センセーの視線







 視線を感じる。振り向く。目があうのはカカシ。
 イルカと視線が絡むと、一瞬、横に視線を流す。すぐにイルカに戻すと覗く右目を柔らかく三日月形にして、微笑むのだ。





 一年間の放浪生活を終えて里に戻った。自暴自棄になっていた友人も立ち直り、もう心配はなくなった。だからイルカも自分が進むべき道に戻ろうと決めた。延ばし延ばしにしていた中忍試験に今度こそ挑んで、絶対に合格してみせる。そして慰霊碑の両親と先生に報告に行くこと。それが自分の義務だと思った。
 先生を失った任務からこっちかなりのブランクがある。体はもうどこにも悪いところはない。だからあとは勘を取り戻して挑むだけだ。
 そのリハビリを、カカシに見てもらいたいと火影に伝えたのだ。その時の火影の顔といったらなかった。顎が落ちたのではないかと疑うくらいに口が開き、魂が抜け出たのではないかと心配になるくらいに惚けた。
「火影様? 大丈夫ですか?」
 イルカが顔の前で手を振ると、火影はがたんと立ち上がった。
「だ、大丈夫かはお前じゃー!! 自分が何を言っているのかわかっておるのかイルカよ。カカシは、お前のことを、ごごご、ご」
 火影は言葉をすべて言えずに泡を噴きそうになっている。
 やはりそのことか、とイルカはあらぬほうを見て軽く息をつく。
 そうなのだ。イルカは1年前、暴走したカカシに強姦されたのだ。残念ながらそれに間違いはない。双方の行き違いにより不幸な偶然が重なったからとでも言えばいいのか。
 あまりの出来事にイルカはカカシに乱暴されている間半分以上意識が飛んでいた。傷みとそこをほんの少し覆う程度の、かすかな快楽の火。夢の中の出来事のように、脳裏に残るのは、ごめんと重ねて囁かれる震える声と、体温。
 自己防衛本能が働いて悪夢の記憶を切り捨てているだけなのかもしれないが、それは生きていく上では必要なことなのだと、それぐらいの甘えは自分に許してやる。
 だが、心ではなく体のほうの反応が鋭敏だった。
 強姦された翌日、怒りのままに火影に訴え出た。厳罰を望んだのだが、火影の水晶から見たカカシの憔悴があまりにひどく、怒りが徐々に萎えていくのがわかった。
 確かにカカシに強姦されたのだが、ひどい記憶はどこか曖昧だった。
 それよりも、カカシとの優しい記憶が胸に残っている。それはカカシにされたことで無くなったりはしなかった。カカシが教えてくれたこと、ともに過ごした時間はイルカにとって失くしたくはない記憶だと、水晶の向こうのカカシを見て思った。
 だから、自らあの場に出て行った。
 大の男のくせに泣いているカカシに、手を差し伸べた。
 震えそうになる体を叱咤して、カカシの元に近づき、手を伸ばそうとしたのだ。カカシに、触れるつもりで。
 その手は物理的な力に阻まれたように止まって、カカシに触れることはできなかったけれど・・・。
「わしは反対じゃ。断じて反対じゃ! かわいいお前をあの鬼畜に渡してなるものかっ。火影の名にかけてそんなこと許すわけないじゃろうが」
 ふんっと火影は鼻息荒く言い切った。
「じいちゃん〜。勘弁してくれよ〜」
 イルカは火影の偏愛に頭を抱えたくなった。
 両親を亡くしたイルカを可愛がってくれた偉大なる火影。確かに幼い頃はその愛情がこそばゆくもあり、嬉しくもあった。だがいいかげん木の葉丸もいることだし、イルカ離れしてくれないかと思っている。
「じいちゃん、じゃなくて、火影様!」
 イルカは表情を引き締めて火影のほうにぐっと顔を近づけた。いい年した老爺がガキのように唇を尖らせている。負けじとイルカは火影を睨み付けた。
「俺のリハビリは、カカシセンセーじゃないと駄目なんです。だってそうでしょ? 俺のこと傷つけたのはカカシセンセーなんだから、俺は、カカシセンセーから逃げちゃ駄目なんだ。あの人ときちんと向き合えないと、俺は次に進めないと思いますっ。以上!」
 そうだ。他ならぬカカシが、イルカに言ったのだ。忍者でいたいのなら過去から目を逸らすなと。
 火影は最後には折れてくれた。
 イルカの剣幕と、口にしたことをもっともと思ってくれたのかもしれない。だが最低限の約束として、必要以上にカカシに近づいたり、親しんだりせず、二人きりでどこかに出かけたりしないことを約束させられたのだった。





 再会した日、火影の執務室に入ってきたカカシを最初まっすぐに見ることができなかった。視界の隅でカカシが驚愕している気配は感じた。ナルトと話しながらも内心脈は上がり、大丈夫かと不安を感じはした。
 だが二人きりになり、カカシに手を掴まれた時に体は震えたりしなかった。拒否反応もおこしはしなかった。これなら大丈夫だと、思ったのだ。
「カカシ先生ってさー、なーんかいーっつもイルカ兄ちゃんのこと見てねえか?」
 と言ったのはナルト。ナルトらしく最近感じる疑問を素直に口にしたのだろう。
 その言葉に吹き出したのはカカシ。一楽のラーメンがドンブリに戻る。
 ナルトをはさんでカカシとイルカの三人でカウンターに並んでいた。
 イルカとナルトが自主トレーニングをした帰り、非番だったはずのカカシと偶然かち合った。カカシは暇だからメシに付き合えと、いささか強引にナルトの手を引いた。
 イルカは火影との約束もありどうしたものかとためらっていたが、振り返ったカカシが困ったように笑って、空いている手で、イルカのことを手招いた。それを後押しするようにナルトの元気な声が響いた。
 ナルトと三人なら火影も許してくれるだろうと、イルカは頷いた。
 そこで定番の一楽での食事。今日の自主トレはどうだったこうだったとナルトがカカシに報告している。それに頷いたりちゃちゃを入れたりしてカカシは相手をしつつも、さりげなくイルカを伺い、笑いかけてくる。
 気を遣わせているなあと、イルカは内心苦笑する。
 まあ当然のことだが、イルカのことを傷つけたとずっと気にして、今でも気にしているのだろう。
 あの時のことは全く恨みに思ってません、全然気にしてません、なんて嘘は言えない。
 普通に接することはできるが、どこかに緊張がある。ある程度の節度を持って、馴染みすぎてはいけない。火影に言われるまでもなく、イルカ自身の戒めでもあった。必要以上に意識して、あくまでも上位の者であるカカシに敬意を込めて接していた。
 もう“センセー”ではない。カカシ先生なのだ。
「ねえってばよ、イルカ兄ちゃんも、カカシ先生に睨まれてるって思うだろ? なんかカカシ先生の恨みを買うようなことしたのかよう?」
 ナルトの無邪気な問いかけに、ひっそりとイルカとカカシは視線を見交わす。
 互いに口にしなくとも、二人の間に横たわる深ーい川の流れが見えるようだった。そこをどんぶらこっこと渡るのは火影。
 いったいどんな顔をしたらいいのかわからずにとりあえずイルカは作り笑いでこたえたが、カカシは目を細めて、それがどこか悲しげな感じがして気になった。
 確かにカカシに見られていることはわかる。視線を感じる。
 カカシ先生は1年前俺のことを強姦したからそのことを気にして、俺に気を遣っているんだぞナルトー。
 なんて。
 そんな理由をナルトに言うわけにもいかず、イルカはごまかすようにナルトの頭を撫でた。
「恨みなんて買うわけないだろ。俺はほら、落ちこぼれ下忍だから、カカシ先生も気ぃかけてくれてるんだよ。俺ってば、十八にもなろうかってーのに、まーだ下忍だからな」
 イルカが冗談めかして言えば、ナルトは楽しげに笑う。
「なんだよ。イルカ兄ちゃんかっこ悪ぃ」
「イルカは……」
 不意に、カカシが口をはさむ。俯いたまま、告げた。
「イルカは、落ちこぼれなんかじゃないからな。絶対に」
 しんみり告げられ、その後にずずーっとラーメンをすする。カカシの頭上からなにかどろどろした陰気なものが立ち上っているのが見えるようだ。
 ナルトはさりげなくカカシから距離をとる。それに合わせてイルカも一緒に遠く席を移動した。
「なあなあイルカ兄ちゃん。やっぱりカカシ先生最近おかしいってばよ」
「そうだなあ。確かにちょっとおかしいかもな」
「まあ元々変だったけど、イルカ兄ちゃんが来てからますます変!」
 鋭い。子供の勘はあなどれない。
 イルカは、ナルトのほよほよのお日様のような髪を撫でつつもうち沈むカカシを伺えば、また、カカシはイルカのことを見ていた。
 ああ、口の端からラーメンが一本出ている。
 さきほどまでナルトには見せないように顔の下半分を隠しつつラーメンをすすっていたのに、今は丸見えだ。間抜けな顔にイルカは小さく吹き出してしまう。
 あまりの気の遣いっぷりにさすがにカカシが気の毒になってきた。もう少し、きちんと話をしてみようとその時イルカは思ったのだ。





 翌日の任務は、里の中心部からかなり離れた地域で余生をおくる老夫婦への届け物だった。時間がとれない孫たちからのプレゼント。かなり大きな箱が四つ。ちょうど四人の下忍たちの背中におさまった。
 イルカは一番年長でもあるからさりげなく一番重いものを背負った。同い年の三人組は、特にナルトははしゃぎつつ進む。そこを負けじとサスケも追いつき、自然とサクラもそれに続いた。
 イルカはカカシと二人きりになり、丁度いい機会だとさりげなく話しかけた。
「いい天気でよかったですね、カカシ先生。あの辺りだと、往復で一日かかりますから雨とか降ってたら大変でした」
 傍らのカカシを振り返れば、やはりカカシは片目でイルカのことを見ていた。その熱のこもるような視線に、イルカは考える前に訊いていた。
「カカシ先生はどうしていつも俺のこと見てるんですか?」
 イルカが真っ直ぐに見るとカカシは慌てて視線を逸らす。
 なんとなくだがイルカは苛立った。
「別に、俺、大丈夫ですよ。そんなに心配されると、なんか嫌です。やりづらいです。そりゃあ、1年前のこと、忘れたわけじゃないですけど、恨みに思ったりしてたらナルトたちのマンセルに入れて欲しいなんて頼んだりしませんでした。俺は気にしないようにしてるけど、カカシ先生がそんなに気になるんだったら、俺、火影様に言いましょうか? 7班から外れたいって」
「違う」
「違うって何が違うんです? 俺がいるとやりづらいんですよね」
「イルカは、どうして」
 カカシがいささか乱暴にイルカの言葉を遮る。
 次に続く言葉をイルカが待っていると、何か言いかけて、でも俯いて、それでもイルカが待っていると、カカシはくぐもった声でやっと口にした。
「イルカはどうして、そんなに他人行儀なんだよ。前は、違っただろ。それに、ナルトと、くっつきすぎだ!」
「は?」
 全く思いがけない言葉にイルカはぱかと口が開く。
 カカシはイルカを置いて歩きだしながら喋り続けるからイルカも急いで後を追う。
「1年前はもっと俺になついてただろ。俺のこともカカシセンセーって軽く呼んでメシも一緒にいったりして、遊んでくれただろ。今はナルトとばっかりで、俺のことなんか……」
「カカシセンセー、あんたさっきから何言ってんだよ」
 呆れかえったイルカは思わず以前のように話しかけた。ぴたりとカカシの足が止まるから、イルカはつんのめりそうになった。
 振り向いたカカシの目元は何故か赤く、そして瞳は潤んでいた。
 その日のカカシは上機嫌で、帰りには四人全員を一楽に連行して大盤振る舞いしたのだった。
 あの時はカカシの異常な上昇が、わからなかった。
 今なら。
 今になって、やっとわかった。





 火影の風遁で空高く飛ばされるカカシを追いながら、イルカは眩しい夕焼けに目を細める。
「まったく、油断も隙もあったものではないわい」
 傍らでいきりたっている火影に苦笑するが、イルカはそっと唇に指先をあてていた。
 なんだそうだったのか、と得心した。
 1年前、確かにカカシは、イルカにことが好きだというようなことを言っていたと思う。だがそれは一時の激情だと、流せるような感情のたぐいだと思っていた。
 カカシは先生で、大人で、男で。イルカは生徒で、まだまだ一人前じゃなくて、やはり男だから。
 カカシはイルカに最後まで言えずに飛ばされてしまったが、言葉で語るよりも抱きしめられた熱と唇が伝えてきた。
 好きだ、と。
「イルカ、消毒したほうがよいぞ。腐ったらことじゃ」
「……じいちゃん、何言ってんだよ」
 明らかに120%本気の火影にイルカの口元はひきつる。
 イルカは、カカシが触れた唇、かさついたそこを手の甲で拭う。
 驚くべきことにカカシからの口づけに、嫌悪はわかなかった。
「イルカ、顔が赤いぞ。やはりカカシの毒にやられたのじゃな!」
「じーちゃーん……」



 顔が赤いのは夕日のせいです。



 なんて言葉には少し嘘が混じっていそうでイルカには告げられなかった。