黒ヒョウ 後編







 キッチンでイルカの作ったカレーを食べつつカカシはずっとご機嫌だ。
 ついさっきの玄関でのやりとり。カカシは頬でいいと言ったのだが、イルカは思い切って唇に触れた。触れるだけでなく、少し啄んでみたりした。唇を離して熱い頬を意識しつつカカシを伺えば、カカシのほうがずっと赤い顔をして、信じられないといわんばかりの表情でイルカのことを見つめていた。
 ぱくぱくと口を開閉させるカカシを引っ張るようにしてキッチンの椅子に座らせた。
 平常心と心の中でとなえつつ、カカシに背を向けてカレーを煮込む。これではさっきカレーを作った時と同じではないか。わざとらしく鍋をかきまぜておざなりな煮込み方で火を止める。カレーとサラダを並べて水をグラスに汲んでどうぞと言ったところでやっと気持ちが落ち着いた。カカシのほうもやっと覚醒してくれたようだ。
 テーブルに並んだものとイルカを交互に見てから、満面のはにかむような笑顔でいただきますと行儀よく口にした。
 それからずっと一口食べるごとにおいしいおいしいと連呼する。
 おあいそでも褒められて悪い気はしない。向かい側に座って最初は黙って聞いていたイルカだが、カカシの賞賛はやまない。たかがカレーとサラダに過剰すぎるほめ言葉ではだんだんと居心地が悪くなってきた。
「だあっ、もう! たかがカレーをこれ以上褒めるな!」
「たかがじゃないよ」
 イルカの剣幕にカカシはしれっとこたえる。
「たかがだよ。市販のルーから作ったカレーだしサラダは切って盛っただけでドレッシングはセンセーの家にあったものだからっ」
 声を荒げてしまったが、カカシは不思議そうな顔で首をかしげた。
「市販のものから作ったとしても、カレーとかシチューとか、あと、ほら、卵焼きとかってそれぞれの家庭の味があるでしょ。だからこのカレーはイルカの家の味ってことだろ? それが俺にはめちゃくちゃうまいから、うまいって言ってるだけだよ」
 さも当然だと言わんばかりのカカシにイルカは絶句する。
 片方のひじをテーブルについて、イルカはカカシから顔を隠すように手をあててうつむいた。
 なんというか、あまりに的確なところをつかれて恥ずかしさにいたたまれない気持ちになる。家庭の味、だなどと、イルカが考えていたことがどうして伝わっているのだろう。カカシはエスパーか。
「イルカ、どうかした?」
「なんでもない。いくらでも食べてください。好きなだけ褒めちぎっていいから」
 少しの嫌味を交えて言ったが、カカシは許しを得て安堵したのか、緊張感のかけらもない笑顔を見せた。
 凄腕の上忍さまとは思えない。かっこいいなあ野生の獣みたいだなあと思ったのはついさっきのはずだが、あの時のカカシといま目の前でカレーを小動物のように頬張っている全開の笑顔のカカシはとても同一人物とは思えない。
 こみあげるものにイルカは噴出した。
 カカシが眠っていた時にきたした不安が今は欠片もない。無理をする必要はない、自然であればいいと思えてくる。自分たちは自分たちなのだから。
「なに? なになに? 俺なんかした?」
「いやあ、センセーっておっかしいなあって思ったら笑えてきた」
「おかしくないよ俺は。褒めてるだけだし、イルカのこと好きなだけだし」
「ぅわ〜さりげなくくさいこと混ぜてきた」
「くさくない。ただの事実だしぃ」
「30男が語尾を伸ばさないぃ」
 顔を見合わせて、二人同時に噴出した。
 それからはイルカもカレーを食べつつなんてことのない日常の話をした。カカシの今回の任務のことや、イルカの修行のことや、途切れることなく続く会話が心地よくて、冷凍すれば明日の昼くらいまでは食べられそうなくらいの量を作ったカレーだが、結局食べきってしまったのだった。



「あ〜満腹。動けない」
 そう言ってカカシはベッドの上にダイブした。
 イルカは呆れ顔でフルーツタルトとアイスコーヒーをテーブルの上に置いた。
「センセー食べ過ぎだよ。どうして明日の分も食べるんだよ。デザート食えないだろ」
「いいじゃん別に。ケーキは全部イルカが食べればいいし、明日もイルカが来て飯作ってくれればいいだろ」
「俺はおさんどんじゃありませんー」
「おさんどんって、イルカってば若いのに古い言葉知ってるねえ」
 カカシは楽しそうに笑う。
「ほら、見てよイルカ。おなかパンパン」
 カカシはあおむけになって腹をさする。カカシは見ろと言っただけなのに、イルカは自然に手を伸ばして腹部に触れていた。気持ち、膨らんでいる。柔らかな、それでいて弾力のある心地いい筋肉。数回撫でて、気恥ずかしさに慌てて手を引こうとしたが、その手を、カカシに掴まれる。
 カカシが口元に手を引くのを黙ってみていた。
 指先に、触れる唇。
 その瞬間、あいている手で思わず胸をおさえてしまう。心臓が跳ねる。
 何か言おうと口を開けかけたところで、カカシは手を離した。安心させるようにかすかに笑ってくれる。
 イルカは何も言えずにゲーム機をテレビにセッティングして、ベッドの傍らに腰をおろした。
 心臓が、脈打つ。苦しいくらいだ。
 さっきまでなごやかに笑っていた。なのにどうして一瞬のタイミングでこんなにも息苦しくなるのだろう。
 誰でも、そうなのだろうか。誰かを好きになるとこうなるのだろうか。
 カカシとはとっくに体の関係を結んでしまっているのに、好きだと言われて、言って、互いしかいないことは確かめ合っているのに、なのに、会うたびに付き合い始めたばかりのような気持ちになる。これからすべてが始まる、知らない気持ちになる。心も体もリセットされる。
 夏の日の夕方、外の光は夕方に向かい始めている。レースの遮光カーテンが引かれた部屋は薄暗い。息遣いばかりか心臓の音まで聞こえてきそうで、イルカはテレビの音量を少し大きめにする。ゲーム機にむかう。
 部屋には二人きりだ。なにか別ごとに気持ちを持っていかないと、心の中がカカシでいっぱいになってしまう。体の隅々までがカカシで満たされてしまう。だからイルカはムキになってテレビの画面を見据えた。
「ねえイルカ、そのゲーム面白い?」
 集中し始めた頃にカカシが問いかけてきた。
「うん。面白いよ」
「じゃあ俺にも教えてよ」
 そう言ってカカシはベッドから降りてイルカの横に座る。
「これ、協力プレーもできるのだろ? 俺、イルカのサポートでやるからさ。動きあんまり複雑じゃないしすぐできると思う」
 とにこやかに笑ったカカシだが、すぐできるどころか、あっという間に動きを完全にものにして、どちらがサポートかわらからなくなった。
 そうなると当然ながらイルカは負けてなるものかと俄然やる気がでてくる。
 カカシに負けてられないと常にカカシをリードできるようにとコントラーラーを操った。そうこうするうちにカカシがコントローラーを置いてしまう。カカシは氷が溶けかけたアイスコーヒーをのんきにすすりつつ隣にいる。
 ひと段落ついたところでイルカが顔を向ければ、不意にキスされた。触れるだけの軽いものだがそれでもイルカが目を見開いているうちに、カカシはイルカの背後に入り込み背中にすっぽり抱きついてきた。
「センセー?」
「もう俺いいや。イルカの見てる」
 きゅうと抱きしめられて、懐くように肩口に頬を摺り寄せられる。
「ちょっと、センセー、暑いだろー」
「暑くないよ。エアコンきいてるし」
 そうだ、暑いなんて嘘だ。勝手に体が熱くなるだけだ。
「やりづらいんだけど……」
「大丈夫大丈夫。気にしない気にしない」
 イルカの言うことに耳を貸さずにカカシは腹に回した手に力をこめる。
 落ち着け、と思うほどに、カカシの体温や匂いやらをどうしても意識してしまう。ああでも、付き合っているのだし意識して当然だ。意識してもいいはずだ。意識して、それで、そのあとは……?
 頭の芯がすうと凍りつく。
 ゲームはちょうどいい区切りのところになった。コントローラーをわきによけて、イルカもコーヒーを飲む。氷が溶けたせいで水っぽい味がする。ついでとばかりにタルトにもかじりつく。
 おいしいはずのものが味なんて感じられない。咀嚼しているうちに、腹の底からなにかが押し上げられて、イルカはそれを無理に飲み下すと、腹にまわされたカカシの手に手を重ねた。
「あのさ」
「ん?」
「あのさ!」
「うん」
「だから」
「はいはい」
「だからなんでカカシセンセーは」
「俺は?」
 カカシはゆったりと構えて待っていてくれる。言いたいことがなんなのか、何を言いたいのか、自分のことなのなのにわかっているようなわからないような。もどかしさにイルカは腹部に回されたカカシの手を強く掴んだ。
 こんなに密着していると鼓動が直接伝わってしまう。
 自分の鼓動なのかカカシのものなのかもわからなくなる。もしかしたら自分だけがこんなにも意識しているのかもしれない。
 そこまで思考が行き着いた途端、こらえきれずにイルカは聞いていた。
「なんでセンセーは俺とセックスしないの」
 思いがけず、声は大きかった。背中のカカシが固まった気配がする。
 続いて落ちる沈黙が部屋中を覆う。その沈黙を破るようにイルカは言葉を重ねた。
「だってさ、付き合ってから、もう結構たつじゃん。なのに、センセー、最後まですることないのっておかしくない? いつも寸止めだろ? 俺が度胸なくて拒否っちゃうってものあるけど、でも、そもそも俺たちもう最後までやっちゃてるわけだし、前はセンセーもっと強引だったのに、なのになんか初めてみたいな感じでさ。センセー俺のを舐めたりとかしてくるけど、俺のこと気持ちよくしてくれるけど、最後は我慢するのって、なんで? 本当は俺としたくないとか思ってる? 俺は、俺は! センセーとしたいと思ってるよ!」
 畳み掛けるように言い切ってしまった途端に、自分が口にした言葉が頭の中に反響を起こす。かあっと脳が焼けて、体中で発火する。
 沸騰しそうな体と裏腹に、部屋には更なる沈黙が落ちる。
 言ってしまったことは取り返しがきかないが、口の中に戻してしまいたい。それが無理なことはわかっているから、どこかに隠れてしまいたい。
 密着した背中、じわりじわりとが嫌な汗をにじませる。イルカは、なにも言ってくれないカカシの腕の中から逃れようと身をよじった。
「待ってイルカ」
 声と同時にカカシの手が引き止めるように力をこめる。
 無理に振り払えるとは思えない力の加減に、イルカは体の力を抜くしかない。カカシが何か言おうとして、ためらっているのが息遣いから感じられた。実際にはほんの数秒、けれどそれはとてつもなく長い時間に感じられた。
「……したいって言ってもらえて、すごくうれしいよイルカ。本当に、すごくうれしい」
 カカシの声は耳朶をかすかにふるわせるような囁きだった。耳に息がかかり、イルカはびくりと身を強張らせる。
「俺たち、始まるまでがとても長かっただろ。最初は無理矢理だったし、イルカのことたくさん傷つけた。だから最初は躊躇してたよ。でも、イルカにちゃんと好かれてるって思えてからは、そういう遠慮は消えていった」
 カカシの静かな声にイルカは聞き入る。一言一句聞き逃さないと耳をすます。
「いつだってイルカのこと抱きたいって思ってた。でも俺はイルカにふさわしい人間なのかなあと自問することもあってさ」
「ふさわしくなければ、どうするの。別れるの?」
「まさか。そんなことできるわけがない」
「じゃあそんなこと考えても意味ないだろ」
「そう。最初から答えはでてたんだよね。だから、俺は腹をくくった」
「え?」
 カカシがうしろから頬を触れ合わせる。
「検査を、受けたんだ。体ぜーんぶ、一切合財」
 唐突な言葉にイルカの頭にはクエスチョンマークが点灯する。
「検査? なんで? え、センセー具合悪いの?」
 イルカの心配をよそにカカシは苦笑した。
「具合悪いからじゃなくて、変な病気とかもってイルカにうつしちゃったりしたら申し訳ないじゃすまないから、検査を受けた」
 変な病気、うつす、という言葉にさすがにイルカもひらめくものがあった。
「えっと、それって、性病、のこと……?」
「あー、うん、まあ、あまり身綺麗な生活してたわけじゃないからさ。でもそれだけじゃなくて、いい機会だからついでに全部診てもらったってわけ。あ、性病のほうは問題なし。きれいな体でした。他の通常の検査のほうが結果がまだなんだよねぇ」
 問題ないと思うけど、とカカシは告げた。
「それで、検査結果がでたら、イルカのこと、抱かせてください。そのために検査受けました」
「結果がダメだったら、どうするの?」
「ダメでも抱かせてください。ほら、性病のほうは問題なかったし」
 カカシは笑っておどけていうが、イルカは力が抜けた。そんなことだったのかという少し憎らしいような気持ちが湧くが、と同時に、そこまで考えてくれている、大事にされているのだと、こそばゆい気持ちにもなる。
「センセーが問題なかったなら、俺も大丈夫ってことだね」
 湧きあがる安堵から、イルカは笑顔になる。
「大丈夫って、なにが?」
「だから、性病の話。俺、カカシセンセーとしかしたことないから、センセーがオッケエなら俺もオッケエってことだろ? 友達にそう聞いたことがあるけど、違うの?」
 何故か、その瞬間、再びカカシの気配が固まる。
 そして次にはまわされている腕に乱暴な力がこもる。とりこまれるのではないかと思うくらいの力に、イルカは声をあげた。
「ちょっ、と。センセー、苦しいって。なんだよ急に!」
 カカシはこたえてくれない。抱きしめる腕に更なる力がこもるだけだ。
「センセー……どうしたんだよ、大人のくせに、情緒不安定かよ」
 いたわるような気持ちで肩口にあるカカシの頭に触れる。やわらかな銀色のねこっけに指を絡める。
「どうしようイルカ」
「ん?」
「今ものすごくイルカのこと抱きたい。かわいがりたい」
 いきなり、くるりと体の向きを変えられた。向かい合ったカカシは、真っ赤な顔をしていた。目が、うるんでいた。
「な、なんで急にそうなるわけ」
「だって、俺としかしたことないとか、イルカがかわいいこと言うから」
「ええ? そんなことで着火かよ、いいとしして」
「そんなことじゃない。そういうのってばからしいって思ってたけど、違った。本当に好きになった相手だと違うって今わかった!」
 意気込んで告げたカカシの顔が近づき、口づけられる。すがるように抱きしめられて、ふとカカシの下肢に目をむければ、少し、力を得ているような……。
「俺はべつにいいけど、センセーはそれでいいの? せっかく我慢して検査受けたのに」
 イルカの言葉にカカシの力が弱まる。しばしの間ののち、カカシは引き下がった。イルカの両肩に手をおいてぐっと距離をとる。
 はあと深いため息をついてから顔をあげた時、カカシは心なしか悔しそうな表情をしていた。うらみがましいような目でイルカのことを見つめてくる。とても大人の男には見えないような目で。だからついイルカは笑ってしまった。
「余裕なのも今のうちだけだからなイルカ。検査結果がでたら、容赦しないから。イルカがどんなにやめてくれって言っても止められないから。イルカのこと、めちゃくちゃに、かわいがるから。覚悟しとけよ」
 言っていることは物騒といえなくもないのに、口をとがらせるカカシがイルカの目にはかわいらしく映る。しなやかな黒ヒョウだなんて思ったのは見間違いだろうか。イルカはもう一度噴出してしまった。
「イルカ〜」
「ごめんごめん。センセーかわいくて」
「はあ? なに寝ぼけたこと言ってるの」
 笑いながら、イルカはカカシに抱きついた。暖かな胸に顔をうずめる。
「イルカー、俺、我慢してるんだけど」
「うん。我慢して。でも俺のこと抱きしめてよ」
「これって新手の拷問?」
 ふてくされた物言いながらも、カカシの手はイルカの背に回る。頭部に口づけられる。
 触れ合えるぬくもりを感じるだけで、それだけで満たされる。さっきまでの不安は欠片もない。恋をするというのはなんてめまぐるしいことなのだろう。感情の揺れが激しすぎて、自分で自分を持て余す。時には自分が嫌になる。でも好きにもなる。こんな自分もいいかもしれないと思う。
 誰かを思う、優しい気持ちが体の中にあふれていく。
 カカシの胸で、イルカは目を閉じた。





おわり