってくれよ。次は絶対呼ぶ」
 カカシは力をこめてうなずく。カカシの熱のこもった視線からイルカはそっと目をそらした。
「俺なんか誘ってないで、彼女とかと食べたらどうですか」
 イルカはいつもの言葉を口にする。カカシもいつものように小さくはにかんだように笑う。
「俺は、イルカと食べたい」
 カカシに特定の女性がいないことは知っている。わかっていてイルカは訊く。カカシはイルカの問いかけになにげない声で応える。
 再会したカカシと食事を二人きりでとるのは数える程度の回数しかないが、火影の遣いなどをこなし今はイルカにもちょっとした収入がある。だからその都度割り勘を申し出ていたが、半人前が生意気言うなと、いつも受け取ってもらえずにいた。
「勉強、はかどっているか?」
「まあそれなりに。でも俺あったま悪いから、体術よりこっちが大変ですよ」
「大丈夫さ。イルカは優秀だ」
 穏やかに、カカシは笑う。
 カカシに唐突な告白を受けたのはもうふたつきも前の話だ。
 あれが春の盛りの頃。今はもう、夏に向かって季節は進んでいる。
 あれから何かが変わったかといえば特別変わったことはない。だが、カカシの視線を前よりも敏感に察知するようになってしまった。
 カカシはいつだってイルカを見ていた。イルカが視線を感じて顔を向けると、柔らかな表情で受け止める。それがいたたまれなくなるくらいに優しくて、イルカはつい気恥ずかしさからカカシに対してそっけない態度をとってしまっていた。
 そんなイルカの態度を気づいているだろうにカカシは何も言わない。
 商店街は仕事帰りの里の人々が行き来して活気づいていた。あかね色に染まる空の。雲の合間をぬって届く残照に、イルカは目を細める。
 隣を歩くカカシが、見ている。それにあえて気づかないふりをして、何気ない会話をかわしながらそのまま歩き続けた。




「あれ? ここって」
 懐かしい居酒屋だった。
 カカシが臨時教師でアカデミーにいた頃に、よく連れてきてくれた店。安値で、値段のわりにおいしいものを出してくれて、家族連れもよく利用する健全な気安い店だった。
 二人が座ったのは偶然にもカウンターの席。
 前は高く感じた椅子もこの一年でまた成長した今のイルカにとってはちょうどいい高さだった。
「懐かしいですね」
 なんとなくイルカは楽しい気持ちになってカカシに笑いかければ、おしぼりで手を拭いていたカカシは照れたように目を細めた。
「あの頃はこの店にしょっちゅう世話になってたよな。今でも一人でよくきてるんだけどな」
「ホント、懐かしいですね」
 場の空気が一気にイルカの心を和ませる。あの頃と同じように100パーセント果汁のジュースと適当なものを注文してまずは腹ごしらえをした。
 それから、アカデミーでカカシの教えを受けた頃の話に花がさいた。なんとなくだがあの事件があったこともあり、カカシの教えを受けていた頃のことはあまり話題にのぼることはなかったのだ。
 同級生のその後を意外なほどにカカシは把握しており、イルカが聞く友人たちのその後をすべて教えてくれた。
 正直にイルカが驚けば、カカシは居心地悪そうに肩をすくめた。
「俺だってなあ、あいつらのことは心配なんだよ。進んだ道をまっとうしてほしいし、幸せに、なってほしいと思うしな」
 呟いたカカシの声にイルカは目を見張る。くすぐったいような嬉しい気持ちが溢れて、ついカカシのことを肘でつついて身を寄せた。
「なんだよカカシセンセー。いいとこあるじゃん。ナルトもサスケもサクラも口ではいろいろ文句言ってるけど、実はセンセーのことすっげえ頼りにしてるし慕ってるんだぜ。きっとセンセーのこういうところ、あいつらには見えてるんだろうな」
 イルカは満面の笑顔で首をかしげてカカシをのぞきこんだが、笑顔は、かたまった。
 カカシが、困ったような顔でがーっと顔に朱をのぼらせたから。
「センセー?」
「あ、いや。ビール。ビールお代わり! ふたつ!」
 まだなみなみと残っていたジョッキを一気に飲み干すと、カカシは続けざまに頼んだジョッキもカラにしてしまった。それから怒濤のようにつまみを注文して、カウンターの席は運びきれないくらいにいっぱいになってしまった。
「ほら、イルカも食え。お前相変わらずやせっぽっちなんだからもっと食いなさい!」
 どんとカカシに背をどつかれて、イルカも箸を懸命に動かす。カカシが酒に強いことは知っている。絶対に酔っていない。それなのに、カカシの顔は熱をもったように真っ赤だった。
「センセー……」
 イルカが箸をおくと、びくりと体を揺らす。不安げに、イルカの一挙手一投足を見守る。イルカはため息は心の中でついて、笑った。
「トイレ行ってくる」
「あ、ああ。行ってこい」
 トイレへ続く角を曲がる時にちらりとカカシを振り返れば、肘をついて両手で頭を支えていた。その横顔が、赤い。
 結構広い大衆居酒屋はトイレの脇に酔い覚まし用の水が置いててあるちょっとしたスペースがあった。
 そこに入り込んだイルカは冷水を紙コップに入れて壁によりかかる。くいっと水を飲み干すと、思わずため息がでてしまった。
 告白されたがイルカは特にカカシを意識することなく普段通りに接していた。カカシもあれ以来そんなそぶりは見せずに、穏やかにマンセルと共に任務をこなしていた。
 けれどイルカは、あえて気づかないようにしていただけなのかもしれない。
「好き、か……」
 店の喧噪でかき消される小さなつぶやき。
 告白された後、いつだったかマダムしじみの飼い猫を捜索したことがあった。その時のことだ。木の上に登ったはいいが降りれなくなったトラをナルトが追い立てた。ちょうど追いついたイルカが下で合図を送り、ナルトはいたずら心を出してトラを威嚇した。トラはあっけなく宙に躍り出て、イルカは下でなんなくキャッチしたのはよかった。
 だが、トラは興奮して大暴れしたのだ。ひっかかれて痛い痛いと喚くイルカの元に一番に飛んできたのはカカシ。「イルカ!」と叫んだ声は必死だった。ものすごい勢いでトラをつまむと、怒りもあらわな顔で、見えない早さで印を結んだ。ぐったりとなったトラに慌てたのはイルカと降りてきたナルトだ。
 カカシ先生、とナルトが責めたが、カカシはイルカのことだけを見ていた。
 カカシの指はそっとイルカのひっかかれた頬の傷に触れた。あの時イルカは動けずに、魅入られたようにカカシを見つめた。カカシの指先から流れてくる暖かなチャクラは傷を癒すものだった。
 カカシは班を率いる上忍として当然のことをしたのかもしれない。だが、トラのことを術を使ってまで気絶させることはなかったし、イルカの傷など、たいしたことはなかったのだ。
 ナルトたちとの任務はまだまだ子供の遣いにけが生えたような程度のものだ。そんな些細な任務中でもいつもカカシはイルカのことを見守って、さりげなく、かばってくれていたのではないか。
 思い詰めたようなカカシの目は熱を持っていた。あの目は、イルカを見るときにだけ、とろける……。
 イルカはは思わずぞくりと震えた。口元を押さえる。
 カカシとの間にあったことを今更、恨んではいない。けれどカカシとどうこうなるなんて、どうしたって考えられない。
 カカシは男だ。大人だし、センセーだ。
「イルカ」
 物思いに沈んでしまっていたらしい。いきなり名を呼ばれて驚いて顔を上げれば、カカシが、いた。イルカの顔を見てあからさまにほっとして、そして眉をひそめる。
「具合でも悪いのか?」
「いえ。ちょっと、最近寝不足で」
「そっか、。そうだよな。ごめん、俺、こんなところに連れてきて」
 カカシはごめんと頭を下げるが、イルカはますますいたたまれなくなる。そんな風に気を遣って、腫れ物に触れるような態度をとってほしいわけじゃない。
 ただ、あの頃と同じように――。
 ざっ、と背筋を駆け抜けたものに目を見開く。イルカは空になっていた紙コップを、力を込めて握りつぶしてしまった。
「イルカ……?」
「俺、帰ります」
 いきなりイルカが告げれば、カカシは慌てて会計にむかう。
 外に出ると、当たり前のようにカカシは送っていくと言いそうだから、先手を打った。
「俺、これから火影さまの家に行きます。試験のことで話があるので」
「あ、ああ。そうか。火影さまの家か」
 カカシは残念そうに笑う。そんなカカシをじっと見つめれば、赤い顔をしたまま照れたように頬をかいて、イルカから視線を逸らす。
 イルカはきゅっと唇をかむ。
 駄目だ、と思った。
 カカシの告白を、今初めて重いものに感じた。カカシはどうやら本気でイルカのことが好きらしい。あの頃のように屈託なく過ごすなんて、もう、無理なのだ。
 あれから、時が経ってしまっていた。過去をなつかしがって居心地いい夢に浸っていてはいけない。
「センセー」
 もういい加減、前に進まなければならない。そうしないと、イルカ自身が乗り越えてきたことが、無駄になる。それだけは駄目だ。死んだ先生や仲間に顔向けができない。
 けれどそう思う心の裏ではどこか空虚な風が吹いていた。
「俺、そろそろ試験の準備を本格的にしなきゃならないから、マンセルとしての任務は、抜けさせてもらいます。火影さまには俺から言っておきます」
「え……」
 カカシは声を詰まらせる。そしてみるみる表情がくもっていく。だからイルカはあえて笑った。元気よく、笑った。
「今までありがとうございました。俺、絶対受かりますから」
 カカシは何も言わずに、あからまさに沈んだ顔をする。
「じゃあ、さよなら」
「イルカ!」
 体を返すと振り向かずに走る。
 さよなら、と口にした。