センセーのヨクボウ







「お世話になりましたカカシセンセー」
 さわやかに笑ったイルカは頭を下げて行ってしまった。



 追いかけたくて思わず手を出したが、それをぐっと押さえる。がくりとそのまま膝をつくと、まわりをマンセルの子供たちに囲まれた。
「カカシ先生、元気だせってばよ」
「そうよ。別に永遠の別れじゃないんだし」
「なっさけねー……」
 三者三様で慰めてくれているのだがカカシはそれに反応することもままならず、ぐっと手を握って土を掴んだ。
 いきなりな展開だった。中忍試験に本格的に挑みたいというイルカ。だからカカシ班での任務は終わりにしたいと口にしたのは居酒屋で食事をともにした夜。
 イルカに中途半端な告白をしてから、さりげなく距離を詰めていった。イルカに告白したことなどまるでなかったことのように日常を過ごした。イルカも心を許してくれていたと思う。以前のようになにげないやりとりができるようになっていたと思うのだ。
 だが内心カカシはイルカへの溢れそうな思いに気を向けないように自分の心に手綱をつけていたに過ぎない。それは己が一番よくわかっていた。いつもイルカに視線が向かい、油断するとイルカへの気持ちが溢れそうになるのを止めていた。
 もうイルカだけが欲しいから、ゆっくりと、時間をかけて近づいていこうと決めたのに、何が、どこで、間違ったのだろう。
 居酒屋では久しぶりの二人きり、間近でかいだイルカの匂いに陶然となった。そこで少し不審な態度をとってしまったかもしれないが、いきなり班を抜けたいと言われるようなことをした覚えはない。
 あの時のイルカは、決めていたことを口にしたというわけではなく、突然決めました、という気持ちが見え見えだった。
 納得できないカカシはイルカには黙って火影に筆記の指導も申し出た。だがそこまでは必要ないと一刀両断で拒まれた。カカシにそれ以上何が言えるというのか。泣く泣く、今日が別れの日となった。
 毎度おなじみ一楽のラーメンでのお別れ会。カカシとしてはイルカと二人きりでしっぽりと話したかったがナルトがイルカに必要以上にくっついて楽しげに喋っていた。サクラも、気むずかしいサスケまでもイルカには結構を心を許していた。カカシが一人がぽつねんとラーメンをすすった。
 ここにマンセルがいなければカカシは叫んでいたかもしれない。
 イルカー! カムバーック、と。



 寝ても覚めても誰かを思うということ。それはけして甘美なことばかりではなく、どちらかというと苦しいことが多い。そんなことをイルカを好きになってカカシは知った。再会する前はこんな、夜も眠れなくなるほどに焦がれることはなかった。どちらかといえばイルカと過ごした日々は夢の出来事のようになってしまっていたからだ。
 だが再会して急速に近づいたイルカ。勢い余って唇に一度触れてしまったりした。それからはもう駄目だ。イルカのことばかり考えている。イルカに狂っている。
 今夜も寝苦しい。夏のせいばかりではない。イルカに会えなくなってから明日で一週間。そろそろ禁断症状のように幻のイルカがちらつきはじめていた。



「イルカさんと会いましたよ」
 サクラの言葉にカカシは飛びついた。
「ど、どこでイルカに会ったんだ?」
 実はカカシはこっそりとイルカと会えそうなアカデミー自習室やら忍専用の図書館やらをめぐっていたのだ。だがイルカに会えるという行幸には巡り会えずに、虚しい日々を過ごしていた。
「いのと一緒に火影さまの家にお花を届けに行った時です」
「ええ〜。いいなあサクラちゃん。イルカ兄ちゃん元気だった?」
「うん。ちょっと夏ばてらしくて痩せてたけど、元気だったよ」
「夏バテ? イルカの奴、ちゃんと喰ってないのか? 火影さまはなにやってんだ!」
「カカシ先生うるさい」
 いちいち大きな声で騒ぐカカシのことをサクラは冷たい目で見返してきた。ナルトも、サスケも同じ目をしてカカシを見る。
「すまんすまん。で、イルカは、勉強はかどってたか?」
 なんとかとりつくろって笑った。
「火影さまが課したノルマは難しいみたいですね。手こずってましたよ」
「そっか……」
 手伝いにいってやりたいが、イルカは望んでいない。こんなところで肩を落とすしかない自分が不甲斐なく、カカシはまた落ち込んだ。
 何もしてやれなくても会って一言、いや、気晴らしにでも連れ出してやりたい。
 なんていうのは建前で、カカシはただイルカに会いたい。会いたくて、仕方ない。焦がれるほどに会いたいのだ。
 その日の夜に急遽あてがわれていた上忍の任務の前に、火影の家を訪れた。
 火影に見つかってもいいと思いつつなかばやけばちでやって来た。運がいいことに、火影は不在だった。ならば正面からイルカに会いに、と一瞬思ったが、居酒屋で過ごした時のことが不意に思い出される。あの時イルカの様子は少しぎこちなかった。あの夜から、カカシとの間にうすい膜を張り巡らせるように、離れていった気がする。
 イルカを呼び出す勇気もなく、カカシはイルカの気配をたどって、家の裏手のほうにまわった。
 障子は閉まっているが、明かりの中に人影がある。ひっつめ髪のシルエットはイルカだ。張りつめていた呼吸をそっと吐く。
 風のない静かな夜。夜空には夏の星。その星に願ってみる。イルカが顔を出さないかと。
 まるで魅入られたようにその場にどれくらいいたのだろう。任務に出立しなければならないぎりぎりまでそこにいた。微塵だにせずに、ただひたすらにイルカを思い描いていた。
 任務は散々だった。
 たいしたレベルではない単独任務だが、危うく届け物を奪取されそうになった。敵と切り結んで、殺して、自らも怪我を負って里に帰還した。
 医療班の治療を断って適当な止血で自宅に戻る。何か考えることが億劫で、汚れた体のままベッドに体を投げ出した。
 まるで呪いのように、一分一秒、どんなすき間にでもイルカが入り込む。今夜の任務も平常心で望めば怪我をすることもなく、敵を殺す必要もなかったのだ。
 出立前に見たイルカの影が脳裏にちらついて、集中できるはずもなかった。
「なっさけなー……」
 目元を片手で覆って、口を引き結ぶ。疲れた体はイルカに苛まれつつ、それでも眠りに落ちていった。



(ねえカカシせんせー)とイルカが囁く。
 俺の上に乗って、俺の耳元で。
 だるい思考はこれは夢だとわかっている。わかっているから、ゆだねてみる。
 裸で、イルカと抱き合っていた。ぬるま湯のような心地いい空間で。
 無理矢理奪って知っているぬくもり。泣きたいくらいに温かくて、抱きしめたイルカにすがるように肩に頭をのせた。
(なんだよ、子供みてーだな)
 優しく笑ったイルカがなだめるように頭を撫でてくれる。
(イルカは、俺のこと、許してくれたんだよな……?)
(んー? そうだよ。許してるよとっくに)
(じゃあ、俺のこと、好きになってよ)
 カカシのことを撫でてくれていたイルカの手がぴたりと止まる。
 イルカがどんな表情でいるのか、見たくて、でも見ることが怖い。それでも意を決したのぞきこんだイルカの顔は……。



 かっと見開いた目に映ったのは見慣れた天井。
 恐ろしいくらいに心臓が脈打っている。
 ぐっと胸のあたりを握りしめる。たった今まで見ていた夢。イルカが、いた。夢の中身は思い出せない。けれどなまめいていた感覚。イルカの悲しそうな顔が頭にこびりついている。カカシが何か言った。イルカはそれに対して反応したのだ。
 起きあがったカカシは頭を振って立ち上がった。汚れたまま寝入った体を風呂場に運ぶ。
 勢いよくシャワーのコックをひねって冷水を浴びた。
 夢は、己の願望やら、意識下の恐怖やらを見せるのだろう。イルカのあんな悲しい顔。そんな顔をさせた己に対する自己嫌悪と、イルカに触れたような感覚が、身のうちを駆ける。
 イルカから離れてしまわなければならない、イルカに近づかなければならないと、二つの気持ちがせめぎ合う。
「イル、カ……」
 音に載せてしまったらもう駄目だ。
 目を閉じたまま、震える手をそっと急所に持っていけば、そこはゆるく反応していた。
 イルカに対して暴力をふるったあの時から、無意識に夢にでてきてしまうイルカに反応してしまうことはあっても、自分からイルカを思って慰めることはなかった。
「イルカ、イルカ」
 まだ発育途上のしなやかな体。滑らかな、熱い肌。意外と白い肌に張り付く黒髪はどことなく扇情的で、色があった。
「イルカ、好きだよ……」
 センセー……、と幻の声が耳をくすぐる。
 下肢をしごく手は早さを増す。そこは固く屹立してシャワーの音と混ざり合って水っぽい音をたてた。
「ん……! イルカっ!」
 弾けた白濁液は幻のイルカを汚す。
 荒い息をついて、カカシはタイルに座り込んだ。
 たてた膝に顔を埋めて、心地いい余韻に浸る。後ろめたさと、正直な劣情に、体は気持ちいいと訴える。もっと、もっと欲しいと、強く願う。
 イルカが、欲しいと。
 もう、イルカなしでは眠れないかもしれない。
 そんな予感にカカシは震えた。