黒ヒョウ 前編







「センセー」
 何回かノックした。気配はするが応答しない。そっとドアノブを回せばかちゃりと音がして開いた。
「……ごめんイルカ、入ってきて」
 力無い声がする。イルカは慌てて玄関でサンダルを脱ぎ捨てるとキッチンをぬけて部屋に飛び込んだ。
「センセー、どうしたの」
 カーテンが引かれたままの薄暗い部屋の中、ベッドの傍らでカカシは座り込んでいた。イルカを見上げてにこりを笑みを作るがどうみてもチャクラ切れだ。スウェットの下だけはいているが上半身は裸で肩にバスタオルをかけ髪は濡れている。なんとかシャワーを浴びてでてきたということか。
 イルカは買い物袋を床に置いてカカシに近づいた。
「センセー、任務大変だったの?」
「ん、ちょっとな」
 おそらくちょっとどころではないのだろう。カカシが写輪眼を多用しなければならないほどの任務だったということだ。カカシが任務にでたのは三日前。久しぶりに休みがあうこの日に会おうと約束した。ゆっくりできるのは実に三週間ぶりくらいだろうか。だがカカシのこの状態では長居をするわけにはいかないだろう。残念だが仕方ない。せっかく食材は買ってきたから作り終わったら早々に辞去しようとイルカは決めた。
「センセー、ゆっくり休んでよ。俺、飯作り終わったら帰るから」
 だがカカシはふるふると首を振る。そしてイルカに手を伸ばしてくると、抱き寄せてきた。弱っているとは思えない強い力にイルカは身じろぎする。まるで子供が親を求めるような強さにイルカは苦笑した。
 そのまま、イルカは大人しくカカシのしたいようにさせていた。
 八月も終わりに近づいてきたがまだまだ夏は居座っている。窓からゆるく入ってくる風にあまり涼を感じることはできないが、カカシの体からはさわやかな水の匂いがした。
「よし。チャージ完了」
 不意に体を離したカカシは真っ正面からイルカを見てにこりと微笑むと、唇に触れるだけのキスをした。そしてそのままもぞもぞとベッドにはい上がり横たわった。
「イルカ、帰っちゃだめだぞ」
「でもセンセー休まないと」
「休む。二時間、いや、一時間半だ。そしたら起こしてくれ。冷蔵庫のおやつなんでも食べていいからな。あとゲームもあるから暇つぶしできるだろ」
「でも」
「絶対に帰るな。帰ったら泣く」
「泣くって……」
 イルカが呆れた声をだすと、カカシは半分眠っているような顔をしつつもイルカの片方の手をぎゅっと掴んだ。
「帰らないって約束しないならずっとイルカの手握ってる」
「はあ?」
「約束約束約束!」
 まるでだだをこねる子供だ。イルカは呆れかえるが、カカシの手からは絶対に離すものかという気迫が感じられた。イルカは苦笑した。
「わかったよ。帰らないから」
 その瞬間、カカシはにこおと笑う。
「おやすみー」
 一言告げるやいなやさっさと目を閉じてしまう。そしてすぐに寝息が届く。イルカは展開の早さについていけず寝入ってしまったカカシを前にしばし呆然としていたが、そういえばキスされたと思い出して、少しばかり頬に熱がこもる。
 泣くだなどと子供じみた脅しだが、帰ると言い張ればカカシは本当に泣くような気がした。大人のくせに子供のような恋人に笑ってしまう。窓を閉めてエアコンを送風にして、イルカは料理にとりかかることにした。



 定期的な決められた休みがとれるわけではない忍者稼業。
 開いた時間をやりくりして短い時間に会うことは可能だが、丸一日ずっと一緒にいられるなんてことはなかなかない。特に夏はとかく任務依頼が多く、今日は本当に久しぶりに互いがフリーの日だ。
 付き合ってからは一度もカカシの家に行ったことがなかったと思い至りイルカのほうからカカシの家でまったり過ごそうと提案したが、結果的に正解だ。もし外で会う約束なんかしていたらカカシはどんなに体がきつくてもやってきたことだろう。
 なにか作ろうかと重ねて言えばカカシはとても嬉しそうな顔で肯いたのだ。
 とはいってもたいそうなものが作れるわけではない。結局無難なカレーにしたがルーは市販のものだしせいぜい隠し味程度に調味料をいくつか混ぜ込む程度だ。
 カカシは1DKの家に住んでいる。カカシが寝ている部屋との境の戸を閉じて四畳半ほどある台所で調理を始めた。
 まだ両親がいた頃、カレーはよく食べた。母親がさまざまな種類のカレーをよく作ってくれた。ルーを使うこともあり最初から作ることもありとさまざまだった。イルカも手伝って適当な調味料を入れて新しい味を作ろうとするのを笑って見守ってくれた。
 無難なカレーと思いつつも、イルカはカレーこそが海野家の家庭の味だと思っている。それを是非カカシにも食べて欲しいと思うあたりどんだけ少女趣味なんだおい、とおのれに内心では突っ込みをいれてしまう。
 だが、嫌な気はしない。
 カカシがどんなものでもイルカが作ったのならおいしいと言ってくれることはわかるが、それでも少しでも満足いくものを作りたいと思う。
 頬が緩んでくるのを引き締めつつ、お茶でももらおうかと冷蔵庫を開ければ、中にはイルカが好きだと言った甘い物がところ狭しと並んでいた。大福にケーキにゼリーにプリンに、フルーツの盛り合わせもある。食欲は旺盛なほうだが食べきれるだろうかと一抹の不安がよぎる。とりあえずひとつ大福を口にしてから野菜を切った。煮込む段階で、テーブルに置いてあった袋からゲームを手に取った。
 小型のゲーム機。持ち運びができるから、ちょっとした任務の時に携帯している仲間もいる。
 カカシもゲームなんてするのだろうかと思ったが、新品だ。しかも最新の機種だ。値札もついたままでどう見ても買ってきたばかりというところだ。他にも袋の中には漫画本が数冊。いずれもイルカが集めたいと思っていた本だ。
 お菓子にしろゲームにしろ漫画にしろ……。
 深く考えなくてもすべてイルカのためにカカシが用意した。そう思うと、心臓が暴れ出す。体の奥からがーっとこみ上げるものに押されて両手で頭を抱えてしまう。
「センセー、甘やかしすぎだろ……」
 いたたまれなくて立ちあがる。野菜を放り込んだばかりの鍋の中をぐるぐると必要以上にかきまわす。そこで気持ちを落ち着けて弱火にしてから、カカシが眠る部屋の戸をそっと開けた。
 陽射しが遮られた薄暗い部屋の中はエアコンが適度にきいて心地いい。ベッドの上、カカシは丸めた布団を抱え込むようにして俯せに眠っていた。
 銀色の髪はカーテンの隙間から届くかすかな光にもきらきらと輝き、しなやかな体の線が美しい。イルカは肉食の獣を連想する。ヒョウ、みたいだ。美しく気高い獣。
 人は見た目じゃないなんてありきたりの言葉がかすむくらい、カカシはきれいな姿をしていると改めて思う。
 ただの教師と生徒なら感じなかったのかもしれないが、恋人となった今、どうしてもことあるごとに引け目を感じる自分がいる。
 カカシにふさわしくないのではないか、と。
 そっとイルカはカカシに近付く。視界の隅にテレビが映るが、テレビの前に、見慣れないゲーム機を見つけて、それもイルカのために買ったのかと思うと、こそばゆいやらなにやらで、どういう気持ちになるのがこんな時にふさわしいものなのか全くわからなくなる。
 ベッドの傍らに膝をついて、じっとカカシの顔をのぞきこんだ。
 木の葉の国は黒髪黒目の者が大半を占める。カカシやナルトのように色素が薄いほうが少数派だ。そんな人々は選ばれた人たちのように思える。見た目だけではなく能力も伴うカカシに憧れる人間が多くいることは知っている。時たま影で中傷されていることも知っている。
 イルカはカカシにふさわしくない。どうしてカカシのような人間がイルカを選んだのだ、と。
 それはその通りで、イルカがもし第三者であれば同じように思うだろう。だから誹謗されても特に腹立たしくはない。ただ自分らしくいればいいと思っている。カカシに絶対的に思われている自覚は十分にあるからだ。ただひとつ訂正したいのは選んでやったのはこっちなんだ、ということだ。
 あんな事件がなければきっとカカシとは師弟関係のままでいたと思う。一体どんな運命だったというのだろう。何回も何回も思って、きっとこの先も思いつづけることだ。運命、縁、そんなぼんやりとした言葉でしか結局まとめられない。
 そっとカカシの髪に手をさしいれれば、ん、と喉を鳴らす。カカシがかすかに笑ったような気がして、優しく髪を梳いてみた。
「センセー」
 小さく声をかける。まだ一時間ほどしか経っていないから起こす気はないが目を開けてくれたらとも思う。色違いの優しい目で見て欲しいと思う。
 じっと見ているとなんとなく胸が苦しくなる。
 そっと顔を近づけて、頬に唇を寄せる。
 あとほんの数ミリで触れるという近さで、イルカは身を引いた。
 嫌なことを思いだした。
 一昨日のことだ。久しぶりに任務から戻った友人数人と飲んだ。そこでのなにげない雑談。長い任務の間に上官と恋仲になったくの一が、任務が終わる頃に関係を白紙に戻されたという。飽きた、という一言で。
 その上官は引く手あまたの人間で、くの一はごく平凡な容姿の者だったという。
 ちょっと勘違いしちゃったんだよな、と同情するような言葉で友人はまとめた。
 外回りがメインの友人たちはイルカとカカシのことは知らない。知っていたとしたら、同じ話をしただろうか?
 イルカはもう一度カカシの髪に触れてから台所に戻る。鍋をまぜて野菜の煮え具合を確認してからルーを溶かす。キッチンの椅子に座って、ゲームを手に取った。
 やり慣れているシューティング系のゲームにむかう。何も考えなくても指先は勝手に動く。
 卑屈になりたくなんてないのに、沸き上がる焦燥はいつだってイルカの中にある。
 カカシがどんなに思ってくれているか知っている。カカシが実は情けない大人なことも知っている。イルカには甘えてくることも知っている。
「俺のほうがよっぽど大人なんだよな本当は」
 無意識にぼやいていた。
 そうだ。いろいろとわかっている。
 それでも。
 わかっていてそれでも自信が持てないのは、自分に自信がないからだ。
 これは、という確たるものがないからだ。
 結論に至ると、目が醒める思いがした。自信がもてないのなら持てるようになればいい。
 カカシと会う時間はとても楽しいのだが、他にやるべきことがあるのではないかとおのれに問いかける。
 イルカはゲーム機を閉じると、急いでカレーを仕上げた。まずまずの味を確認して、火を止める。テーブルの上の書き置きにもう少し煮込むようにと書いておく。切った野菜を盛るだけだがサラダも用意して冷蔵庫に仕まう。カカシが買ってくれた甘いものはせっかくだから箱に入れて持ち帰ることにした。
 少し前にでた任務でついた上忍が、体術に優れた方だった。いつもトレーニングしているという場所を教えてくれた。気さくなあの上忍に早速習いに行こう。任務帰りのカカシにはゆっくり休んでもらって、そんな時こそ向上するために時間を使わなければとイルカは猛然と決意した。
 もう一度戸を開けてカカシに近付く。幸せそうに満ち足りた顔をして眠るカカシにイルカの顔も自然と笑顔になる。忍者としての習性が身に染みついているはずなのに、イルカの前でカカシは無防備だ。イルカの存在を手放しで受け入れている。
「センセー、俺、頑張るから」
 照れくさかったから小さく告げた。くしゃりと髪に触れて、静かに、そっと、カカシの家を出た。



 まずは家に戻ってデザート類を仕舞ってからでかけよう。もし上忍がいなくても、自分だけでもトレーニングをしようと、意気があがる。やる気がでると体にも力が漲ってくるようだ。急ぎ足で自宅への道を歩いていたイルカだが、名を呼ばれた気がして足を止める。
 振りかえると、カカシが走ってくるではないか。
 陽射しが降り注ぐまっすぐな道は繁華な通りに向かう人たちでそれなりに人通りがある。
 その道をカカシは上半身裸のままスウェットで走ってくる。イルカ、と呼びながら必死な顔で駆けてくるカカシに人々もちらちらと視線を注ぐ。
 カカシと思いが通じ合ったあの日みたいだな、とイルカはぼんやりと考えていた。
 イルカの前に立ったカカシが履いたサンダルは左右が逆だった。カカシを凝視したイルカの手をとると、カカシは走ってきた道を戻り始める。
「ちょっ、センセー、なんだよ」
 ひきずられるようにして歩きながらも文句を言えば、カカシがちらりと視線を向けてくる。恨みがましいような視線に怒っているのだろうかと思う。
「帰るなって言ったのに……ひどいよイルカ」
 口を尖らせるカカシにイルカは脱力した。
「いや、ほら、だってセンセー疲れてたしぐっすり寝てたから」
「寝てない」
「寝てたって」
「狸寝入り」
「へ?」
 手首を掴んでいた手をずらしてイルカの手をぎゅっと握り、となりに並んだカカシは少し赤い顔をしていた。
「イルカが最初に部屋に入ってきた時に本当は起きたの。イルカがちゅうしてくれるかなあって待ってたのにしてくれなくて、二回目こそはって期待したのにガンバルとか言って何ガンバルんだろうと思っているうちにいなくなっちゃうし。ひどい」
 ひどいとカカシは拗ねているが、イルカとしてはたとえ頬にでもキスなんてしなくてよかったと思う。あんなこと、起きているカカシになんて、恥ずかしくてできるわけがない。
「もう、起きてるなら起きてるって言ってくれよ」
「だって起きたらイルカは恥ずかしがって自分からキスなんてしてくれないでしょ」
 その通りだと肯けば、カカシはむうと頬を膨らませる。そうこうするうちにカカシの家に戻されてしまったが、イルカは玄関でためらった。
「あのさ、センセー、やっぱ疲れてる時は休んだほうがいいよ。また遊びに来るから」
「だ〜め。一日オフはお互い貴重でしょうが」
「そうだけど」
「大丈夫。一日家でゆっくりしてれば治る。ていうかもう回復してるから」
 自信たっぷりに言うカカシの顔色は確かに眠る前よりもいい。それでもどうしようかと逡巡していると、デザートの袋をとられてしまう。そしてカカシに抱きしめられた。
「センセー?」
「ねぇ、なんで恥ずかしいの? 俺たち付き合っているのになんで?」
「それは単に俺のキャラクターというか」
「でも俺からするのはいいんだ」
「……恥ずかしいことに変わりはないけどさ」
 そうなんだ、とカカシがくぐもった笑い声をたてる。
 イルカは、カカシの背に腕をまわした。
 カカシに抱きしめられるのは好きだ。とても安心する。ほとんど体臭のないカカシだが密着すればカカシの匂いがして、自分が近しい存在だと思えるから、好きだ。
「ねえイルカ、俺さ、今回任務すっごく頑張ったんだよね」
「うん。お疲れ様でした」
「じゃあね、ご褒美ちょうだい」
 カカシはイルカの両肩を掴むと、顔をかしげて頬を向けた。
「ほっぺでいいから、ちゅうしてよ」
 満面の笑みのカカシにイルカは引きつった顔になる。
「さっきからちゅう連呼して恥ずかしくないのかよ」
「全然。いいじゃん、ご褒美ご褒美。イルカからしてくれたことあるでしょうが。しかもあの時は外だよ外! 今は二人っきりなんだから恥ずかしくなんてないっ」
 言われて、あの冬の日を思い出す。煮詰まっていた気持ちを打破するためとはいえ、思い返せば公衆の面前でよくもまあ自分からキスなどしたものだ。頬が熱くなる。
「わぁイルカ。顔真っ赤だよ。かわいい」
 イルカの羞恥などどこ吹く風と、カカシは頬をつついてくる。
「だから! かわいくないって!」
 乱暴に手を払ったが、優しく名を呼ばれて、手をとられる。
「イルカ」
 イルカの手のひらに、カカシはそっと唇を寄せる。なにげないその仕草に、どうしてか心臓が脈打つ。壊れ物を扱うような手つきからカカシの気持ちが伝わってくる。
 観念してイルカはカカシの首の後に手を回す。
 目を閉じて、そっと唇を触れあわせるのだった。





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